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2021/12/08

osaka-itatibori大阪・西区:立売堀の防火建築帯は40年後も健在

大阪西区立売堀防火建築帯は40年後も健在
(2002年 建築家の先輩への手紙)
伊達美徳

拝啓

 お元気でいらっしゃいますか。ご無沙汰をお詫びします。
 先日、大阪にいる92歳の母を見舞ったあと、ふと思いついて「立売堀」を訪ねました。1961年に私がRIA(当時の正式名称は「建築綜合研究所」、通称「RIA」で、リアといっていましたね)に入社して、初めて建築現場に行ったところです。

 竣工は1962年だったでしょうか。あれから一度も訪ねたことなくて、40年目のセンチメンタルジャーニーでしたが、実はなかなか目的地にたどりつけませんでした。
 まず、信濃橋のRIA大阪事務所のあった「飾大ビル」(RIA設計)からはじめようと出かけたのですが、ここにたどり着くのにウロウロと1時間。

 でも、ちゃんとありました。1、2階に正面から見て右に天理教教会、左に事務所、3階から上は公団住宅と、40年前のままの姿で建っていました。
 ビルのまん前に「大塩平八郎終焉の地」なる石碑が立っていたのが、ちょっと違うくらいのものでした。

 そのあと立売堀にどうしてもたどり着けません。都市計画やっている身として、大概のところは迷わずにたどり着くことができるのに、大きな道路ができたりビルが建って変わったことは事実ですが、40年というギャップは埋めがたいようです。
 あきらめて帰ろうと地下鉄駅に入りましたところ、ホームに地図がありそれを見ているうちに思い出し、引き返してたどり着くありさま。
 そしてついに40年後の浦島太郎は、「SKビル」を発見しました。

 島田・藤江・福松・河辺(だったと記憶していますが)の4軒共同ビルは健在でした。島田酒店と福松産業はその名前で営業していましたが、藤江と河辺は名前が替わっていました。写真をごらんください。


 藤江はファサードをカーテンウォールに直していました。福松の屋上の三角壁も健在でした。当時は新人でなにもわからなかったのですが、今見ると先輩の設計は実に美しいプロポーションであることが、隣近所の小ビル群と比べてよく分かました。

 この共同ビルは、わが今の生業である都市計画をやるようになるルーツとなった「防火建築帯事業」です。この防火帯建築から「防災建築街区」が生まれ、そして「市街地再開発事業」へと発展していったのです。

 40年たっても中小企業の中小ビルはそれなりに健在でしたが、御堂筋に出てみれば、「そごう本店」は閉まっていて、この村野藤吾作品の巨大建築はもうすぐこわされるとか、そんな時代です。(2002年4月)

2021/12/06

takahasi-kawa2011高梁盆地の川と橋(高梁川:ふるさとの川シリーズ1)

高梁盆地の川と橋
(高梁川:ふるさとの川シリーズ1)

伊達 美徳
2011年

●母なる高梁川

 わたしのふるさとである高梁盆地の町は、高梁川がつくりだした地形の中にある。
 高梁川はその名のごとく高梁盆地の母である。 中国山地から流れ出して、 新見、高梁などの盆地をつくりながら、総社あたりで吉備平野をつくり、倉敷の南で瀬戸内海に注ぐ。

  高梁盆地はサツマイモのような形で、南北約2.5キロメートル、東西の最も広いところで1キロメートルほどである。 その西よりを川幅100~150メートルの高梁川が流れているから、街は川の東側にある。盆地の周りは標高4~500メートルの丘陵が取り囲む。

高梁の位置

高梁盆地全体 衛星写真グーグル


高梁盆地北部の旧城下町地域

 高梁川は、南の瀬戸内海の港から中国山地の奥地までを結ぶ、今で言えば都市間高速道路であった。江戸時代になって河川流通路として制が進み、物資と旅人を乗せた高瀬舟が行き来して、備中松山といわれた高梁の城下町に富をもたらした。
 街のある東の川岸(左岸)には船着場があり、流通物資をいれる土蔵がたちならび、旅人が泊まる旅館が繁盛した。川の港町であったので、街は川側を表にしていた。





 20世紀も四半分を過ぎて盆地の中に鉄道が開通すると、舟運は衰退していく。高梁川は街の表の顔ではなくなってくるのである。
 そして川はどこで もそうであるように、災害のもとでもあった。それが街と川の関係を決定的に変えた。1934年(昭和9年)の室戸台風による大水害が、母の記憶の大事件であったらしく、少年のわたしに語った。もちろん盆地の大事件で会った。

 母はその年の2月に、盆地内北東部の丘陵にある御前神社の宮司であった父と結婚して、川向こうの集落からやって来た。そして同年9月21日、降り続いた雨で高梁川と共に東西の丘陵の谷から流れ下る谷川からの濁流が氾濫し、高梁盆地のほとんどが水没してしまった。


 御前神社は丘陵中腹にあるので水害をまぬがれたが、高梁川の西岸沿いの小さな集落にあった母の実家も水没した。
 盆地の人々はあふれくる水をのがれて御前神社に避難してきた。新婚の父母はその救難と炊き出しでおおわらわになったという。

 この災害をくりかえさないように大土木工事がなされた。高梁川は大改修されて、石積みの舟の着く河岸から、急な絶壁の石垣とコンクリートの堤防にとってかわった。
 木の橋だった方谷橋は、 1937年にコンクリートの足の上に鉄のアーチで架け替えられた。 その頃から高梁川の舟運は鉄道にとってかわられて衰えたこともあり、街と川は疎遠になってくる。 

方谷橋渡り初め式行列の先頭に神官姿が4人、わたしの父もその中にいるはず
橋アーチ左上の御前神社の森の中に5月に生まれたばかりのわたしが居るはず



●広くなった川幅・短くなった方谷橋

 今、高梁盆地の高梁川には2本の橋が架かって、東西の町を結んでいる。下流側の「高梁大橋」は1972年に架けた、現代のありふれた鋼製の桁橋である。
 上流側の「方谷橋」は、上に鉄骨アーチをもっていて特徴ある形態だ。これは1934年の水害の後、1937年に架けている。上のアーチから、下の路盤面を支える直線の鉄骨主桁を吊っている形式である。

 でもよく見ると、路盤側の主桁もかなり立派なものだから、アーチと直線の桁とでつくる半月形の構造体で、これをランガー形式というらしい。
 土木学会のサイトで図面を見ると、半月の弦の長さは56メートルである。 アーチの両端部を、それぞれ橋脚が支えている。 それに加えて路盤を支える主桁が、アーチの両端から4.4メートルはねだし形式(カンチレバー)でもちだしている。土木の専門語で「下路カンチレバー状ランガー」形式というそうだ。

 それは皿という字の上を丸く描いた形である。その皿の下の一文字の先の両側に別の桁が、両岸との間に架かっている。 橋の総長さは99.9メートルだが、竣工時の 図面では110.7メートルとなっている。横から見ると左右対称である。

 方谷橋が竣工したときの1937年に写した記念写真がある。今の方谷橋と比べて見る。 大きな違いはふたつある。ひとつはアーチの先の東側の桁が西側のそれと比べて、10メートルほど短くなっていることだ。

 橋の主桁についている工事銘盤に1972年3月とあるから、このときに東側の桁を短縮し、左右対称が崩れた ということは、その年に川の東岸にある国道を10mほど拡幅したことになる。
 その拡幅分の川幅が狭くなるから、 それまでどおりに流水量を確保するためには、堤防を高くする必要があったのだろう。

 いまでは堤防の道からの立ち上がり高さが2メートルくらいになって、 街から川は見えなくなってしまっている。昔はそれが1メートルくらいだった。
 川岸の国道は広く、堤防は高く、川と街は切り離されたようだ。


 もうひとつの違いは、かつてあったおしゃれな高欄親柱が、今はなくなっていることである。橋には欄干などで構成する高欄がどこでもある。その一番端っこには大きな柱を立てるが、これ親柱という。親柱は橋の玄関の門のような役割をする。

 関東大震災の後で多くの鉄の橋がかけられ、そこには都市の風景としてのデザインが加えられるようになってきた。 方谷橋ができるころは、日本の橋のデザインもセンスがよくなってきたが、その片鱗を方谷橋でも見ることができる。ここでは当時の流行のひとつである表現派風の曲線が見えていて、アーチの曲線と共におしゃれなモダン風景である。

 それは両岸側共にあったのだが、今はどちらにもない。いつ頃なくなったのであろうか。無愛想なコンクリの塊に橋名板があるだけだ。 高いコンクリ塀となった堤防を土塀コピーするのも、まあ、よろしいが、国道拡幅でなくした親柱を復元してはいかがか。



●母の生家への橋

 橋の名「方谷」(ほうこく)の由来は、幕末の備中松山藩主に仕えて藩財政を立て直し、戊辰戦争による騒動を乗り切った、郷土偉人である山田方谷による。橋の西岸の丘陵には、方谷林と名づける公園もある。方谷林にはなんども遠足で行った思い出があるし、方谷橋には特に多くの思い出がこもっている。

 わたしの生家の神社から母の実家に行くには、ほぼ一直線に西に向かう。神社の坂道を下り、街の路地を抜けて、橋を渡ってすぐの集落の中の茅葺屋根の家に至る。
 わたしが生れる3年前、母はこの橋を渡って、神社の宮司である父に嫁いできたのであった。それより前に高梁川をはさんだ向こうとこちらの父と母の間にどういう縁があったか知らないが、この橋が二人を結んだことは確かである。

  母は花嫁姿で橋を渡ったに違いない。 そのときはまだ鉄の橋ではなく、木橋だったはずだ。下駄を履いた花嫁が橋の板の上を歩いて渡る風景を想像する。下駄の音が響いていたであろう。わたしは幼いときから何度もひとりでこの橋を渡って、母の生家に祖母を訪ねた。もちろん幼時には母に手をひかれて渡ったであろうが、その記憶はない。

 わたしはいつも渡りつつ段々と高くなるアーチのカーブを眼で追って、この上を歩くとどうなるのかなあと思ったものだ。
 これには少年のわたしが母から聞いた話が深層にあったように思う。 母は男3人女3人の5番目で、歳が離れた長兄がいた。その長兄が方谷橋のアーチの上を渡っていて、落ちて死んだというのだ。この橋が架かった1937年以降のことだから、母の年齢から推してその長兄は30代半ばを越して、もう十分に分別があるはずだ。なにがあったのだろうか。

 それを話した母は、なにか秘密を打ち明けたような雰囲気だったことを、わたしはかすかに覚えている。だからこそこの話を覚えているのかもしれないし、その後に確かめることをためらったままになったのかもしれない。
 考えてみれば、高梁川の両岸の二人が結ばれたことの証としてわたしがいるのだから、わたし自身が方谷橋なのであった。


●橋の下の遊泳空間

 方谷橋の下、コンクリート橋脚にも思い出がこもっている。今の子どもは川でではなくてプールで泳ぐそうだが、昔は夏が来ると子どもはみんな高梁川に泳ぎにいったものだ。
 街の上流から下流まで、川はどこでも泳ぐ長いプールであったが、そのなかで最も集まったのが、方谷橋の橋の下であった。

 方谷橋のあたりでは、街のある東岸側に水が流れていて深くなっていた。街と反対側の西側は広い河原になっていて、浅いところから段々と深くなっていく。
 まだ泳げない小さな子どもは、方谷橋を渡ってから河原におりて、浅いところで沢蟹やドンコという小魚を追ってあそぶ。 あるいはまた、水の中にはいつくばって底の石に足をつけ手をついて、ボチャボチャと泳ぐまねをしている。

 そうやっていると、自然に体が浮くようになり泳げる日が来る。わたしにも、そのはじめて浮いたときの記憶が明確にある。底についていた手が放れても、沈まない自分を発見したときの喜びは、自分が成長したような気がしたものだ。多分、小学校1年生ごろだろう。
 自信もって泳げるようになると、橋を渡らずに橋の東側の堤防にある階段を橋の下におりて、深い急流のところで泳ぐ。この深い急流を横断した先に方谷橋の橋脚があり、その根元には楕円形のコンクリートのベースがある。そこにたどり着くである。

 はじめはその横断がなかなかできないが、できるようになると一日に何回往復できるか競うようになる。コンクリートベースの上に寝転んで、橋の裏の鉄骨の組み方を興味深く眺めたものであった。暑くなって日陰に入りたいときは、橋の下しか影はない。

 成長するにつれて、泳ぐ場所もしだいにあちこち広がってくる。上流の街はずれに水練場と呼ばれる深く広いよどみがある。江戸時代の武士が水泳訓練したという。ここで大きな岩の上から飛び込んで、底の石を拾ってくる遊びに夢中になる。

 下流のほうには浅くて急流の瀬があり、そこを寝転んだままに流れ下るのが楽しかった。川の上流から下流まで泳ぎ流れていくのが一番の楽しい遊びだったが、これには問題があった。泳ぐ前には着ていた衣服を脱いで河原に置くのだが、自分が流れるとその出発点まで衣服をとりに歩いて戻らなければならない。これは流れ泳ぎの楽しみが長いほど、その後の苦労が大きくなるのだ。

  もっと大きな問題は、腹が減ることであった。食糧難の時代だから、今のように腹いっぱい食べることはできなかったのだが、子どもは遊びに夢中なると、空腹を忘れてしまう。はっと気がつくと、歩いて家に戻るのさえいやになるほどの腹ペコなっているのであった。
 空腹の記憶はつらいものがある。しかし、腹ペコで戻ってくる子に満足に食べさせてやれない親は、それ以上につらいものがあったに違いない。


●祭りの日の河原と舟橋

 高梁川には、毎年の暮れの2、3日間だけ出現する橋があった。下流部の街の反対側の西岸南方に稲荷神社があり、毎年12月の末頃だったろうか、例祭がある。商売繁盛と農業豊作の神様だから、近郷近在から多くの人たちがやってきて大賑わいとなる。だが神社のすぐ前は川で、橋ははるか上流か下流にしかない。

 だから東側の街からまっすぐに参詣できるように、神社のすぐ前の高梁川の深い淵の水の上に、川漁の小さな舟を連ねて板をその上にわたした臨時の橋が架かるのである。祭りの終わりと共に消える舟橋である。

 神社のあたりにはたくさんの露店や見世物小屋が立ち並んで大賑わいになる。街側の東の堤防から河原におりて橋まで続く臨時の道の両側にも、舟橋を渡って神社の下にも参道の石段の周りにも、たくさんの露店や見世物小屋が立ち並ぶ。

 蛇女や首だけ女とか怪しげな見世物の小屋掛け、玩具や小物を売る露店、口上を語って怪しげなものを売る香具師などなど、子どもには楽しくて仕方がない風景であった。
 戦後を引きずっている時代だから、白衣で松葉杖の傷痍軍人がアコーディオンを弾いて物乞いしていた。本物の乞食もいた。

 火事になった工場から持ち出したという煤だらけの万年筆を売る男は、去年もおなじことをやっていたから、毎年火事になるのかしら。
 真っ赤に錆びた包丁を研ぐ砥石売り、刀を振り回してしゃべる蝦蟇の油売り、これを通して見ると人間が丸裸に見えるという眼がね売り、などなど。

 自分の前に置いた大石がもうすぐ宙に浮き上がると言うが、いつまでしゃべっても待っても浮かない香具師は、いたいなにを売っていたのだろうか。
 幼なじみにずっと後に聞いた話、小学生の彼はその石が浮き上がるのを、何時間も根気よく待ちつづけていたら、ちょっと客が途絶えたときに香具師の男が寄ってきて、「頼むからもうどこかに行ってくれ、これをあげるから」と、小遣いをくれたという。

 そしてそれらの風景の背景としてわたしの記憶の奥底にあるのは、舟橋を渡る人々の下駄が板を打つ音である。ガ~ラガ~ラ、ド~ッド~ッと絶え間なく大きく、遠くまで遠雷のように響いていた。祭りへの招き太鼓のようであった。
 今から思えば、板の下につないで並ぶたくさんの川漁の木造小舟が、太鼓のような役割をしていたからに違いない。

 のちに能「舟橋」を観てこの稲荷祭りの舟橋を思いだし、あの恋が露見して悲劇になったのは、舟橋を渡る女の足音がつい大きかったせいかもしれないと思った。
 1972年に高梁大橋ができてからは、この橋は出現しなくなったにちがいない。

  かつて河原は、管理のない世界の無主の人たちの活躍の場であった。河原者といわれた小屋掛け芝居から歌舞伎が生れたように、アジールであったのが、いまや治水という管理下の堤防の中の閉じ込められてしまった。あの毎年末の突然の雑踏が河原に出現することはもうない。

 高梁川の河原に突然に出現して突然に消えるあの仮設の街、そしてその街がある間だけ響く遠雷のような舟橋の下駄の足音、幼かった遠い日のふるさとの幻の風景である。

●高梁川への想い

 高梁川盆地はまわりがすべて山であり、今でこそその山越えの自動車道があるが、かつでは高梁川が唯一の動脈であった。いや、高梁川に沿って走るJR伯備線と国道は、今でも重要な動脈である。

 この盆地を出るときは、伯備線に乗ってトンネルをくぐることから始まって、高梁川に沿いつつ下ってやがて倉敷平野に出るのである。逆に戻るときは、両側に迫る丘陵の間を高梁川に沿ってのぼってきて、トンネルを抜けると突然に広がる盆地に、ああ故郷だとの思いが広がるのである。

 あのトンネルを抜けるのは、高梁に出入りする儀式である。3回もの兵役に行った父も、3回ともそうやって生きて故郷の土を踏んだ。
 高梁川の水に身を浸して育った夏の日の少年の日々の思い出は、わたしをふるさとに深く沈潜させる。そしてまた、盆地の中で閉塞感にとらわれていた高校生のわたしが、この川を下ってはるか東国の外界に出て行ったときのことを思うと、わたしを解放してくれたのがこの高梁川なのであった。

 川を下ることこそが、少年のわたしの未来への方向であった。上流へ目は向かなかった。ところが、高梁の歌人・藤本孝子さんの歌集「春楡のうた」にこうある。

この川の上流はるかにもう一つ故郷のある心地する橋の上

 方谷橋の上で詠んだのだろうか。男は現実主義者で出てゆくべき都会のある下流しか見ないが、女は上流を眺めて物想うらしい。そして本当に源流を訪ねるのである。
 この歌集にはほかにもたくさんの高梁川が通奏低音のごとく登場、いくつかを挙げる。

大川が遊び場だった夏の日の陽射しもわたしの身体の記憶

高梁川に沿ふ高梁に我も子も孫も生きおり魚族のごとく

高梁川の深き淵なりし「稲荷前」浅瀬となりて釣人の見ゆ

思い来し高梁川の源流に今来たりたり掬いて飲まむ

 祭礼の日に舟橋のかかった「稲荷前」の深い淵が出てくる。そう、わたしたちの世代の高梁の少年少女は、高梁川とともに育ち、高梁川に導かれてこの町から出て行き、そして戻ったのであった。(2011/11/10記)

 ●関連→高梁分地の風景論集

2021/11/24

takahasi-kibityuo2011高梁盆地:故郷のオールドタウンとニュータウン


高梁盆地:故郷のオールドタウンとニュータウン
伊達美徳
(2011年)

 久しぶりに故郷の高梁盆地に行った。高梁川をさかのぼる伯備線で、倉敷から30分、典型的な盆地の旧城下町である。ついでに隣の吉備高原にある吉備中央町のニュータウンも訪ねた。新旧の都市訪問である。

高梁盆地と吉備中央町の位置


高梁盆地オールドタウンの現状

 まずは生まれ故郷の高梁盆地である。

高梁盆地の衛星写真

高梁盆地を北から南へ俯瞰する

 ここは映画「男はつらいよ」シリーズに登場する、いわゆる懐かしい町である。寅さんの義弟がこの町の出身となっている。上流武家屋敷町だった石火屋町にある豪壮な旧家のお屋敷が、その生家である。今回の訪問でその前を通ったら健在であった。

 少年のわたしは親に命じられて、なんどかこの家にお使いに行ったことがある。二つの玄関があって、どちらからはいるべきか悩んだものだ。

 その武家屋敷町は、かなり前から町並み保全と修景をしているから、いかにも城下町らしい風景である。観光拠点にもなっているので、いかにもそれらしい風景である。しかし、空家空き地が目立つようになっているのが気にかかる。武家屋敷町は空家空き地になっても、土塀で囲まれているから、一見したところでは町並みが連続している。

武家屋敷町(映画「男はつらいよ」に寅次郎の義弟の生家として登場した)

 だが、商家町では空き地が目立って、歯抜けになった町並みとなっている。かつての繁華街だった本町や下町の商店街は、商店街の体をなしていない。空き店舗と住宅の連続になっているが、その中のあちこちで空き地が目立つのである。駐車場になっているが、がらんとしてガラクタがおいてあり、草が生える。これは寂しい。

 これらの空き地には、元はといえば格子窓や連子窓の瓦屋根の堂々たる旧家が建っていたのだ。跡地に新たな住宅でも建ってくれればよいのだが、歯ヌケのままで寂しい。

 それは今に始まったのではないが、人口減少が止まらないからだ。旧市街地を中心とする合併前の高梁市の区域の人口が、1960年には約35000人いたが、現在は約24000人である。このさきも減少は止まりそうにない。空き地空家が出るのは当たり前である。

 ただし、面白いことに、市域人口は減っても、旧城下町の高梁盆地の中の人口は、18世紀中ごろから約1万人で、ほぼ一定であるらしい。いろいろ調べてみてそれがわかった。人口減少の日本で、これからも持続するのは盆地の街だと思っている。

商家の街並み(本町)

商家の街並み(紺屋町) 1994年

商家の街並み(上と同じ紺屋町、空き地になった)2011年

商家の街並み空き地(下町)

 高梁盆地には吉備国際大学があり、多くの若者が町に住んでいる。学生が町の中に住んでくれると、それは活力の源泉になる。
 学生用の中層共同住宅が、伝統的な町並みの中に建っている。それは町並みと微妙なバランスを保つ風景になっている。いちがいに新しい建築を排除することはない。

 商家の歯抜け跡地に学生アパートを建てればよいのにと思うのだが、少子時代でその学生たちも減少傾向にあるという。
 大学は街はずれの小高い山中にある。立派な白亜の校舎が山の中に立ち並ぶ。どうしてこんな傾斜地ばかりの不便なところにキャンパスをつくったのだろうか。土地が安かったのだろうか。

 それにしても、高梁が大学町のハイデルベルクに風景が似ているといっても、若者にとっては地方の田舎町だし、その上にまたこんな山の中では、学生が自分の生家よりも不便なところだと思って来なくなりそうだ。
 その上、少子時代で学生そのものの絶対数が減少するのだから、よほど魅力がないと来てくれないだろう。

山懐の傾斜地に建つ吉備国際大学の校舎

 ドイツの古都ハイデルベルクのように、街と大学とが一体になっているとよいのにと思う。キャンパスを街の中に移してはどうか。どこでも地方大学がよくやるように、ここでも大学が栄町の空き店舗を利用して、商店街活性化の活動をしていた。

 それはそれでよいのだが、もうやっているのかもしれないが、大学そのものの研究室、教室、クラブ活動の場として、空き地空家を積極的に活用してはどうかと思う。
 1、2階は大学の施設、上階に学生の住む住宅がある、そのような町屋が建つと街に活気が戻ってくるだろう。

ニュータウン吉備高原都市の現状

 その高梁盆地の東方に「吉備高原都市」なるニュータウンがある。わたしはニュータウンなど興味ないのだが、いまや幽霊タウンになっているという噂を聞いて興味が出て、訪ねてみた。

 高梁盆地から東の丘陵を登って、そのままの高さの高原(といっても標高200~500m)の林や田んぼの中をいく。
 岡山県が事業主体となって1973年から計画しはじめて、75年には用地取得、1980年建設事業着手した。
 現在までに約半分の区域の開発ができたが、それ以上の開発事業は経営的に成り立たずに、事実上凍結となっている。

 1988年から住宅の入居がはじまった。しかし、計画人口3万人の予定が、2000人ほどが現状である。このニュータウンはふたつの町にまたがっていたが、最近合併して「吉備中央町」(人口約13000人、約5500世帯)となった。つまり合併しても、吉備中央「市」になることができなかったのある。

高梁盆地の市街地と吉備高原都市の衛星写真

吉備高原都市全体の衛星写真
吉備高原都市の全体配置図

 林の中に「吉備高原ニューサイエンス館」なる大きな建物が現れた。だが、閉館してしまってはいれない。本日閉館ではなくて、県の財政難で経営が成り立たなくなって永久閉館したらしい。先端技術についての展示をしていたそうだ。もったいない。
 隣には「㈱林原生化学研究所」がある。たしか㈱林原は倒産したはずだが、研究所はやっているらしい。
 もうちょっといくと「国立吉備少年自然の家」があり、子どもの乗ったバスが来ているから、ここは閉鎖していないということだ。国立施設だからつぶれないだろう。

閉館したニューサイエンス館

 「吉備高原総合リハビリテーションセンター」は、労働災害による障害者のための医療と職業リハビリテイションを行うもので、実に立派な労働省系の施設のようだ。このニュータウン開発の基本に福祉社会の実現があったらしいから、それ相当の施設である。これだけ整った医療体制があると、地域に暮らす住民には安心である。

 ただ、気になるのは、ここは車がないと、ほぼくることができないことだ。バスが岡山と高梁からあるが、一日に各5便(休日3便)と本数が少ない。身体にハンディのある人は、誰かにつれてきてもらい、またつれて帰ってもらうしかないのが難点である。それはこの広い町に住む人たちにとっても同じである。

 福祉社会実現のひとつに、身障者を積極的に雇用すると評判のパナソニックの工場があるときいていたので、今もあるかと探したら、あった。
 工場団地に行ってみたが、用地の半分くらいは売れたようだが、残りはまだ草ぼうぼうの空き地である。価格を下げてもなかなか売れないらしい。何年か借りてくれたら、無償譲渡制度もあるそうだ。投げ売りか。

 住宅地を訪ねた。初期の分譲住宅地は豊かな緑が茂り、公園や道路に金をかけているし、住宅もリッチな様子が見える。バブル景気でけっこう購入者の競争率も高くて、高額所得者が住んでいるという。高原リゾートとしての立地でもあり、バブル景気のころは別荘として購入したひとたちもいた。

初期建設の住宅地

 それが次第に最近になるにつれて、よくある既製プレハブ住宅が建つ新興住宅地の風景となる。そして空き地ばかりが目立つのである。寂しい。
 初期の頃に入った人たちは、その頃は定年前か直後でも、いまは高齢者となっているだろう。高原の公共交通から遠いニュータウンの暮らしはどうなのだろうか。

空き地が目立つ住宅地

 そこでセンター施設の「きびプラザ」を訪ねた。これが驚くほど巨大で、金のかかった立派な施設である。ホテル、量販店、専門店、飲食店、事務所が入るのだ。3万人ニュータウンセンターとしての施設だからそうなのだろう。だが、これがなんだか寂しいのだ。節電か経費節減か照明が暗いし、利用者が見えない。

 量販店に入ってみたら、従業員ばかり。平日の昼間だからこんなものかとも思うが、それにしても経営がなりたつのか、そのうち閉店するのじゃあるまいかと、心配になる。ここが閉店したら、2000人の住民は買い物難民となってしまう。
 それにしてもこの施設の立派さはすごいものだ。巨大な広場があって、まわりを観覧席のようなものがとりまいている。全体の維持管理費だけでも大変な額だろう。

立派な広場を持つ「きびプラザ」

 公共開発だからだろうが、一般に公共施設、共用施設への金のかけかたが立派である。道路や公園も施設として立派だし、管理が行き届いている。手入れされた並木道も元からの林らしい緑の環境がすばらしい。民間開発とそこが違う。

 いっぽう、それだけに維持費が大変だろうと、また思うのである。その負担がどう住民たちにかかるのかしらないが、これだけ立派な環境でありながら、たったそれだけの人口しかいないとは、ぜいたくというか、もったいないというか、ためいきが出てくる。

 そして、町の人口の統計を見れば、毎年順調?に減少しているのである。2004年の合併時には約14500人、そのときに2010年予測値を約14000人としていたが、2011年の今は約13000人となっている。

 高梁盆地オールドタウンも空家空き地だらけだったが、どうやらこちらニュータウンも空家空き地が多いらしい。若いときは車での移動も楽だろうが、歳をとるとそうはいかない。次第に高梁盆地や岡山市などの街へと移っていくのが当然である。
 開発の基本にあった福祉計画の実現は、高齢者にはどう機能しているのだろうか。
 オールドタウンもニュータウンも空き地空家だらけ、多分これは全国的な傾向だろう。

 ところで、そのいっぽうでは、東日本大震災で全壊・半壊の建物は30000棟というから、このギャップをどう考えようか。2011年10月初めの時点で、避難中の人が約7000人だそうだ。このうちの何人かは高梁市か吉備中央町にもいるのだろうか。

 そしてまた、東京や横浜のような大都市では、ホームレスの人々が街の中にいる。
 かといって、震災避難者やホームレス者をそこに移転させればよいというものではない。そこで働いて日々の糧を得る手段があるがどうかとなると、小さな地方都市では簡単ではない。
 いきおい、年金生活者のリタイアなら誘致が可能かもしれないとなると、これはこれでいずれは元気のない住民となって財政負担になるという問題を抱えている。

 吉備高原都市の開発計画の見直しをしたレポートが岡山県のサイトに載っている。http://www.pref.okayama.jp/page/detail-6163.html
 そこには今後の都市整備の進め方がいくつか書いてある。「近未来体験都市」という新コンセプトが掲げてあるが、読んでみてもたいしたことは書いてない。はっきりいって特効薬はないようだ。

 問題は開発が遅れたままになっている後期計画(Bゾーン以降)の取扱いらしい。公的開発から民間開発へとシフトさせる意向が見えるが、さりとて人口減少時代にここにどのような新規開発が可能かとなると、考え込まざるを得ない。

 これからはニュータウン新規開発に投資するよりも、オールドタウンに投資する方が、比較すれば効果が高いだろう。しかし、これだけ投資したニュータウンがずるずると幽霊タウンになるも、あまりにももったいない。

 では、ニュータウンとオールドタウンとではどちらが、幽霊タウンになりやすいだろうか。それは多分、ニュータウンのほうだろうと思う。なにしろ、過去からのしがらみがないから、いつでも住民は出て行きやすいだろう。別の言い方をすれば、町の蓄積する文化の魅力の差である。

 しかし、オールドタウンだって油断はできない。高梁の人口減少はもう何年も止まらないし、これからも止まりそうにない。特に市街地では横ばいか微減だが、農村部での減少がいちじるしいのは全国的傾向と同じである。過疎地では人は住めなくなる。

 人口減少社会では、ニュータウンでもオールドタウンでもよいが、既成のまちに人口を積極的に移動させる政策を、かなり大胆におこなうことが必要である。
 過疎化が進む農山村集落ばかりか地方町村の再編政策として、これらの既成の街とリンクする移転作戦があるべきだろう。それは平成の大合併政策の延長上にあるのだ。

 高梁市の人口構成には他の地方都市にはない傾向がある。それは、大学があることによって、その若い学生たちの年齢人口が著しく突出しているいることだ。この傾向を今後とも保つことができるだろうか。ぜひとも保ってもらいたいものだ。
 歴史文化のある街と一体となった教育環境、それが文化財修復学科のような特色ある研究教育とともに育っていってほしいものである。(2011.10.18)

(20211124 グーグルサイトからここにコピー移転

2021/11/09

takahasi-nenpyo2012高梁盆地まちづくり歴史年表

高梁盆地まちづくり歴史年表
伊達美徳制作 2012年

印:筆者生家の御前神社関係

西暦774年 ●御前神社が現在地に遷座(「御前神社明細帳」)

859 八幡神社創建

1004 近似稲荷神社創建

1240 秋庭三郎重信が臥牛山大松山に城を築く。このころは高梁川は盆地の東を流れていた。城主や家臣団は東や西の標高60m以上の山腹に住んでいた。
●御前神社と八幡神社が松山城鎮守社となる

1331 小松山に築城

1333頃 高橋九郎左衛門宗康が備中守護職に任ぜられて城主となる。高橋であった地名を松山と改名:「高橋又四郎、実名知れず、元弘正慶頃居城の由。これまでは松山を高橋といえり。これより松山と改む」(寛政2年(1790)年版 柳井重法編著「備中州巡礼略記」)。しかしその後も高橋の地名が一部に残り、松山川は高橋川とも言われた。高橋を高梁というのは文人墨客の風雅の慣わしであり、頼山陽に1819年に「七月十五日夜高梁川に船を泛かべる」という漢詩を詠んでいる。

1356 高師秀が松山城主となる

1362 秋庭三郎重明が城主となる

1442 ●御前神社の今の社領が決まる:「人皇四十九代光仁天皇(中略)社領のため永代古瀬庄を当て給ふ」(「御前神社縁起1442」)
●この頃は高梁川は御前神社のすぐ東前を流れていたとの記述。「御前神社祭礼次第/神馬員数ノ事/従太守六疋被奉引之/従上房郡三十二疋奉引之/於神屋 二十一日 御馬揃/神輿一鳥井之前一町大川之端奉安置之御前神主奉捧神馬於鳥井之前三度引廻云々/文安元年三月中旬/名方神主/宗時 書 判」(「御前神社縁起1442」)
 高梁の町は高梁川西側の近似地区に開けていたらしい(東側が開けるのは1500頃か)

1509 上野頼久が松山城に入る

1533 庄為資が上野氏を滅ぼして松山城に入る。松山城をめぐり庄氏と三村氏抗争に毛利氏と尼子氏がついて戦う

1571 三村元親が庄高資をほろぼして松山城に入る

1574 備中兵乱、毛利軍が松山城をせめる

1575 松山城が落城、尾根小屋は炎上、三村元親が切腹、備前と備中は毛利の幕下となる。これより毛利と織田の覇権争いに。
 松山城城代は天野五郎右衛門、桂民部大輔

1583 寺町に龍徳院建立

1592 内山下に正善寺建立

1594 和田に道源寺建立 松蓮寺建立

1600 毛利氏が関が原の戦いに敗れて松山領を失い、小堀新介正次が備中代官となって松山に入り、頼久寺を整備して陣屋とする

1604 小堀政次が急逝し作介政一が継ぐ、頼久寺庭園整備

1614 小堀政一が松山城を修理

1616(元和4) この頃に川の東に町が開ける:「新町本町元和二年に出来、下町・鍛冶町元和四年に出来」(「松山御城主歴代記」)

1617(~1618) 小堀政一が近江浅井郡に転出、鳥取から転封してきた池田長幸が松山藩主になる。
 6万5千石の大名として大勢の家臣団を配置する都市計画。御根小屋下の高梁川と小高下川に囲まれる地区に本丁と川端丁を南北並行に設けて重臣屋敷地の内山下とし、出入りには4つの門を設ける。小高下側の南東山麓の御前丁、石火矢丁、片原丁、頼久寺丁、中之丁に家臣団上級武士の屋敷地。紺屋町川の南山麓に寺町、向丁、柿木丁などの士分の屋敷地、その他軽輩足軽には中間町、鉄砲丁
 武家屋敷の外に町人の本町、下町、新町、鍛冶町
 紺屋町川を城濠に見立てて番所や木戸を設ける 
 紺屋町川以北の家中屋敷を上家中、以南を下家中という
 家中屋敷の町名は丁(ちょう)、町屋は町(まち)と呼ぶ
 池田氏の家臣団人数は約400人

1621 ●御前神社は古くは小高下泉が丘にあったものを元和の初めに池田長幸が再建し、この年(元和7年)に現在地に奉還

1624 薬師院本堂建築

1639 水谷勝隆が下館から成羽に転封

1642 池田氏断絶、成羽から水谷勝隆が松山に転封5万石、この頃から小松山に築城、御根小屋完成、城下町整備

1643 松山城下の継舟制を定めた、新見ー松山ー玉島の河道完成

1648 松山踊りの地踊りが始まる

1650 新見まで河道を開く

1651(慶安4年)●御前神社に城主が時鐘を設置。その時鐘銘は以下の通り
「吾移住当城之後為教城下之士庶十二時候課干冶工鋳鳧金以奉納槨内御前大明神之賽前蓋知時即寺社不忘其勸矣時則四民不勤其業近境順法遠境効焉所冀天長地久国家安全除災與楽将来千億
   慶安四歳次辛卯九月吉祥日
    城主水谷伊勢守勝隆 敬白
      冶工當国小田郡高草
       惣領 彦之丞藤原守重」

1652 松山から新見まで高瀬舟が通じる

1655 明暦の大洪水で4・5mまで満水

1657 正連寺を奥万田から現在地に移設し本堂建築

1658 ●御前神社の時鐘制をしいた

1659 玉島新田開発、玉島築港、高梁川と結ぶ運河建設

1664 水谷勝隆が死んで隆宗が継ぐ

1670 南町を取り立てて牛市を開く、玉島干拓新田開発による牛馬の需要増。松山は流通拠点として繁栄
 南町と高梁川の間に下級武士居住地の弓之丁・鉄砲丁をとりたて

1683 御根小屋および小松山の松山城を改築

1684 大火

1685 鍛冶町の南に東町を取り立て、城下町の形成ほぼ完成

1693 家中屋敷216軒、444人  水谷家断絶、

1694 幕府が姫路本多家に命じて松山領を検地、表高5万石が11万石に、百姓も藩政も窮乏 
 領内人口105210人、検地による松山城下百姓5603人(男2959人、女2644人)、藩士家族1974世帯6043人
 浅野長矩が大石蔵之助らと松山に入り、松山城受取り

1695 上州高崎から安藤重博が新藩主として入封6万5千石

1711 山城国淀から石川総慶が移封

1721 享保の大洪水で3mまで満水

1744 水谷家退出時家臣屋敷338軒・338人、町家1148世帯・3597人(城下町概略世帯数1500戸・4000人)。
 伊勢亀山より板倉勝澄が入国して藩主に、このとき2900人が松山に入国(藩士が増えて城下町人口7,000人程度か)
 松山藩士子弟による松山踊りの仕組み踊りが始まる

1746 内山下に学問所

1751 城下大火

1756 城下大火190軒焼失

1768 城下大火88軒焼失

1793 八重籬神社創建

1830 八重籬神社を御根小屋馬場から移して現在地に建立

1831 学問所有終館を中之町に移す

1832 鷹匠町から出火、370軒消失

1836 大洪水・長雨で不作となり餓死者多数(天保の大飢饉)

1839 城下間之町から出火して600軒焼失、●御前神社も類焼

1849 板倉勝静が藩主になる、山田方谷を重用


1850 藩政改革7カ年計画はじまる

1853 鍛冶屋町取り立て

1864 ●御前神社社殿を焼失
 
長州征伐群に松山藩士も1958人が広島まで出陣(~65)

1868 朝命によりの備前池田藩による討幕軍に松山城を明け渡し、備前藩鎮撫使による統治

1869 板倉家2万石で板倉栄二郎勝弼が再興、高梁に地名変更、板倉栄二郎が高梁藩知事

1871 廃藩、高梁小学校創設

1872 郵便役所設置(鍛治町)

1875 岡山県となる

1877 ●御前神社拝殿再建(現存)

1878 上房郡役所、裁判所、高梁警察署設置、第八十六銀行設立

1880 風水害で近似から松蓮寺下まで浸水

1881 順正女学校開校、●御前神社本殿再建(現存)

1884 この頃、南町に芝居小屋「高楽座」

1886 風水害で3m余の浸水、死者十数人

1889 高梁町となる(人口5612人、1209戸)
 高梁キリスト教会会堂建設

1893 風水害で片原丁・石火矢丁のほかは浸水、水深3m

1895 高梁中学校開校(向町の安正寺内)

1896 順正女学校校舎建築(現存の順正寮)

1900 高梁中学校校舎が御根小屋跡に完成

1904 高梁小学校本館建築(現郷土資料館)
 桜を高梁川沿いに植えて名所の桜土手となる

1911 高梁町人口6681人、1561戸

1918 米騒動が高梁にも波及し難民救済活動

1925 高梁町人口6207人、1422戸
 伯備線備中高梁駅開設(この年の乗車人員143千人)

1926 伯備南線が開通

1928 伯備線が全通して山陰と山陽が結ばれた

1929 高梁町と松山村が合併して人口約10000人(旧高梁町6500人、松山村3500人)、約2000戸

1930 栄町など駅周辺の市街地が形成

1933 南町の高楽劇場が焼けて栄町に高梁劇場を建設

1934 室戸台風大水害で町の2100戸中1500戸浸水(床上1278、床下254)、死者26名、流失家屋54戸、倒壊家屋47戸、おおむね海抜70m以下は浸水、方谷橋流失、山際の寺社群は無事、●御前神社も避難所となり炊き出し

1937 日中戦争に400人余徴兵、戦死者も出て、この年から松山踊り中断  方谷橋が鉄橋で再建完成

1940 備中松山城を修復(天守、2重櫓、土塀) 
 ●御前神社の時鐘を軍事供出、290年の時鐘の響きが絶えた。瀬戸内海の直島にある三菱精錬所に運ばれた。(1945年夏に直島を捜索すれど不明にて溶解されて兵器になったか)

1941 松山城が国宝指定(戦後に重要文化財に指定替え)

1943 備北バス会社設立

1945 神戸、芦屋から学童疎開、芦屋市精道校から御前神社に初等科6年女20名と職員1名、頼久寺に学童男女143・職員8、金光教会に女21・職員1

1947 全国巡行中の昭和天皇が備中高梁駅前で町民を激励
 新制高梁中学校開校(校舎は当初は松山小学校、48年新校舎)

1948 高梁商工会議所設立

1949 高梁中学校と順正女学校を合併して高梁高等学校

1954 高梁市発足直前の人口12722人、3000戸
 5月、近隣9町村と合併して高梁市となり人口34275人、

1955 中井村を合併、人口37030人、7340戸
 人力車が姿を消した

1958 市庁舎完成

1960 松山城解体修理

1963 駅前貫通道路完成

1967 順正短期大学開学

1969 都市計画道路高梁駅柿木町線(城見通り)着工、国道180号改良工事を川端町付近で開始

1970 高梁北・南小学校統合

1971 風水害、伊賀町の順正短大の音楽教室全壊、伯備線が不通20日間

1972 旧高梁北小学校本館を郷土館として保存決定。高梁小学校が新校舎に移転。
 集中豪雨災害。高梁大橋完成。国道180号を4車線に拡幅

1973 伯備線が高梁岡山間を複線運転開始、高梁大橋架橋

1974 頼久寺庭園が重要文化財名勝指定、岡山県が「石火矢町ふるさと村」を指定

1985 国勢調査による都市計画区域人口18350人

1990 国勢調査による都市計画区域人口18387人

1995 国勢調査による都市計画区域人口18928人
 奥万田地区地区計画決定

2000 国勢調査による都市計画区域人口18845人、その内盆地人口約11000人

2005 国勢調査による都市計画区域人口18607人、その内盆地人口約11000人

(参考資料:「高梁市史」1979ほか)      (2012年作成 伊達美徳)

takahasi2012講演「美しい故郷に-高梁盆地の昨日と今日そして明日へ」

講演「美しい故郷に-高梁盆地の昨日と今日そして明日へ」  

2012年

伊達美徳

 故郷の高梁で、高梁盆地へのオマージュ「美しい故郷へ」と題して講演をしてきた。2012年2月5日のこと。
 少年時代をすごしてよく知っている町だが、その後の半世紀を越える時間をブランクにしている。
 個人的な印象きわまる少年時代の想い出の町を、都市計画を職能とする冷徹な目で眺めて話すという、ここでしかできない、今しかできない、そんな稀有な機会であった。

高梁盆地とアルテハイデルベルクとの相似の話もした

    ◆
 都市計画の仕事で訪ねた町で、いろいろ調査してその街の人に話すのは、客観的であるが他人事に終始する。聞いているほうも醒めているだろう。
 ところが故郷を話すのは、主観と客観の入り混じり具合を、自分でどうコントロールして話すか、これがなかなか難しいが、それだけに実に面白い経験であった。
 故郷にいる友人たちも、わざわざ帰郷してきて聞いてくれた旧友たちも、昔話のような、でも故郷の先々を語っているような、そんな気持ちで聞いてくれたようだ。
    ◆
 あらためて故郷の町を都市計画の目で調べて、新発見、再発見したことがあった。
盆地の北半分が藩政時代に築いた市街地で、南半分は田んぼであったところを太平洋戦争後に市街化したのである。
 つまり北半分は19世紀前半までにでき、南半分は20世紀後半以降にできたのである。この二つが合わさって高梁盆地の生活圏を構成している。
 ところが、その戦後市街地のあまりに都市計画のないこと、その反対に藩政時代の市街地の都市計画のあまりにありすぎること、その対照に驚いたのであった。
 それでもすごいことは、高梁盆地は、今まちづくりの最先端を行く見事なコンパクトタウンなのである。そう、一周遅れのトップランナーである。
    ◆
 もうひとつ驚いたのは、その盆地人口が藩政時代から現代まで約1万人ほどで、ほぼ変わらないで来ていることである。これをどう考えるか。
 もっとも、人口の数は変わらなくても、人口の年齢構成は大きく異なっている。いわゆるピラミッド型(若いほど人口が多い)であったのが、今は大きく肩幅を広げて下がすぼまった高齢者が多くて若くなるほど少ない形になっている。
 ところが、まるでバレリーナのスカートか腰のフラフープ(昔流行した)のごとくに、18歳から25歳のあたりだけが突出して人口が多いのである。大学生がいるからだ。
 さて、そのスカート層が、これからもいてくれる町を維持することができるか、勝負の時が来ているだろう。
    ◆
 人口の推移も面白い現象がある。
 行政区域人口は減少の一方である。今の高梁市の行政区域は、盆地の外の高原地域の町村と大合併して、とんでもない広い範囲となっているのだが、その高原区域の人口が減少するばかりだから当たりまえである。
 その一方で、都市計画区域人口は18000人強でほぼ変わらないできている。
 都市計画区域は、市域の中の3つの盆地を対象としているが、要するにそこが昔からの町村のそれぞれの中心なのである。高原地域から盆地へと移動をしているのだろう。
 これからも盆地が受け皿になるか、そこが勝負だろう。
    ◆
 故郷にはもう血のつながりは一人もいなくなった。だが、故郷を愛する幼ななじみの友人たちがいる。その一人が今回の講演の仕掛け人である。
 そして、なんと東京で知り合った岡山にいる都市計画の専門家が、この故郷で仕事をしているのに出会ったのだった。
 縁はつながる。故郷に感謝!。
 講演時間が足りなくていい足りないことばかり残った。
 話の最後は、川端五兵衛さんの言の受け売りで納めた。
 「死に甲斐のあるまちに!」

 講演資料(PDFの取り込みは下にある各添付ファイルの↓からどうぞ)
講演会広報リーフレット(pdf 282 KB)
講演会当日配布レジュメ(pdf 872 KB)
美しい故郷に-高梁盆地の昨日と今日そして明日へ
  講演原稿をもとに書き下ろしたブックレット (pdf 5286 KB)
同上ブックレット表紙(pdf 184 KB)
城見だより(公民館機関紙)

●参照→●ふるさと高梁の風景
    
まちもり通信 
 
   ●伊達の眼鏡

2021/09/01

taka-heide2010【異国の高梁盆地】ドイツで発見した故郷そっくり古都の盆地

異国で発見した故郷“高梁盆地”
2010年
伊達 美徳 

●故郷の訛りは染み付いている

 もうかなり前のことだが、墨田区のファッション産業を振興するための大きな会議があった。江戸東京博物館のホールで、服飾研究家の深井晃子さんが講演をして、そのあとがパネルディスカッションであり、わたしもパネラーのひとりとして出演した。

 それが終わって舞台上の出演者の前で幕が降りた。わたしの隣に座る深井さんが、突然わたしに聞いた。
 「ご出身はどちらですか」
 伊達姓は関東では珍しくて、よく聞かれる。わたしはいつもの冗談口で答える。
 「世が世なら、仙台で家来どもを従えて、ハハハ、、」
 「もしかして岡山ですか」
 初対面なのにこの一言には驚いた。聞けば、なんと偶然にも深井さんは高梁高等学校、高梁中学校、高梁小学校と、いずれもわたしの後輩と分かったのであった。

 わたしは高梁を出てからの人生のほうがもう3倍近くも長いのだが、生まれてから成人近くまで居た郷里の言葉は、身に沁み付いているものらしい。もうながいこと共通語で話しをしているつもりであったが、どこか間延びする岡山訛りがあるのを聞き分けられたのだ。この著名な服飾研究家は論も鋭いが耳も敏い。

●ドイツで高梁を発見

 ところが言葉だけではなくて、郷里の風景も脳裏にこびりついていることを、故郷を離れて40余年の後、しかもヨーロッパで発見したのであった。
 1991年のこと、南ドイツを遊び仲間5人でレンタカーに乗って、10日間の気ままな旅をした。行きあたりばったりに小都市を巡り、ガストホーフという宿屋に飛び込みで泊まる。どの街も中世の面影を色濃く保っていて、美しい街並みを楽しんだのである。

 牛の鳴声が響きわたる農村の宿に泊まった時は、言葉は全く通じないし、食事も手書きメニューが読めない。ドイツ語会話本の「あなたのおすすめはなんですか」を見せて、店主がこれと指差したものを何か分からないままに注文、仲間みんなが同じソーセージ料理を食わされた。
 そうやって旅も終わりの頃、大学都市の古都ハイデルベルクの城下町にやってきた。ネッカー河沿いのまわりを丘陵に囲まれた盆地の街で、歴史的街並みや大学そして城址がある。

 街中をうろうろ歩く。道筋の歴史的街並みの向うに見える城跡、路地の向うに小さな塔があり背景に緑の山並み、大きな河のほとりの小さな街、周りを取り囲む緑の丘陵など、はてな、どこを見てもいつか見たことがあるぞ、どうもよく知っている景色のような気がするのである。初めてなのになぜだろうか、わたしの前世はハイデルベルク人だったのか、まさか、でもこの街は来たことがある、見たことがある、変だ、頭の中がモワモワしてきた。

 不思議な感覚を引きずりつつ、街の中から外れてネッカー川の橋を渡り、丘陵の中腹にある「哲学者の道」に登って行き、そこから先ほどまで歩いていた対岸の街を見下ろした。
 「わかったっ、ここは高梁盆地だ!」と叫んで、頭が晴れた。まさにデジャビュ(既視感)であった。

 わたしは、街の構造や街並み等に関する都市や建築の計画を専門としている。その視点で帰国後に調べてみて、高梁盆地とアルテ・ハイデルベルクの両城下町は、その地形・規模・構成がソックリであることが分かった。街の風景が似ているのは当然なのだ。
 古都ハイデルベルクにも行き当たりばったり、有名な都市だから行って見るか程度の気持ちだったから、ドイツでまさか高梁に出会うとは思いもしないことだった。

 わたしのこの体験を、アルテ・ハイデルベルクに行ったことがある高校同期生や弟たちに話しても、頭にモヤがかかったという人は、今のところ誰もいないのである。わたしの専門がそうさせたのだろうか。

<俯瞰>アルテハイデルベルクの城下町(上)を哲学者の道から見下ろすと、高梁盆地の城下町(下)を蓮華寺あたりから見下ろす風景と、実によく似ている。photo:DATEY


<街並みから見る城主館跡>(左)アルテ・ハイデルベルクの街並みから城主の館を望む。(右)高梁盆地の武家屋敷街並みから城主館の尾根小屋跡に立つ高校校舎と背後の城山を望む   photo:DATEY


<塔がある小路>(左)アルテ・ハイデルベルクのある小路から塔が見える。(右)高梁盆地の小路でも塔が見える(家本写真館だが今はない) photo:DATEY


<山が見える小路>(左)アルテ・ハイデルベルクでも、(右)高梁盆地(菊屋小路)でも、小路の向うにはいつも緑の丘陵が見える。photo:DATEY


<空中写真>同じ縮尺で見る空中写真を、アルテ・ハイデルベルクの城下町(上)と、高梁盆地の城下町(下)とを比べると、ほとんど同じ形と大きさである。 photo:goole earth(上)、国土地理院(下)


<中心商店街は似ていない> photo DATEY


●半世紀前の発見者

 この「アルテ・ハイデルベルク≒高梁盆地説」をわたしの新発見と思ったのだが、後で調べていてその30年も前、今からだと半世紀も前に先駆者がいたと知る。1961年、慶応義塾大学文学部教授の池田潔さんが、岡山県主催の夏季大学の講師に招かれて高梁にやって来た。そのときのことを新聞にこう書いている。

「8月末のむし暑い朝早く、ぼくは高梁駅へついた。街道沿いの細長いひなびた町、驚いたことに、こんな朝早く、すべて店は戸をあけ水を打って客を待っている。……今度の旅行には社会教育課のIさんと高梁出身で慶応を今年卒業したS君が付き切りで世話してくださった。……この街の形や城下町の落ち着いたふんい気から、ぼくはドイツのハイデルベルクを思い出していた。そしてこのような町に大学があったらと考え、いろいろと想像をたくましくしてその一端をしゃべった。……案外これは実のある思いつきかもしれない。高梁の方々だけでなく、岡山のみなさんに遠い将来、あるいは高梁に大学をという考えを採り上げていただけたらと思う」(1961.9.12山陽新聞)

 この文中のS君とは、高梁高校でわたしと同期の繁森良二さんで、彼がこの先駆者のあることをわたしに教えてくれた。池田さんは若いときにハイデルベルク大学に留学して、後に高梁盆地にアルテ・ハイデルベルクを発見したのであった。わたしとは順序が逆だが、"2度目の発見"の正しさの証明にはなった。 

●高梁も大学街の活力

 わたしは観光の1日滞在だから目に見える景観だけに注目したが、ハイデルベルク大学に留学したこの著名な英文学者は、教育という地域のソフトウェアに言及しておられる。その"思いつき"は、故郷の人々の努力で二つの大学のある街として見事に実現したのだから、さすが先見の明である。
 ハイデルベルクは人口約14万人、5つの大学があり3万人を越える学生がいる大学都市として名高い。最も古い大学は14世紀末の創立で、多くの人士を輩出し、池田さんのように世界中から留学者がいるという。

 高梁市の年齢別人口構成をみると、地方都市の例にもれず老齢人口が多くて、3人に1人が65歳以上だという。それにもかかわらず、19歳~23歳人口が例外的に突出して多いのである。これはまさに大学町である。留学生も多いそうだから小京都ならぬ小ハイデルベルクである。
 高梁では街はずれに大学があるが、ハイデルベルクでは大学が街の中心部に溶け込むように位置していて、大学が街の活力の源泉となっている。高梁も近世以後の歴史的な美しい街並みがある。その中で大学生・教授・市民たちが交流する活力ある故郷の姿を、わたしは心に描いている。

 ところで、インターネットにgoogle streetというサイトがあり、高梁の街も登場する。遠くにいながら懐かしくも美しい故郷の街並みを、わが家の机上で散歩できる。そこにはわたしの生家の御前神社の鐘楼も見えるのである。便利なような味気ないような。

<わたしの生家があった御前神社鳥居・参道・鐘撞堂>google streetに登場


*注:小論は「高梁高校同窓会東京支部だより」(2010年7月)に掲載した。(2010/05/20記、掲載ウェブ変更20210901)

2021/08/17

sensou2000少年の日の戦争

少年の日の戦争
伊達美徳
(2000年)

●わたしも戦争を語る世代に 

 近ごろある人から、戦争を知っている世代に戦争を語らせて、インターネットで流そうという企画をたてたから、わたしにその語り部のひとりにとなれという話が来ました。商業目的でもなく行政でもなく、ボランティア仲間でやりたいのだそうです。
 わたしに戦争を語れとは、63歳にしてついに語る側の世代になったのだと感慨を深くするばかり。それがそう言われても、あながち的外れでもないとも、自分で思ってしまうのが困るような、当然なような。
 ちょうどよい機会なので、この際、戦争当時とその後のドサクサを思い出して、誰かに語るように書いておきましょう。実際にこれを他の人に語るかどうかはさておいて。

 わたしの敗戦時の年齢は8歳3ヶ月、その1945年8月15日の記憶は、小さいながら鮮明にあります。少年の目から見る戦争はそれなりにありますが、なにしろ生まれ育ったのが、世にも平和な備中の盆地の田舎町(岡山県高梁町)ですから、これまでの戦争体験を語る主流たる、都会型被災や引き揚げ型悲劇とはかなり異なります。しかし、大人のどたばたを見ていた、幼いながらもどこか冷めた少年の目で、田舎の戦争とその後始末を語るのも面白いかもしれません。

高梁盆地を北上空から見る

 少年のわたしが戦争からうけた最大の災難は、食べる物がなかったことです。遊びざかり育ちざかりで腹ぺこなのは悲惨なものです。わたしが生まれ育ったのは、町の氏神とされる神社の神主の家でした。その神社の所有する広い田畑が町の中の離れたところにあり、小作人に貸していましたから、戦争直後までは、多分、裕福だったのだろうと思います。
 境内にある神輿蔵の中には、 春夏の祭礼の神輿と並んで、大人の背丈よりも高い大きな小作米を入れる金属製タンクが二つありました。戦後の農地開放制度の施行で、その田畑を小作人に強制譲渡(低額でしかも長期割賦の債券でした)となった後は、蔵のタンクは空になりました。

 それからの飢えが、わたしへの戦争の与えた唯一ながらも大災害でした。田畑の代金の債券は、インフレでたちまち価値をなくしました。ある時、親から言われたお使いで、その一部を銀行に持って行き換金したことがありますが、それは少年のわたしのおこづかいになったのでした。こんな、いわば没落地主の側の戦争被害は、一般にはとりあげないでしょう。

●敗戦の日  

 戦争児童集団疎開の悲劇もよく語られます。ところがわたしは、戦争疎開者を受け入れた側なのです。わたしの生家の神社には、社務所という広い家屋があり、そこに兵庫県の芦屋市から小学生グループが疎開してきていました。
 よくある田舎の子にいじめられたという話の、いじめる側にいたのですが、その頃はこちらがまだ幼くひ弱で、むしろ都会の子に田舎の子として馬鹿にされる側でした。疎開中に芦屋市が米軍の爆撃を受けて親が死んだ子もいて可哀そうなことと、家族の話題にあったおぼえがあります。

 8月15日、敗戦の放送は、その疎開学級が持ってきていたラジオで聞いたのでした。ラジオも普及していない時代でしたから、近所の人たちも集 まってきて、社務所前の小広場で聞いていました。
  わたしは社務所の広縁の手すりにもたれてそれを見ていました。 もちろん、8歳の幼年にはなにが起きているかわかりません。だが、終わってから帰っていく大人たちの一様にうなだれた様子は尋常ではありませんでした。あの日の太陽の明るさと、 人々の暗さはわが脳裏に鮮明に刻まれています。
 それが敗戦だと知ったのは、その後での親たちの会話からです。飛行機がやってきてビラを撒いたが、それには放送は嘘だと書いてあった、なんて話もあったような気がします。 

●紀元2600年

 戦争が終わった日より前の記憶で鮮明なのは、1940年の紀元2600年祝賀行事です。世は太平洋戦争の始まる前夜の無気味な時期です。わたしが3歳のときで、多分、わたしの人生最初の記憶でしょう。
 西暦に660加えると紀元年になります。その頃は昭和の元号とあわせて使っていました。記紀にある伝説の初代天皇とされる神武天皇が即位したのが西暦にするとBC660年、それから数えてちょうど2600年です。

 今、21世紀が来ると世界で騒いでいますが、その時も日本だけはちょうど世紀の変わり目、つまり27世紀を迎えることになってのお祝いでした。 そのテーマソングである「紀元は2600ねーン、ああいちおくのおー、、」というメロディーを今も覚えています。大坂万博 の「こんにちわあ、こんにちィわあー」とどこか似たノーテンキ な雰囲気の歌で、そんな高揚した気分の時代だったのでしょう。

生家があった御前神社鳥居、参道、鐘撞堂 1994年撮影

 神社の参道の横に、時鐘をつるした高い塔のような鐘楼(鐘つき堂といって、今も建っています)があり、定時に鐘をついて時刻を知らせるのです。父は昼間ばかりでなく、夜中にも起きて鳴らしに出ていましたが、午前0時でしょうか。その鐘を、紀元年数に合わせて、2600回鳴らすという記念行事があったのです。
 3歳の子がそれがなにか知るわけはないのですが、大勢の人々が出入りして、ご馳走があり、鐘がなり響いて、騒がしかった記憶があります。氏子の人たちが交代しながら鐘をついていたのです。戦争前夜の頃の陽気なイベントでした。

1940年元旦2600回の鐘撞き記念絵葉書

 その鐘は、今は釣り下がっていません。ほとんどの金属類は兵器とするために、強制的に国家に提供させられましたが、その鐘も持っていかれたままです。戦争が終わった次の年の夏のこと、父と伯父がその鐘を探しに瀬戸内海の島に行くのに、わたしと従兄もついて行きました。直島というその島には、金属類を鋳溶かす精錬工場がありました。
 兵器になる間もなく終戦を迎えた無数の鐘の群れが、夏の太陽の下に野ざらしで居並ぶ風景はこどもの目にも異様で した。父と伯父は鐘の群の中を歩きまわって探していましたが、わが神社のそれを見つけることはできませんでした。従兄とわたしは船にも乗れたし砂浜で泳いだりして、記憶に鮮明に残るうれしい遠足の1日でした。

●父の戦争

 座敷の畳に伏して号泣している 母のかたわらで、途方にくれている幼いわたしがいます。母はこのとき、父を出征兵士として送り出し、駅頭での盛大な見送り行事から帰ってきたばかりだったのです。30歳を出たばかりの母の着物の色が明るく、それが夫を送り出す晴着だったのでしょう。 嗚咽に揺れる母の背中、その羽織の下に帯の結び目が盛りあがっていました。駅から家に戻りついた母は、羽織も脱がずに泣き伏していたことになります。

 その時、表に来客の声がして、わたしはほっとします。母は客に返事をして、今泣いていたことを言わないようにと、わたしに釘をさして出ていきました。客は母の親しい女性で、慰めにきたのでした。これは1943年12月のことでした。
 個人としての悲しみの深さと、それを隠さなければならな い社会への顔との相克に、幼いわたしでもさすがに気がつきました。父の見送り風景の記憶はおぼろです。駅頭のにぎわいが脳裏にあるような気もしますが、それは後に見た映画かテレビかのシーンかもしれません。

1943年12月26日父を太平洋戦争に送り出す日 家族親戚一同集合写真

 平和な田舎町に戦争は、空襲という形を見せません。ときたま、戦闘機の編隊が盆地の上空をかすめて、山の向こうに消えていきました。それでも飛行機から目立たないように、白壁土蔵に墨を塗った家もありました。

 出征した父の行き先は、隣の兵庫県姫路市にある有名な姫路城郭内にあった兵営でした。終戦まで国内に居たのですから、母の嘆きは幸いにも無駄だったのです。その兵営の父に面会に、母に連れられて行った記憶が、少なくとも2回あります。
 兵舎群に囲まれた中庭のようなところで、持っていった母の手づくりのご馳走を親子3人で食べました。桜の花が咲いていたような気がします。その食後でしょうか、親子3人で街を歩いているとき、突然、 父がピンと背を伸ばして、手を額に当てる敬礼をしました。街で上官に出会ったならそうしなければなら ないのです。またあちらを向いて敬礼、またこちら向いてと、これじゃ街を歩くのが大変だなあと思ったことでした。

 なお,わたしの記憶はありませんが、父はその前の満州事変と日中戦争にも兵隊として中国に出征しており、三回もの戦争から生還した強運の人でした。わたしに戦争体験を語ったことは全くありませんが、戦友会には出ていたようです。

1938年7月4日父を日中戦争に送り出す日の家族写真

1929年満州事変の中国石家荘、通信兵の父

●戻らなかった叔父

 母の末弟が結婚したのは1940年、にぎやかな婚礼は母の実家で行われました。嫁入り先の家で式をあげるのが、当時のしきたりでした。その夜はそこに泊まりました。花婿花嫁も同じ屋根の下でした。真夜中に起きだした3歳幼児のわたしが、お嫁さんを見たいといい出して、大人たちを困らせたと、今でも母と伯母の笑いぐさになっています。

 その叔父は、1944年に妻とその前年に生まれた娘とを残して戦争に行き、次の年にフィリピンの戦場に消えてしまいました。32歳でした。農婦として家と田畑を守り、父の顔の記憶がないひとり子を育てたその叔母は、母の生家に健在です。
 そう言えば、父母の親戚で戦争から帰らなかったのはこの叔 父だけですから、当時としては戦争悲劇が少なかったほうかもしれませんが、後に残された叔母と従妹の苦労は計り知れないものがあります。

 銃後の(戦地でない国内あるいは兵営の外をこう言いました)女たちも、間接に 戦争にかり出されていました。戦争末期にはもうガソリンが無くなり、松の根っこからとる油をつかうのだと、女たちは山に行かされました。ついていった幼いわたしは遊ぶだけでしたが、大きな松の木を倒すのも、重い根を掘り起こすのも、女たちには大変だったはずです。

 その頃は、戦争にかり出すために人口増加が必要であり、生めよ殖やせよ地に満てよ、というキャンペーンのもと、こどもを生むことは戦争時代の女たちの重要な役目でした。 わが家では42年と44年に、弟たちが生まれました。そのころは家に産婆さんがやってきて出産したので、産声を聞いた記憶がありますが、あれは下の弟でしょうか。
 わたしには幼く3歳で病死した2歳上の姉がいたそうですから、母は4人の子を生んだのです。 

●戻ってきた父 

 終戦も間近いころでしょうか、父と母が2ページしかない新聞を見ながら、こんな記事を書かいてよいのか、これじゃそろそろおしまいか、というようなことを話していたことが、妙に記憶にあるのですが、あれは父が姫路から休暇で一時帰宅していた時でしょう。時々姫路から、休暇とか出張途中とかで外泊に帰ってきていました。
 そのころはもう印刷用紙が不足しており、新聞社も合併をして一地方一紙となり、朝刊だけが一枚2ページでした。幼年時のことですから、新聞を読んだ記憶はありません。毎日、記事のほとんどは戦勝をつたえるものだったのが、その日は旗色の悪い戦況が載っていたのでしょう。

 戦争が終わりました。疎開学童たちも芦屋に帰って行きました。あちこちで男たちが帰郷してきたことを聞くにつけ、父がいつ戻ってくるか、待ち遠しい日々でした。生家は、神社の参道の長い階段の坂道の上にあります。毎日、坂下を眺めて父が登ってくるだろうと待ちました。
 ある日、本当に父が登ってくるのです。母に大声で知らせて外に飛び出し、抱きついた覚えがあります。それは母に聞くと、1945年8月31日だったそうです。終戦ほんの2週間目ですが、少年には随分長く待ったような気がしています。
 今考えてみれば、父母ともにその時35歳、肉親を失うのがあたり前の時代に、両親共に若くそろったのは幸せなことだっ たのです。 

●学校での生活 

 戦争教育については、国民学校低学年ですから、あまりそれらしい記憶はありません。修身の時間に校長先生が教室にやってきて、神話の話をしたような気がします。校庭で毎日の朝礼の時に、段の上に立った先生だか上級生だかが、モールス信号の機械で、なにか文を打ってみせます。分かった生徒は手をあげて答えます。もちろんわたしには手におえませんでしたが、今のクイズのようで面白く好奇心が湧いて、一生懸命に信号を覚えたものです。こうして銃後の少国民(これも当事の常套語)が育っていました。

 戦争が終わると、月に1回ぐらいの割合で、学級に編入生がやってきました。ほとんどが引き揚げ者、つまり中国や朝鮮半島からの帰国者のこどもです。今の残留孤児たちと同じになっていたかもしれない人たちです。
 転校生にはじめは違和感をもっていても、こどもはすぐに仲良くなりましたし、たいてい1年遅れでることもあってか勉強 もよくできて、田舎の子には刺激になりました。中には、親戚に縁故疎開でやってきて机をならべていたこどもが都会に帰って行き、あるいは親を失った子が都会の親戚に引きとられて行きました。

1950年高梁北小学校のある日の風景

 ある日、転校していった一人の女の子が何か事情があったのでしょう、1年足らずでまた舞い戻ってきました。その子がなんと東京弁らしき言葉を話すのです。たった1年でなんじゃい、きどるなよと、いじめにあいました。今思うと、田舎からの転校生が東京で馬鹿にされないように頑張った結果でしょう。向こうでもいじめられたのかもしれません。混乱期にあちこちと転校して大変だったろうと、かわいそうなことでした。
 高梁町の近くの美袋町の小学校に、満州の奉天(現在は中国東北地区の審陽)から家族とともに少女が引き揚げてきました。後にわたしの連れ合いとなる人です。

●食糧戦争

 戦後は飢えの時代です。幼い少年にとっては、実際にはここから戦争が始まったようなものです。小作米が入らなくなったので、配給だけでは生きていけない普通の家になりましたから、父母は食糧の調達に苦労をしていたようです。
 神社の広い境内広場は芋畑に転じ、竹薮のタケノコも春の食糧になりました。秋には大木の銀杏がたくさんの実を落とし、それも重要な食べ物でした。母の実家が農家でしたから、比較的恵まれていたのかもしれませんが、それでも空腹の日々でした。5人家族が食べていくのは大変なことで、親は食糧買い出しにいっていたようですが、こどもにはよく分かりません。

戦中は武道鍛錬の弓道場、戦後は芋畑だった神社境内広場 1996年撮影

 なによりも、神社の神主という職業自体がなりたたなくなって、収入の道がなくなった大問題があったようです。 教科書も給食も有料でしたから、学校へのいろいろな支払いについての親の態度で、わが家の経済状態が少年にもよく分かりました。数年後に父が高等学校に職を得るまでは、家計は大変だったようです。

 大人たちは、どこでもいつでも食糧調達の話ばかりしていました。それが大人の通常の会話なのだとわたしは思っていたのですが、伯父が誰かとの話に、こんな食い物の話ばかりして世の中困ったものだというのを聞いて、これは異常なことなのだと気がついたことがあります。
 ところが、食料調達の話は終った今も、戦後から続く大人の 話があります。住宅調達のことです。半世紀以上たっても住宅問題は本質のところで解決していなくて、いまだに戦後を引きずっています。奇妙なことです。

●空腹の日々

 小学校で給食が始まりました。脱脂粉乳を湯にとかしたミルクと、マイロ粉という輸入トウモロコシ粉のコッペパンがメインで、たまに干した果物がついたりしました。当時でも美味だったとは言えませんが、空腹のこどもには嬉しかったものです。多分、一番嬉しかったのは、一食分を食べさせなくてもよくなった親たちでしょう。
 わたしは栄養状態が悪くて、肝油という実にまずい栄養剤を学校から支給されて、のまされていたことがあります。衛生状態も悪く、廻虫という寄生虫にもとりつかれました。もちろんどちらもわたしだけのことではありません。

 空腹の記憶は、どうも恥ずかしいことばかりです。台所で飯釜に手を入れて盗み食いして叱られたこと、母の里お祭りのご馳走を腹一杯食べすぎて笑われたこと、弟のおやつを とりあげて叱られたこと、パン屋が実に横柄だったこと、神社のお供え物の小さな赤飯握り飯がうまかったこと、今思えばつまらないことなのに、傷のように覚えています。

 まともな主食はなくて、朝早く行列して買った水ぶくれこんにゃく、麦のほうがはるかに多いお粥、野菜たくさんの雑炊、薄いうどん粉団子のすいとん汁(団子汁といいました)、蒸したさつま芋(これはご馳走)などが主役でした。もちろん、これらが同時に食卓に並ぶことはありません。それも一人あたりの量がきまっていて食べ終わっても空腹でした。

 空腹なら動かなければよいのですが、幼い少年ですから空腹を忘れて飛びまわって遊び、遊び終わると突然の大空腹で、毎日、なにかたべるもんない~?と、親を困らせていました。どれも、供給側の親の苦労と比べると、消費側の些末なことばかりのようですが、少年にとってはいずれも重大で、あまり思い出したくないことばかりです。

 あの頃の親たちは、自分の分を減らし、時には食べないで、こどもに食べさせていたはずです。いま、日本の食糧の6割は輸入だそうです。発展途上国の人口爆発で、そちらに食糧が回される時代が近いうちに来ます。その時に日本はまた飢えるに違いないと、飽食の時代の中で心配しています。

●変わる価値観

 予科練帰りという言葉がありました。予科練とは戦闘機に乗る少年訓練隊だったようですが、戦争が終わってそこから帰ってきた若者は不良青年の代名詞でした。かれら17、8歳の少年が、軍人になって連合軍と闘うべく養成を受けていたのですが、敗戦でなすすべもなく家に帰ってきました。若くして死ぬべき人生の目標を突然失って、反対に生きなければならないことになり、そのあまりの大転換に幼い頭はついて行けず、自暴自棄の彼らは犯罪予備軍となったのでした。近所にもその青年がいて盗みや暴力沙汰を起こして、大人たちは、あいつには困ったものだと話していました。その後、どうなったのか知りません。

 その大人も実は価値観の転換にとまどって、右往左往です。小学校の教育のやりかたも変わってきました。教室の席の並び方が何度も変わった記憶があります。黒板に向いて先生の話を聞く授業から、みんなで話し合って考える方式に変わったらしいのです。ところが教師もよく分かっていないらしく、グループに分けたり、丸くならべたり、四角にしたりと、あれは実験していたのでしょうか。

 時には、教師が授業中に黒板に書きながら「こんなやりかたをしてはいけなんだけど、」と、弁解していた記憶があります。それは戦時中のやりかたで、これからはやってはいけないと教育委員会あたりからでも言われていた教育方法だったのでしょう。こちらにはどこがいけないのか分かりませんが、先生がこどもに弁解するのもおかしなものだと思ったので記憶にあるのでしょう。 

●墨塗り教科書 

 教科書が問題でした。教育方針が180度転換して内容を変える必要があるけれど、紙がないし印刷も間に合わない。とりあえず戦争教育の問題箇所を墨で塗りつぶして、使えるところだけで再利用しようとなったらしいのです。
 それまで使っていた教科書のあちこちの文章を、学校からの指示にしたがって、母と一緒に筆で黒く塗ってゆきました。その時にわたしが最初に思ったことは、これまで教科書は大切にして汚さないようにといわれていたのに、こんなことしてもよいのか、ということでした。 でもそれは、なんだか面白い作業でもありました。あちこち消すことで、終わりのペー ジまで読むことになり、ちょっと勉強した気になりました。

 消すところは国語に多くて、どういうわけか理科にもあったような気がします。消しながら、どうしてここを消すのか不思議に思ったところもありました。これはもしかしたら、母がそういったのかもしれません。
 次の年、印刷した新しい教科書がきましたが、それは製本してありませんでした。8ページ分が1枚になったままの数枚でしたので、それらを切りはなしてページ順にそろえて、自分流の表紙をつけて1冊の書物に作り上げました。なんだか自分が教科書を作ったような気がしました。いまだに製本デザインや編集が好きなのは、その時の後遺症かもしれません。

 戦争中もそうでしたが、その頃は学年の変わり目に、教科書を次の学年の子にゆずるのが普通でした。近所の家同士で誰のを誰にと約束をしていました。今で言うリサイクルですが、その頃の本当に物が無くてのリサイクルと、今のような物が余っていてのリサイクルとは、取り組みの真剣さに大きな違いがあります。

●占領軍と天皇

 いかにも戦争直後らしいこどもの遊びで、当時の日本占領国連軍幹部の名前を自分に付けて、互いにそう呼んでいたことを思い出します。マッカーサー、リッジウェイ、アイゼンハウアー、アイケルバーガーなど、当時の新聞・ラジオをにぎわわせていた軍人たちです。このなかでは、後にアメリカ大統領となったアイゼンハウアーが最も出世頭です。もっとも、私はこの遊びをどうも苦手で敬遠していました。

 占領された日本の影は、田舎町にはほとんどありませんでした。ときたま、それらしい外人がジープに乗ってやってきましたが、遠まきにみていただけで平和なものでした。
 1952年だったでしょうか、中学校の修学旅行で奈良に行きました。米軍キャンプが中心部にあり、日本女性(パンパンと呼ばれ た)と外人のカップル(アベックといった)をたくさん見ました。進駐軍とはこういうものかと驚きましたが、今思えば朝鮮戦争の最中で、国連軍として居たのでしょうか。
  引率の先生が、奈良公園の近くに行かないようにと注意していましたが、公園でキスするところを見たと大はしゃぎの生徒もいました。当時の田舎少年たちにとっては大事件でした。奈良公園は金網みの中だった記憶があります。基地を取り囲んでいたのでしょう。

 その時は京都もまわりましたが、国鉄京都駅が建て替えられたばかりで、蛍光灯の真昼のような明るさに田舎少年たちは驚いて見まわ したものです。その近代建築も今は建て替えられ、あいかわら ず修学旅行の田舎少年少女が見まわし、歩きまわっています。 

 昭和天皇が備中高梁駅を通過したことがありましたが、1946年だったでしょうか。専用列車の停車中に、駅ホームのお立ち台で群集に帽子を振る天皇の姿が記憶にあります。
 今思えば、あの当事に天皇が全国をまわるのは、その地位をわざわざ残した占領政策の重要なイベントだったのでしょう。明治政変後における明治天皇の全国巡幸とおなじで、政変のときに主役でなかったはずの天皇が出てくると、どういうわけか民衆は唯々諾々と事態を受け入れたのです。

●民主主義すくすく世代

 それまで市内にあった中学校は新制高等学校となり、別に新たな制度の中学校(新中といった)ができました。入学したころまでは、まだ戦後の混乱が尾を引いていたようで、1年生の時は新しい校舎が間に合わなくて、市内隣学区の小学校に間借りしていましたので、遠距離通学でした。といっても、田舎道を遊びながら、歩いたり自転車だったりと楽しいものでした。

 2年生から新校舎ができ、3年生頃は次第に高等学校受験体制が整ってきて、教育現場は定常化していきました。田舎町ではもう戦争の時代は完全に終わりました。
 それが50年代はじめ頃であり、その頃朝鮮半島で次の戦争が始まっていました。隣国の不幸な事件が日本に戦争特需景気をもたらし、敗戦のどん底から経済復興したのです。かの国を踏み台に、この国の繁栄かもしれません。

 わたしは、民主主義教育の実験段階の先端を行った世代です。民主主義を疑うことを知らず、実験段階から安定段階までを歩んで育ったので、自分たちを「民主主義すくすく世代」と、わたしは呼んでいます。この自称は、よい意味であり、自慢として言っているつもりです。 後にこの世代が、60年安保闘争の中心で、いわゆる安中派となり、高度成長時代を会社人間となって支えました。 

●ふるさとは今

 少年の日の戦争体験をしたふるさとの高梁盆地は、いまでは伝統的な町並みと古城のある、ちょっとは知られた観光地になっています。映画の寅さんシリーズに登場した街です。
 あたり前ながら、戦争の影はどこにもありません。あるいはもしかしたら、町家の白壁に空襲よけの墨を塗ったところがあるかもしれません。でも、誰も気にもとめません。

 生家の神社は、疎開児童のいた社務所もわたしの育った家も 建て替わりましたが、例の鐘つき堂は健在で、町の観光ポイントのひとつです。時の鐘を鳴らしようもなくなっていましたが、近年、奇特な方のご寄付で、プラスチック製の鐘と時の鐘の音を吹き込んだテープレコーダーが鐘楼に設置され、タイムスイッチにより定時に鐘が鳴るのだそうです。うーむ、便利なような、味気無いような、。 

 戦争教育を受けた小学校は、その昔に中学校が間借りしたもうひとつの小学校と合併して他に移転、現地には木造洋館の本館講堂だけが健在ですが、身分を替えて郷土資料館となっています。
 中学校は、戦後の混乱期に新制度に対応して、近隣の自治体と協力して組合立で新築したのに、今は別の場所に移転してしまって、その跡地は工場です。

今は郷土資料館になった旧国民学校校舎

 昔の高梁町は戦後に近隣村と合併して、今は高梁市といっていますが、その人口は3万人を切っています。最近は4年制の大学ができて、高齢者よりも若い世代が多いという、田舎町には珍しい人口構造になっています。 数年前に、ドイツのハイデルベルクを訪ねた時に、ここの地形や風景、町並みの構造が、高梁とそっくりなことを発見しました。今や形だけでなく、大学町であるというソフト面でも同じかもしれません。

上はハイデルベルク:1991年撮影 下は高梁盆地:1996年撮影

 わたしの同期生たちもそれなりに要職についたり、定年退職して地域づくりや福祉の活動をしたりしています。高校時代の国語教師を中心とする大人の塾があり、同期生が事務局長として企画する勉強会をしています。昨年のことですが、専門の都市計画について話をせよと、わたしの講演会を企画してくれたのでした。
 高梁を出てから43年、今はちょっと自慢したくなるふるさとです。どうぞ、おいでんせえ(いらっしゃい)。 

(完 2000年5月14日・偶然にも母の日にできたので印刷して母に送った)