●印:筆者生家の御前神社関係
西暦774年 ●御前神社が現在地に遷座(「御前神社明細帳」)
859 八幡神社創建
1004 近似稲荷神社創建
1240 秋庭三郎重信が臥牛山大松山に城を築く。このころは高梁川は盆地の東を流れていた。城主や家臣団は東や西の標高60m以上の山腹に住んでいた。
●御前神社と八幡神社が松山城鎮守社となる
1331 小松山に築城
1333頃 高橋九郎左衛門宗康が備中守護職に任ぜられて城主となる。高橋であった地名を松山と改名:「高橋又四郎、実名知れず、元弘正慶頃居城の由。これまでは松山を高橋といえり。これより松山と改む」(寛政2年(1790)年版 柳井重法編著「備中州巡礼略記」)。しかしその後も高橋の地名が一部に残り、松山川は高橋川とも言われた。高橋を高梁というのは文人墨客の風雅の慣わしであり、頼山陽に1819年に「七月十五日夜高梁川に船を泛かべる」という漢詩を詠んでいる。
1356 高師秀が松山城主となる
1362 秋庭三郎重明が城主となる
1442 ●御前神社の今の社領が決まる:「人皇四十九代光仁天皇(中略)社領のため永代古瀬庄を当て給ふ」(「御前神社縁起1442」)
●この頃は高梁川は御前神社のすぐ東前を流れていたとの記述。「御前神社祭礼次第/神馬員数ノ事/従太守六疋被奉引之/従上房郡三十二疋奉引之/於神屋 二十一日 御馬揃/神輿一鳥井之前一町大川之端奉安置之御前神主奉捧神馬於鳥井之前三度引廻云々/文安元年三月中旬/名方神主/宗時 書 判」(「御前神社縁起1442」)
高梁の町は高梁川西側の近似地区に開けていたらしい(東側が開けるのは1500頃か)
1509 上野頼久が松山城に入る
1533 庄為資が上野氏を滅ぼして松山城に入る。松山城をめぐり庄氏と三村氏抗争に毛利氏と尼子氏がついて戦う
1571 三村元親が庄高資をほろぼして松山城に入る
1574 備中兵乱、毛利軍が松山城をせめる
1575 松山城が落城、尾根小屋は炎上、三村元親が切腹、備前と備中は毛利の幕下となる。これより毛利と織田の覇権争いに。
松山城城代は天野五郎右衛門、桂民部大輔
1583 寺町に龍徳院建立
1592 内山下に正善寺建立
1594 和田に道源寺建立 松蓮寺建立
1600 毛利氏が関が原の戦いに敗れて松山領を失い、小堀新介正次が備中代官となって松山に入り、頼久寺を整備して陣屋とする
1604 小堀政次が急逝し作介政一が継ぐ、頼久寺庭園整備
1614 小堀政一が松山城を修理
1616(元和4) この頃に川の東に町が開ける:「新町本町元和二年に出来、下町・鍛冶町元和四年に出来」(「松山御城主歴代記」)
1617(~1618) 小堀政一が近江浅井郡に転出、鳥取から転封してきた池田長幸が松山藩主になる。
6万5千石の大名として大勢の家臣団を配置する都市計画。御根小屋下の高梁川と小高下川に囲まれる地区に本丁と川端丁を南北並行に設けて重臣屋敷地の内山下とし、出入りには4つの門を設ける。小高下側の南東山麓の御前丁、石火矢丁、片原丁、頼久寺丁、中之丁に家臣団上級武士の屋敷地。紺屋町川の南山麓に寺町、向丁、柿木丁などの士分の屋敷地、その他軽輩足軽には中間町、鉄砲丁
武家屋敷の外に町人の本町、下町、新町、鍛冶町
紺屋町川を城濠に見立てて番所や木戸を設ける
紺屋町川以北の家中屋敷を上家中、以南を下家中という
家中屋敷の町名は丁(ちょう)、町屋は町(まち)と呼ぶ
池田氏の家臣団人数は約400人
1621 ●御前神社は古くは小高下泉が丘にあったものを元和の初めに池田長幸が再建し、この年(元和7年)に現在地に奉還
1624 薬師院本堂建築
1639 水谷勝隆が下館から成羽に転封
1642 池田氏断絶、成羽から水谷勝隆が松山に転封5万石、この頃から小松山に築城、御根小屋完成、城下町整備
1643 松山城下の継舟制を定めた、新見ー松山ー玉島の河道完成
1648 松山踊りの地踊りが始まる
1650 新見まで河道を開く
1651(慶安4年)●御前神社に城主が時鐘を設置。その時鐘銘は以下の通り
「吾移住当城之後為教城下之士庶十二時候課干冶工鋳鳧金以奉納槨内御前大明神之賽前蓋知時即寺社不忘其勸矣時則四民不勤其業近境順法遠境効焉所冀天長地久国家安全除災與楽将来千億
慶安四歳次辛卯九月吉祥日
城主水谷伊勢守勝隆 敬白
冶工當国小田郡高草
惣領 彦之丞藤原守重」
1652 松山から新見まで高瀬舟が通じる
1655 明暦の大洪水で4・5mまで満水
1657 正連寺を奥万田から現在地に移設し本堂建築
1658 ●御前神社の時鐘制をしいた
1659 玉島新田開発、玉島築港、高梁川と結ぶ運河建設
1664 水谷勝隆が死んで隆宗が継ぐ
1670 南町を取り立てて牛市を開く、玉島干拓新田開発による牛馬の需要増。松山は流通拠点として繁栄
南町と高梁川の間に下級武士居住地の弓之丁・鉄砲丁をとりたて
1683 御根小屋および小松山の松山城を改築
1684 大火
1685 鍛冶町の南に東町を取り立て、城下町の形成ほぼ完成
1693 家中屋敷216軒、444人 水谷家断絶、
1694 幕府が姫路本多家に命じて松山領を検地、表高5万石が11万石に、百姓も藩政も窮乏
領内人口105210人、検地による松山城下百姓5603人(男2959人、女2644人)、藩士家族1974世帯6043人
浅野長矩が大石蔵之助らと松山に入り、松山城受取り
1695 上州高崎から安藤重博が新藩主として入封6万5千石
1711 山城国淀から石川総慶が移封
1721 享保の大洪水で3mまで満水
1744 水谷家退出時家臣屋敷338軒・338人、町家1148世帯・3597人(城下町概略世帯数1500戸・4000人)。
伊勢亀山より板倉勝澄が入国して藩主に、このとき2900人が松山に入国(藩士が増えて城下町人口7,000人程度か)
松山藩士子弟による松山踊りの仕組み踊りが始まる
1746 内山下に学問所
1751 城下大火
1756 城下大火190軒焼失
1768 城下大火88軒焼失
1793 八重籬神社創建
1830 八重籬神社を御根小屋馬場から移して現在地に建立
1831 学問所有終館を中之町に移す
1832 鷹匠町から出火、370軒消失
1836 大洪水・長雨で不作となり餓死者多数(天保の大飢饉)
1839 城下間之町から出火して600軒焼失、●御前神社も類焼
1849 板倉勝静が藩主になる、山田方谷を重用
1850 藩政改革7カ年計画はじまる
1853 鍛冶屋町取り立て
1864 ●御前神社社殿を焼失
長州征伐群に松山藩士も1958人が広島まで出陣(~65)
1868 朝命によりの備前池田藩による討幕軍に松山城を明け渡し、備前藩鎮撫使による統治
1869 板倉家2万石で板倉栄二郎勝弼が再興、高梁に地名変更、板倉栄二郎が高梁藩知事
1871 廃藩、高梁小学校創設
1872 郵便役所設置(鍛治町)
1875 岡山県となる
1877 ●御前神社拝殿再建(現存)
1878 上房郡役所、裁判所、高梁警察署設置、第八十六銀行設立
1880 風水害で近似から松蓮寺下まで浸水
1881 順正女学校開校、●御前神社本殿再建(現存)
1884 この頃、南町に芝居小屋「高楽座」
1886 風水害で3m余の浸水、死者十数人
1889 高梁町となる(人口5612人、1209戸)
高梁キリスト教会会堂建設
1893 風水害で片原丁・石火矢丁のほかは浸水、水深3m
1895 高梁中学校開校(向町の安正寺内)
1896 順正女学校校舎建築(現存の順正寮)
1900 高梁中学校校舎が御根小屋跡に完成
1904 高梁小学校本館建築(現郷土資料館)
桜を高梁川沿いに植えて名所の桜土手となる
1911 高梁町人口6681人、1561戸
1918 米騒動が高梁にも波及し難民救済活動
1925 高梁町人口6207人、1422戸
伯備線備中高梁駅開設(この年の乗車人員143千人)
1926 伯備南線が開通
1928 伯備線が全通して山陰と山陽が結ばれた
1929 高梁町と松山村が合併して人口約10000人(旧高梁町6500人、松山村3500人)、約2000戸
1930 栄町など駅周辺の市街地が形成
1933 南町の高楽劇場が焼けて栄町に高梁劇場を建設
1934 室戸台風大水害で町の2100戸中1500戸浸水(床上1278、床下254)、死者26名、流失家屋54戸、倒壊家屋47戸、おおむね海抜70m以下は浸水、方谷橋流失、山際の寺社群は無事、●御前神社も避難所となり炊き出し
1937 日中戦争に400人余徴兵、戦死者も出て、この年から松山踊り中断 方谷橋が鉄橋で再建完成
1940 備中松山城を修復(天守、2重櫓、土塀)
●御前神社の時鐘を軍事供出、290年の時鐘の響きが絶えた。瀬戸内海の直島にある三菱精錬所に運ばれた。(1945年夏に直島を捜索すれど不明にて溶解されて兵器になったか)
1941 松山城が国宝指定(戦後に重要文化財に指定替え)
1943 備北バス会社設立
1945 神戸、芦屋から学童疎開、芦屋市精道校から御前神社に初等科6年女20名と職員1名、頼久寺に学童男女143・職員8、金光教会に女21・職員1
1947 全国巡行中の昭和天皇が備中高梁駅前で町民を激励
新制高梁中学校開校(校舎は当初は松山小学校、48年新校舎)
1948 高梁商工会議所設立
1949 高梁中学校と順正女学校を合併して高梁高等学校
1954 高梁市発足直前の人口12722人、3000戸
5月、近隣9町村と合併して高梁市となり人口34275人、
1955 中井村を合併、人口37030人、7340戸
人力車が姿を消した
1958 市庁舎完成
1960 松山城解体修理
1963 駅前貫通道路完成
1967 順正短期大学開学
1969 都市計画道路高梁駅柿木町線(城見通り)着工、国道180号改良工事を川端町付近で開始
1970 高梁北・南小学校統合
1971 風水害、伊賀町の順正短大の音楽教室全壊、伯備線が不通20日間
1972 旧高梁北小学校本館を郷土館として保存決定。高梁小学校が新校舎に移転。
集中豪雨災害。高梁大橋完成。国道180号を4車線に拡幅
1973 伯備線が高梁岡山間を複線運転開始、高梁大橋架橋
1974 頼久寺庭園が重要文化財名勝指定、岡山県が「石火矢町ふるさと村」を指定
1985 国勢調査による都市計画区域人口18350人
1990 国勢調査による都市計画区域人口18387人
1995 国勢調査による都市計画区域人口18928人
奥万田地区地区計画決定
2000 国勢調査による都市計画区域人口18845人、その内盆地人口約11000人
2005 国勢調査による都市計画区域人口18607人、その内盆地人口約11000人
(参考資料:「高梁市史」1979ほか) (2012年作成 伊達美徳)
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