京の名刹「法然院」の謎(上巻)

京の名刹 法然院の謎
方丈の建築と襖絵の出自を探る
(上巻)

まちもり散人

(2015年2月20日掲載、2016年8月「はじめに」を追加掲載)

目 次

(上巻)

1.法然院公式サイトの方丈に関する紹介文が不自然だ
2.上皇のお姫様御殿を探し江戸初期の御所に分け入る
3.八百姫御殿古絵図面と現代法然院方丈平面図を比較

(下巻)
4.「桐ニ竹図」は330年前は違う姿でお姫様の部屋に
5.法然院方丈の襖絵の画家は狩野光信ではなくて時信か
6.襖絵画家を狩野光信から孝信に変更する動きについて


1.法然院公式サイトの方丈に関する紹介文が不自然だ

 京都東山の鹿ケ谷に「法然院」という由緒あるお寺がある。美しい風景の寺だ。鎌倉時代の初めに、浄土宗開祖の法然上人がここで修業したことにちなんで、1680年に念仏道場建立をはじめたと伝える。
 法然院の方丈は、江戸時代の京都御所の御殿を移築した建物と伝えられ、そこには重要文化財指定の襖絵「桐ニ竹図があることで有名である。作者は狩野光信とされている。

京都東山鹿ガ谷の森の中にある法然院(右上が方丈)


 2015年3月7日にBSフジTVで「法然院と知恩院なる番組の放送があったのを、懐かしく観た。わたしは1960年の夏に、法然院方丈を訪ねたことがある。
 わたしは大学の卒業研究として、京都のあちこちの寺院を訪ねて、京都御所から移築されたと伝える建物を調査した。そのひとつにこの法然院の方丈もあった。その成果は、『遺構による近世公家住宅の研究』(東工大卒業論文)であり、、その一部を「法然院方丈について」(日本建築学会論文)として発表した。

 このときの調査研究で、法然院の方丈の建物は、後西天皇(1638~85年、在位1654~63年)が上皇となっての仙洞御所の一部であると特定できた。つまり1675年延宝度造営の後西院御所の一部である皇女の八百姫御殿を移築したものであった。

 
ところが、そのBSフジTV放送では、ナレーションがこう語った。

 1680年、忍徴が寺院造営に着手しました。まずは浄土宗の信仰対象、阿弥陀如来を祀るための本堂を完成させます。そして伏見城にあった御殿を移し、方丈にしました。方丈の外観は素朴なたたずまいですが、中に入ると絢爛たる障壁画が迎えてくれます。織田信長や豊臣秀吉に重用された狩野永徳の子、光信の筆とされる作品。華やかな輝きが桃山時代の息吹を感じさせてくれる名作。

 法然院の方丈は「伏見城にあった御殿を移し」てきたものという。伏見城は豊臣秀吉の居城でありここで死んだのだから、江戸時代よりも前である。
 おやおや、これではわたしの研究成果の江戸時代1675年建設の建物とは異なるのである。困ったことになった。そこで研究論文をほこりを払って取り出して読み返し、ついでにあれこれ調べてみることにした。

 まずは法然院のインタネット公式サイトを見ると、方丈について次のように記している。

1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである。狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている。

 ここにある「もと伏見にあった」の伏見とは、TV放送に言う伏見城のことであろう。 御西天皇は江戸時代の人であり、1638年に生まれて1685年に没している。だから「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]」の記述だと、天皇も皇女も誕生以前に御殿があったことになる。そんなはずはない。

 この矛盾をどう考えるか。例えば、1595年にできた伏見城にあった建物を、後の「後西天皇の皇女の御殿」を造営するときに移築してきた、そして更に1687年に法然院に移建したと考えるのか。御所造営は幕府の仕事だったが、たとえ皇女の御殿であっても新御所の造営に古家とか古材を使うことは考えられない。伏見城から移築はありえないだろう。

 当時は天皇の代替わりごとに、江戸幕府が天皇と上皇のそれぞれの御所を新たに建てなおしていた。後西院御所もまさにそれである。
 そしてそれまでの御所建築が不要になるから、あちこちの寺社等に移築していた。だからわたしの研究は、今も使われているそれらの建物を調べることだったのだ。

 ここで伏見城のことを調べてみる。

 法然院サイトにある1595年の伏見城の建物とすれば、1594年に完成した指月伏見城のことになる。この城は豊臣秀吉が隠居後の住まいとするために建設したのだが、完成直後に慶長伏見地震で倒壊した。

 そこで北東に1キロほど離れた位置に木幡山伏見城を新たに築いて1597年に完成、秀吉は翌年にその城内で没した。指月伏見城は地震倒壊したが火災は起きなかったようで、木幡山伏見城に移築再利用した建物もあったと伝わる。法然院サイトによれば、後の法然院方丈となる御殿はそのひとつということになるのだろう。

 秀吉の死後は德川家康率いる東軍と、石田光成が率いる西軍との東西国内戦争となり、1600年8月、東軍の攻めにより木幡山伏見城は炎上落城した。しかし、法然院サイトによれば後の法然院方丈となる御殿は、このときも幸運にも焼け残ったことになる。

 翌年から德川家康が伏見城の再建をはじめ1602年に完成した。德川家康はここを本拠とした。その後、秀忠、家光による修築などあったが、1623年以後は廃城となり、多くの建物は破却や移築された。その記録があり遺構も現存する。例えば天守は京都の二条城に、他には福山城、淀城、諸寺院等に移築された。
 法然院サイトによればそのひとつに、後に法然院方丈となる建物があったことになる。地震も火災も破却も奇跡的に逃れて生き残った奇跡の建物である。

 だが、法然院に移築された建物は法然院サイトによれば「後西天皇の皇女の御殿」だから、伏見城からいったん皇女御殿に移築され、それから1687年に方丈に移築されなければならない。その伏見城から京都御所に移築された年については、法然院サイトに書いてないし、いつであるか不明である。
 しかし、わたしの研究で分かったように、後西院御所は1675年造営だから、伏見城からの移築されたとすればこの前後だろうといえるかもしれない。

 ところが実は、このときの後西院御所は2度目の造営なのであった。後西天皇は1653年に退位して上皇になる。この時に新築した後西院御所に姫君御殿もできた。法然院サイトによれば、これが伏見城から移築した御殿かもしれないことになる。
 だが10年後に御所は火災焼失し、1675年新造営されたのだ。法然院サイトの言うように、方丈が伏見城の遺構であった皇女御殿の移築であるとするなら、このときも焼け残って、それをまた1687年に法然院に移築したことになる。

 つまり法然院サイトによれば、その方丈の建物は、1594年頃に指月伏見城に創建され、1594年の大地震に耐え、1597年に木幡山伏見城に移築、1600年落城の戦火に耐え、1623年の廃城時の破却からも逃れて、1653年後西院御所に移築、そこでも1663年の火災に耐えて、1675年造営の再建御所の中に移築、1683年に法然院方丈として移築したことになる。奇跡の建物である。

 ここで、方丈にある重要文化財の襖絵作者(とされている)狩野光信のことを調べる。
 狩野光信は1565年に生まれ1608年に没している。
 法然院サイトの言う「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]」にある1595年には光信は30歳である。伏見城で障壁画を描いて、その中に後に法然院方丈となる御殿もあったのだろう。年代的に光信作でありうる。

 だがその襖絵は、伏見から90年もの間のたびたびの災禍や引っ越しにも、燃えることなく破れることなく流転に耐えてきたというのも、不思議である。もうボロボロになっていたに違いない。
 しかしはじめに述べたように、後西天皇の年代と伏見城の年代は矛盾するのであり、襖絵が後西天皇の姫宮御殿とすれば、その造営時1673年には狩野光信は既にこの世にいなかったから、襖絵を描きようがない。この襖絵は光信ではなく他の画家の作に違いない。
 
 面白くなってきた。まとめて年表にする。

  1565年 狩野光信出生
  1595年 後西天皇の皇女の御殿を伏見に建設(法然院サイト 
  1596年 指月伏見城完成
  1597年 地震倒壊により木幡山伏見城完成
  1600年 木幡山伏見城が落城炎上
  1608年 狩野光信没
  1638年 後西天皇出生
  1653年 後西院御所造営
  1673年 後西院御所火災により再建
  1687年 伏見の後西院御所姫宮御殿を法然院に移築(法然院サイト

 これが「京の名刹法然院の謎」物語の始まりである。わたしはこの謎解きに挑もうとしているのだ。
 〇法然院の方丈の建物は、本当に伏見城から移築してきたのか
 〇
法然院の方丈の建物は、本当に御西院皇女の御殿だったのか
 〇法然院の方丈の襖絵は、本当に狩野光信作なのか

 わたしの研究で、この法然院方丈となった姫宮御殿の設計図を発見し、1675年に新築されたことを突き止めたのである。だから伏見城からの移築ではない。
 新築だからその時に襖絵も描かれたが、狩野光信は1608年に死んでいるから、光信の絵ではない。

 では法然院方丈の出自は何か、襖絵画家は誰か。


2.上皇のお姫様の御殿を探して江戸初期の御所に分け入る

 さて、法然院の方丈について登場する人物、建物、襖絵についての謎を、どうかんがえようか。ここからは建築史を勉強している(正確には、いた)わたしの研究論文によって話を進める。と偉そうにいっても、実は研究室の教授、助手、先輩たちの手とり足とり指導の結果であるし、ここに書くための素人にわか勉強もあること白状しておく。

 天皇家のお姫様なんて、江戸時代はどこに住んでいたのか、公家住宅の歴史を研究しているのだから、皇女の御殿のありかを探ることから始める。
 後西天皇(1638~85年、在位1654~63年)には、わかっているだけで第十六皇女、第十皇子までもいたそうだ。女御との間には1男1女、その女御から1654年に生まれた第一皇女は八百姫と言い、誠子内親王とも清浄観院宮ともよばれた。1686年に没した。この八百姫というお姫様に狙いをつけよう。

 法然院方丈の前身が、後西天皇の皇女八百姫の御殿ならば、どんなに早くても、彼女が生れた1654年以後に建ったはずで、法然院サイトにある1595年は無理である。
 そしてその御殿が法然院に移築されたとすれば、当然のことながら、それが不要になったからだろう。つまり、いつか分からないが八百姫が御所から出ていったか、あるいは没した移築は1686年以後のことだろう。

 後西天皇が退位した1653年に八百姫はまだ9歳だから、その御殿は天皇の住む内裏のなかではなくて、退位後に上皇となって住む仙洞御所の中にあっただろう。その後西院御所の中を探そう。

 後西院御所は、退位の1663年に内裏の南側に建てられた(寛永度造営)が、10年後の1673年に焼失した。またすぐに1675年に再建され(延宝度造営)たが、その10年後の1685年に後西院が没した。
 そしてこの延宝度の後西院御所は取り壊され、各所寺院に移築されたことが各寺伝や学者によって既に分かっている。例えば京都山科の勧修寺とか、さらにそこから移築された伏見の大善寺などである。

 このときに八百姫の御殿も法然院に移築したと推測して、その延宝度後西院御所の中に、八百姫の御殿があるかどうか探すことにする。
 宮内庁書陵部には、当時の頻繁な火災で何回も建て替えられた御所の設計図を数多く所蔵している。そのなかに後西院御所の延宝度の図面(指図、1674年)もある。

 皇女の御殿は「姫宮御殿」と指図には記されるので、それをこの図の中に探すと、あった。 姫宮の名は書いてないが、女御御殿に接しているので、内親王のうちで女御の唯一の娘である八百姫の御殿と考えてよいだろう。 その平面図を写したものが下図である。元の図は1間を4分に縮尺(1/150)して書いている。木造建築だから基本は1間(ここでは6尺5寸、約2m)をベースにしているから規模は分かる。


 この姫宮御殿が法然院の方丈に移築されたのなら、平面的に類似しているに違いない。 法然院方丈の現況の平面図はこの下図である。これは1960年夏の実測調査をもとに、わたしがトレーシングペーパーに鉛筆で描いた懐かしい図面である。

 部屋にはすべて畳が敷いてあるから、広さの見当がつくだろう。周りはぐるりと板張りの落縁が巡っている。上の間には壁に絵が描かれた床の間と違い棚があり、ここと次の間の襖には絵が描かれ、狩野光信作と伝える。金泊の地だから描かれた頃はまばゆかっただろう。

 さてこの二つの図のどこが類似しているか。
 ねらいはどちらの図面でも、最も中心的な部屋のあたりの間取りである。中心的とは床の間があり違い棚があり、襖や壁に絵が描かれているあたりだ。移築の時に必要な間取りに変えることは多いが、格式を重んずる部屋のあたりは移築の時もあまり変えないで建てるものである。
 よーく睨んで、それを読み解く作業をこれからやるのだ。

 実は八百姫はこの御殿で没していたことが分かった。古図の中に「女御御殿方取抜」と註をつけたもの(「新院御所 院女御御指図)があり、薨去の後に女御御殿が姫宮御殿も含めて取り壊されたことを示している。
 その時期は分からないが、薨去の1686年からそう遠くない時期であるだろうし、それが法然院へ移築されたなら、法然院の公式サイトにある1687年が符合する。

 頭がこんがらかってきたので、年代順に整理する。
1595年 後西天皇の皇女の御殿が建った法然院サイト
1608年 狩野光信没
1638年 後西天皇誕生
1654年 後西天皇即位、第一皇女八百姫誕生
1663年 後西天皇退位し後西院上皇に、後西院御所を造営し姫宮御所も建設
1673年 後西院御所が焼失
1675年 後西院御所を再建造営して姫宮御所も再建
1685年 後西院上皇没
1686年 八百姫没
1687年 後西天皇の皇女の御殿を法然院の方丈として移築法然院サイト(法然院サイト)

3.八百姫御殿古絵図面と現代法然院方丈平面図を比較

 この1674年の姫宮御殿の設計図(指図)平面図と、現存の法然院方丈の平面図(1960年にわたしが実測して作った)とを比較してみよう。はたして似ているところがあるだろうか、どのように移築して現在のようになったのか。全く似ていなければ前提条件から崩れてしまう。

 現代の法然院方丈(以下「方丈」という)の中心部は上の間であり、10畳の広さに床の間と違い棚があって、襖や床棚の壁には絵が描かれている。実に立派な作りである。
 襖を隔ててその隣は10畳の次の間があり、ここにも襖絵がある。



 延宝度の姫宮御殿(以下「御殿」という)の指図に、「姫御殿 四間 六間」と記入のあるあたりが、10畳の間であり、床の間と違い棚があるから、ここが八百姫の部屋であろう。
 現代の方丈の上の間と同じである。隣には、現代の次の間に相当する10畳の部屋もある。その両側には広縁があって、これも現代の方丈と同じである。このあたりにちがいない。近づいてきたぞ。

 方丈と御殿の両方の平面図の中心部を白抜きにして示し、柱位置に記号を付けた。この白抜きの部分の方丈と御殿とは、ほぼぴったりと符合する。つまり、方丈は御殿の南北についていた差出と西側(床の間の裏)の広縁を取り払ったものである。


(上は姫宮御殿指図、下は現代の法然院方丈の平面図 白抜き部分が符合する)

 1960年の実測の時に発見して確かめたことだが、現在の方丈の畳縁外側の落縁の柱には、かつて指出の木材が差し込んであったことを示す穴の跡に埋め木がたくさんある。つまり移築前は、畳縁よりも外に建物がくっついていたことを示している。

 上の間と次の間の柱位置は、御殿のそれとほとんど一致するのだが、実は2本だけ異なる位置にある柱がある。方丈のD柱と御殿のE柱、そしてS柱と御殿のT柱である。普通に考えると同じ位置にあるはずだ。

 方丈では、D柱はC柱から1間、F柱から1.5間の位置に立っている。ところが、御殿ではこれに相当するE柱が、C柱から1.25間、F柱からも1.25間の位置にある。すなわちD柱はCとFのちょうど中間にある。

 御殿のT柱についても、方丈ではR柱方向に御殿よりも1/4間(約50センチ)ずれて、Sの位置に立っている。つまり方丈のDとSの2本の柱は、御殿の設計図のそれぞれEとTの位置から次の間の方向へ1/4間ずれて立っているのだ。

(分りやすく表現するため上の2図面を重ねてGIFアニメーションにした。

 これはどういうことだろうか。移築にあたって1/4間だけC柱側、R柱側に寄せたのか、それはどんな理由でずらせたのか
 あるいは、移築前御殿が設計変更して既にこうだったのか。

 例えば、この御殿の主となる八百姫は当時20歳、その前に居た寛文度造営の姫宮御殿が焼けて、新しく建てなおすのだから、当事者としてなにか注文つけたかもしれない。『前の御殿は畳の線と柱の位置がずれていて、なんだか気持ちわるかったのよ、今度はちゃんとしてたもれ』なんて。

 いやいや、移築してきたのは実は御殿じゃなくて別の建物だったかもしれないとの、疑惑も湧き出るだろうなあ。
 では現地で見ればなにか分るかもしれない。そこで現地実測調査(1960年)の時の観察や写真が役に立ってくる。思い出せばあの夏、研究チームは京都の旅館に泊まって、毎日あちこちのお寺に出かけて、御所から移築されたという建物を実測したものだった。祇園祭の山鉾行列もその時初めて見たなあ、見物客の中に美少女がいたなあ、寺で昼寝したなあ、ああ青春の夏のこと、なんて感傷に浸っていては謎解きが進まない。閑話休題。

 部屋の中の移動した柱のあたりのモノクロ写真をみよう(下図)。これは1960年実測調査したときに撮った方丈の上の間で、右が床と違い棚があり、左の方には竹の絵の襖があり、更に次の間がある。ここに見えるのは狩野光信作とされる「桐ニ竹図」の襖絵である。


 写真の上下に記入したローマ字は、平面図(下図)の柱記号であり、各柱はこの位置にあたる。つまり、御殿ではEの位置にあった柱が、方丈ではDの位置にあるのだ。

 写真の上下に記入したローマ字は、平面図の柱記号であり、各柱はこの位置にあたる。つまり、御殿ではEの位置にあった柱が、方丈ではDの位置にあるのだ。
 ここでこの桐の襖絵のEにあたる位置に縦に線が入っており、その右と左とでは絵の濃さも調子も違うことにご注意を!。右の襖にも何本かの縦線が見えるが、なかでも一番左の線が目立つ。

 襖絵は最初に描いたときからこうだったのか。これは何かを物語っているぞ、謎解きの楽しみが始まった。 (下巻に続く)

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