京の名刹 法然院の謎(上巻からつづく)
京の名刹法然院の謎(下巻)
4.「桐に竹図」は330年前は違う姿でお姫様の部屋に
謎解きは佳境に入ろうとしている。法然院方丈は、17世紀の後西上皇のお姫様の御殿だったものを、御所から移築してきた建物らしい。どちらの平面図も中心部分は酷似しているが、2本の柱だけが位置が横にずれている。(下図の赤い矢印の柱)
そのずれた柱の1本の左右には襖があり、重要文化財となっている「竹ニ桐図」が描いてある。右は桐の図で幅1間半、左は竹の図で巾1間である。
次のモノクロ画像は、1960年卒業研究の現地実測調査の時に撮った写真と、そのほかの文献をもとにして、上之間の「竹ニ桐図」の全部を合成、修正、切り貼りして、わたしが作った。現在の「桐ニ竹図」の襖はこのように入っているのだ。
右(D―F間)の2枚の襖の「桐の図」の内、左の襖のEの位置に縦に明瞭に見える絵の継ぎ目がある。継ぎ目の位置は、左のD柱からから0.25間(約50センチ)であり、移築の前の柱Eの位置にあたる。
その継ぎ目から左D-E間の絵は、色が濃いし、右とつながりが不自然であることは、素人でもわかる。切り張り継ぎとか、描き足した感じである。
では、上之間の柱Dを、移築前のようにEの位置に戻したらどうなるか、襖絵復元をしてみることにした。つまり、御殿から方丈へ移築の時の作業の反対をやるのだ。コンピューターの画像の上で、あれこれやっていると結構楽しい。襖絵の偽造画家になっている気分だ。
このときに右の襖の左の方の縦線が、真半分の線と一致することが分かった。つまり移築前の襖はここから左右に2枚だったのだ。
次は柱Dの左の一間巾の「竹ノ図」襖の処理である。現在はC―D間2枚の襖として入っている。Dの柱をEに移すと1.25間巾に広がる。これを真半分にした竹の図にしなければならない。
「桐ノ図」では、いまある図を切り取ればよかったが、こちらでは今は存在しない絵を復元しなければならない。現在の竹の図を観ると、襖の合わせ目の中央に竹がより過ぎて、いかにもせせこましい構図になっている。
これは移築の際に、2枚の襖の合わせ目の側をそれぞれ切り取って、狭くなった襖に仕立て直したに違いない。では、まず合わせ目の側を空白にしてみる。(下図)
まあ、そういうことで、とりあえず、後西天皇の皇女の八百姫が、21歳から36歳で没するまで、眺め暮らしていた襖絵はこうだったのだろうと、法然院方丈上之間襖絵「桐ニ竹図」を330年前の姫宮御殿時代の姿に画像復元してみた。
では、現在の法然院方丈襖絵と移築前のオリジナル襖絵(復元図)を並べて、比較して見よう。両図とも、インターネットから拾った画像を合成修正して制作した。
こうやって見てきて、法然院方丈の襖絵は柱の移動のために仕立て直したことが明瞭に分かった。では襖に移動した跡があるのだから、建物にもそれらしい跡があるはずだと現地調査の時に詳しく観察した。
上之間のD柱が、横に4分の1間(約50センチ)ずれる前のEの位置、つまり桐の図の継ぎ目あたりの敷居、鴨居、内法長押、天井長押などを、上から下までしげしげと観察する。
あった、見つけた。一番上の天井長押のEの位置に、かつて柱がついていた痕跡があるのだ。天井長押はもとの材を使っているのだ。襖と長押に同じ位置(E)に痕跡があるということは、建物と襖絵とは同時に移築してきてどちらも仕立て直したと考えて間違いない。
では、方丈の次の間につづく、食い違いになった田の字型の4室はどうなのか(方丈平面図参照)。これらは上の間、次の間とくらべて、作り方のレベルが低く、襖絵は墨絵である。御殿の絵図にはこれにぴったりと符合する場所は見つからない。
この部分の実測もしたのだが、各柱の太さ寸法とその面取寸法が、襖絵のある中心部と同じであった。柱の寸法は、当時の御所建築の基本的となる尺度であり、同じ建物なら同じ寸法であるから、こちらも姫宮御殿の材を使って建てたと考えてよいだろう。
これで建物と襖絵の出自は、いちおう明確になった。
延宝度の造営時に指図から設計変更して柱の位置をずらしたのではなくて、法然院に移築時にずらしたのであった。移築時にずらせてくれたおかげで、建物と襖絵が同時に移築されたと分かり、襖絵の描かれた時点もわかった。
整理すると、1675年に後西院御所に建てた姫宮御殿を、1685年に後西院が没し、1686年に八百姫が没した後に、法然院の方丈として移築したのである。
移築の年は、法然院では1687年としている。その時に襖絵も一緒に移築された。
5.法然院方丈の襖絵画家は実は狩野時信か
さて、ここからがいよいよ襖絵の出自の核心部分である。
この建物と襖とは、1675年に後西院御所を再建したときに建てた姫宮御所であるから、襖絵もその時に描かれた。ではその画家は誰なのか。
法然院に移築された姫宮御殿が建った1675年の仙洞御所の延宝度造営に関する資料に、その造営の助役にあたった岡山池田藩に伝わる文書(「延宝度新院御所造作事諸色入用勘定帳」岡山大学図書館池田文庫蔵)がある。池田家はこの造営の深くかかわっていたのである。
その文書の中の「絵筆功代」に、これに携わった絵師として永真、洞雲、右京、内匠という4人の名が記されている。これ以上詳しい記述はない。
ひとりめの永真とは、狩野安信(1613~1685)で、光信(1565~1608)の甥である。光信は徳川家御用絵師狩野派の家系で狩野宗家の5代目にあたる。永真は光信の子の定信の養子になって、狩野宗家を継いだから、光信から言えば義理の孫にもあたる。
ふたりめの洞雲とは、狩野益信(1625-1694)で、光信の弟の孝信の孫にあたり、駿河台狩野家を起した人である。
3人目の右京とは、狩野時信(1642-1678)のことで、狩野安信の子である。そして4人目の内匠とは、狩野家の門人筋のひとつである築地小田原町狩野家の狩野秀信で柳雪と称した。
これらのうちの誰かが姫宮御殿の襖絵を描いたことになる。
ところが21世紀の現在、この襖絵は狩野光信の作とされている。だが光信は1608年に没したから、この姫宮御殿が最初に建った、つまり光信は襖絵が最初に描かれた1675年にはこの世にいない。作者ではありえない。
光信がこの襖絵の作者でないとすれば、だれか。上にあげた4人のうちに、右京と称した狩野時信がいる。実は時信より2代前の狩野光信が右京と称していた。後世になって混同を避けるために、光信を古右京というようになる。
ということは、この襖絵の作者は右京時信なのだが、それを単に右京と伝えているうちに、右京光信と混同してしまったのかもしれない。もちろん推測の域を出ないが、この世にいなかった光信よりも、そのとき62歳であった時信の方が、ここでは矛盾がない。
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狩野派系図 |
襖絵がつぎはぎになった原因は、移築の時に柱位置を移動したからである。それに合わせて仕立て直した襖は、どうも不様になったことは否めない。
では、なぜ柱を移動したのか、これも推測するしかないが、次の間とそろえたかったのかもしれない。しかし次の間を変えずに、格が上位にある上の間のほうを、襖絵が不様になっても変えたのは、何故だろうか。
木造だから建築技術的には柱の移動をどうにでもなるから、なにか当時の家相とか禁忌とかがあったのだろうか、それは謎のままである。
ふたたび法然院公式サイトの歴史のページを覗く。
1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである。狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている。
この「伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)」とは、後西天皇も皇女もどちらも生まれる前に、その御殿が伏見に建っていたことになる。ありうるか。
わたしの研究成果は1961年建築学会論文として公表しているから、その成果と異なるこの法然サイトの内容は、それ以後の研究による知見であろう。実に興味深く、ぜひとも詳しく知りたいものである。
なお、この襖絵が光信の作であろうと時信の作であろうと、重要文化財指定になるほどの重要な美術品であることを、わたしは否定するものではない。光信作と伝えてきたことも文化史のひとつである。また、当初の襖絵を移築の際にきりばりつぎはぎしたので、今の襖絵は不自然であることをもって、復元するべきと思っているのでもない。つぎはぎから300年以上にもなることも、また重要な文化史である。
東京駅の赤レンガ駅舎のように、戦争とそこからの復興という歴史的な姿を捨てて、当初形態への復元こそが正しい歴史文化の継承であるとする現今の文化財感には、わたしには大いに疑問がある。
ということで、大学時代の昔へ、更に17世紀の京都へとタイムマシーンにのって旅してきたが、また21世紀に戻ってきた。わたしの1960年の卒業研究論文の一部をもとにした古建築探偵エッセイはおしまいである。
ここでは謎の解明は完全にはできなかったが、実は今ではもう解明されているのかもしれない。それならだれか教えてほしい。
(ここまでは2015/02/20新規掲載、2015/03/0補綴、2016/08/11「はじめに」追加掲載)
6.襖絵画家を狩野光信から孝信に変更する動きについて
(2016/10/14追記)
・狩野孝信説が登場するも矛盾
2015年から、方丈襖絵の作者を、狩野孝信とする動きがあるので、それに関してここに追記する形でコメントする。
わたしの大昔の卒業研究は、京都御所の遺構を各所に訪ねて、その現状の実測、寺伝による出自、その検証などを行ったのであった。その中のひとつに、この秋に特別公開されいる法然院方丈があった。この方丈はいつもは非公開だが、春秋の京都非公開文化財特別公開のひとつとして、公開されることもある。今年の秋は公開らしい。http://www.kobunka.com/tokubetsu/
特別公開事業の主催者・財団法人京都文化財保存協会のサイトに特別公開の一覧表があり、その法然院方丈にある重要文化財の襖絵を「狩野孝信筆襖絵」と書いてある。
しかし、この襖絵は、これまでは狩野光信筆とされて来ている。今日の孝信筆とするのも京都の権威ある団体だから、まさか光信を間違って孝信と書くなんてことはあるまい。
法然院の公式サイトを観ると、「狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)」と記載してあって、以前と変わりがない。
そこで、京都の「財団法人京都文化財保存協会」に問合せをした。ご親切に回答をいただいて、その要旨は次のとおりである。
法然院方丈の重要文化財の襖絵の作者は、従来は狩野光信筆とされてきたが、近年の研究で狩野孝信の作とする学説が出てきた。2015年京都国立博物館「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち」展覧会があり、そこに出展した際に作風から孝信筆との可能性が高いと判断されて孝信筆で展示された。そこで京都文化財保存協会は法然院と協議した上で、今回の特別公開においても、狩野孝信筆と表記した。狩野孝信筆となった根拠については、当該展覧会に図録の作品解説に記載があり、それによると同時に出展の仁和寺の狩野孝信筆の障壁画と比較したところ、松の全体の構図や細部の描写がこれと酷似していたので孝信筆と判断された。
さて、この回答の内容は、それなりに理解したが、わたしの疑問が根本的に解決するには、かなり遠いものであった。美術史の門外漢素人には、ますます興味が湧いてくる。
わたしの疑問点は要するに、光信も孝信もこの建物の襖絵を描くのは年代的に不可能なのに、なぜ?、ということである。この建物は1675年にできた後西院御所にあった姫宮御殿を、1687年に移築してきたものであり、その襖絵の画家とする狩野光信(1608年没)も孝信(1618年没)も、その建物ができたときはこの世にいなかったのだ。(参照:狩野派系図)
つまり、襖絵の成立時期と、その襖絵のある方丈建築の成立時期が矛盾しているのである。では誰の筆なのかについては、わたしたち(当時の東京工大藤岡通夫研究室)の研究では、当時の御所造営の資料から狩野時信(1678年没)であったろうと推定したのである。
・方丈の建築と襖絵は出自が別々か?
上記の推定は、方丈の襖絵が1675年の上皇御所姫宮御殿造営時に描かれており、方丈への移築時にその襖絵も共に法然院にやってきたという前提である。つまり建築と襖絵は同じ出自であるとしたのだ。
これだととすると光信も孝信もありえないのだが、これを仮に光信あるいは孝信筆が正しいとしたら、どう考えるか思考試験をやってみる。
そうなると上皇御所姫宮御殿にその襖絵はあったはずはないから、遅くとも孝信が没した1618年までには、御所ではなくて別のところで、描かれていたことになる。つまり矛盾を解決するには、襖絵と建物は出自が別々であるとするしかないのである。
その別のところとは、どこであろうか。法然院がいうように「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建」の意味を、「もと伏見城にあった御殿(1595年(文禄4)建築)の襖絵を移設」と解釈すればどうだろうか。
これならば、光信も孝信も年代的には可能性はあるだろう。つまり、方丈の建物の出自は後西院姫宮御殿(1675年)であり、襖絵の出自は指月伏見城の御殿(1595年)とするのである。その1595年とは指月伏見城であり、完成直後1597年に慶長地震で倒壊してしまい、木幡山伏見城に移転したのであった。
つまり、この倒壊したときに当該襖絵は無事であって、木幡山に移して再利用され、木幡山城の廃城でまたどこかに再利用、そして1687年に方丈にやってきたのだろうか。
あるいはまた、1597年伏見城倒壊から1687年方丈移築時まで90年もの間、その襖絵は襖からはがされて捲り状態で、どこかで誰かが保存していたのかもしれない。
そして、移築時あるいは移築後に法然院に寄進されて、今の襖絵のように張り付けて仕立てたのかもしれない。それはいつ、だれが、どのような経緯だろうか。
・更に湧き出る疑問の数々
このように考えていると、更にいくつもの疑問が出てくる。
姫宮御殿を法然院方丈に移築してきたときには、それには襖絵があったはずだ。そのオリジナル襖絵はどこに行ったのだろうか。廃棄したのか。御所からの拝領した方丈の襖絵を廃棄することは考えにくいから、どこかに移されたのかもしれない。それはどこなのか。どのような絵だろうか。
方丈の他の障壁画も同様の経緯をたどっているのだろうか。
狩野派はスクールだから、画家たちは先人たちの絵を真似て画風を伝えていくので、絵に落款とか署名がないと、本当の筆者を特定するのは難しいものらしい。今になって光信から孝信へと変わったようだが、それにしても、長い間(もしかして移築のときから420年も)の伝承による変更を、法然院はよく認めたものである。いや、法然院公式サイトの記述が変っていないから、法然院は認めてはいなくて、学者や研究者がそう言っているだけかもしれない。
美術骨董品としてみるなら、光信も孝信もほぼ同時代の有力な位置にあるから、どちらにしても絵の価値に差はないのだろうか。これがもしも無名の筆者であると分ると、たちまち骨董価値下落、さてどうなるのだろうか。
桃山時代の光信や孝信に比べると、わたしの言う時信は時代が江戸時代に下がるから価値も下がるのだろうか。もしそうなら法然院は認めたくないだろう。
孝信説をだすとしても、時信説を合理的に否定することができるのだろうか。狩野時信の代表作など多くの作品とも比較研究した人がいるのだろうか。あるいはまた、法然院にあるかもしれない方丈に関する古文書類についての研究は進んでいるのだろうか。その上で光信から孝信への変更が出てきたのだろうか。
どこかに発表された近年の研究論文があるのだろうか。わたしは研究者でもなし、まったくの門外漢の素人だから、専門的資料にアクセスできないから、ただただ勝手に面白がっているだけである。
●法然院方丈と襖絵に関する年表
1565年 狩野光信出生
1595年 後に後西天皇の皇女御殿となる建物が伏見城に建つ(法然院サイト)
1596年 豊臣秀吉による指月伏見城が完成したが直後に慶長伏見地震で倒壊
1597年 指月伏見城を廃して木幡山伏見城を造営して移転
1600年 德川方東軍が木幡山伏見城を攻めて炎上落城
1602年 德川家康が木幡山伏見城を再建して居城とする
1608年 狩野右京光信没(*法然院では方丈の襖絵を狩野右京光信筆と伝える)
1618年 狩野右近孝信没
1623年 木幡山伏見城が廃城(*建物は破却あるいは諸所に移築)
1638年 後西天皇誕生
1654年 後西天皇即位 後西天皇第一皇女八百姫誕生
1663年 後西天皇退位して後西上皇となる。後西院上皇仙洞御所造営
1673年 後西院仙洞御所が焼失
1675年 後西院上皇仙洞御所延宝度造営、八百姫御殿も新築
1678年 狩野右京時信没
1680年 忍徴が法然院寺院造営にかかる
1685年 後西院上皇没
1686年 八百姫没(*後西院御所は取壊しあるいは他の諸所に移築)
1687年 法然院に伏見城にあった後西天皇の皇女の御殿を移築(法然院サイト)
・・・・・・・・・・・
1960年 法然院方丈の建築史的調査を東京工業大学藤岡通夫研究室が実施
1961年 日本建築学会に論文「法然院方丈の襖絵について」(平井聖、伊達美徳)を発表、方丈は延宝度造営の後西院御所八百姫御殿の遺構であり、その襖絵も同御殿のものであり絵師を狩野時信と推定
2015年 方丈襖絵を京都国立博物館「桃山時代の狩野派‐永徳の後継者たち」展覧会に出展した際に、これまで狩野光信筆とされてきたが、その作風からして狩野孝信筆との可能性が高いと判断されて、孝信筆として展示
◆元資料
・「法然院方丈について」(平井聖、伊達美徳 1961年建築学会関東支部研究発表梗概集)
・「遺構による近世公家住宅の研究」(伊達美徳 1960年度東京工業大学理工学部卒業研究論文)
◆参考資料
・「法然院公式サイト」 http://www.honen-in.jp/
・じゅうたのブログ http://ameblo.jp/junta-bo/entry-11668423417.html
・「狩野派絵画史」(武田恒夫 吉川弘文館 1995年)
・「別冊太陽 狩野派決定版」(山下祐二ほか 平凡社 2004年)
・「国宝・重要文化財大全2 絵画下巻)」(毎日新聞社 1999年)
・「延宝三年京都大火―日記史料に見るその状況」(細谷理恵・浜中邦弘 同志社大学歴史資料館館報第13号
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