父の十五年戦争

父の十五年戦争 附:田中参三叔父の戦場

神主通信兵の手記を読み解く

 編集・解説 伊達 美徳


はじめに                
第1章 年兵日記 1931年~    
第2章 満州事変日記(1)1933年  
第3章 満州事変日記(2)1933年~ 
第4章 支那事変手記 1938年~
第5章 本土決戦手記 1943年~  
   田中参三叔父の戦場          
あとがき                 

はじめに

 わたしの母の伊達さめが白寿で大往生した。2008年10月のことである。
 その遺品の中から、父・伊達真直(だて すなお 1910~1995)の兵役中の日誌類が出てきて、管理していた弟が写真アルバム類と共に送ってくれた。
 戦争日誌をそれほど興味もなく読んでいて、次の一文に驚いた。

「三月十三日 食糧欠乏にて粟の粥をはじめて食べたが、馴れないと食べられない。部落中を、梨、野菜、芋等を地中に深く、井戸のように支那人はしまっているので、捜しまわって漸く見つけ掘り出し、30貫目くらいはあったと思う。久しぶりに芋を蒸して、舌つづみを打った。ニーコーが種芋だけは残してくれと哀願していたのがあわれだった」(『昭和8年熱河討伐奮戦日記』1933)

 これは、父が初年兵として兵役について3年目に、満州事変の熱河(ねっか)省出兵で中国に渡り、万里の長城の争奪戦闘に加わったとき、前線へ行軍中のことである。
 軍隊としてこの兵站の不備がまず問題だが、あの温厚な父がいくら若かったからといい戦場であったといい、農民のニーコー(当時の中国人への蔑称)を哀れに思いつつも、その食糧を根こそぎ略奪をするとは、戦争はなんとひどいことをさせるものだろうと思ったのだ。
 この後の戦闘場面の悲惨さよりも、この記述にひっかかって、片田舎の神社の神主のあの父をそのようにさせたこの戦争は、どこでどうして起きたのか、急に興味がわいてきたのであった。


戦場だったころの中国と父の任地

 父はこの満州事変、支那事変そして太平洋戦争の15年戦争の期間中に半分の7年半、2回の束の間の平和をはさんで3度も兵役についた。よくぞ生きて戻ってくれたものである。
 内容に濃淡はあるが、その3回の兵役の記録がいずれも遺品にある。
 生前の父からは戦争のことは何ひとつ聞いていない。父は戦友会には熱心に参加していたようだから聞けば話してくれただろうが、わたしはまったく関心がなかった。

 この文中では、父のことを「真直」と記すことにした。父の父が記録に登場するので混乱を避けるためと、歴史的記述にしたいとの思いもある。

 掲載する父の在世中の写真は全て父の写真アルバムにあるもので、地図類はいろいろな資料から画像として取り込んで加工した。
 最後の章にかかげた叔父(母の弟)の田中参三氏の戦場のことは、磯田道子氏(叔父の娘)からいただいた資料によるものである。

◆伊逹真直略歴

1910年 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市)に誕生 御前(おんざき)神社社掌伊達鹿太郎二男
1930年 岡山県立高梁中等学校卒業
1931年 岡山歩兵第十連隊第二中隊に入隊
1933年~34年 満州事変で通信兵として中国戦線
1934年~66年 御前神社社掌、宮司
1938年~41年 支那事変で充員召集、通信兵で中国戦線
1944年~45年 太平洋戦争で臨時召集、姫路にて通信兵教育担当の後、神奈川県松田町に移駐して本土決戦準備の陣地構築中に敗戦、帰郷
1951年~66年 岡山県立高梁高等学校事務職員
1966年 岡山市内に転居、岡山神社権禰宜
1993年 大阪市内に転居
1995年 病没

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