父の十五年戦争ー神主通信兵伊逹真直の手記を読み解く(序・目次ページの続き)
第1章 入営 初年兵 1931~32年
1.初年兵の日記
●支給品の手帳
真直の遺品の中に、軍の支給品らしい小さな手帳「日誌」があり、表紙には「昭和六年自1月 歩兵第十聯隊第十一中隊第二班伊達真直」とあり、各ページにその日の出来事を黒インクで書いている。
1931年1月に入隊から11月末までの記録で、途中の10月5日から11月28日までと、11月30日以降は欠落している。
自筆であることは確かだが、筆跡や筆記用具からみて、全てのページがその当日に書かれたのではなくて、その当時に数日分まとめて書き込んでいるようだ。誤字訂正のような書き込みは、たぶん戦後になってからの真直の記入であろうが文章直しは無いようだ。
軍隊ではプライバシーゼロだから、他に読まれる前提で書いたはずである。初めの頃はよくわからずに、殴る蹴るの制裁を受けたことまで書いてある。
しかし、1ヶ月くらいで次第にしおらしいことが書いてあり、時にはですます調になるのは、他に読まれることを前提に書いたのだろう。
その概略を記すとつぎのとおり。
1月10日 現役兵として岡山歩兵第十連隊第二中隊入隊、初年兵として毎日訓練
5月27日 痔にて入院、手術、治療
6月24日 退院
9月 1日 食中毒にて入院、治療
9月13日 退院
11月29日 父の鹿太郎危篤の報に驚いて帰宅
初年兵日誌はここまでで、このあとは欠落している。手帳は縦13センチ横6センチの大きさで、縦書き罫線で1ページに10行がある。
●そのころの祝祭日
表紙の裏には、「昭和五年紀元二千五百九十年」と右から書かれている。その下に祝日が書いているが、これは多分、軍隊で行事を行なう祝日であろうが、時代の雰囲気がわかるので書き写す。
・大祭祝日―四方拝(1月1日)、元始祭(1月3日)、新年宴会(1月5日)、紀元節(2月11日)、春季皇霊祭(3月21日)、神武天皇祭(4月3日)、天長節(4月29日)、秋季皇霊祭(9月24日)、神嘗祭(10月17日)、明治節(11月3日)、新嘗祭(11月23日)、大正天皇祭(12月25日)
・軍隊祝日―陸軍始(1月8日)、陸軍記念日(3月10日)、靖国神社大祭(4月30日、10月23日)、軍旗拝受記念日(12月18日)
これらのうちで現在も法による祝日は、1月1日、2月11日、3月21日、4月29日、11月3日である。紀元節、天長節、明治節という天皇制に由来を持つ日がいまだにある。
●軍高官名簿、聯隊史
次からは6ページにわたって、皇室、武官御在職皇族、陸軍高官官姓名、在郷軍人会、直属上官の官姓名の一覧表となり、印刷してあったり書き込んだりしている。天皇の肩書きは「大元帥」とある。
真直の所属した第十師団長は本庄繁陸軍中将と、真直の手で記入してある。本庄は1929年に姫路第十師団長、1931年関東軍司令官となり、満州事変をひき起こし、満州国建国の立役者となった。
真直はこの満州事変で、1932年から最前線に出されて、この初年兵日誌に続く満州事変における日誌にある、かなり危ない目にあったのだ。
続くページからは「聯隊歴史の大要」とあって、明治7年に聯隊本部を大阪場内に設立したことからはじまり(後に姫路、岡山に転営)、明治10年に西南戦争従軍、明治27年日清戦争従軍、明治37年日露戦争従軍、大正4年青島守備、昭和2年山東省出兵、昭和2年内地帰還などの年表が記してある。この聯隊は、近代日本の戦争すべてに参加している。
後に1945年、太平洋戦争のフィリピンのルソン島に送られたこの歩兵第十聯隊は、米軍の攻撃の下に山中を逃げ惑う生き地獄でほぼ全滅する。
真直は、通信兵であったことと微妙なタイミングで幸いにして(多くの不幸な兵の犠牲のおかげで)この南方戦線に送られずに、国内勤務で終戦を迎えた。
2.岡山聯隊入営
●初年兵
日誌は次のような文から始まる。以下< >内(青字)は真直の書いた日誌等を原文のまま引用する。
<一月十日 入営雪中にて行はる。せん誓式行なはれ各自氏名を署す>
1931年1月に岡山歩兵第十師団第二中隊に入隊した。わたしはこれを書くにあたって、軍隊における「履歴書」(通称「軍歴書」)を岡山県から取りよせた。軍人恩給とか遺族年金のための公式の資料らしい。
そこには第1行目に、「昭和6年1月10日歩兵二等兵卒、現役兵として歩兵第10聯隊に入営」(横書き)とある。
真直の生年月日は1910年6月30日である。そのころの兵役法の定めは、男は全員が徴兵の対象となり、20歳の年に徴兵検査に合格すると、次の年初から2年間を現役兵として、兵役につくこととなっていた。
その間に戦争がなければ、2年で除隊して予備役となるが、40歳までは兵役につく義務があった。現役兵に欠員が生じたり戦争が起きたら兵役に召集される。この召集令状が赤っぽい用紙だったので、通称「赤紙」といわれる。
真直はこの前年に徴兵検査を受けて、甲種合格(身長1.55メートル以上にして身体壮健なるものー兵役法施行令第68条)だったであろう(多分)。
●入営記念写真
兵士となったばかりの姿の写真はいくつあるが、その入営の日に、兵営のそばらしいところで親戚と写した写真がある。真直による記入に、「(本家)梅冶、源実、光子、真直、小田」と人物名があるが、光子は真直の実姉で、高梁から北に20kmほどの北房町水田の石井佐七と結婚した。源実(もとざね)は実兄で、岡山で骨董商をしていたと聞く。そのほかの人はわたしは知らない。
当時はスナップを撮るようなカメラはないから、聯隊に出入りしている写真屋が撮ったのだろう。兵役時の写真が意外に多いのは、戦地にも従軍カメラマンがいて撮ってくれるようになっていて、それを家族に送ったのであろう。
3.教育訓練の第1期
●戦闘員としての訓練
入営第1日目は先輩兵士たちからお客さまとして扱われ、2日目からは突如として新米兵士としてしごきと教育訓練が始まる。そして4ヶ月目で聯隊長の検閲をうけて、兵隊としての一般教育の第1期を終えて、次の教程にはいる。(『兵隊たちの陸軍史』伊藤桂一2008新潮文庫)。
真直の場合はそれが4月1日までであった。教育訓練は術科と学科がある。日誌に出てくる順に術科をあげると、歩哨の動作、手旗信号、目測、敬礼不動の姿勢、体操、早駆け、擔銃、立銃、各個教練、立射、膝射、タマコメ、弾ヌケ、伏射、夜間演習、狭窄射撃、実砲射撃、陣内戦闘などとある。
<一月十一日 入隊式、御真影拝賀検定、筆記検定、傳レイ「初年兵は何時から何処で何時から何をするのですか」、歩哨の動作、手旗信号、目測
一月十二日 検定散開、早ガケ、敬礼不動の姿勢
一月十三日 体操、両木通過、鉄棒、飛越台、幅飛、肩車3回しか出来ヌ、身は痛れて綿のごと
二月九日 練兵場に行き、戦闘、各個教練、膝射、伏射ノ地物利用アリ、散兵壕ニツキカタマリ。午後、旅団司令部跡で各個突撃、送射の姿勢アリ、後、駆足ニテ練兵場一周シテエラカッタ>
●過酷な訓練、体罰
真直から直接にわたしは聞いたことがあるが、高梁中学校では陸上長距離選手だったので、軍隊での早駆け訓練は楽だったという。しかし、さすがにはじめの頃は音をあげている。
<一月二十一日 ぐにゃぐにゃしとると教官にしかられて腹が立った。
一月二拾七日 体操して自分はよくしていると思っていたが、よくなかったのか渡辺班長殿にケッタリナグラレタリし、耳がじんといって耳がきこえなくなった。
一月二拾八日 朝起床前に起きて床をあげてゐたら、吉田週番士官にしかられた。
二月一日 夕方三班へよばれ、朝、班長殿の食器を洗っていたときに大物を言ったと言って、しかられる>
こんなことを書いているが、上官に見られてまた殴られたかもしれない。このあとは愚痴っぽい記述はほとんど見えない。慣れたのか、書いてはまずいと気がついたのか。そして次第に淡々と技術的訓練に励む様子になってくる。
●2ヶ月目の所感
2月22日には入隊後の所感を書いている。多分書かされたのであろうが、もう誰に読まれてもなにも問題がない。
<・・・初めは地方で少しも労働をせざりし身が一時に激動したので、身も世もたまらず苦しかったが、今では身体がやや激動に堪へるやうになったやうです。中隊は住めば住む程その上下親密で、本当に一軒の家のやうで、有難さに堪えぬものであります。何から何まで至れりつくせりで、よくまあこんなによく出来たものだと、いつも自分は感じてゐます。今後これに報いるため 否、天皇陛下に御報ひするため、専心軍務に勉励して一人前の軍人となり、御役に立つやうになりたく望んでおります・・・>
●俸給
1月30日に俸給1円80銭を受け取っている。10日ごとの支給だから月給にして5円40銭という金額は、当時の下層労働者の女中が月給10円くらいだったから、三食、衣服、住居つきとはいえ危険重労働勤務だから、これはかなり安い。
真直の実家の神社には父の鹿太郎もいたし、広い小作田を神社が所有していて小作米が入ったから特に困ることはなかっただろうが、一般家庭ではかなり困窮者がいたのだろう。
大企業に勤めるものは、月給の保証もあって軍俸給と二重取りもあったという(『皇軍兵士の日常生活』一ノ瀬俊也2009講談社新書)。
兵の月額給与は、2等兵は1940年までは1円27銭。1945年の月額給与は、2等兵9円、少尉が約100円、大将が約500円、戦地になると増額して手当てもついた(『兵隊たちの陸軍史』)。
●初めての外出
<二月八日 初めて外出が許され、自分ハ嬉々として籠の鳥が放タレタル如ク、とびたつ如くに小田に行きご馳走になった。歯医者に行き三十銭ツカう。かみつみをす
三月壱日(日曜日) 叔母様ノ処ヘ行ッタトコロ、家カラ旧ノ御正月餅ガ送ってくれてあったので、ゼンザイヲシテモラッテタベタガ、ヤハリ地方ノ餅ハウマイ。酒保ナドノハ問題ニナラヌ程デアッタ。ソレカラ蛭田ヘ廻ッテカヘッタ>
1ヶ月目にようやく初めての自由外出が許されて大喜び、歯医者に行き、散髪もしている。訪ねた小田、蛭田は親戚であろうが、特に小田には毎回の外出で訪ねている。今はそのような親戚はあるかどうか、わたしにはわからない。
●趣味の生け花
<三月八日 起床と同時に後楽園馳走す。それより帰り、シキフを二枚も洗ひ、午後あまり暇なので、久しぶりに○○班長の許可を受け、水仙を生けさしてもらひました>
生け花は実は真直の趣味であったのか。殺伐なる兵舎で良い趣味である。そういえば、高梁の家で畳の上に新聞紙を敷いて境内や山から取ってきた花や木の枝を並べ、家や社務所の床の間に生け花をしていた真直の姿を、わたしは思い出す。私は幼時から見ていたから、日常的なこととして気にとめていなかったが、今にしてはじめて趣味だったとわかった。
アルバムには兵営での生け花大会らしい写真もある。遺品の中には祖父鹿太郎からのものらしいの和綴じの「生花早満奈飛」(1885年発行)なる生け花の指南書がある。和綴じ本と言えば、本居宣長の「古事記伝」もあった。
●第一期終了、初めての帰郷
4月10日にはじめて高梁に帰郷を許された。
<四月一日 今日はいよいよ検閲である。午後0時五十分より営庭に引率され、不動の姿勢、立射の姿勢、行進間の敬礼をした。
四月二日 七時に集合し佐山に行く。擬装をし、戦闘、各個教練、敵火の間断を利用する動作をし、その後分隊ノ散兵教練あり。聯隊長殿の公評は良好なり四月二日 七時に集合し佐山に行く。擬装をし、戦闘、各個教練、敵火の間断を利用する動作をし、その後分隊ノ散兵教練あり。聯隊長殿の公評は良好なり>
多くの訓練を経て、これで一応の第1期は終わったが、それで楽になるわけではなく、すぐに第2期に入る。
<四月十日 五時に不時点呼により、それよりこしらへをして、六時半頃営門を出でて小田に行きしも不在のため、直ちに七時二十分の気車で帰郷九時着す。夜は花見に行く。相原君や友人に会ふ。
四月十一日 家にて休養す。多賀様にて色々なぐさめてもらふ。
四月十二日 三村の叔母や山口の叔母様に慰めてもらふ。なこりをおしみながら、花咲く故郷を兄叔母に送られて我は帰営した>
4.通信兵訓練はじまる
●通信兵として訓練
第1期の検閲が終わると、兵隊の基本教育の完了を意味し、戦時は戦場に送られてもよい資格を与えられたことになり、次からは兵隊それぞれに特定任務や配属先が決まり、初年兵全体として生活が多様化する(「兵隊たちの陸軍史」)。
真直の場合はそれが通信兵へのコースであった。日誌には通信兵となることは書いてないが、訓練内容は通信のことだし、2年後に中国戦線に行く時は通信班に入る。
<四月十三日 通信の就業及び巻匡の負い方、手旗の原かくをならう。
四月十五日 午前中は電鈴電話器の負い方、接続す
四月二十日 練兵場にて延線止線等す
四月二十二日 通信にて午前中電気学あり午後は懸架法など
五月六日 午前中ハ巻匡ノ検査電話機トノレンラク、ソレカラ裏門前にて手旗信号の試験あり
九月二十五日 御津郡米倉村に行き雨中の架設をなし行く。昼飯ノ間に河辺に遊び、泥蟹をとるに苦心してとりあそび、とてもうれしかったよ>
電話機の入った箱を背に、大きな糸巻き電線を胸につけて走り回り、手旗を振る訓練と、電気学などの座学をやっている真直の姿を想像する。これらの通信兵として訓練のほかにもちろん戦闘の訓練もしているが、出先で蟹を取って遊ぶとは通信兵は楽である。戦争が終わったときに、黄色の被覆電線を沢山持ち帰ったのは、通信兵の余得であったらしい。
●軍における通信兵の位置
通信兵とは軍ではどのような位置にあって、何をするのであろうか。
「通信兵はある程度の学力または頭脳を要するので、比較的優秀な兵隊が選ばれ、隊内または隊外で、特殊の教育を受けることになる。『一に通信、二にラッパ』などというのは、軍隊生活を楽に過ごせる幸運な兵隊を指していったものだが、通信兵は楽で出世も早い。・・・軍隊くらい運不運の差がひどいところはなく、ツキのない兵隊は、損ばかりするのである」(『兵隊たちの陸軍史』新潮文庫)
ある程度の学力ならば、当時は尋常小学校か高等小学校卒業が普通だったから、その上の高梁中等学校卒業の学歴がものを言ったかもしれない。確かに真直は幸運な兵士である。この頃は誰も知るよしも無いが、後の太平洋戦争で通信兵であることが命を救った。
通信兵は歩兵とは違って敵の面前に出て戦うのではないが、歩兵の先頭集団のすぐ後か横で重い荷物や電柱などを持って架線作業をしなければならないし、前線に通信所を作る。結構危ないことは、真直の満州事変での戦記に出てくる。
一方、後方にいて通信連絡を担当すると、安全で楽だったであろうことも、後の支那事変の真直の戦記でわかるのである。運不運の多い兵隊生活である。
[通信兵操典 綱領]第11 通信兵の本領は、戦役の全期に亘り、指揮統帥の脈略を成形し、戦闘力統合の骨幹となり、以って全軍戦捷の途を拓くにあり。故に通信兵は常に相互の意思を疎通し、特有の技術に成熟し周密にして機敏、耐忍にして沈着、進んで任務を遂行し、全軍の犠牲たるべき気迫を堅持し、以ってその本領を完うせざるべからず。通信兵は常に兵器及び材料を尊重し、整備節用に努め、馬を愛護し、また特に防諜に留意すべし」(原文はカタカナ、『通信隊戦記』(久保村正治2007年光人社)から孫引)
5.2度の入院
●痔疾で入院手術
5月27日に痔疾患で岡山衛戍病院に入院し、29日には手術する羽目になった。痛む日が続いたが、6月4日にようやく歩けるほどに回復、6月24日に退院した。この間に同僚や先輩たちが色々な病で入退院していることが記されているが、中隊長が捻挫して入院してきた。そこで趣味を生かして中隊長にとり入っている。
<六月十九日 中隊長殿ノ所へザクロ、ダリヤの投入をして上げたら喜ばれた
六月二十日 中隊長殿の所へモミヂノ盛花をしてさし上げたなら大へん喜ばれた
六月二十三日 今日はあおいとだりやを中隊長の所へ生けてあげたら又喜ばれた。後に講釈をせよと言われるのには閉口した六月二十日 中隊長殿の所へモミヂノ盛花をしてさし上げたなら大へん喜ばれた
六月二十三日 今日はあおいとだりやを中隊長の所へ生けてあげたら又喜ばれた。後に講釈をせよと言われるのには閉口した>
痔疾患と言えば、真直の兄の源実さんは、徴兵検査で痔疾のために不合格になったと聞いたと、これはわたしの弟から又聞きである。わたしに痔疾はないから、痔の家系ということでもなさそうだ。真直は歯の病も重症のようであり、歯痛で訓練を休んだり、何度も歯医者に通っている記述が出る。わたしが物心ついたころにはもう総入れ歯をしていたようだ。
●食中毒で入院
9月1日に、こんどは食中毒でまたもや入院である。
<九月一日 昨夜牛肉ノフライヲ食し、それがあたったものらしく、胃がにがつく。居ても立っても居られない程であった。今日より入室
九月三日 急性胃炎で入院した。かん腸し、ひまし油をのみ、下ってしまって、今日四日ぶり、なにも食べないのでふらふらしてならぬ
九月四日 今日は粥をたべさせてもらった
九月八日 今日手紙が家カラ来タ、入院シテヰルトイフコトハ知ルマイト思ッタニ、豈計ランヤ、中島二年兵殿ガ帰国サレタノダカラ、シカタガナイ。
九月十日 院内ノ風気ガ乱レタトテ看護長ニ叱ラレタ。内科モフエテ、十人許ニモナッタ。今日ノ診察テトテモヨクナッタノテ、明日カラ七分食トナッタ
九月十参日 退院ス>
食中毒ならば隊内でほかにも患者となったものがいそうだが、それは書いていないところをみると、外食だったのか。
10日の「風紀が乱れたとて看護長に叱られた」との記述は、いったい何をしたのだろうか。看護婦にちょっかいを出したのか、それとも看護婦が美男子の真直を見て騒いだか。
このころの真直の写真を見ていて、いわゆる二枚目の映画俳優にしてもよいような容貌であることに気がついた。親子であったときは気がつかなかったが、あの世に行ってしまって客観的に見ることができるようになったからだろう。もしかして子のわたしも似ているのだろうか。今頃になって気がついてもあまりに遅すぎる。
6.父・鹿太郎の死
●父危篤の報
10月4日までは、訓練の様子や外出して映画館に行ったことや外食したことなどを連ねているが、そこから日誌は欠落して突然に11月29日に飛んで、その日の一枚でその後も欠落して、初年兵日誌は終わる。
<十一月二十九日 衛兵に行っており、午後九時の将に交換せんとしていると、前田班長が駆けて来て、「伊達、お父さんが危篤であるから、すぐ帰れ」と言はれて、自分は夢かとばかり驚き、直ちに平野と交替して、自動車にて十時半営門を出で、中隊長殿が御見送り下さり、小田に寄り、12時に帰宅。父が枕辺に飛び上れば、今はせんなし、父はすやすやと寝るばかりにて>(以下欠落)
他の遺品資料によると、結局、鹿太郎は12月1日に死去、享年65歳、葬儀、納骨を終えて帰隊した。真直の母の與祢は既に1916年に他界しているから、21歳にして両親ともに死別した。
●御前神社社掌の後継
御前神社宮司(当時は社掌といった)の伊達鹿太郎がなくなったので、当然に後継問題が出てくるはずである。
真直は1930年9月にすでに「社司社掌試験」に合格しているので、すぐに後継者になることは資格的には可能である。しかし真直が兵役について1年目であり、少なくともあと1年は戻ってこない。
そこで氏子総代たちが相談して、12月中に御前神社氏子総代連名で岡山連隊区司令官宛てに、鹿太郎死亡により後継社掌として真直の「除隊願」を提出したようだ。遺品にその原稿らしいものがあるのだが、本当に出したかどうかわからない。
結局はすぐに除隊できないばかりか、逆に満州事変で兵役延長となって1933年末まで戻れず、1934年1月から御前神社社掌となったのであった。社掌不在の間の御前神社は、高梁町内の八重垣神社か八幡神社の宮司が兼務していたのであろう。
なお、2010年の現在、宮司の居ない御前神社は、足立さんという方がご自分の神社と掛け持ち宮司である。わたしはこの方の父親を知っている。お祭で応援に来てもらっていた。
御前神社は775年創建とされ、名前の由来は地形的に突出したところに神社を建てる岬信仰で、同名の神社は多い。かつては高梁川が盆地の東よりを流れていたことが15世紀半ばの御前神社文書で分かる(『高梁市史』)。
背後の山林も含めて境内は広く、現在の拝殿は1877年、本殿は1881年の建築である。珍しい建物は、参道石段脇にある時鐘を吊っていた鐘撞堂(1930年代か)だが、老朽化して危ない。
ところで、真直には源実(もとざね)という4歳年上の兄があり、戸籍を見ると当時は長子相続制だから、この12月に家督相続をして伊達家の戸主となっている。普通ならば真直ではなくて、戸主となった源実さんが神社の社掌になるはずである。それがどうしてそうならなかったか。
真直も温厚だったが源実伯父はそれ以上に温厚な人柄だったから、彼等の父・鹿太郎との間になにがあったのか不思議である。源実伯父の子の伊達巌さんに聞いたところ、鹿太郎の采配だったと源実さんから聞いたが、なぜだかはわからないとのこと、今となっては調べようがない。
7.内務班勤務 1932年
●十五年戦争始まる
日本の情勢は1931年9月に中国大陸で関東軍が満州事変を起こして実質的に中国と戦争状態になり、1945年の第2次大戦が終るまでの長い十五年戦争の時代に入ったのである。
真直の居る岡山歩兵第十聯隊は、1932年2月に満州事変の中国に派遣された。そのようなときに真直は初年兵の1931年は終えたが、2年兵となったこの2月から岡山での留守隊として、歩兵第十連隊第十一中隊に編入されて国内勤務となった。
真直が中国派遣でなく岡山に残されたのは、御前神社社掌後継へのいくぶんの配慮があったのだろうか。しかし結局は1933年2月から中国大陸の戦争に出かける。
1931年2月に入隊して、初年兵として訓練が一応終わった同年12月1日に、真直は歩兵一等兵になった。次の初年兵が入ってくるから誰もが一等兵になる。通常、2年兵の一等兵を古兵という(『兵隊たちの陸軍史』新潮文庫)。
●通信兵教育
1932年の真直の日誌はないのだが、軍歴や自筆履歴書あるいは写真によると、次のようなことがあったと分かる。
・2月2日~33年2月1日まで 歩兵第十聯隊において満州事変内国戦務に従事(軍履歴書)
・4月9日 留守隊第十一中隊に編入(自筆履歴書)、第五内務班に所属(写真)
・4月11日 第十聯隊の主力が満州派遣のため出発(『歩十留守隊時報』)
・6月~8月 姫路にて通信合同教育(記念写真)
この間に高梁に帰郷したことがあるだろうか。いずれ除隊したら御前神社の社掌になるのだから、それなりの準備もあったであろう。
内務班勤務については、その陰湿な私的制裁が文学や記録にいろいろと書かれているが、真直の場合はどうだったのだろうか。
初年兵でなく2年兵になっているし、既に多くの2年兵以上は前年から中国に派遣されているし、通信兵教育を受けに3ヶ月も姫路に行っているから、内務班にいつづけたのでもなく、この年は比較的楽だったかもしれない。
この1932年は、1月はじめから2ヶ月にわたる日中衝突の第1次上海事件を日本軍の謀略で引き起こし、空爆もあって軍民合わせて2万人以上もの多くの死傷者が出る事実上の戦争となった。
3月には、満州国の建国を宣言して国際的に非難を受け、5月には五・一五事件で軍部による政府要人暗殺事件がおきるなど、物騒な年である。
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