2023/03/12

sizuoka2010静岡:徳川家康の街の今と門前町の盛衰

静岡:徳川家康の街の今と門前町の盛衰

伊達美徳 2010年6月

●ガス爆発地下街のその後

久しぶりに静岡を訪ねた。(NPO)日本都市計画家協会静岡支部の街道街並み研究会で、静岡浅間神社の門前町である浅間通り商店街を訪ねる目的であった。
だがその前に見たいところがある。駅から地下道に入って駅前広場の下から「紺屋町地下街」に入る。
ここは1980年にガス爆発から大火災となって、多くの死者が出たところであった。地下店舗から地下道に店を開けていた構造だった。地上部のビルまで火災は広がった。


 共同ビルだったので、その復旧は大いにもめて、長らく廃墟の姿を見せていた。今回、通ってみると復興していて、あのとてつもない非日常的な風景は、小綺麗な店が並んでいた。わたしはそこの定食屋で昼飯のズケ丼を食った。

それはよかったが、ここまでくるにはどのような経緯があったのだろうか。この大事故によって、地下街建設にかかる法規制が非常に厳しいものとなり、その後の各地の地下街建設に大きな影響を及ぼした。

●常緑の街路樹

 次は地上に出て、呉服通り商店街を行く。静岡一番のショッピングモールだが、わたしの興味は、その街路樹である。ここの街路樹は、珍しくも常緑広葉樹なのである。40年くらい前であったか、この通りの街路樹を植え替えて、そうしたのであった。


 普通の街路樹、特に商店街では花が咲いたり、葉が紅葉する落葉樹が多いのに、ここはあえて常緑樹にしたのであった。常緑広葉樹とは、四季を通じて緑の葉葉が茂る樹種で、シイ、クス、タブ、アラカシ、シラカシなどである。これらは静岡地方の本来の植生なのである。時に誤解があるので書いておくが、常緑といっても同じ葉が四季を通じて茂っているのではない。初夏に落葉して入れ替わる。

 植えてしばらく経った頃に見にきたことがあるが、それが今はどうなっているか興味があった。

 それなりに大きくなっているが、普通の山や公園などで育っていたら、もっと大きく30mくらいの高木になっていただろう。街路樹では剪定されるから、あまり大きくはなっていないし、葉張りも狭いのはしかたがないか。
 どこか肩身の狭い思いで育っているのが、残念である。道の真ん中に植えて、堂々と育ててやりたいと思う。
 ところで、通りの一部で工事中であったが、地元の都市計画家に聞いたら、ハナミズキに植え替え中なのだそうだ。常緑樹ではなにがよくなかったのだろうか。

●時代を超えて生きるまちづくりの成果

 紺屋町通りでは、街路樹と共に興味あったのは、モールの両側にある連続した共同建築の店舗である。
 みたところ1950年代後半なら60年代に、全国各地で事業をおこなった防火建築帯もしくは建築防災街区事業によるものであることは確かだ。


 そろそろそれらが建て直される時期に来ているが、ここ静岡では立派に現役の商店街としては働いているのは、横浜の伊勢佐木モールと同様である。
 かつて静岡は日本のまちづくりの模範生であった。その頃につくった都市の基盤となる道路や建物が、今も時代を超えて生きているのは、当時を知る者として嬉しい。

●静岡は徳川家康の町であったか

 このたびは地元の商店街の経営者の人たちや、静岡の都市プランナーたちと一緒であったので、わたしはなにも知らない静岡の歴史について学ぶことが多かった。
 そのなかで、特にわたしの無知が恥かしいが、ここは徳川家康で持っているのであった。徳川家康というと、静岡あたり出身であるらしいことは分かるが、やっぱり江戸でしょうよ、と思っていたのだ。ところが征夷大将軍をたったの2年で退いてからは大御所といわれて、静岡つまり駿府で10年間も実質的に政治の実権をもっていたののであった。天皇家ならば院政である。

 江戸初期の静岡は、日本の政治中心であったのだ、と、静岡の人たちは思っているようだ。浅間神社商店街できいた歴史的な話にも、徳川家康、金地院崇伝、林羅山などが地元の人として登場するのである。徳川様の町である。

 家康号、竹千代号という名のボンネットバスが、浅間神社商店街を走っている。徳川家といえば、徳川慶喜は敗軍となって静岡に蟄居したが、このとき江戸から観世流能役者たちが家元ともども静岡に移った。おなじように学者も移って来て、「静岡学問所」ができたそうである。
 ほかにもその時代の一流どころが移ってきたすれば、維新前後の静岡は一時的にせよ、日本でもかなり高い文化的状況であったのだろう。それは今の静岡に続いているのだろうか。

●静岡浅間神社

 今回訪問先の浅間神社も、その徳川家がらみで有名なる神社であると、はじめて知った。境内には19世紀はじめに建てられた社殿建築26棟もが、重要文化財指定となっている。これもわたしは恥ずかしながら知らなかった。
 家康といえば日光、日光といえば陽明門というように過剰装飾を想起するが、ここでもまさにそれである。特に神部神社大拝殿は、大屋根の上に一層の楼閣を構えていて、朱塗り柱梁と木彫の装飾は、建築的な大きさとともに過剰なまでに派手である。


 この拝殿がメイン建築であろうが、どうもプロポーションがよくない。頭でっかちなのである。拝殿大屋根の長さがもう少しほしい。
 その前にある総門もかなりの装飾だが、これは寺院の山門そのままの形である。鎌倉八幡宮の随神門と同じようだ。これはプロポーションが良い。

 かつては神仏習合であったらしく、建物の各所に仏教建築のデザインがある。わたしが気持ちよく見ることができた重文建物は、回廊であった、その素直な伸びやかさが、現代の目で見ると好もしい。本殿に近づけないが残念であったが、いずれの重要文化財建物も、徳川家の権勢を誇示する、まことに非日常的な装いである。


 八千矛神社の境内参道に茅の輪が作ってあり、くぐって厄落としをする夏祭りがもうすぐだそうだ。わたしの生家の神社でもつくってたので、ちょっと懐かしかった。


●門前町の商店街は今

 さて今回の目的の浅間通り商店街である。まさに浅間神社の門前町の位置にある。もっとも、神社の総門の前に位置していないから、言葉としても門前町ではない。
 歴史的にどのような理由があるかわからないが、総門前の通りからこちらに門前町が移ったのだとすれば、街の構造が変わったのであろうか。

 門前町といえば思い出す。江ノ島弁天、鎌倉八幡宮、浅草観音、大須観音、清水寺など、猥雑になんでもかんでも飲み込んで、雑多な街並み風景を持っている。あるいは門前町を持っていない社寺でも、祭りのときは露店や見世物小屋が出てきて猥雑な風景をつくるのである。門前町はどこか非日常的な猥雑性をそなえているのが本来の姿である。
 それは寺や神社に参拝することが、一種の非日常的レクリーションであったからだ。例えば伊勢参りの後には、近くで精進落としの遊郭が欠かせないのであった。門前町は面白い 、大好きである。期待して行った。

 ところが、ここ浅間通り商店街の門前町は、なんだかえらくすっきりして清潔な風景なのである。呉服町通りよりも清潔である。
 まず電線地中化によって視界に電柱も電線蜘蛛の巣がない。近代工業デザインとしてまことにすっきりしたアーケードで、不ぞろいの家並みの顔は視覚を遮られる。鳥居をアレンジした デザインのいくつかのゲートは行儀よく立ち並び、街路樹は低く剪定されて通りの見通しはよい。


 良くも悪くも全体がひとつにすっきりとまとまっていて、猥雑なところはなにも見えないし、猥雑な商売がありもしない。この街としての個性的な表情が見えない。それはわたしにとっては期待はずれであった。ここはもう門前町ではなくなっている。ふつうの寂しい近隣商店街になったのだ。

 日曜日なのに商売休みの店が多い。いや、日曜日だからこそ休むのか。それでも、さすがに初詣のときだけはものすごい人出らしいから、そのときは瞬間的に昔の非日常的な猥雑な門前町に戻るのであろう。瞬間的といえば、ボンネットバスが走っている瞬間の商店街には、突然に猥雑な風景が浮かび上がった。


●門前町のこれからは

 さて、これからどうなっていくのだろうか。浅間神社への団体観光バスはけっこうやってくるらしいが、神社そばの駐車場に入るから商店街に観光客が流れてこないという。これと同じことは、前に出雲大社に行ったときにも聞いた。そして大社の門前町も寂れきっている。●参照→松江なかなか出雲ぼろぼろ

 神社と門前町との間に協力関係があるのか、ないのか、そのあたりで決まるのだろうか。今の清潔さのままでは、門前町としては復興できないような気がする。何か徹底的に門前町らしい猥雑なる仕掛けをするか。現代の猥雑は、もちろん昔のそれとは違うのだが、。

 いまでも小さな猥雑さとしては、買い食いがありそうだ。山田長政がこの町の出身であるという。そうだ、タイのアユタヤから持ってくるなにか猥雑な種があるかも、そう、金色に輝くスツーパなんて極彩色のあの社殿に似合うかも、。
 町内に共同住宅の建設によって居住人口が増加していると聞いたが、それを商店街の消費人口として取り込めば、近隣型商店街としては救いとなるであろうとは思うのだが、、。

 近隣型としても門前型としても、道幅が広すぎて両側町の面白さにかけてしまっている。一方通行ならば車道をもっと狭くして、街路樹も植えてくださるとそれなりの雰囲気が出ると思うのだが、、。(2010.06.29)

2022/05/27

yokohama-kotobuki2007【横浜寿町宿泊体験記】横浜都心部ドヤ街の簡易宿泊所に泊まってみた

横浜寿町宿泊体験記
まちもり散人(伊達美徳)

宿泊したドヤから見る寿町ドヤ街のメインストリート 2007年

 横浜の寿町に、1泊観光ツアーに行ってきた。この「寿町」を知っている人ならば、なんでまた物好きな、と思うだろう。そう、まったくもって物好きな7人の仲間で「B級横浜お泊りまちあるきツアー」である。

 ドヤの3畳間に泊り、ドヤ街の食堂で300円定食を食い、横浜下町の元遊郭街、元青線街、現風俗街、元ヤミ市街等を歩いたのである。歩いたのは夜ではなくて真昼間のことで、今年の夏はことのほか暑すぎて熱中症直前になり、早々に切り上げて居酒屋に避難、ビールで生き返った。

 泊まったドヤは、いわゆる困窮者向けとは限らず、古い簡易宿泊所の最上階だけを改装して、一般を対象に安ホテルとして営業している、ホステルビレッジの事業である。正統派ドヤではないから、正統派の1200~2200円よりも高くて1泊3000円である。
 1室5㎡だからシングルルームとしても超狭い。TVとエアコンはあるが、共同便所、共同コインシャワーである。

わたしが宿泊した3畳間のドヤの一室


ドヤに払う金もない人は外に住む、公共施設の一部の屋根つき野宿場

●寿町とは

 横浜には寿町、東京には山谷、大阪には釜が崎(愛隣地区)、これらは江戸幕府が江戸石川島にもうけた浮浪人の収容所「人足寄せ場」をもじって、現代の3大寄せ場と呼ばれる。分かりやすく言えば、日雇い労働者相手の安宿の街である。9割は単身の男性であり、中には野外に寝起きするものもいる。いわば吹き溜まりの街である。

 横浜の寿町は、横浜市中区の寿町を中心に松影町など約6ヘクタールの地区である。そこから半径500メートルほどの範囲に、元町や伊勢佐木町のショッピング街、山下町の港横浜観光街あるいは山手高級住宅地のような、横浜の有名な街があるところだ。

 約6400人の簡易宿泊所(ドヤ)住人たちが寝起きしているが、人口密度を計算するとヘクタールあたり1000人を超える超過密である。それに高齢化も押し寄せて、今や労働者の街から介護の街になりつつある。

 ここが日本3大寄せ場のドヤ街と言われるようになったのには、それなりの歴史がある。横浜は、1945年に太平洋戦争に負けた日本が、占領軍を最初に受け入れさせられた都市である。連合軍として進駐してきた米軍基地として、横浜港とともにそれに続く関内・関外の都心部が接収され、日本占領政策の中枢となった。加えて1950年から始まった朝鮮戦争では兵站基地となった。

 このことは横浜が戦災と接収という二重苦によって、日本の他の戦災都市と比べて戦後復興が10年は遅れるという大きなハンディを背負った。その一方では、戦争直後の食うや食わずの時代に、占領軍による人員雇用や物資調達の需要で、地域経済を潤したことも事実であった。

 特に横浜港では戦後の占領下の諸物資輸入や朝鮮戦争時代の兵站のために、数多くの荷役労務者を必要とした。主にその労働力需要への対応のために、ここに24時間を通じて日雇い労務者を確保できる簡易宿泊所を設けたのが、今に続くドヤ街である。ヤドをひっくり返した隠語は、宿というにはあまりに劣悪な環境への皮肉であろう。

 1956年にここに職業安定所ができて、どのような経緯があるかは知らないが、計画的に寄せ場としたようである。ここは1955年に接収解除されたが、一般に接収地は元の地主に返還されるのを、当時のドサクサで土地権利が複雑に動いたらしく、いまもその事情を引きずっているようだ。

●寿町には誰がいるのか

 その土地権利者がドヤ建物投資者でもあり、現地には不在地主・家主である。いまはその2代目から3代目になりつつあるのだが、初代の頃とは大きく社会環境が変化しており、新たな対応を模索しているものもいるようである。

 大きな社会環境の変化とは、1970年代から港湾荷役そのものがコンテナー化というドラスティックな技術革新をしたために、かつてのような荷役労務者を必要としなくなったことだ。港湾労働者は激減しても景気の良い時は建設労働者の需要はあっただろうが、今は寿町の職業安定所では求人は全くないという。

 では誰が寿町のドヤに暮らしているのかといえば、かつて若くて体力のあった荷役労務者たちが、仕事がなくなったままにずるずると暮らし続けて、そのまま老いてるのだ。50歳以下は極端に少なく、65歳以上の高齢化率は31.5%(2005年)、そして9割は男単身世帯である。高齢者が多いから病人も多いという。日雇いだったから健康保険も年金もない。8割の世帯が生活保護費を受給している有様である。

 簡易宿泊所の宿賃は、1室ネット約5㎡(3畳)で2200円/日である。実質的には住んでいるのだから月66000円、つまり13000円/㎡・月の家賃である。このあたりのワンルームマンションの家賃相場は3~4000円/㎡・月だから、これは超高価格で有利な不動産投資である。だからだろうか、このところ古いドヤ建築の建て替えが盛んだし、寿町隣接地にも建設がある。建て替えも新築も3畳間が主流で、高層化すれば土地利用効率が良くなる。

 だが実は、その投資側にも問題がある。なにしろ需要が減るばかりであるのだ。いまや高齢化して介護の街となりつつある港湾労務者の成れの果て住人たちは、今後は決して増えることはない。格差社会が進行しているとしても、ここで新にドヤ暮らしにやってくるものが増えるとも考えにくい。

 現に簡易宿泊所数は118 軒、8461 室あるが、住人は約6400人(2005年11月)であるから、2000室程度は空いていると見られる。空室率2割はホテル事業としてはぎりぎり採算点だろうが、この有利な投資が今後そう長くは続かないことは目に見えている。

 つまり寿町は、住人は減少する一方であり、街には建物はあるが空洞化しつつあるのだ。その立地と現象は、まるで地方都市の中心市街地と同じだが、違うのはあまりに街のイメージが下流(げりゅう)に過ぎて、中心市街地のようなある種の歴史的な求心力を持たないことである。


●ドヤの街からヤドの街へ

 そのような寿町には、今、多様な運動体による活動が起きている。当然のことながら、生活支援や医療、介護等の福祉関係の活動団体は多い。ここではそれらと連携しながらも、ちょっと異なる活動を紹介しよう。

 それは、簡易宿泊所の空き部屋を活用することによって、街に活気をつくり出そうとする活動である。この街を「ホステルヴィレッジ」と名づけて広く紹介し、あちこちの簡易宿泊所の空き部屋をリニューアルしてホテルとして、横浜観光客をここに泊らせようというのである。

 どこの観光客が「ドヤ街」なんかに泊るものか、と思うが、やってみると結構いるのであった。都心であるから何かと便利であるから、なんの予備知識もない外国人、懐のさびしいバックパッカーやスポーツ遠征隊など、さまざまな客が1泊3000円の宿賃につられてやってくる。

 その「ドヤの街からヤドの街へ」の事業をやっているのが「ファニービー株式会社」である。このたびのツアーでは、この会社の幹部のかたに寿町ツアーガイドをしていただき、インタビューをした。

 この会社は、地域で福祉活動を行っている非営利団体の「NPOさなぎ達」を運営している人たちが立ち上げた。この街の簡易宿泊所に空き室を持っているオーナーたちと契約し、その空き室をホテル(ホステル)として運営し、売り上げをオーナーと折半しているビジネスである。ツアーガイド・インタビューもビジネスとしている。

 ハードウェアとしてドヤの建物が再生し、ソフトウェアとしても新たな人たちの流入で街に活力を再生するのである。このビジネスは、まさに「まちづくり」活動である。まちづくりをビジネスとしていることは、実にすごいことだ。採算がとれているかどうか聞かなかったが、新たなビジネスモデルである。NPOと会社の両輪であるところも、先進的である。

●普通のまちへ

 この街の姿も、ここで活動する人々のおかげで、この数年で随分きれいになったのだが、それでもまだ歩くには、非合法らしいと店もあってちょっと引いてしまう。それがここにどんどん見知らぬ宿泊客たちが入りこんでくれば、「普通の街」に変っていくだろう。

「普通の街」とは、特定階層の人がいる特定機能の街ではなく、多様な人々が暮らし、働き、行き交う街のことである。「多様な人が今の寿の町の良さを残しながら、何かを排除してのまちづくりではなく、懐の深い街として、現生態系を残しつつ、街の元気さを取り戻してゆきたい」と、ファニービーのリーダーたちは語る。これこそまちづくりの本質である。ニューヨークにおけるようなゼントリフィケーション(下層階級追い出し策)ではないのだ。

 現に外国人やら若者がウロウロしていて、その気配が見えてきている。駅に行くにも遠回りして避けていた近所の人たちも、ちかごろは通り抜けるようになったそうだ。そしてさらに普通の人々が住み働く普通の街になれば、まさにそれは特殊な街だった寿町の再生である。

 地域内部は行き詰まったなかで起きてきた内部不経済を克服するのに、外部経済を利用するのだ。それは実は、ここが横浜都心に立地するというポテンシャルの高い内部経済の顕在化である。

 もっとも、ここが普通の都心の街になっていくには、それなりに課題はいくつもある。まずは、空き部屋に非合法な営業がはいってこない対策がいるだろう。黄金町の非合法飲食店街排除のような強力なクサビが、原状対策としても予防対策としてもいるだろう。

 クサビの反対のカスガイとしては、高齢化する人たちへの福祉的対応がますます必要となる。別の意味でその盾の両面となる強力なカスガイが、ホステルビレッジ事業である。

 現在の小部屋ばかりの建物が過密に立ち並ぶ環境は、決して普通のビジネス街や住宅街には適さないので、再投資が必要になる。つまりガタが来たところをカスガイでとめる段階の次には、新規普請も必要になる。

 それが個別投資のままでは街としての再生は難しいから、総合的な計画や特定のインセンティブ政策あるいはコントロール策も必要である。普通の街を見越した公共投資の先行が望まれるところである。

 潜在するポテンシャルが高いだけに、空洞化して実質的な住民がいなくなる街に登場する投資家のビヘビアが気になるところだ。
   (20070903、200906補筆、20220527旧まちもりサイトから転載)

・Yokohama Hostel Village
   
http://yokohama.hostelvillage.com/ja/

・寿地区が「ドヤの街」から「ヤドの街」へ
   http://www.hamakei.com/special/72/




2021/12/08

osaka-itatibori大阪・西区:立売堀の防火建築帯は40年後も健在

大阪西区立売堀防火建築帯は40年後も健在
(2002年 建築家の先輩への手紙)
伊達美徳

拝啓

 お元気でいらっしゃいますか。ご無沙汰をお詫びします。
 先日、大阪にいる92歳の母を見舞ったあと、ふと思いついて「立売堀」を訪ねました。1961年に私がRIA(当時の正式名称は「建築綜合研究所」、通称「RIA」で、リアといっていましたね)に入社して、初めて建築現場に行ったところです。

 竣工は1962年だったでしょうか。あれから一度も訪ねたことなくて、40年目のセンチメンタルジャーニーでしたが、実はなかなか目的地にたどりつけませんでした。
 まず、信濃橋のRIA大阪事務所のあった「飾大ビル」(RIA設計)からはじめようと出かけたのですが、ここにたどり着くのにウロウロと1時間。

 でも、ちゃんとありました。1、2階に正面から見て右に天理教教会、左に事務所、3階から上は公団住宅と、40年前のままの姿で建っていました。
 ビルのまん前に「大塩平八郎終焉の地」なる石碑が立っていたのが、ちょっと違うくらいのものでした。

 そのあと立売堀にどうしてもたどり着けません。都市計画やっている身として、大概のところは迷わずにたどり着くことができるのに、大きな道路ができたりビルが建って変わったことは事実ですが、40年というギャップは埋めがたいようです。
 あきらめて帰ろうと地下鉄駅に入りましたところ、ホームに地図がありそれを見ているうちに思い出し、引き返してたどり着くありさま。
 そしてついに40年後の浦島太郎は、「SKビル」を発見しました。

 島田・藤江・福松・河辺(だったと記憶していますが)の4軒共同ビルは健在でした。島田酒店と福松産業はその名前で営業していましたが、藤江と河辺は名前が替わっていました。写真をごらんください。


 藤江はファサードをカーテンウォールに直していました。福松の屋上の三角壁も健在でした。当時は新人でなにもわからなかったのですが、今見ると先輩の設計は実に美しいプロポーションであることが、隣近所の小ビル群と比べてよく分かました。

 この共同ビルは、わが今の生業である都市計画をやるようになるルーツとなった「防火建築帯事業」です。この防火帯建築から「防災建築街区」が生まれ、そして「市街地再開発事業」へと発展していったのです。

 40年たっても中小企業の中小ビルはそれなりに健在でしたが、御堂筋に出てみれば、「そごう本店」は閉まっていて、この村野藤吾作品の巨大建築はもうすぐこわされるとか、そんな時代です。(2002年4月)

2021/12/06

takahasi-kawa2011高梁盆地の川と橋(高梁川:ふるさとの川シリーズ1)

高梁盆地の川と橋
(高梁川:ふるさとの川シリーズ1)

伊達 美徳
2011年

●母なる高梁川

 わたしのふるさとである高梁盆地の町は、高梁川がつくりだした地形の中にある。
 高梁川はその名のごとく高梁盆地の母である。 中国山地から流れ出して、 新見、高梁などの盆地をつくりながら、総社あたりで吉備平野をつくり、倉敷の南で瀬戸内海に注ぐ。

  高梁盆地はサツマイモのような形で、南北約2.5キロメートル、東西の最も広いところで1キロメートルほどである。 その西よりを川幅100~150メートルの高梁川が流れているから、街は川の東側にある。盆地の周りは標高4~500メートルの丘陵が取り囲む。

高梁の位置

高梁盆地全体 衛星写真グーグル


高梁盆地北部の旧城下町地域

 高梁川は、南の瀬戸内海の港から中国山地の奥地までを結ぶ、今で言えば都市間高速道路であった。江戸時代になって河川流通路として制が進み、物資と旅人を乗せた高瀬舟が行き来して、備中松山といわれた高梁の城下町に富をもたらした。
 街のある東の川岸(左岸)には船着場があり、流通物資をいれる土蔵がたちならび、旅人が泊まる旅館が繁盛した。川の港町であったので、街は川側を表にしていた。





 20世紀も四半分を過ぎて盆地の中に鉄道が開通すると、舟運は衰退していく。高梁川は街の表の顔ではなくなってくるのである。
 そして川はどこで もそうであるように、災害のもとでもあった。それが街と川の関係を決定的に変えた。1934年(昭和9年)の室戸台風による大水害が、母の記憶の大事件であったらしく、少年のわたしに語った。もちろん盆地の大事件で会った。

 母はその年の2月に、盆地内北東部の丘陵にある御前神社の宮司であった父と結婚して、川向こうの集落からやって来た。そして同年9月21日、降り続いた雨で高梁川と共に東西の丘陵の谷から流れ下る谷川からの濁流が氾濫し、高梁盆地のほとんどが水没してしまった。


 御前神社は丘陵中腹にあるので水害をまぬがれたが、高梁川の西岸沿いの小さな集落にあった母の実家も水没した。
 盆地の人々はあふれくる水をのがれて御前神社に避難してきた。新婚の父母はその救難と炊き出しでおおわらわになったという。

 この災害をくりかえさないように大土木工事がなされた。高梁川は大改修されて、石積みの舟の着く河岸から、急な絶壁の石垣とコンクリートの堤防にとってかわった。
 木の橋だった方谷橋は、 1937年にコンクリートの足の上に鉄のアーチで架け替えられた。 その頃から高梁川の舟運は鉄道にとってかわられて衰えたこともあり、街と川は疎遠になってくる。 

方谷橋渡り初め式行列の先頭に神官姿が4人、わたしの父もその中にいるはず
橋アーチ左上の御前神社の森の中に5月に生まれたばかりのわたしが居るはず



●広くなった川幅・短くなった方谷橋

 今、高梁盆地の高梁川には2本の橋が架かって、東西の町を結んでいる。下流側の「高梁大橋」は1972年に架けた、現代のありふれた鋼製の桁橋である。
 上流側の「方谷橋」は、上に鉄骨アーチをもっていて特徴ある形態だ。これは1934年の水害の後、1937年に架けている。上のアーチから、下の路盤面を支える直線の鉄骨主桁を吊っている形式である。

 でもよく見ると、路盤側の主桁もかなり立派なものだから、アーチと直線の桁とでつくる半月形の構造体で、これをランガー形式というらしい。
 土木学会のサイトで図面を見ると、半月の弦の長さは56メートルである。 アーチの両端部を、それぞれ橋脚が支えている。 それに加えて路盤を支える主桁が、アーチの両端から4.4メートルはねだし形式(カンチレバー)でもちだしている。土木の専門語で「下路カンチレバー状ランガー」形式というそうだ。

 それは皿という字の上を丸く描いた形である。その皿の下の一文字の先の両側に別の桁が、両岸との間に架かっている。 橋の総長さは99.9メートルだが、竣工時の 図面では110.7メートルとなっている。横から見ると左右対称である。

 方谷橋が竣工したときの1937年に写した記念写真がある。今の方谷橋と比べて見る。 大きな違いはふたつある。ひとつはアーチの先の東側の桁が西側のそれと比べて、10メートルほど短くなっていることだ。

 橋の主桁についている工事銘盤に1972年3月とあるから、このときに東側の桁を短縮し、左右対称が崩れた ということは、その年に川の東岸にある国道を10mほど拡幅したことになる。
 その拡幅分の川幅が狭くなるから、 それまでどおりに流水量を確保するためには、堤防を高くする必要があったのだろう。

 いまでは堤防の道からの立ち上がり高さが2メートルくらいになって、 街から川は見えなくなってしまっている。昔はそれが1メートルくらいだった。
 川岸の国道は広く、堤防は高く、川と街は切り離されたようだ。


 もうひとつの違いは、かつてあったおしゃれな高欄親柱が、今はなくなっていることである。橋には欄干などで構成する高欄がどこでもある。その一番端っこには大きな柱を立てるが、これ親柱という。親柱は橋の玄関の門のような役割をする。

 関東大震災の後で多くの鉄の橋がかけられ、そこには都市の風景としてのデザインが加えられるようになってきた。 方谷橋ができるころは、日本の橋のデザインもセンスがよくなってきたが、その片鱗を方谷橋でも見ることができる。ここでは当時の流行のひとつである表現派風の曲線が見えていて、アーチの曲線と共におしゃれなモダン風景である。

 それは両岸側共にあったのだが、今はどちらにもない。いつ頃なくなったのであろうか。無愛想なコンクリの塊に橋名板があるだけだ。 高いコンクリ塀となった堤防を土塀コピーするのも、まあ、よろしいが、国道拡幅でなくした親柱を復元してはいかがか。



●母の生家への橋

 橋の名「方谷」(ほうこく)の由来は、幕末の備中松山藩主に仕えて藩財政を立て直し、戊辰戦争による騒動を乗り切った、郷土偉人である山田方谷による。橋の西岸の丘陵には、方谷林と名づける公園もある。方谷林にはなんども遠足で行った思い出があるし、方谷橋には特に多くの思い出がこもっている。

 わたしの生家の神社から母の実家に行くには、ほぼ一直線に西に向かう。神社の坂道を下り、街の路地を抜けて、橋を渡ってすぐの集落の中の茅葺屋根の家に至る。
 わたしが生れる3年前、母はこの橋を渡って、神社の宮司である父に嫁いできたのであった。それより前に高梁川をはさんだ向こうとこちらの父と母の間にどういう縁があったか知らないが、この橋が二人を結んだことは確かである。

  母は花嫁姿で橋を渡ったに違いない。 そのときはまだ鉄の橋ではなく、木橋だったはずだ。下駄を履いた花嫁が橋の板の上を歩いて渡る風景を想像する。下駄の音が響いていたであろう。わたしは幼いときから何度もひとりでこの橋を渡って、母の生家に祖母を訪ねた。もちろん幼時には母に手をひかれて渡ったであろうが、その記憶はない。

 わたしはいつも渡りつつ段々と高くなるアーチのカーブを眼で追って、この上を歩くとどうなるのかなあと思ったものだ。
 これには少年のわたしが母から聞いた話が深層にあったように思う。 母は男3人女3人の5番目で、歳が離れた長兄がいた。その長兄が方谷橋のアーチの上を渡っていて、落ちて死んだというのだ。この橋が架かった1937年以降のことだから、母の年齢から推してその長兄は30代半ばを越して、もう十分に分別があるはずだ。なにがあったのだろうか。

 それを話した母は、なにか秘密を打ち明けたような雰囲気だったことを、わたしはかすかに覚えている。だからこそこの話を覚えているのかもしれないし、その後に確かめることをためらったままになったのかもしれない。
 考えてみれば、高梁川の両岸の二人が結ばれたことの証としてわたしがいるのだから、わたし自身が方谷橋なのであった。


●橋の下の遊泳空間

 方谷橋の下、コンクリート橋脚にも思い出がこもっている。今の子どもは川でではなくてプールで泳ぐそうだが、昔は夏が来ると子どもはみんな高梁川に泳ぎにいったものだ。
 街の上流から下流まで、川はどこでも泳ぐ長いプールであったが、そのなかで最も集まったのが、方谷橋の橋の下であった。

 方谷橋のあたりでは、街のある東岸側に水が流れていて深くなっていた。街と反対側の西側は広い河原になっていて、浅いところから段々と深くなっていく。
 まだ泳げない小さな子どもは、方谷橋を渡ってから河原におりて、浅いところで沢蟹やドンコという小魚を追ってあそぶ。 あるいはまた、水の中にはいつくばって底の石に足をつけ手をついて、ボチャボチャと泳ぐまねをしている。

 そうやっていると、自然に体が浮くようになり泳げる日が来る。わたしにも、そのはじめて浮いたときの記憶が明確にある。底についていた手が放れても、沈まない自分を発見したときの喜びは、自分が成長したような気がしたものだ。多分、小学校1年生ごろだろう。
 自信もって泳げるようになると、橋を渡らずに橋の東側の堤防にある階段を橋の下におりて、深い急流のところで泳ぐ。この深い急流を横断した先に方谷橋の橋脚があり、その根元には楕円形のコンクリートのベースがある。そこにたどり着くである。

 はじめはその横断がなかなかできないが、できるようになると一日に何回往復できるか競うようになる。コンクリートベースの上に寝転んで、橋の裏の鉄骨の組み方を興味深く眺めたものであった。暑くなって日陰に入りたいときは、橋の下しか影はない。

 成長するにつれて、泳ぐ場所もしだいにあちこち広がってくる。上流の街はずれに水練場と呼ばれる深く広いよどみがある。江戸時代の武士が水泳訓練したという。ここで大きな岩の上から飛び込んで、底の石を拾ってくる遊びに夢中になる。

 下流のほうには浅くて急流の瀬があり、そこを寝転んだままに流れ下るのが楽しかった。川の上流から下流まで泳ぎ流れていくのが一番の楽しい遊びだったが、これには問題があった。泳ぐ前には着ていた衣服を脱いで河原に置くのだが、自分が流れるとその出発点まで衣服をとりに歩いて戻らなければならない。これは流れ泳ぎの楽しみが長いほど、その後の苦労が大きくなるのだ。

  もっと大きな問題は、腹が減ることであった。食糧難の時代だから、今のように腹いっぱい食べることはできなかったのだが、子どもは遊びに夢中なると、空腹を忘れてしまう。はっと気がつくと、歩いて家に戻るのさえいやになるほどの腹ペコなっているのであった。
 空腹の記憶はつらいものがある。しかし、腹ペコで戻ってくる子に満足に食べさせてやれない親は、それ以上につらいものがあったに違いない。


●祭りの日の河原と舟橋

 高梁川には、毎年の暮れの2、3日間だけ出現する橋があった。下流部の街の反対側の西岸南方に稲荷神社があり、毎年12月の末頃だったろうか、例祭がある。商売繁盛と農業豊作の神様だから、近郷近在から多くの人たちがやってきて大賑わいとなる。だが神社のすぐ前は川で、橋ははるか上流か下流にしかない。

 だから東側の街からまっすぐに参詣できるように、神社のすぐ前の高梁川の深い淵の水の上に、川漁の小さな舟を連ねて板をその上にわたした臨時の橋が架かるのである。祭りの終わりと共に消える舟橋である。

 神社のあたりにはたくさんの露店や見世物小屋が立ち並んで大賑わいになる。街側の東の堤防から河原におりて橋まで続く臨時の道の両側にも、舟橋を渡って神社の下にも参道の石段の周りにも、たくさんの露店や見世物小屋が立ち並ぶ。

 蛇女や首だけ女とか怪しげな見世物の小屋掛け、玩具や小物を売る露店、口上を語って怪しげなものを売る香具師などなど、子どもには楽しくて仕方がない風景であった。
 戦後を引きずっている時代だから、白衣で松葉杖の傷痍軍人がアコーディオンを弾いて物乞いしていた。本物の乞食もいた。

 火事になった工場から持ち出したという煤だらけの万年筆を売る男は、去年もおなじことをやっていたから、毎年火事になるのかしら。
 真っ赤に錆びた包丁を研ぐ砥石売り、刀を振り回してしゃべる蝦蟇の油売り、これを通して見ると人間が丸裸に見えるという眼がね売り、などなど。

 自分の前に置いた大石がもうすぐ宙に浮き上がると言うが、いつまでしゃべっても待っても浮かない香具師は、いたいなにを売っていたのだろうか。
 幼なじみにずっと後に聞いた話、小学生の彼はその石が浮き上がるのを、何時間も根気よく待ちつづけていたら、ちょっと客が途絶えたときに香具師の男が寄ってきて、「頼むからもうどこかに行ってくれ、これをあげるから」と、小遣いをくれたという。

 そしてそれらの風景の背景としてわたしの記憶の奥底にあるのは、舟橋を渡る人々の下駄が板を打つ音である。ガ~ラガ~ラ、ド~ッド~ッと絶え間なく大きく、遠くまで遠雷のように響いていた。祭りへの招き太鼓のようであった。
 今から思えば、板の下につないで並ぶたくさんの川漁の木造小舟が、太鼓のような役割をしていたからに違いない。

 のちに能「舟橋」を観てこの稲荷祭りの舟橋を思いだし、あの恋が露見して悲劇になったのは、舟橋を渡る女の足音がつい大きかったせいかもしれないと思った。
 1972年に高梁大橋ができてからは、この橋は出現しなくなったにちがいない。

  かつて河原は、管理のない世界の無主の人たちの活躍の場であった。河原者といわれた小屋掛け芝居から歌舞伎が生れたように、アジールであったのが、いまや治水という管理下の堤防の中の閉じ込められてしまった。あの毎年末の突然の雑踏が河原に出現することはもうない。

 高梁川の河原に突然に出現して突然に消えるあの仮設の街、そしてその街がある間だけ響く遠雷のような舟橋の下駄の足音、幼かった遠い日のふるさとの幻の風景である。

●高梁川への想い

 高梁川盆地はまわりがすべて山であり、今でこそその山越えの自動車道があるが、かつでは高梁川が唯一の動脈であった。いや、高梁川に沿って走るJR伯備線と国道は、今でも重要な動脈である。

 この盆地を出るときは、伯備線に乗ってトンネルをくぐることから始まって、高梁川に沿いつつ下ってやがて倉敷平野に出るのである。逆に戻るときは、両側に迫る丘陵の間を高梁川に沿ってのぼってきて、トンネルを抜けると突然に広がる盆地に、ああ故郷だとの思いが広がるのである。

 あのトンネルを抜けるのは、高梁に出入りする儀式である。3回もの兵役に行った父も、3回ともそうやって生きて故郷の土を踏んだ。
 高梁川の水に身を浸して育った夏の日の少年の日々の思い出は、わたしをふるさとに深く沈潜させる。そしてまた、盆地の中で閉塞感にとらわれていた高校生のわたしが、この川を下ってはるか東国の外界に出て行ったときのことを思うと、わたしを解放してくれたのがこの高梁川なのであった。

 川を下ることこそが、少年のわたしの未来への方向であった。上流へ目は向かなかった。ところが、高梁の歌人・藤本孝子さんの歌集「春楡のうた」にこうある。

この川の上流はるかにもう一つ故郷のある心地する橋の上

 方谷橋の上で詠んだのだろうか。男は現実主義者で出てゆくべき都会のある下流しか見ないが、女は上流を眺めて物想うらしい。そして本当に源流を訪ねるのである。
 この歌集にはほかにもたくさんの高梁川が通奏低音のごとく登場、いくつかを挙げる。

大川が遊び場だった夏の日の陽射しもわたしの身体の記憶

高梁川に沿ふ高梁に我も子も孫も生きおり魚族のごとく

高梁川の深き淵なりし「稲荷前」浅瀬となりて釣人の見ゆ

思い来し高梁川の源流に今来たりたり掬いて飲まむ

 祭礼の日に舟橋のかかった「稲荷前」の深い淵が出てくる。そう、わたしたちの世代の高梁の少年少女は、高梁川とともに育ち、高梁川に導かれてこの町から出て行き、そして戻ったのであった。(2011/11/10記)

 ●関連→高梁分地の風景論集

2021/11/24

takahasi-kibityuo2011高梁盆地:故郷のオールドタウンとニュータウン


高梁盆地:故郷のオールドタウンとニュータウン
伊達美徳
(2011年)

 久しぶりに故郷の高梁盆地に行った。高梁川をさかのぼる伯備線で、倉敷から30分、典型的な盆地の旧城下町である。ついでに隣の吉備高原にある吉備中央町のニュータウンも訪ねた。新旧の都市訪問である。

高梁盆地と吉備中央町の位置


高梁盆地オールドタウンの現状

 まずは生まれ故郷の高梁盆地である。

高梁盆地の衛星写真

高梁盆地を北から南へ俯瞰する

 ここは映画「男はつらいよ」シリーズに登場する、いわゆる懐かしい町である。寅さんの義弟がこの町の出身となっている。上流武家屋敷町だった石火屋町にある豪壮な旧家のお屋敷が、その生家である。今回の訪問でその前を通ったら健在であった。

 少年のわたしは親に命じられて、なんどかこの家にお使いに行ったことがある。二つの玄関があって、どちらからはいるべきか悩んだものだ。

 その武家屋敷町は、かなり前から町並み保全と修景をしているから、いかにも城下町らしい風景である。観光拠点にもなっているので、いかにもそれらしい風景である。しかし、空家空き地が目立つようになっているのが気にかかる。武家屋敷町は空家空き地になっても、土塀で囲まれているから、一見したところでは町並みが連続している。

武家屋敷町(映画「男はつらいよ」に寅次郎の義弟の生家として登場した)

 だが、商家町では空き地が目立って、歯抜けになった町並みとなっている。かつての繁華街だった本町や下町の商店街は、商店街の体をなしていない。空き店舗と住宅の連続になっているが、その中のあちこちで空き地が目立つのである。駐車場になっているが、がらんとしてガラクタがおいてあり、草が生える。これは寂しい。

 これらの空き地には、元はといえば格子窓や連子窓の瓦屋根の堂々たる旧家が建っていたのだ。跡地に新たな住宅でも建ってくれればよいのだが、歯ヌケのままで寂しい。

 それは今に始まったのではないが、人口減少が止まらないからだ。旧市街地を中心とする合併前の高梁市の区域の人口が、1960年には約35000人いたが、現在は約24000人である。このさきも減少は止まりそうにない。空き地空家が出るのは当たり前である。

 ただし、面白いことに、市域人口は減っても、旧城下町の高梁盆地の中の人口は、18世紀中ごろから約1万人で、ほぼ一定であるらしい。いろいろ調べてみてそれがわかった。人口減少の日本で、これからも持続するのは盆地の街だと思っている。

商家の街並み(本町)

商家の街並み(紺屋町) 1994年

商家の街並み(上と同じ紺屋町、空き地になった)2011年

商家の街並み空き地(下町)

 高梁盆地には吉備国際大学があり、多くの若者が町に住んでいる。学生が町の中に住んでくれると、それは活力の源泉になる。
 学生用の中層共同住宅が、伝統的な町並みの中に建っている。それは町並みと微妙なバランスを保つ風景になっている。いちがいに新しい建築を排除することはない。

 商家の歯抜け跡地に学生アパートを建てればよいのにと思うのだが、少子時代でその学生たちも減少傾向にあるという。
 大学は街はずれの小高い山中にある。立派な白亜の校舎が山の中に立ち並ぶ。どうしてこんな傾斜地ばかりの不便なところにキャンパスをつくったのだろうか。土地が安かったのだろうか。

 それにしても、高梁が大学町のハイデルベルクに風景が似ているといっても、若者にとっては地方の田舎町だし、その上にまたこんな山の中では、学生が自分の生家よりも不便なところだと思って来なくなりそうだ。
 その上、少子時代で学生そのものの絶対数が減少するのだから、よほど魅力がないと来てくれないだろう。

山懐の傾斜地に建つ吉備国際大学の校舎

 ドイツの古都ハイデルベルクのように、街と大学とが一体になっているとよいのにと思う。キャンパスを街の中に移してはどうか。どこでも地方大学がよくやるように、ここでも大学が栄町の空き店舗を利用して、商店街活性化の活動をしていた。

 それはそれでよいのだが、もうやっているのかもしれないが、大学そのものの研究室、教室、クラブ活動の場として、空き地空家を積極的に活用してはどうかと思う。
 1、2階は大学の施設、上階に学生の住む住宅がある、そのような町屋が建つと街に活気が戻ってくるだろう。

ニュータウン吉備高原都市の現状

 その高梁盆地の東方に「吉備高原都市」なるニュータウンがある。わたしはニュータウンなど興味ないのだが、いまや幽霊タウンになっているという噂を聞いて興味が出て、訪ねてみた。

 高梁盆地から東の丘陵を登って、そのままの高さの高原(といっても標高200~500m)の林や田んぼの中をいく。
 岡山県が事業主体となって1973年から計画しはじめて、75年には用地取得、1980年建設事業着手した。
 現在までに約半分の区域の開発ができたが、それ以上の開発事業は経営的に成り立たずに、事実上凍結となっている。

 1988年から住宅の入居がはじまった。しかし、計画人口3万人の予定が、2000人ほどが現状である。このニュータウンはふたつの町にまたがっていたが、最近合併して「吉備中央町」(人口約13000人、約5500世帯)となった。つまり合併しても、吉備中央「市」になることができなかったのある。

高梁盆地の市街地と吉備高原都市の衛星写真

吉備高原都市全体の衛星写真
吉備高原都市の全体配置図

 林の中に「吉備高原ニューサイエンス館」なる大きな建物が現れた。だが、閉館してしまってはいれない。本日閉館ではなくて、県の財政難で経営が成り立たなくなって永久閉館したらしい。先端技術についての展示をしていたそうだ。もったいない。
 隣には「㈱林原生化学研究所」がある。たしか㈱林原は倒産したはずだが、研究所はやっているらしい。
 もうちょっといくと「国立吉備少年自然の家」があり、子どもの乗ったバスが来ているから、ここは閉鎖していないということだ。国立施設だからつぶれないだろう。

閉館したニューサイエンス館

 「吉備高原総合リハビリテーションセンター」は、労働災害による障害者のための医療と職業リハビリテイションを行うもので、実に立派な労働省系の施設のようだ。このニュータウン開発の基本に福祉社会の実現があったらしいから、それ相当の施設である。これだけ整った医療体制があると、地域に暮らす住民には安心である。

 ただ、気になるのは、ここは車がないと、ほぼくることができないことだ。バスが岡山と高梁からあるが、一日に各5便(休日3便)と本数が少ない。身体にハンディのある人は、誰かにつれてきてもらい、またつれて帰ってもらうしかないのが難点である。それはこの広い町に住む人たちにとっても同じである。

 福祉社会実現のひとつに、身障者を積極的に雇用すると評判のパナソニックの工場があるときいていたので、今もあるかと探したら、あった。
 工場団地に行ってみたが、用地の半分くらいは売れたようだが、残りはまだ草ぼうぼうの空き地である。価格を下げてもなかなか売れないらしい。何年か借りてくれたら、無償譲渡制度もあるそうだ。投げ売りか。

 住宅地を訪ねた。初期の分譲住宅地は豊かな緑が茂り、公園や道路に金をかけているし、住宅もリッチな様子が見える。バブル景気でけっこう購入者の競争率も高くて、高額所得者が住んでいるという。高原リゾートとしての立地でもあり、バブル景気のころは別荘として購入したひとたちもいた。

初期建設の住宅地

 それが次第に最近になるにつれて、よくある既製プレハブ住宅が建つ新興住宅地の風景となる。そして空き地ばかりが目立つのである。寂しい。
 初期の頃に入った人たちは、その頃は定年前か直後でも、いまは高齢者となっているだろう。高原の公共交通から遠いニュータウンの暮らしはどうなのだろうか。

空き地が目立つ住宅地

 そこでセンター施設の「きびプラザ」を訪ねた。これが驚くほど巨大で、金のかかった立派な施設である。ホテル、量販店、専門店、飲食店、事務所が入るのだ。3万人ニュータウンセンターとしての施設だからそうなのだろう。だが、これがなんだか寂しいのだ。節電か経費節減か照明が暗いし、利用者が見えない。

 量販店に入ってみたら、従業員ばかり。平日の昼間だからこんなものかとも思うが、それにしても経営がなりたつのか、そのうち閉店するのじゃあるまいかと、心配になる。ここが閉店したら、2000人の住民は買い物難民となってしまう。
 それにしてもこの施設の立派さはすごいものだ。巨大な広場があって、まわりを観覧席のようなものがとりまいている。全体の維持管理費だけでも大変な額だろう。

立派な広場を持つ「きびプラザ」

 公共開発だからだろうが、一般に公共施設、共用施設への金のかけかたが立派である。道路や公園も施設として立派だし、管理が行き届いている。手入れされた並木道も元からの林らしい緑の環境がすばらしい。民間開発とそこが違う。

 いっぽう、それだけに維持費が大変だろうと、また思うのである。その負担がどう住民たちにかかるのかしらないが、これだけ立派な環境でありながら、たったそれだけの人口しかいないとは、ぜいたくというか、もったいないというか、ためいきが出てくる。

 そして、町の人口の統計を見れば、毎年順調?に減少しているのである。2004年の合併時には約14500人、そのときに2010年予測値を約14000人としていたが、2011年の今は約13000人となっている。

 高梁盆地オールドタウンも空家空き地だらけだったが、どうやらこちらニュータウンも空家空き地が多いらしい。若いときは車での移動も楽だろうが、歳をとるとそうはいかない。次第に高梁盆地や岡山市などの街へと移っていくのが当然である。
 開発の基本にあった福祉計画の実現は、高齢者にはどう機能しているのだろうか。
 オールドタウンもニュータウンも空き地空家だらけ、多分これは全国的な傾向だろう。

 ところで、そのいっぽうでは、東日本大震災で全壊・半壊の建物は30000棟というから、このギャップをどう考えようか。2011年10月初めの時点で、避難中の人が約7000人だそうだ。このうちの何人かは高梁市か吉備中央町にもいるのだろうか。

 そしてまた、東京や横浜のような大都市では、ホームレスの人々が街の中にいる。
 かといって、震災避難者やホームレス者をそこに移転させればよいというものではない。そこで働いて日々の糧を得る手段があるがどうかとなると、小さな地方都市では簡単ではない。
 いきおい、年金生活者のリタイアなら誘致が可能かもしれないとなると、これはこれでいずれは元気のない住民となって財政負担になるという問題を抱えている。

 吉備高原都市の開発計画の見直しをしたレポートが岡山県のサイトに載っている。http://www.pref.okayama.jp/page/detail-6163.html
 そこには今後の都市整備の進め方がいくつか書いてある。「近未来体験都市」という新コンセプトが掲げてあるが、読んでみてもたいしたことは書いてない。はっきりいって特効薬はないようだ。

 問題は開発が遅れたままになっている後期計画(Bゾーン以降)の取扱いらしい。公的開発から民間開発へとシフトさせる意向が見えるが、さりとて人口減少時代にここにどのような新規開発が可能かとなると、考え込まざるを得ない。

 これからはニュータウン新規開発に投資するよりも、オールドタウンに投資する方が、比較すれば効果が高いだろう。しかし、これだけ投資したニュータウンがずるずると幽霊タウンになるも、あまりにももったいない。

 では、ニュータウンとオールドタウンとではどちらが、幽霊タウンになりやすいだろうか。それは多分、ニュータウンのほうだろうと思う。なにしろ、過去からのしがらみがないから、いつでも住民は出て行きやすいだろう。別の言い方をすれば、町の蓄積する文化の魅力の差である。

 しかし、オールドタウンだって油断はできない。高梁の人口減少はもう何年も止まらないし、これからも止まりそうにない。特に市街地では横ばいか微減だが、農村部での減少がいちじるしいのは全国的傾向と同じである。過疎地では人は住めなくなる。

 人口減少社会では、ニュータウンでもオールドタウンでもよいが、既成のまちに人口を積極的に移動させる政策を、かなり大胆におこなうことが必要である。
 過疎化が進む農山村集落ばかりか地方町村の再編政策として、これらの既成の街とリンクする移転作戦があるべきだろう。それは平成の大合併政策の延長上にあるのだ。

 高梁市の人口構成には他の地方都市にはない傾向がある。それは、大学があることによって、その若い学生たちの年齢人口が著しく突出しているいることだ。この傾向を今後とも保つことができるだろうか。ぜひとも保ってもらいたいものだ。
 歴史文化のある街と一体となった教育環境、それが文化財修復学科のような特色ある研究教育とともに育っていってほしいものである。(2011.10.18)

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2021/11/09

takahasi-nenpyo2012高梁盆地まちづくり歴史年表

高梁盆地まちづくり歴史年表
伊達美徳制作 2012年

印:筆者生家の御前神社関係

西暦774年 ●御前神社が現在地に遷座(「御前神社明細帳」)

859 八幡神社創建

1004 近似稲荷神社創建

1240 秋庭三郎重信が臥牛山大松山に城を築く。このころは高梁川は盆地の東を流れていた。城主や家臣団は東や西の標高60m以上の山腹に住んでいた。
●御前神社と八幡神社が松山城鎮守社となる

1331 小松山に築城

1333頃 高橋九郎左衛門宗康が備中守護職に任ぜられて城主となる。高橋であった地名を松山と改名:「高橋又四郎、実名知れず、元弘正慶頃居城の由。これまでは松山を高橋といえり。これより松山と改む」(寛政2年(1790)年版 柳井重法編著「備中州巡礼略記」)。しかしその後も高橋の地名が一部に残り、松山川は高橋川とも言われた。高橋を高梁というのは文人墨客の風雅の慣わしであり、頼山陽に1819年に「七月十五日夜高梁川に船を泛かべる」という漢詩を詠んでいる。

1356 高師秀が松山城主となる

1362 秋庭三郎重明が城主となる

1442 ●御前神社の今の社領が決まる:「人皇四十九代光仁天皇(中略)社領のため永代古瀬庄を当て給ふ」(「御前神社縁起1442」)
●この頃は高梁川は御前神社のすぐ東前を流れていたとの記述。「御前神社祭礼次第/神馬員数ノ事/従太守六疋被奉引之/従上房郡三十二疋奉引之/於神屋 二十一日 御馬揃/神輿一鳥井之前一町大川之端奉安置之御前神主奉捧神馬於鳥井之前三度引廻云々/文安元年三月中旬/名方神主/宗時 書 判」(「御前神社縁起1442」)
 高梁の町は高梁川西側の近似地区に開けていたらしい(東側が開けるのは1500頃か)

1509 上野頼久が松山城に入る

1533 庄為資が上野氏を滅ぼして松山城に入る。松山城をめぐり庄氏と三村氏抗争に毛利氏と尼子氏がついて戦う

1571 三村元親が庄高資をほろぼして松山城に入る

1574 備中兵乱、毛利軍が松山城をせめる

1575 松山城が落城、尾根小屋は炎上、三村元親が切腹、備前と備中は毛利の幕下となる。これより毛利と織田の覇権争いに。
 松山城城代は天野五郎右衛門、桂民部大輔

1583 寺町に龍徳院建立

1592 内山下に正善寺建立

1594 和田に道源寺建立 松蓮寺建立

1600 毛利氏が関が原の戦いに敗れて松山領を失い、小堀新介正次が備中代官となって松山に入り、頼久寺を整備して陣屋とする

1604 小堀政次が急逝し作介政一が継ぐ、頼久寺庭園整備

1614 小堀政一が松山城を修理

1616(元和4) この頃に川の東に町が開ける:「新町本町元和二年に出来、下町・鍛冶町元和四年に出来」(「松山御城主歴代記」)

1617(~1618) 小堀政一が近江浅井郡に転出、鳥取から転封してきた池田長幸が松山藩主になる。
 6万5千石の大名として大勢の家臣団を配置する都市計画。御根小屋下の高梁川と小高下川に囲まれる地区に本丁と川端丁を南北並行に設けて重臣屋敷地の内山下とし、出入りには4つの門を設ける。小高下側の南東山麓の御前丁、石火矢丁、片原丁、頼久寺丁、中之丁に家臣団上級武士の屋敷地。紺屋町川の南山麓に寺町、向丁、柿木丁などの士分の屋敷地、その他軽輩足軽には中間町、鉄砲丁
 武家屋敷の外に町人の本町、下町、新町、鍛冶町
 紺屋町川を城濠に見立てて番所や木戸を設ける 
 紺屋町川以北の家中屋敷を上家中、以南を下家中という
 家中屋敷の町名は丁(ちょう)、町屋は町(まち)と呼ぶ
 池田氏の家臣団人数は約400人

1621 ●御前神社は古くは小高下泉が丘にあったものを元和の初めに池田長幸が再建し、この年(元和7年)に現在地に奉還

1624 薬師院本堂建築

1639 水谷勝隆が下館から成羽に転封

1642 池田氏断絶、成羽から水谷勝隆が松山に転封5万石、この頃から小松山に築城、御根小屋完成、城下町整備

1643 松山城下の継舟制を定めた、新見ー松山ー玉島の河道完成

1648 松山踊りの地踊りが始まる

1650 新見まで河道を開く

1651(慶安4年)●御前神社に城主が時鐘を設置。その時鐘銘は以下の通り
「吾移住当城之後為教城下之士庶十二時候課干冶工鋳鳧金以奉納槨内御前大明神之賽前蓋知時即寺社不忘其勸矣時則四民不勤其業近境順法遠境効焉所冀天長地久国家安全除災與楽将来千億
   慶安四歳次辛卯九月吉祥日
    城主水谷伊勢守勝隆 敬白
      冶工當国小田郡高草
       惣領 彦之丞藤原守重」

1652 松山から新見まで高瀬舟が通じる

1655 明暦の大洪水で4・5mまで満水

1657 正連寺を奥万田から現在地に移設し本堂建築

1658 ●御前神社の時鐘制をしいた

1659 玉島新田開発、玉島築港、高梁川と結ぶ運河建設

1664 水谷勝隆が死んで隆宗が継ぐ

1670 南町を取り立てて牛市を開く、玉島干拓新田開発による牛馬の需要増。松山は流通拠点として繁栄
 南町と高梁川の間に下級武士居住地の弓之丁・鉄砲丁をとりたて

1683 御根小屋および小松山の松山城を改築

1684 大火

1685 鍛冶町の南に東町を取り立て、城下町の形成ほぼ完成

1693 家中屋敷216軒、444人  水谷家断絶、

1694 幕府が姫路本多家に命じて松山領を検地、表高5万石が11万石に、百姓も藩政も窮乏 
 領内人口105210人、検地による松山城下百姓5603人(男2959人、女2644人)、藩士家族1974世帯6043人
 浅野長矩が大石蔵之助らと松山に入り、松山城受取り

1695 上州高崎から安藤重博が新藩主として入封6万5千石

1711 山城国淀から石川総慶が移封

1721 享保の大洪水で3mまで満水

1744 水谷家退出時家臣屋敷338軒・338人、町家1148世帯・3597人(城下町概略世帯数1500戸・4000人)。
 伊勢亀山より板倉勝澄が入国して藩主に、このとき2900人が松山に入国(藩士が増えて城下町人口7,000人程度か)
 松山藩士子弟による松山踊りの仕組み踊りが始まる

1746 内山下に学問所

1751 城下大火

1756 城下大火190軒焼失

1768 城下大火88軒焼失

1793 八重籬神社創建

1830 八重籬神社を御根小屋馬場から移して現在地に建立

1831 学問所有終館を中之町に移す

1832 鷹匠町から出火、370軒消失

1836 大洪水・長雨で不作となり餓死者多数(天保の大飢饉)

1839 城下間之町から出火して600軒焼失、●御前神社も類焼

1849 板倉勝静が藩主になる、山田方谷を重用


1850 藩政改革7カ年計画はじまる

1853 鍛冶屋町取り立て

1864 ●御前神社社殿を焼失
 
長州征伐群に松山藩士も1958人が広島まで出陣(~65)

1868 朝命によりの備前池田藩による討幕軍に松山城を明け渡し、備前藩鎮撫使による統治

1869 板倉家2万石で板倉栄二郎勝弼が再興、高梁に地名変更、板倉栄二郎が高梁藩知事

1871 廃藩、高梁小学校創設

1872 郵便役所設置(鍛治町)

1875 岡山県となる

1877 ●御前神社拝殿再建(現存)

1878 上房郡役所、裁判所、高梁警察署設置、第八十六銀行設立

1880 風水害で近似から松蓮寺下まで浸水

1881 順正女学校開校、●御前神社本殿再建(現存)

1884 この頃、南町に芝居小屋「高楽座」

1886 風水害で3m余の浸水、死者十数人

1889 高梁町となる(人口5612人、1209戸)
 高梁キリスト教会会堂建設

1893 風水害で片原丁・石火矢丁のほかは浸水、水深3m

1895 高梁中学校開校(向町の安正寺内)

1896 順正女学校校舎建築(現存の順正寮)

1900 高梁中学校校舎が御根小屋跡に完成

1904 高梁小学校本館建築(現郷土資料館)
 桜を高梁川沿いに植えて名所の桜土手となる

1911 高梁町人口6681人、1561戸

1918 米騒動が高梁にも波及し難民救済活動

1925 高梁町人口6207人、1422戸
 伯備線備中高梁駅開設(この年の乗車人員143千人)

1926 伯備南線が開通

1928 伯備線が全通して山陰と山陽が結ばれた

1929 高梁町と松山村が合併して人口約10000人(旧高梁町6500人、松山村3500人)、約2000戸

1930 栄町など駅周辺の市街地が形成

1933 南町の高楽劇場が焼けて栄町に高梁劇場を建設

1934 室戸台風大水害で町の2100戸中1500戸浸水(床上1278、床下254)、死者26名、流失家屋54戸、倒壊家屋47戸、おおむね海抜70m以下は浸水、方谷橋流失、山際の寺社群は無事、●御前神社も避難所となり炊き出し

1937 日中戦争に400人余徴兵、戦死者も出て、この年から松山踊り中断  方谷橋が鉄橋で再建完成

1940 備中松山城を修復(天守、2重櫓、土塀) 
 ●御前神社の時鐘を軍事供出、290年の時鐘の響きが絶えた。瀬戸内海の直島にある三菱精錬所に運ばれた。(1945年夏に直島を捜索すれど不明にて溶解されて兵器になったか)

1941 松山城が国宝指定(戦後に重要文化財に指定替え)

1943 備北バス会社設立

1945 神戸、芦屋から学童疎開、芦屋市精道校から御前神社に初等科6年女20名と職員1名、頼久寺に学童男女143・職員8、金光教会に女21・職員1

1947 全国巡行中の昭和天皇が備中高梁駅前で町民を激励
 新制高梁中学校開校(校舎は当初は松山小学校、48年新校舎)

1948 高梁商工会議所設立

1949 高梁中学校と順正女学校を合併して高梁高等学校

1954 高梁市発足直前の人口12722人、3000戸
 5月、近隣9町村と合併して高梁市となり人口34275人、

1955 中井村を合併、人口37030人、7340戸
 人力車が姿を消した

1958 市庁舎完成

1960 松山城解体修理

1963 駅前貫通道路完成

1967 順正短期大学開学

1969 都市計画道路高梁駅柿木町線(城見通り)着工、国道180号改良工事を川端町付近で開始

1970 高梁北・南小学校統合

1971 風水害、伊賀町の順正短大の音楽教室全壊、伯備線が不通20日間

1972 旧高梁北小学校本館を郷土館として保存決定。高梁小学校が新校舎に移転。
 集中豪雨災害。高梁大橋完成。国道180号を4車線に拡幅

1973 伯備線が高梁岡山間を複線運転開始、高梁大橋架橋

1974 頼久寺庭園が重要文化財名勝指定、岡山県が「石火矢町ふるさと村」を指定

1985 国勢調査による都市計画区域人口18350人

1990 国勢調査による都市計画区域人口18387人

1995 国勢調査による都市計画区域人口18928人
 奥万田地区地区計画決定

2000 国勢調査による都市計画区域人口18845人、その内盆地人口約11000人

2005 国勢調査による都市計画区域人口18607人、その内盆地人口約11000人

(参考資料:「高梁市史」1979ほか)      (2012年作成 伊達美徳)

takahasi2012講演「美しい故郷に-高梁盆地の昨日と今日そして明日へ」

講演「美しい故郷に-高梁盆地の昨日と今日そして明日へ」  

2012年

伊達美徳

 故郷の高梁で、高梁盆地へのオマージュ「美しい故郷へ」と題して講演をしてきた。2012年2月5日のこと。
 少年時代をすごしてよく知っている町だが、その後の半世紀を越える時間をブランクにしている。
 個人的な印象きわまる少年時代の想い出の町を、都市計画を職能とする冷徹な目で眺めて話すという、ここでしかできない、今しかできない、そんな稀有な機会であった。

高梁盆地とアルテハイデルベルクとの相似の話もした

    ◆
 都市計画の仕事で訪ねた町で、いろいろ調査してその街の人に話すのは、客観的であるが他人事に終始する。聞いているほうも醒めているだろう。
 ところが故郷を話すのは、主観と客観の入り混じり具合を、自分でどうコントロールして話すか、これがなかなか難しいが、それだけに実に面白い経験であった。
 故郷にいる友人たちも、わざわざ帰郷してきて聞いてくれた旧友たちも、昔話のような、でも故郷の先々を語っているような、そんな気持ちで聞いてくれたようだ。
    ◆
 あらためて故郷の町を都市計画の目で調べて、新発見、再発見したことがあった。
盆地の北半分が藩政時代に築いた市街地で、南半分は田んぼであったところを太平洋戦争後に市街化したのである。
 つまり北半分は19世紀前半までにでき、南半分は20世紀後半以降にできたのである。この二つが合わさって高梁盆地の生活圏を構成している。
 ところが、その戦後市街地のあまりに都市計画のないこと、その反対に藩政時代の市街地の都市計画のあまりにありすぎること、その対照に驚いたのであった。
 それでもすごいことは、高梁盆地は、今まちづくりの最先端を行く見事なコンパクトタウンなのである。そう、一周遅れのトップランナーである。
    ◆
 もうひとつ驚いたのは、その盆地人口が藩政時代から現代まで約1万人ほどで、ほぼ変わらないで来ていることである。これをどう考えるか。
 もっとも、人口の数は変わらなくても、人口の年齢構成は大きく異なっている。いわゆるピラミッド型(若いほど人口が多い)であったのが、今は大きく肩幅を広げて下がすぼまった高齢者が多くて若くなるほど少ない形になっている。
 ところが、まるでバレリーナのスカートか腰のフラフープ(昔流行した)のごとくに、18歳から25歳のあたりだけが突出して人口が多いのである。大学生がいるからだ。
 さて、そのスカート層が、これからもいてくれる町を維持することができるか、勝負の時が来ているだろう。
    ◆
 人口の推移も面白い現象がある。
 行政区域人口は減少の一方である。今の高梁市の行政区域は、盆地の外の高原地域の町村と大合併して、とんでもない広い範囲となっているのだが、その高原区域の人口が減少するばかりだから当たりまえである。
 その一方で、都市計画区域人口は18000人強でほぼ変わらないできている。
 都市計画区域は、市域の中の3つの盆地を対象としているが、要するにそこが昔からの町村のそれぞれの中心なのである。高原地域から盆地へと移動をしているのだろう。
 これからも盆地が受け皿になるか、そこが勝負だろう。
    ◆
 故郷にはもう血のつながりは一人もいなくなった。だが、故郷を愛する幼ななじみの友人たちがいる。その一人が今回の講演の仕掛け人である。
 そして、なんと東京で知り合った岡山にいる都市計画の専門家が、この故郷で仕事をしているのに出会ったのだった。
 縁はつながる。故郷に感謝!。
 講演時間が足りなくていい足りないことばかり残った。
 話の最後は、川端五兵衛さんの言の受け売りで納めた。
 「死に甲斐のあるまちに!」

 講演資料(PDFの取り込みは下にある各添付ファイルの↓からどうぞ)
講演会広報リーフレット(pdf 282 KB)
講演会当日配布レジュメ(pdf 872 KB)
美しい故郷に-高梁盆地の昨日と今日そして明日へ
  講演原稿をもとに書き下ろしたブックレット (pdf 5286 KB)
同上ブックレット表紙(pdf 184 KB)
城見だより(公民館機関紙)

●参照→●ふるさと高梁の風景
    
まちもり通信 
 
   ●伊達の眼鏡