2021/12/06

takahasi-kawa2011高梁盆地の川と橋(高梁川:ふるさとの川シリーズ1)

高梁盆地の川と橋
(高梁川:ふるさとの川シリーズ1)

伊達 美徳
2011年

●母なる高梁川

 わたしのふるさとである高梁盆地の町は、高梁川がつくりだした地形の中にある。
 高梁川はその名のごとく高梁盆地の母である。 中国山地から流れ出して、 新見、高梁などの盆地をつくりながら、総社あたりで吉備平野をつくり、倉敷の南で瀬戸内海に注ぐ。

  高梁盆地はサツマイモのような形で、南北約2.5キロメートル、東西の最も広いところで1キロメートルほどである。 その西よりを川幅100~150メートルの高梁川が流れているから、街は川の東側にある。盆地の周りは標高4~500メートルの丘陵が取り囲む。

高梁の位置

高梁盆地全体 衛星写真グーグル


高梁盆地北部の旧城下町地域

 高梁川は、南の瀬戸内海の港から中国山地の奥地までを結ぶ、今で言えば都市間高速道路であった。江戸時代になって河川流通路として制が進み、物資と旅人を乗せた高瀬舟が行き来して、備中松山といわれた高梁の城下町に富をもたらした。
 街のある東の川岸(左岸)には船着場があり、流通物資をいれる土蔵がたちならび、旅人が泊まる旅館が繁盛した。川の港町であったので、街は川側を表にしていた。





 20世紀も四半分を過ぎて盆地の中に鉄道が開通すると、舟運は衰退していく。高梁川は街の表の顔ではなくなってくるのである。
 そして川はどこで もそうであるように、災害のもとでもあった。それが街と川の関係を決定的に変えた。1934年(昭和9年)の室戸台風による大水害が、母の記憶の大事件であったらしく、少年のわたしに語った。もちろん盆地の大事件で会った。

 母はその年の2月に、盆地内北東部の丘陵にある御前神社の宮司であった父と結婚して、川向こうの集落からやって来た。そして同年9月21日、降り続いた雨で高梁川と共に東西の丘陵の谷から流れ下る谷川からの濁流が氾濫し、高梁盆地のほとんどが水没してしまった。


 御前神社は丘陵中腹にあるので水害をまぬがれたが、高梁川の西岸沿いの小さな集落にあった母の実家も水没した。
 盆地の人々はあふれくる水をのがれて御前神社に避難してきた。新婚の父母はその救難と炊き出しでおおわらわになったという。

 この災害をくりかえさないように大土木工事がなされた。高梁川は大改修されて、石積みの舟の着く河岸から、急な絶壁の石垣とコンクリートの堤防にとってかわった。
 木の橋だった方谷橋は、 1937年にコンクリートの足の上に鉄のアーチで架け替えられた。 その頃から高梁川の舟運は鉄道にとってかわられて衰えたこともあり、街と川は疎遠になってくる。 

方谷橋渡り初め式行列の先頭に神官姿が4人、わたしの父もその中にいるはず
橋アーチ左上の御前神社の森の中に5月に生まれたばかりのわたしが居るはず



●広くなった川幅・短くなった方谷橋

 今、高梁盆地の高梁川には2本の橋が架かって、東西の町を結んでいる。下流側の「高梁大橋」は1972年に架けた、現代のありふれた鋼製の桁橋である。
 上流側の「方谷橋」は、上に鉄骨アーチをもっていて特徴ある形態だ。これは1934年の水害の後、1937年に架けている。上のアーチから、下の路盤面を支える直線の鉄骨主桁を吊っている形式である。

 でもよく見ると、路盤側の主桁もかなり立派なものだから、アーチと直線の桁とでつくる半月形の構造体で、これをランガー形式というらしい。
 土木学会のサイトで図面を見ると、半月の弦の長さは56メートルである。 アーチの両端部を、それぞれ橋脚が支えている。 それに加えて路盤を支える主桁が、アーチの両端から4.4メートルはねだし形式(カンチレバー)でもちだしている。土木の専門語で「下路カンチレバー状ランガー」形式というそうだ。

 それは皿という字の上を丸く描いた形である。その皿の下の一文字の先の両側に別の桁が、両岸との間に架かっている。 橋の総長さは99.9メートルだが、竣工時の 図面では110.7メートルとなっている。横から見ると左右対称である。

 方谷橋が竣工したときの1937年に写した記念写真がある。今の方谷橋と比べて見る。 大きな違いはふたつある。ひとつはアーチの先の東側の桁が西側のそれと比べて、10メートルほど短くなっていることだ。

 橋の主桁についている工事銘盤に1972年3月とあるから、このときに東側の桁を短縮し、左右対称が崩れた ということは、その年に川の東岸にある国道を10mほど拡幅したことになる。
 その拡幅分の川幅が狭くなるから、 それまでどおりに流水量を確保するためには、堤防を高くする必要があったのだろう。

 いまでは堤防の道からの立ち上がり高さが2メートルくらいになって、 街から川は見えなくなってしまっている。昔はそれが1メートルくらいだった。
 川岸の国道は広く、堤防は高く、川と街は切り離されたようだ。


 もうひとつの違いは、かつてあったおしゃれな高欄親柱が、今はなくなっていることである。橋には欄干などで構成する高欄がどこでもある。その一番端っこには大きな柱を立てるが、これ親柱という。親柱は橋の玄関の門のような役割をする。

 関東大震災の後で多くの鉄の橋がかけられ、そこには都市の風景としてのデザインが加えられるようになってきた。 方谷橋ができるころは、日本の橋のデザインもセンスがよくなってきたが、その片鱗を方谷橋でも見ることができる。ここでは当時の流行のひとつである表現派風の曲線が見えていて、アーチの曲線と共におしゃれなモダン風景である。

 それは両岸側共にあったのだが、今はどちらにもない。いつ頃なくなったのであろうか。無愛想なコンクリの塊に橋名板があるだけだ。 高いコンクリ塀となった堤防を土塀コピーするのも、まあ、よろしいが、国道拡幅でなくした親柱を復元してはいかがか。



●母の生家への橋

 橋の名「方谷」(ほうこく)の由来は、幕末の備中松山藩主に仕えて藩財政を立て直し、戊辰戦争による騒動を乗り切った、郷土偉人である山田方谷による。橋の西岸の丘陵には、方谷林と名づける公園もある。方谷林にはなんども遠足で行った思い出があるし、方谷橋には特に多くの思い出がこもっている。

 わたしの生家の神社から母の実家に行くには、ほぼ一直線に西に向かう。神社の坂道を下り、街の路地を抜けて、橋を渡ってすぐの集落の中の茅葺屋根の家に至る。
 わたしが生れる3年前、母はこの橋を渡って、神社の宮司である父に嫁いできたのであった。それより前に高梁川をはさんだ向こうとこちらの父と母の間にどういう縁があったか知らないが、この橋が二人を結んだことは確かである。

  母は花嫁姿で橋を渡ったに違いない。 そのときはまだ鉄の橋ではなく、木橋だったはずだ。下駄を履いた花嫁が橋の板の上を歩いて渡る風景を想像する。下駄の音が響いていたであろう。わたしは幼いときから何度もひとりでこの橋を渡って、母の生家に祖母を訪ねた。もちろん幼時には母に手をひかれて渡ったであろうが、その記憶はない。

 わたしはいつも渡りつつ段々と高くなるアーチのカーブを眼で追って、この上を歩くとどうなるのかなあと思ったものだ。
 これには少年のわたしが母から聞いた話が深層にあったように思う。 母は男3人女3人の5番目で、歳が離れた長兄がいた。その長兄が方谷橋のアーチの上を渡っていて、落ちて死んだというのだ。この橋が架かった1937年以降のことだから、母の年齢から推してその長兄は30代半ばを越して、もう十分に分別があるはずだ。なにがあったのだろうか。

 それを話した母は、なにか秘密を打ち明けたような雰囲気だったことを、わたしはかすかに覚えている。だからこそこの話を覚えているのかもしれないし、その後に確かめることをためらったままになったのかもしれない。
 考えてみれば、高梁川の両岸の二人が結ばれたことの証としてわたしがいるのだから、わたし自身が方谷橋なのであった。


●橋の下の遊泳空間

 方谷橋の下、コンクリート橋脚にも思い出がこもっている。今の子どもは川でではなくてプールで泳ぐそうだが、昔は夏が来ると子どもはみんな高梁川に泳ぎにいったものだ。
 街の上流から下流まで、川はどこでも泳ぐ長いプールであったが、そのなかで最も集まったのが、方谷橋の橋の下であった。

 方谷橋のあたりでは、街のある東岸側に水が流れていて深くなっていた。街と反対側の西側は広い河原になっていて、浅いところから段々と深くなっていく。
 まだ泳げない小さな子どもは、方谷橋を渡ってから河原におりて、浅いところで沢蟹やドンコという小魚を追ってあそぶ。 あるいはまた、水の中にはいつくばって底の石に足をつけ手をついて、ボチャボチャと泳ぐまねをしている。

 そうやっていると、自然に体が浮くようになり泳げる日が来る。わたしにも、そのはじめて浮いたときの記憶が明確にある。底についていた手が放れても、沈まない自分を発見したときの喜びは、自分が成長したような気がしたものだ。多分、小学校1年生ごろだろう。
 自信もって泳げるようになると、橋を渡らずに橋の東側の堤防にある階段を橋の下におりて、深い急流のところで泳ぐ。この深い急流を横断した先に方谷橋の橋脚があり、その根元には楕円形のコンクリートのベースがある。そこにたどり着くである。

 はじめはその横断がなかなかできないが、できるようになると一日に何回往復できるか競うようになる。コンクリートベースの上に寝転んで、橋の裏の鉄骨の組み方を興味深く眺めたものであった。暑くなって日陰に入りたいときは、橋の下しか影はない。

 成長するにつれて、泳ぐ場所もしだいにあちこち広がってくる。上流の街はずれに水練場と呼ばれる深く広いよどみがある。江戸時代の武士が水泳訓練したという。ここで大きな岩の上から飛び込んで、底の石を拾ってくる遊びに夢中になる。

 下流のほうには浅くて急流の瀬があり、そこを寝転んだままに流れ下るのが楽しかった。川の上流から下流まで泳ぎ流れていくのが一番の楽しい遊びだったが、これには問題があった。泳ぐ前には着ていた衣服を脱いで河原に置くのだが、自分が流れるとその出発点まで衣服をとりに歩いて戻らなければならない。これは流れ泳ぎの楽しみが長いほど、その後の苦労が大きくなるのだ。

  もっと大きな問題は、腹が減ることであった。食糧難の時代だから、今のように腹いっぱい食べることはできなかったのだが、子どもは遊びに夢中なると、空腹を忘れてしまう。はっと気がつくと、歩いて家に戻るのさえいやになるほどの腹ペコなっているのであった。
 空腹の記憶はつらいものがある。しかし、腹ペコで戻ってくる子に満足に食べさせてやれない親は、それ以上につらいものがあったに違いない。


●祭りの日の河原と舟橋

 高梁川には、毎年の暮れの2、3日間だけ出現する橋があった。下流部の街の反対側の西岸南方に稲荷神社があり、毎年12月の末頃だったろうか、例祭がある。商売繁盛と農業豊作の神様だから、近郷近在から多くの人たちがやってきて大賑わいとなる。だが神社のすぐ前は川で、橋ははるか上流か下流にしかない。

 だから東側の街からまっすぐに参詣できるように、神社のすぐ前の高梁川の深い淵の水の上に、川漁の小さな舟を連ねて板をその上にわたした臨時の橋が架かるのである。祭りの終わりと共に消える舟橋である。

 神社のあたりにはたくさんの露店や見世物小屋が立ち並んで大賑わいになる。街側の東の堤防から河原におりて橋まで続く臨時の道の両側にも、舟橋を渡って神社の下にも参道の石段の周りにも、たくさんの露店や見世物小屋が立ち並ぶ。

 蛇女や首だけ女とか怪しげな見世物の小屋掛け、玩具や小物を売る露店、口上を語って怪しげなものを売る香具師などなど、子どもには楽しくて仕方がない風景であった。
 戦後を引きずっている時代だから、白衣で松葉杖の傷痍軍人がアコーディオンを弾いて物乞いしていた。本物の乞食もいた。

 火事になった工場から持ち出したという煤だらけの万年筆を売る男は、去年もおなじことをやっていたから、毎年火事になるのかしら。
 真っ赤に錆びた包丁を研ぐ砥石売り、刀を振り回してしゃべる蝦蟇の油売り、これを通して見ると人間が丸裸に見えるという眼がね売り、などなど。

 自分の前に置いた大石がもうすぐ宙に浮き上がると言うが、いつまでしゃべっても待っても浮かない香具師は、いたいなにを売っていたのだろうか。
 幼なじみにずっと後に聞いた話、小学生の彼はその石が浮き上がるのを、何時間も根気よく待ちつづけていたら、ちょっと客が途絶えたときに香具師の男が寄ってきて、「頼むからもうどこかに行ってくれ、これをあげるから」と、小遣いをくれたという。

 そしてそれらの風景の背景としてわたしの記憶の奥底にあるのは、舟橋を渡る人々の下駄が板を打つ音である。ガ~ラガ~ラ、ド~ッド~ッと絶え間なく大きく、遠くまで遠雷のように響いていた。祭りへの招き太鼓のようであった。
 今から思えば、板の下につないで並ぶたくさんの川漁の木造小舟が、太鼓のような役割をしていたからに違いない。

 のちに能「舟橋」を観てこの稲荷祭りの舟橋を思いだし、あの恋が露見して悲劇になったのは、舟橋を渡る女の足音がつい大きかったせいかもしれないと思った。
 1972年に高梁大橋ができてからは、この橋は出現しなくなったにちがいない。

  かつて河原は、管理のない世界の無主の人たちの活躍の場であった。河原者といわれた小屋掛け芝居から歌舞伎が生れたように、アジールであったのが、いまや治水という管理下の堤防の中の閉じ込められてしまった。あの毎年末の突然の雑踏が河原に出現することはもうない。

 高梁川の河原に突然に出現して突然に消えるあの仮設の街、そしてその街がある間だけ響く遠雷のような舟橋の下駄の足音、幼かった遠い日のふるさとの幻の風景である。

●高梁川への想い

 高梁川盆地はまわりがすべて山であり、今でこそその山越えの自動車道があるが、かつでは高梁川が唯一の動脈であった。いや、高梁川に沿って走るJR伯備線と国道は、今でも重要な動脈である。

 この盆地を出るときは、伯備線に乗ってトンネルをくぐることから始まって、高梁川に沿いつつ下ってやがて倉敷平野に出るのである。逆に戻るときは、両側に迫る丘陵の間を高梁川に沿ってのぼってきて、トンネルを抜けると突然に広がる盆地に、ああ故郷だとの思いが広がるのである。

 あのトンネルを抜けるのは、高梁に出入りする儀式である。3回もの兵役に行った父も、3回ともそうやって生きて故郷の土を踏んだ。
 高梁川の水に身を浸して育った夏の日の少年の日々の思い出は、わたしをふるさとに深く沈潜させる。そしてまた、盆地の中で閉塞感にとらわれていた高校生のわたしが、この川を下ってはるか東国の外界に出て行ったときのことを思うと、わたしを解放してくれたのがこの高梁川なのであった。

 川を下ることこそが、少年のわたしの未来への方向であった。上流へ目は向かなかった。ところが、高梁の歌人・藤本孝子さんの歌集「春楡のうた」にこうある。

この川の上流はるかにもう一つ故郷のある心地する橋の上

 方谷橋の上で詠んだのだろうか。男は現実主義者で出てゆくべき都会のある下流しか見ないが、女は上流を眺めて物想うらしい。そして本当に源流を訪ねるのである。
 この歌集にはほかにもたくさんの高梁川が通奏低音のごとく登場、いくつかを挙げる。

大川が遊び場だった夏の日の陽射しもわたしの身体の記憶

高梁川に沿ふ高梁に我も子も孫も生きおり魚族のごとく

高梁川の深き淵なりし「稲荷前」浅瀬となりて釣人の見ゆ

思い来し高梁川の源流に今来たりたり掬いて飲まむ

 祭礼の日に舟橋のかかった「稲荷前」の深い淵が出てくる。そう、わたしたちの世代の高梁の少年少女は、高梁川とともに育ち、高梁川に導かれてこの町から出て行き、そして戻ったのであった。(2011/11/10記)

 ●関連→高梁分地の風景論集

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