2023/03/12

sizuoka2010静岡:徳川家康の街の今と門前町の盛衰

静岡:徳川家康の街の今と門前町の盛衰

伊達美徳 2010年6月

●ガス爆発地下街のその後

久しぶりに静岡を訪ねた。(NPO)日本都市計画家協会静岡支部の街道街並み研究会で、静岡浅間神社の門前町である浅間通り商店街を訪ねる目的であった。
だがその前に見たいところがある。駅から地下道に入って駅前広場の下から「紺屋町地下街」に入る。
ここは1980年にガス爆発から大火災となって、多くの死者が出たところであった。地下店舗から地下道に店を開けていた構造だった。地上部のビルまで火災は広がった。


 共同ビルだったので、その復旧は大いにもめて、長らく廃墟の姿を見せていた。今回、通ってみると復興していて、あのとてつもない非日常的な風景は、小綺麗な店が並んでいた。わたしはそこの定食屋で昼飯のズケ丼を食った。

それはよかったが、ここまでくるにはどのような経緯があったのだろうか。この大事故によって、地下街建設にかかる法規制が非常に厳しいものとなり、その後の各地の地下街建設に大きな影響を及ぼした。

●常緑の街路樹

 次は地上に出て、呉服通り商店街を行く。静岡一番のショッピングモールだが、わたしの興味は、その街路樹である。ここの街路樹は、珍しくも常緑広葉樹なのである。40年くらい前であったか、この通りの街路樹を植え替えて、そうしたのであった。


 普通の街路樹、特に商店街では花が咲いたり、葉が紅葉する落葉樹が多いのに、ここはあえて常緑樹にしたのであった。常緑広葉樹とは、四季を通じて緑の葉葉が茂る樹種で、シイ、クス、タブ、アラカシ、シラカシなどである。これらは静岡地方の本来の植生なのである。時に誤解があるので書いておくが、常緑といっても同じ葉が四季を通じて茂っているのではない。初夏に落葉して入れ替わる。

 植えてしばらく経った頃に見にきたことがあるが、それが今はどうなっているか興味があった。

 それなりに大きくなっているが、普通の山や公園などで育っていたら、もっと大きく30mくらいの高木になっていただろう。街路樹では剪定されるから、あまり大きくはなっていないし、葉張りも狭いのはしかたがないか。
 どこか肩身の狭い思いで育っているのが、残念である。道の真ん中に植えて、堂々と育ててやりたいと思う。
 ところで、通りの一部で工事中であったが、地元の都市計画家に聞いたら、ハナミズキに植え替え中なのだそうだ。常緑樹ではなにがよくなかったのだろうか。

●時代を超えて生きるまちづくりの成果

 紺屋町通りでは、街路樹と共に興味あったのは、モールの両側にある連続した共同建築の店舗である。
 みたところ1950年代後半なら60年代に、全国各地で事業をおこなった防火建築帯もしくは建築防災街区事業によるものであることは確かだ。


 そろそろそれらが建て直される時期に来ているが、ここ静岡では立派に現役の商店街としては働いているのは、横浜の伊勢佐木モールと同様である。
 かつて静岡は日本のまちづくりの模範生であった。その頃につくった都市の基盤となる道路や建物が、今も時代を超えて生きているのは、当時を知る者として嬉しい。

●静岡は徳川家康の町であったか

 このたびは地元の商店街の経営者の人たちや、静岡の都市プランナーたちと一緒であったので、わたしはなにも知らない静岡の歴史について学ぶことが多かった。
 そのなかで、特にわたしの無知が恥かしいが、ここは徳川家康で持っているのであった。徳川家康というと、静岡あたり出身であるらしいことは分かるが、やっぱり江戸でしょうよ、と思っていたのだ。ところが征夷大将軍をたったの2年で退いてからは大御所といわれて、静岡つまり駿府で10年間も実質的に政治の実権をもっていたののであった。天皇家ならば院政である。

 江戸初期の静岡は、日本の政治中心であったのだ、と、静岡の人たちは思っているようだ。浅間神社商店街できいた歴史的な話にも、徳川家康、金地院崇伝、林羅山などが地元の人として登場するのである。徳川様の町である。

 家康号、竹千代号という名のボンネットバスが、浅間神社商店街を走っている。徳川家といえば、徳川慶喜は敗軍となって静岡に蟄居したが、このとき江戸から観世流能役者たちが家元ともども静岡に移った。おなじように学者も移って来て、「静岡学問所」ができたそうである。
 ほかにもその時代の一流どころが移ってきたすれば、維新前後の静岡は一時的にせよ、日本でもかなり高い文化的状況であったのだろう。それは今の静岡に続いているのだろうか。

●静岡浅間神社

 今回訪問先の浅間神社も、その徳川家がらみで有名なる神社であると、はじめて知った。境内には19世紀はじめに建てられた社殿建築26棟もが、重要文化財指定となっている。これもわたしは恥ずかしながら知らなかった。
 家康といえば日光、日光といえば陽明門というように過剰装飾を想起するが、ここでもまさにそれである。特に神部神社大拝殿は、大屋根の上に一層の楼閣を構えていて、朱塗り柱梁と木彫の装飾は、建築的な大きさとともに過剰なまでに派手である。


 この拝殿がメイン建築であろうが、どうもプロポーションがよくない。頭でっかちなのである。拝殿大屋根の長さがもう少しほしい。
 その前にある総門もかなりの装飾だが、これは寺院の山門そのままの形である。鎌倉八幡宮の随神門と同じようだ。これはプロポーションが良い。

 かつては神仏習合であったらしく、建物の各所に仏教建築のデザインがある。わたしが気持ちよく見ることができた重文建物は、回廊であった、その素直な伸びやかさが、現代の目で見ると好もしい。本殿に近づけないが残念であったが、いずれの重要文化財建物も、徳川家の権勢を誇示する、まことに非日常的な装いである。


 八千矛神社の境内参道に茅の輪が作ってあり、くぐって厄落としをする夏祭りがもうすぐだそうだ。わたしの生家の神社でもつくってたので、ちょっと懐かしかった。


●門前町の商店街は今

 さて今回の目的の浅間通り商店街である。まさに浅間神社の門前町の位置にある。もっとも、神社の総門の前に位置していないから、言葉としても門前町ではない。
 歴史的にどのような理由があるかわからないが、総門前の通りからこちらに門前町が移ったのだとすれば、街の構造が変わったのであろうか。

 門前町といえば思い出す。江ノ島弁天、鎌倉八幡宮、浅草観音、大須観音、清水寺など、猥雑になんでもかんでも飲み込んで、雑多な街並み風景を持っている。あるいは門前町を持っていない社寺でも、祭りのときは露店や見世物小屋が出てきて猥雑な風景をつくるのである。門前町はどこか非日常的な猥雑性をそなえているのが本来の姿である。
 それは寺や神社に参拝することが、一種の非日常的レクリーションであったからだ。例えば伊勢参りの後には、近くで精進落としの遊郭が欠かせないのであった。門前町は面白い 、大好きである。期待して行った。

 ところが、ここ浅間通り商店街の門前町は、なんだかえらくすっきりして清潔な風景なのである。呉服町通りよりも清潔である。
 まず電線地中化によって視界に電柱も電線蜘蛛の巣がない。近代工業デザインとしてまことにすっきりしたアーケードで、不ぞろいの家並みの顔は視覚を遮られる。鳥居をアレンジした デザインのいくつかのゲートは行儀よく立ち並び、街路樹は低く剪定されて通りの見通しはよい。


 良くも悪くも全体がひとつにすっきりとまとまっていて、猥雑なところはなにも見えないし、猥雑な商売がありもしない。この街としての個性的な表情が見えない。それはわたしにとっては期待はずれであった。ここはもう門前町ではなくなっている。ふつうの寂しい近隣商店街になったのだ。

 日曜日なのに商売休みの店が多い。いや、日曜日だからこそ休むのか。それでも、さすがに初詣のときだけはものすごい人出らしいから、そのときは瞬間的に昔の非日常的な猥雑な門前町に戻るのであろう。瞬間的といえば、ボンネットバスが走っている瞬間の商店街には、突然に猥雑な風景が浮かび上がった。


●門前町のこれからは

 さて、これからどうなっていくのだろうか。浅間神社への団体観光バスはけっこうやってくるらしいが、神社そばの駐車場に入るから商店街に観光客が流れてこないという。これと同じことは、前に出雲大社に行ったときにも聞いた。そして大社の門前町も寂れきっている。●参照→松江なかなか出雲ぼろぼろ

 神社と門前町との間に協力関係があるのか、ないのか、そのあたりで決まるのだろうか。今の清潔さのままでは、門前町としては復興できないような気がする。何か徹底的に門前町らしい猥雑なる仕掛けをするか。現代の猥雑は、もちろん昔のそれとは違うのだが、。

 いまでも小さな猥雑さとしては、買い食いがありそうだ。山田長政がこの町の出身であるという。そうだ、タイのアユタヤから持ってくるなにか猥雑な種があるかも、そう、金色に輝くスツーパなんて極彩色のあの社殿に似合うかも、。
 町内に共同住宅の建設によって居住人口が増加していると聞いたが、それを商店街の消費人口として取り込めば、近隣型商店街としては救いとなるであろうとは思うのだが、、。

 近隣型としても門前型としても、道幅が広すぎて両側町の面白さにかけてしまっている。一方通行ならば車道をもっと狭くして、街路樹も植えてくださるとそれなりの雰囲気が出ると思うのだが、、。(2010.06.29)

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