父の十五年戦争(第4章)支那事変記録

父の十五年戦争‐神主通信兵伊逹真直の手記を読み解く(第3章からつづく)
第4章 支那事変記録(河北省1938年~)

1.日中戦争本格的開始 

●時代背景

 国際情勢は日本はワシントン条約を破棄し、中国では1934年の国際連盟脱退までして傀儡政権を打ち立てた満州国を、1935年3月には溥儀を皇帝に立てて帝政をしき、きな臭いことになりつつあった。1936年には、国内では1月にロンドン軍縮会議を脱退し、二・二六事件がおき国内もきな臭いことになる。

 中国ではしだいに深入りしてくる日本軍に対抗するために、乱立する国民党、共産党、軍閥の対日戦線を統一する動きが西安事件を機会に進んできた。
 1937年7月7日には北京郊外で日中軍小競り合いの盧溝橋事件が起きた。和平工作を無視した現地軍が戦火を開き、ついに支那事変と呼ばれる日中戦争に本格的に入った。
 8月には日本軍が上海爆撃をおこなうって戦争状態に入った。日本軍は中国を見くびっており、局地戦で勝てば国民党政府は簡単に降伏するものと考えていた。しかし中国戦線は北京、天津から上海、南京へと空爆を伴って拡大していった。 12月に日本軍は首都南京を陥落させたが、悪名高い大虐殺事件がおきた。

 岡山の歩兵第十聯隊は1937年8月から、赤柴八重蔵隊長に率いられて中国戦線で戦いだした。戦功も上げたが犠牲者も多大であり、鬼赤芝と恐れられた。のちに1945年に真直はこの赤柴が司令官の第八十四師団の通信隊員となる。
 1938年1月には「蒋介石を対手とせず」の近衛宣言で、日中和平の道を閉ざしてしまい、中国軍は決戦を避けて退避とゲリラ戦の長期戦に入り、戦線は泥沼化していく。4月には国家総動員法が成立して戦時体制へと突き進む。40年開催決定していた東京オリンピックも返上を決めた。

●再度の応召・師団通信隊

 そのような状況のもとで、遂に真直に再度の中国戦線への召集礼状が来た。今回は戦場の日記はない。しかし、真直の遺品の中から、手紙の下書きらしきものが出てきて、戦中のことが書かれていた。
 その手紙の文中に71歳のときとあるから、1981年と思われる。神社関係者が読む新聞の「神社新報」に掲載された高砂神社宮司が記した戦記を読んで、同じような体験をしたので、懐かしくなって手紙を書いたらしい。


高砂神社宮司あての手紙下書きの一部 1982年

 この手紙を実際に出したかどうかも分からないが、真直の支那事変以後の戦記はこれだけしかない。最後のあたりに太平洋戦争時代のことも少し書いている。これをもとにいくつかの関連資料と突合せをしてみることにした。この手紙下書き記入に、遺品にある写真、軍履歴書そして一般戦記等の資料を加えて、時系列に沿って書く。

1938年
・6月22日 充員召集により歩兵第十連隊補充隊に応召(軍履歴書、自筆履歴書)
・6月23日 第百十師団通信隊に編入(軍履歴書)
・6月29日 岡山真備女学校で第百十師団通信隊編成(写真)
・7月4日 妻子及び兄源実の家族と会う(写真)
・7月   北支第七師団通信隊(大神部隊)に入隊

 この大神部隊に入隊のときに、命じられて神職の装束を持参したらしい。それはこの前の満州事変当時に真直が軍隊内の祭事で神式の祭司を何度も務めた実績を買われたのであろう。

<大神部隊とその名の如く敬神の念篤き部隊長にして、命により装束持参した次第です>(手紙)


赤印は真直が駐留した所

●天津

 前回の満州事変の兵役のときの中国滞在は、戦火拡大を避ける中央の方針にそって、いったん入った河北省からすぐに撤退して、東北地方の吉延省間島局子街に移駐していた。しかし、今回は堂々と河北省に入り、1937年7月の盧溝橋事件のすぐあとに日本軍が占領した北京東方の天津に駐留した。
 真直の所属する部隊は、前回の満州事変では聯隊の通信班であったが、今回は師団に直属する通信隊であり、師団間や聯隊との通信を受け持つ役割である。

・7月8日 宇品港出発
・7月13日 塘沽上陸、天津着(軍履歴書)、天津付近の警護にあたる
・8月   天津西方の慶応蛇鎮付近の戦闘で身近に戦死者発生し神葬の祭司
・8月27日 天津南開大学広場にて大神部隊福田茂霊神祭(写真)

北支天津付近の警護にあたる内、昭和十三年八月、部隊のみで一ヶ大隊を編成し、天津西方十粁慶応蛇鎮付近の戦斗に於て、我身辺にビュンビュンツボツボと敵弾の落下の中を突進中、二人前の上等兵の腹部から 大腿部に貫通し、矢弾の中を「戦友」の歌さながらに物陰に引きずり、捲脚絆をとき包帯し、後方に送り「どうか生きていてくれよ」と頼みしその甲斐もなく、翌日戦斗終りにて帰れば、病院に運ぶ間もなく御亡くなりしと聞くも哀れでした。早速そのあくる日、我々が前日使用した対空通信連絡の布板を兵舎の壁に吊し、吊取り用の竹を両方立て祭段を設け、御遺骨を安置し戦利品清龍刀・小銃等を飾り、懇に神葬祭を執り行いました。あまりにも近くで戦死した戦友のことが思い出されて、祭詞も涙に咽び奏上した記憶が思い出されます(手紙)

 今回はあらかじめ神官の装束を持ってくるようにと命令された。さっそくその役目を務めて、8月には身近の戦闘にでた戦死者の慰霊祭の祭司を詰務めた。
 国民党や共産党軍のゲリラ的活動の討伐を行っているが、ほかにも危険なことがあったのかもしれない。



●長女・英子の死

 高梁の留守宅では9月13日に英子が感染症ジフテリアにかかって、3年半の短い生を閉じた。母には痛恨のことであり、死んだ子の歳を数えるように、あの子は可愛らしく賢い子だったと言っていたのを、何回かわたしは聞いた。

 母にはもうひとつの事件があった。9月20日に弟の田中参三が臨時招集された。松江の歩兵63聯隊補充隊に応召し、興安北省海拉爾で中国戦線に行き、1940年3月に無事帰還した。参三叔父は後にフィリピンで戦死するが、そのことは最終章を参照のこと。

 この度の兵役には、真直は英子誕生で買ったカメラを携えて行ったらしく、スナップ写真が多い。真直の所属した大神通信隊は、写真から推察して天津南開大学に本部を置いており、そこに真直はいたようである。


2.保定 1939年

●神主通信兵

 1939年1月に天津から保定に移駐した。保定は河北省の省都であり、日本軍が1937年9月に占領した。

・1月?日 保定に移駐。9月まで城内警備。兵舎にて慰霊祭執行の祭司を務める
・5月?日 兵舎にて慰霊祭執行の祭司を務める
・11月?日 石家荘に移駐し周辺警備にあたる 
・11月23日 将校集会所落成式典を祭司を務める
・12月   兵舎にて慰霊祭の祭司を務める(手紙)

 保定で部隊は、中国軍のゲリラ的な戦闘(討伐といった)の危険な戦場に出かけている。真直の属する師団通信隊は直接戦闘ではなく通信連絡、通信線路の設置や修理である。通信隊は、通信の線路を作る建築兵、物資を運ぶ輸送兵、連絡業務の通信兵からなっている。真直は古年兵の通信兵だから本部に居ることが多かったのだろうか。
 通信業務とは別にあいかわらず神職の務めもしていて、部隊は討伐に出ていて敵襲で死者が出たが、真直はその時に師団司令に神事に呼ばれてで出かけていたためにたすかり、神主稼業が命を救ったと手紙にある。

同年十一月より曲陽方面の討伐に参加中、師団司令部よりウナ電にて「将校集会所落成式の為直ちに石家荘に帰隊すべし」との命を受け、11月23日盛大に執り行ないました。祭儀終り後、直会の席にて貴殿の記事と同じく師団長・旅団長・参謀長以下綺羅星の如く将校ばかり並ぶ中に、田舎の村幣大社の社掌の私が師団長の次に列ばされ、恐れおののいたものでした。尚、当日未明、我分隊は通信線補修作業中敵襲を受け、隊員一名戦死の報に接し、偶然とは言へ我身替となりし戦友にひそかに礼を述べし記憶もありました。(手紙)



●中国の神社

 保定神社の前で写した写真があるが、神社はなにか既存の煉瓦造らしい建物の前に、和風木造の瓦屋根で破風と組み物もある式台玄関口のような建物を付加している。こうやって占領各地に神社を造っていったのだろうか。仏教寺院はどうしたのだろうか。
 「1939年、大日本帝国陸軍は従軍神職制度を定め、各師団に3名、兵站監に2名、独立旅団に1名を配した」(wikipedia)そうだから、真直もその制度の適用になったのかもしれない。


3.石家荘 1940年

●紀元二千六百年

 1939年の中国戦線は南方の広東省、広西省へと拡大していった。拡大しすぎて手に負えなくなる戦線を撤収する案はあったが、いつも強硬派に押しきられた。
 1939年11月に真直の隊は石家荘に移駐した。ここは1937年10月に日本軍が占領した交通の要衝にあり、現在は保定にかわって省都になっている都市である。

 1940年の初めには、支那派遣軍は総勢85万人にもなり、日本の総軍事費は国家予算の64パーセントにもなった。
 中国戦線は拡大を続け、5月から揚子江を遡って宜昌へと侵攻し、ここを飛行中継基地として国民党政府のある重慶への無差別爆撃を進める。延びきった戦線は収拾がつかなくなり、中国側からは和平の動きはなく、日本が仕掛けた陰の和平工作も失敗、戦争の目的は分からなくなりつつあった。

・4月29日 賞勲局より支那事変に於ける功に依り勲七等青色桐葉賞及金参百円を授章(章状)
・5月20日 陸軍兵長に昇格
・6月   大神隊編成2周年記念式典の祭司を務める

六月には大神部隊編成二周年記念式典を、営庭に土俵を作り吊取用竹を四本立て、組色の対空布板を水引幕とし祭段設け、執行った後、相撲大会を行いしこともありました>(手紙)

・9月15日 勅令581号により陸軍上等兵(軍履歴書)
・10月7日 戦死者葬儀の祭司を務める(写真)
・11月10日 石家荘神社にて紀元二千六百年祭の祭司を務める
・12月30日 石家荘神社で戦病死者慰霊祭執行(手紙)

十二月三十日大神部隊長転属の命下り、部隊最後の合同慰霊祭を石家荘神社より正式の幕祭壇三方五色絹等など借用し、営庭に祭場を設け、師団長の来臨を願い大神部隊長祭主となり、花輪も3対も立て盛大に執行いし写真が、今も尚手先にあります。尚、他部隊の合同慰霊祭にも、一度だけお手伝いに行ったこともあります。この時は師団長用の車に黄旗を立ててお迎いを受け、衛兵が捧銃をしてくれたのには苦笑いたしました>(手紙)


●石家荘神社神主

 他の歩兵と比べて通信隊は比較的安全といわれたが、加えて本業の神職が身を助けたようだ。死者の多く出るところでは祭儀が多くおこなわれるから、神職のほかに僧侶も必要である。最初から儀式用の装束を用意せよと指示されて戦地に向ったのである。少なくともその祭祀を執り行なう場所は戦線ではないから危険確率は比較的低いことになる。

 この年、日本軍は揚子江の両側に広がる中原地域を侵攻し、更に南へ徐州、揚子江沿岸の漢口、武昌へと進み、黄河と揚子江に挟まれた中国中央地域を制した。
 これで東北地方も含めて日本軍の占領エリアの面積は、中国全土の47パーセントに及び、これまでの日本軍の戦死者は4万7千人、中国側は負傷を含めて200万人以上の損害であったという
(「図説日中戦争」太平洋戦争研究会 2000年 河出書房新社)

 紀元二千六百年の記念式典をおこなった石家荘神社では、宮司不在のため退役後はここで勤めるようにと現地の居留日本人に頼まれたという。

丁度それ以前迄に石家荘神社に奉仕していた神職の方が北京神社に転勤せられた為に、奉仕者なく私に命が下りた次第です。居留民会より、満期後は再三同神社に残って奉仕してくれる様依頼されましたが、郷里の者とも相談してどうしようかと思案しましたが、今にして見ればお断りしていてよかったと思っています(手紙)

 軍主催の祭祀で神官は待遇がよかったので気持ちが傾いたのか。もし実現していたら、家族を呼び寄せただろうから、わたしは残留孤児になったかもしれない。

●御前神社の紀元二千六百年祭

  西暦の1940年が日本の記紀神話の神武天皇即位の年から2600年目となるので、紀元二千六百年式典を日本各地、植民地、占領地でその祝典を催した。
 真直不在の郷里高梁の御前神社でも紀元二千六百年を記念して、1940年1月1日に時鐘を2600回撞く行事をおこなった。わたしにはこのとき2歳8か月、大勢の人が家に出入りしており、鐘の音が聞こえていた人生最初の記憶がある。
 この鐘はその12月に戦争の兵器材料の金属として軍に寄附(供出といった)されてしまった(写真)。翌年から強制供出制になるので、早期の自主的な戦争協力であったらしい。

 戦争が終わった翌年の1946年の夏、その鐘の捜索に行ったことがあった。
 父の真直と伯父の源実さん、それに両方の息子(私と智さん)の4人で、瀬戸内海の直島に、まだ鐘が無事かもしれないと、さがしに行ったのである。直島にの三菱精錬工場に各地から釣鐘など金属類を集めて、
溶融して兵器に作り直した。
 各地から集められながらも終戦により溶融を逃れた無数の釣鐘の群れが、草木ひとつない禿げた島の野天広場に、累々と並んで夏の太陽に照らされていた。そのなんともシュールな風景が少年の記憶にある。背丈より高い釣鐘の林を歩き回ったが、御前神社のそれは見つからなかった。

 御前神社にあった時の鐘の起源は、1651年に松山藩主水谷勝隆が設けたというから、江戸時代から撞いていたのであろう。江戸期は鐘撞き担当の藩士がいたそうだが、その後は神社の神主がその役目だった。何時が撞くべき定時であったか知らないが、父がいない戦時中は母が撞きに鐘撞堂登っていた。幼児のわたしは夜の留守番が怖かった。1940年から鐘が無いままの木造高楼の鐘撞堂は、少なくとも1937年は建っていた写真があるから、いまや老朽化して倒壊の危険があるらしい。文化財として保存対象になるか興味あるところである。


●帰還

・1月1日 順徳にて紀元二千六百年記念式典・官民合同慰霊祭の祭司
<一月一日順徳にて忠魂碑前にて、軍官民共同にて三千余名参列して紀元二千六百年記念式典並に慰霊祭を執行>(手紙)
・5月6日 補充交代内地帰還のため河北省石門出発
・5月10日 塘沽出帆
・5月16日 大阪上陸、第54師団通信隊に転属
・5月19日 陸軍伍長
・5月20日 召集解除(軍履歴書)、内閣恩給局に軍人恩給を請求(恩給支給願)

 5月になってようやく高梁に帰還して、御前神社社掌に復帰した。3年前に出発のときは二人いた子どもが一人になっていた。

(昭和十六年)六月二十日には兵員交代で無事帰還し給える。長女英子比女出征中に四才の幼子にて死去し、再び会うこともなきは哀にこそありけれ(誄辞)

●営門伍長

 前回の満州事変から帰還のときに上等兵になったのは営門を出る直前であったが、今度も同じく昇進は「営門伍長」であった。
 師団司令部の通信隊にいてしかも神主をやっていては、前線で敵を殺すような戦功がなかったからだろうか。それは殺伐たる戦地での一時の平和に役立ったのかもしれない。

小銃を笏に代え、有合せの物をかき集め祭壇を作り、一冊の参考書で祝詞をよくもこんなに作ったものだと、我ながら感心している次第です(手紙)

 

4.束の間の平和 1941年ー43年

●旅行、句会

 1941年の夏であったと思うが、父母夫婦でわたしを連れて大阪、東京に旅行をした記憶がある。断片的にしか覚えていないが、いくつかの親戚らしきところを訪ねた記憶がある。
 いずれも母の関係であったらしいが、明確に覚えているのは母の兄・田中謙治郎の家を東京大田区の池上に訪ねて、従兄弟たちと玄関で線香花火をしたこと、池上線だろうがどこかの駅で迷子になりかけたこと、駅ホームで父だけ乗って発車し母とわたしが置いてけぼりになったことなどである。

 1942年2月13日に3番目の子・捷春が生まれ、5月5日にはその誕生祝の俳句会を催している。戦後も句会を社務所を会場にして定期的に催していた。
 真直の俳号は柏雨で、遺品の色紙に「清流をきそいてのぼる若き鮎」と、うまくもない句がある。その文字は実にうまい母の手で、ほかにも色紙があるのにうますぎて読めないのが情けない。その句作のDNAは4番目の子の晴行が継いだ。


●神社と戦争

 ところで、神社制度は戦争遂行のための国家のシステムのひとつになっていたらしいことは、戦死者を祀る靖国神社や護国神社に典型的に見ることができる。
 社掌の任命は県知事であったことが、真直のその書類で分かるように、行政のシステムに入っていた。しかし、官幣大社や国幣大社はともかくとしても、地方の小さな神社神道の村社がどれほどの戦争協力をしたかはよく分からない。氏子総代にそのような人がいれば熱心だったであろう。

 夏秋の祭礼や宮参りなどの各種の行事と共に、兵役者の安全祈願や戦果報道に対応して戦勝祈願などの祈祷が日常的におこなわれるのは自然である。
 例えば、1943年1月1日に「大東亜戦争第二年目完勝祈願祭」で、仲間たちと高梁川に入って水垢離する写真がある。
 いつごろからか戦争が終わるまで、神社境内の広場南端に弓道の矢場を設けていた。父も弓を引いていたから、この頃からだろう。
 広場は主に近くにある順正高女
(今の順正短大)か技芸女学校(今の日新高校)の生徒たちが弓道練習の場としていた。武道が盛んだった時代である。

 こうして高梁の伊達家では、1943年末までの2年半、戦中ながら束の間の平和があった。しかし、

昭和十七年二月二男捷春氏誕生なされしも、またまた大東亜戦争起り、昭和十八年十二月召され・・・>(誄辞)

参考文献

・「図説 中日戦争」太平洋戦争研究会2000 河出書房新社
・「日中戦争3」児島襄 文芸春秋社

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