「父の十五年戦争」第5章からのつづき
●真直と紙一重の差の運命
わたしの父・伊達真直と、母・さめ、それらの兄弟あわせて4人のうち、第2次大戦に参加したものは、真直と母方の叔父・田中参三(さんぞう)さんの二人だけらしい。この二人は、すれ違い的に生死を分けたのであった。
真直の戦争のことを調べていて、この参三叔父のことも知りたくなって、その一人娘である磯田道子さんにいろいろと聞いて教えてもらったので、父の戦争に加えてここに記した。
参三叔父は「捷号作戦」のフィリピンで戦死した。その戦場の実情が分かったのは、なんと戦後も40年も経ってのことだったそうだ。
1944年8月8日、田中参三叔父は門司港からラバウルに向けて出港し、途中のフィリピンで戦死したのであった。
それはまさに真直の隊が属する第八十四師団も、ラバウル方面への輸送船を待機していた同じ時である。真直の師団は船が来ないので結局は内地にとどまった。二人の運命は同一の線上にありながら、ほんの少しの差で命運を分けた。
以下は、田中参三の一人娘である磯田道子氏が、その母つまり参三叔父の妻である田中芳野さんから聞いた話と、送ってくださった関連資料の戦死公報、軍の履歴書、葉書、「坂東部隊-編成の由来と戦闘経過の概要」(坂東康夫)、その他マニラ戦線の一般資料による記述である。
フィリピンにおける日本軍の戦いに関する記録は数多いのであるが、この田中参三の戦場に関する一般資料は、いまのところ見つからない。
●田中参三の兵役
田中参三は、母の弟として1913年生まれである。その2度にわたる兵役は、岡山県が管理する軍履歴書によれば次の通り。
・1938年9月 臨時召集のため歩兵第六十三聯隊補充隊に応召
・1939年9月~40年2月 興安北省海拉爾
・1940年3月 召集解除、帰還
・1944年7月28日 臨時召集歩兵百五十四聯隊補充兵に応召
8月8日 門司港出帆
8月25日 マニラ上陸
11月15日 独立歩兵第37大隊銃砲隊に編入
12月1日 陸軍上等兵
・1945年5月5日 陸軍兵長、陸軍伍長
5月5日 比島ルソン島モンタルバン東側高地にて戦死
わたしの生家である御前神社で撮影した、セピア色になった写真がある。参三、その母・津也(わたしの母方の祖母)、姉・とら(わたしの伯母)、妹・さめ(わたしの母)、そしてわたし(3歳)が一緒に写っている。
1939年9月の中国戦線へ行く前に撮ったものであろう。
わたしは祖母と伯母にはかわいがってもらったが、参三叔父の記憶は無い。祖母は息子の戦死公報を受け取った1948年に他界した。参三叔父は、2回目の兵役の前の1940年11月に藤森芳野と結婚した。この結婚式は田中家でおこなわれて、母と出席してその日は泊まったわたしが夜中に起き出して、「オヨメサンミル~」、と言った話がある。
1943年3月に長女の道子が生まれた。1944年7月に参三が佐世保に山仕事で出向いているときに召集令状が来て、連絡がつきにくく入隊2日前にようやく連絡がとれた。
佐世保から入隊当日の朝7時に岡山駅につき、前日から妻・芳野の姉の家に集合して待っていた家族と親戚に逢ってあわただしい別れののち、近所で借りた自転車で9時ぎりぎりに岡山の聯隊に入営した。
1939年に中国に行く直前、御前神社での記念写真らしい。
母、姉二人、そして甥(わたし2歳)。
1944年8月8日に、門司港から出帆してボルネオに向う途中で、フィリピンのマニラで下船、上陸させられた。兵器を受領するために、兵団の一部を残留させたものらしい。 このとき日本に帰る一人の兵に「元気ピンピンしている。アトカタズケデ(以下不明)」のメモをことづけた。家族にとってはこれを最後に参三は戦場の中に行方不明となった。 1948年4月15日に戦死の公報がきたが、参三の死を証拠づけるものは、何も来なかった。
●田中参三の戦場
それから43年の月日が流れ、1987年1月になって、初めて参三の戦場の状況がわかった。当時の参三が属した部隊の隊長であった坂東康夫氏から、戦場の手記が送られてきたのであった。手記は、こう書きだしている。
『敗軍の将兵を語らず』ということもありますので、38年間沈黙を守っていましたが、昭和58年の比島巡礼以来、慰霊と留魂のため、唯々事実の梗概を記すことにしました。
また手紙には、遺族の住所がこれまで分からなかったので、連絡できなかったともある。 それにしても、遺族にとっては、あまりに時を隔てた感がある。ただし、これを読んでも、参三個人の行動はまったく分らない。
その手記「坂東部隊-編成の由来と戦闘経過の概要 坂東康夫」(参加兵士の記録集『マニラ東京高地戦跡巡礼と留魂』元小林兵団坂東部隊(臨時歩兵第7大隊 同配属部隊))によって、参三叔父の戦場を見よう。付図は坂東手記掲載のもの。
1944年夏、坂東は北満州から上海を経てマニラの第1師団にいた。この師団は1944年10月末にレイテ島での決戦に向ったが、坂東を含む内118名が残置した貨物の整理のために、マニラに残留した。ところが後で追う予定が、戦局から不能となった。
そこで12月にマニラ防衛司令部は、ほかの残留部隊も寄せ集めて、坂東を隊長とする330名の臨時歩兵第七大隊、通称坂東部隊を編成した。他の同様の大隊とともに小林兵団を編成してマニラ防衛に当ることになった。
推察するに、このときに参三叔父も歩兵154聯隊の残留部隊にいたため、この坂東部隊に編入されたのであろう。 それは坂東手記に、「あそこにボルネオへ追及できなかった1個中隊がおる。あれをやろう」と、隊の編成時にマニラ司令部参謀から指示されたとあるからである。
なお、公文書である軍の履歴書には「独立歩兵第37大隊」とあるが、これは坂東手記にある正式名の「臨時歩兵第7大隊」の間違いであろうか。
小林兵団のうちの振武集団はマニラ東部防衛を担当し、坂東部隊は12月25日からマニラ東方マリキナに橋頭堡をつくって、来襲するアメリカ軍に備えて守備にあたる。
1945年1月にアメリカ軍はルソン島にリンガエン湾から上陸して南下し、2月3日からのマニラ争奪戦は市民を巻き込んだ市街戦となり、1ヶ月でアメリカ軍が制圧した。
日本軍の戦死者は約12000人、アメリカ軍は戦死者1020人と負傷者約5600人であった。市民の犠牲者は約10万人といわれる。
坂東部隊の小林兵団は、1月21日からマリキナから東方に移動して、マリキナ川右岸の85高地に陣地を構築する。やってきたアメリカ軍と戦うが、敵軍の兵站の質と量、余裕の戦術に彼我の差を知った。
2月12日、マリキナ川東方台地上の第1線陣地(右下図)に後退、アメリカ軍の掃討戦で追われ、2月22日には更に東方のモンタルバン川ワワダム両岸の千秋山(日本軍が作戦上で命名)付近の第2線陣地に後退、4月13日には坂東部隊本部を千秋山に移す。
5月5日、千秋山付近一帯で坂東部隊はアメリカ軍と激しい直接戦闘状態にはいった。この日に、参三叔父は、「モンタルバン東方千秋山にて戦死と認定せられました」(1948年4月10日付岡山県民生部世話係調査課発の田中芳野宛て葉書)。
激しい戦闘の中で、どうしてこの日とわかるのか。後の1948年4月15日に戦死の公報があり、届けられた遺骨箱の中にあったのは、白木の位牌だけであった。
●坂東部隊の悲劇
このあと坂東部隊は、さらに東へと作戦として第3線陣地に移る。坂東手記には作戦で移ったと記述してあるが、要するに米軍に追われて山中を逃げ回ったのであった。(下の3枚の地図はいずれも坂東手記に掲載)
マニラ東部の千秋山、マリキナ川、ワワダム、モンタルバン川付近のまさに坂東部隊の戦場に設営した兵站病院の衛生兵だった人(学校教師)の著述である。よくある戦争体験作文ではなく、ドキュメンタリータッチで、わたしは一気に読んだ。
これを読むと、ルソン島の日本兵士たちは食糧も武器もなくて散り散りに逃げ回り、悲惨きわまる状況となったことは、大岡昇平が小説にしたレイテ島と同じであったらしい。
この終戦間際のあまりに悲惨すぎる敗残と飢餓の物語は、ここで肉親を失った人は読むのを躊躇するだろう。しかし坂東手記には、その片鱗も書いていない。
『比島山中 彷徨記』には、坂東部隊が登場するので、その一部を引用する。食糧の米がある兵站病院兵と、何も無い坂東部隊の敗残兵たちが、高地の芋畑跡で出会った場面である。
雨に濡れてドッシリ重味を増した荷物を下した私達は、疲れ切った身体を小屋の床に横たえながらしばらく休息した。
さっきみた斜面の天幕小屋について、森井軍曹は堀口見習士官に聞くと、彼は苦りきった表情で説明した。
「実は坂東隊の連中が、ガン張っていて離れないんだ。奴らはずっと前からここに居たんだから、立ち退く理由はないと言っているんだ。でも奴らがこの高地に執着するのは無理もないんだな。もう奴らは一粒の米もない。だからここにいると、ほとんど掘り尽してなかなか出てこない芋なんだけれど一日中必死になってさぐっていれば、たまには猫の尻尾くらいの芋がみつかることもあるんだ。そんな時は、それこそ糞にたかった金蝿のように集まって奪い合うんだ。それに葉がまだ沢山残っているので、それを塩ゆでにして常食にしているんだよ。そういうことを知っているから、俺は奴らを立ち退かせることが辛くて、そのままにしてあるんだが、まあ、そのうちには片が付くだろうがね。」(中略)
山の斜面に群居している坂東隊員の数は、おおよそ数十人でしかもその約半数は瀕死の重症にある患者であった。その他も辛うじて歩行できる程度に憔悴した者ばかりであった。彼等は大地に根が生えたように、頑として動かなかった。(中略)
竹薮をかき分けてあらわれたのは、顔の浮腫んだ痩身の年若い兵であった。彼は私達の姿をみとめて、一寸たじろいだ様子をみせた。がすぐ、私達へ示す漠然とした反感をこめた虚勢ともとれる態度で、洗い場めざして近づいてきた。手に飯盒を下げているところをみれば、やはり彼も夕食の支度として芋の葉でも洗いに来たに過ぎないのであろう。
しかし、私はいち早く彼の眼が私達の飯盆の中に注がれていることを、彼の眼の異様な輝きで察した。瞬間、彼の顔がくずれるように歪んだ。そして唇を強く噛んで、身体を微かに震わせた。私は罪を犯した者のように彼を正視できなくて、首を垂れた。彼の姿をみなくても、不公平な現実に対し、燃えたぎる呪咀をこめて、私達を射すくめている彼の眼の表情を感じていた。すると突然、叩きつけるような叫びが発せられた。
「こんな戦争ってあるもんか! 俺は満洲事変にも、支那事変にも出征したが、こんなみじめな戦争を経験したことはない。今度の戦争は負けいくさだ、!」
語尾を号泣するようにして叫んだ彼は、引きつった顔をふり上げて、宙の一点を凝視した。(中略)
私達がこの高地にやって来てから数日の間に、衰弱しきった坂東隊員の患者は次々に斃れていった。屍は彼らの仲間の誰も片付けないで、そのまま放置されていた。もっとも、生き残っている彼らには整理するだけの気力は尽き果てていたので、結局私達が埋葬しなければならなかった。(159p~170p)
6月27日には、掃討作戦はほぼ終わったと見たアメリカ軍が引き揚げて行き、7月22日に再び千秋山に坂東部隊は集った。
坂東たちは地元ゲリラと米軍飛行機におびえながら、自生の芋、草、虫などを食って生を保った。8月25日頃に敗戦を知り、9月13日に武装解除され捕虜収容所に入れられた。
このとき部隊は元の4分の1の86名になっていた。坂東康夫は1946年1月に帰国して、40年間も沈黙を守って敗走する戦況を語らなかった。いや、悲劇を語れなかったのだ。
一方、わたしの父の真直が当初所属していた岡山歩兵第十聯隊の主力部隊は、1944年7月から台湾の防衛に出かけ、更にフィリピンルソン島ヘ移動、1945年3月からアメリカ軍と戦った。聯隊兵員3162名中ノ生還者は、わずかに220名であった(歩兵第十聯隊史)。
(追記2016/09/17)このマニラ方東部戦場の現在の様子などについては、マニラ在住の方の下記のブログ「pinsan フィリピン ナビゲーター」に詳しい。そこに掲載されている写真2枚を、了解を得て引用した。http://blogs.yahoo.co.jp/isonedoko/35585417.html
●「父の15年戦争」目次へ *「伊達ファミリー」トップページへ
0 件のコメント:
コメントを投稿