2021/08/17

sensou2000少年の日の戦争

少年の日の戦争
伊達美徳
(2000年)

●わたしも戦争を語る世代に 

 近ごろある人から、戦争を知っている世代に戦争を語らせて、インターネットで流そうという企画をたてたから、わたしにその語り部のひとりにとなれという話が来ました。商業目的でもなく行政でもなく、ボランティア仲間でやりたいのだそうです。
 わたしに戦争を語れとは、63歳にしてついに語る側の世代になったのだと感慨を深くするばかり。それがそう言われても、あながち的外れでもないとも、自分で思ってしまうのが困るような、当然なような。
 ちょうどよい機会なので、この際、戦争当時とその後のドサクサを思い出して、誰かに語るように書いておきましょう。実際にこれを他の人に語るかどうかはさておいて。

 わたしの敗戦時の年齢は8歳3ヶ月、その1945年8月15日の記憶は、小さいながら鮮明にあります。少年の目から見る戦争はそれなりにありますが、なにしろ生まれ育ったのが、世にも平和な備中の盆地の田舎町(岡山県高梁町)ですから、これまでの戦争体験を語る主流たる、都会型被災や引き揚げ型悲劇とはかなり異なります。しかし、大人のどたばたを見ていた、幼いながらもどこか冷めた少年の目で、田舎の戦争とその後始末を語るのも面白いかもしれません。

高梁盆地を北上空から見る

 少年のわたしが戦争からうけた最大の災難は、食べる物がなかったことです。遊びざかり育ちざかりで腹ぺこなのは悲惨なものです。わたしが生まれ育ったのは、町の氏神とされる神社の神主の家でした。その神社の所有する広い田畑が町の中の離れたところにあり、小作人に貸していましたから、戦争直後までは、多分、裕福だったのだろうと思います。
 境内にある神輿蔵の中には、 春夏の祭礼の神輿と並んで、大人の背丈よりも高い大きな小作米を入れる金属製タンクが二つありました。戦後の農地開放制度の施行で、その田畑を小作人に強制譲渡(低額でしかも長期割賦の債券でした)となった後は、蔵のタンクは空になりました。

 それからの飢えが、わたしへの戦争の与えた唯一ながらも大災害でした。田畑の代金の債券は、インフレでたちまち価値をなくしました。ある時、親から言われたお使いで、その一部を銀行に持って行き換金したことがありますが、それは少年のわたしのおこづかいになったのでした。こんな、いわば没落地主の側の戦争被害は、一般にはとりあげないでしょう。

●敗戦の日  

 戦争児童集団疎開の悲劇もよく語られます。ところがわたしは、戦争疎開者を受け入れた側なのです。わたしの生家の神社には、社務所という広い家屋があり、そこに兵庫県の芦屋市から小学生グループが疎開してきていました。
 よくある田舎の子にいじめられたという話の、いじめる側にいたのですが、その頃はこちらがまだ幼くひ弱で、むしろ都会の子に田舎の子として馬鹿にされる側でした。疎開中に芦屋市が米軍の爆撃を受けて親が死んだ子もいて可哀そうなことと、家族の話題にあったおぼえがあります。

 8月15日、敗戦の放送は、その疎開学級が持ってきていたラジオで聞いたのでした。ラジオも普及していない時代でしたから、近所の人たちも集 まってきて、社務所前の小広場で聞いていました。
  わたしは社務所の広縁の手すりにもたれてそれを見ていました。 もちろん、8歳の幼年にはなにが起きているかわかりません。だが、終わってから帰っていく大人たちの一様にうなだれた様子は尋常ではありませんでした。あの日の太陽の明るさと、 人々の暗さはわが脳裏に鮮明に刻まれています。
 それが敗戦だと知ったのは、その後での親たちの会話からです。飛行機がやってきてビラを撒いたが、それには放送は嘘だと書いてあった、なんて話もあったような気がします。 

●紀元2600年

 戦争が終わった日より前の記憶で鮮明なのは、1940年の紀元2600年祝賀行事です。世は太平洋戦争の始まる前夜の無気味な時期です。わたしが3歳のときで、多分、わたしの人生最初の記憶でしょう。
 西暦に660加えると紀元年になります。その頃は昭和の元号とあわせて使っていました。記紀にある伝説の初代天皇とされる神武天皇が即位したのが西暦にするとBC660年、それから数えてちょうど2600年です。

 今、21世紀が来ると世界で騒いでいますが、その時も日本だけはちょうど世紀の変わり目、つまり27世紀を迎えることになってのお祝いでした。 そのテーマソングである「紀元は2600ねーン、ああいちおくのおー、、」というメロディーを今も覚えています。大坂万博 の「こんにちわあ、こんにちィわあー」とどこか似たノーテンキ な雰囲気の歌で、そんな高揚した気分の時代だったのでしょう。

生家があった御前神社鳥居、参道、鐘撞堂 1994年撮影

 神社の参道の横に、時鐘をつるした高い塔のような鐘楼(鐘つき堂といって、今も建っています)があり、定時に鐘をついて時刻を知らせるのです。父は昼間ばかりでなく、夜中にも起きて鳴らしに出ていましたが、午前0時でしょうか。その鐘を、紀元年数に合わせて、2600回鳴らすという記念行事があったのです。
 3歳の子がそれがなにか知るわけはないのですが、大勢の人々が出入りして、ご馳走があり、鐘がなり響いて、騒がしかった記憶があります。氏子の人たちが交代しながら鐘をついていたのです。戦争前夜の頃の陽気なイベントでした。

1940年元旦2600回の鐘撞き記念絵葉書

 その鐘は、今は釣り下がっていません。ほとんどの金属類は兵器とするために、強制的に国家に提供させられましたが、その鐘も持っていかれたままです。戦争が終わった次の年の夏のこと、父と伯父がその鐘を探しに瀬戸内海の島に行くのに、わたしと従兄もついて行きました。直島というその島には、金属類を鋳溶かす精錬工場がありました。
 兵器になる間もなく終戦を迎えた無数の鐘の群れが、夏の太陽の下に野ざらしで居並ぶ風景はこどもの目にも異様で した。父と伯父は鐘の群の中を歩きまわって探していましたが、わが神社のそれを見つけることはできませんでした。従兄とわたしは船にも乗れたし砂浜で泳いだりして、記憶に鮮明に残るうれしい遠足の1日でした。

●父の戦争

 座敷の畳に伏して号泣している 母のかたわらで、途方にくれている幼いわたしがいます。母はこのとき、父を出征兵士として送り出し、駅頭での盛大な見送り行事から帰ってきたばかりだったのです。30歳を出たばかりの母の着物の色が明るく、それが夫を送り出す晴着だったのでしょう。 嗚咽に揺れる母の背中、その羽織の下に帯の結び目が盛りあがっていました。駅から家に戻りついた母は、羽織も脱がずに泣き伏していたことになります。

 その時、表に来客の声がして、わたしはほっとします。母は客に返事をして、今泣いていたことを言わないようにと、わたしに釘をさして出ていきました。客は母の親しい女性で、慰めにきたのでした。これは1943年12月のことでした。
 個人としての悲しみの深さと、それを隠さなければならな い社会への顔との相克に、幼いわたしでもさすがに気がつきました。父の見送り風景の記憶はおぼろです。駅頭のにぎわいが脳裏にあるような気もしますが、それは後に見た映画かテレビかのシーンかもしれません。

1943年12月26日父を太平洋戦争に送り出す日 家族親戚一同集合写真

 平和な田舎町に戦争は、空襲という形を見せません。ときたま、戦闘機の編隊が盆地の上空をかすめて、山の向こうに消えていきました。それでも飛行機から目立たないように、白壁土蔵に墨を塗った家もありました。

 出征した父の行き先は、隣の兵庫県姫路市にある有名な姫路城郭内にあった兵営でした。終戦まで国内に居たのですから、母の嘆きは幸いにも無駄だったのです。その兵営の父に面会に、母に連れられて行った記憶が、少なくとも2回あります。
 兵舎群に囲まれた中庭のようなところで、持っていった母の手づくりのご馳走を親子3人で食べました。桜の花が咲いていたような気がします。その食後でしょうか、親子3人で街を歩いているとき、突然、 父がピンと背を伸ばして、手を額に当てる敬礼をしました。街で上官に出会ったならそうしなければなら ないのです。またあちらを向いて敬礼、またこちら向いてと、これじゃ街を歩くのが大変だなあと思ったことでした。

 なお,わたしの記憶はありませんが、父はその前の満州事変と日中戦争にも兵隊として中国に出征しており、三回もの戦争から生還した強運の人でした。わたしに戦争体験を語ったことは全くありませんが、戦友会には出ていたようです。

1938年7月4日父を日中戦争に送り出す日の家族写真

1929年満州事変の中国石家荘、通信兵の父

●戻らなかった叔父

 母の末弟が結婚したのは1940年、にぎやかな婚礼は母の実家で行われました。嫁入り先の家で式をあげるのが、当時のしきたりでした。その夜はそこに泊まりました。花婿花嫁も同じ屋根の下でした。真夜中に起きだした3歳幼児のわたしが、お嫁さんを見たいといい出して、大人たちを困らせたと、今でも母と伯母の笑いぐさになっています。

 その叔父は、1944年に妻とその前年に生まれた娘とを残して戦争に行き、次の年にフィリピンの戦場に消えてしまいました。32歳でした。農婦として家と田畑を守り、父の顔の記憶がないひとり子を育てたその叔母は、母の生家に健在です。
 そう言えば、父母の親戚で戦争から帰らなかったのはこの叔 父だけですから、当時としては戦争悲劇が少なかったほうかもしれませんが、後に残された叔母と従妹の苦労は計り知れないものがあります。

 銃後の(戦地でない国内あるいは兵営の外をこう言いました)女たちも、間接に 戦争にかり出されていました。戦争末期にはもうガソリンが無くなり、松の根っこからとる油をつかうのだと、女たちは山に行かされました。ついていった幼いわたしは遊ぶだけでしたが、大きな松の木を倒すのも、重い根を掘り起こすのも、女たちには大変だったはずです。

 その頃は、戦争にかり出すために人口増加が必要であり、生めよ殖やせよ地に満てよ、というキャンペーンのもと、こどもを生むことは戦争時代の女たちの重要な役目でした。 わが家では42年と44年に、弟たちが生まれました。そのころは家に産婆さんがやってきて出産したので、産声を聞いた記憶がありますが、あれは下の弟でしょうか。
 わたしには幼く3歳で病死した2歳上の姉がいたそうですから、母は4人の子を生んだのです。 

●戻ってきた父 

 終戦も間近いころでしょうか、父と母が2ページしかない新聞を見ながら、こんな記事を書かいてよいのか、これじゃそろそろおしまいか、というようなことを話していたことが、妙に記憶にあるのですが、あれは父が姫路から休暇で一時帰宅していた時でしょう。時々姫路から、休暇とか出張途中とかで外泊に帰ってきていました。
 そのころはもう印刷用紙が不足しており、新聞社も合併をして一地方一紙となり、朝刊だけが一枚2ページでした。幼年時のことですから、新聞を読んだ記憶はありません。毎日、記事のほとんどは戦勝をつたえるものだったのが、その日は旗色の悪い戦況が載っていたのでしょう。

 戦争が終わりました。疎開学童たちも芦屋に帰って行きました。あちこちで男たちが帰郷してきたことを聞くにつけ、父がいつ戻ってくるか、待ち遠しい日々でした。生家は、神社の参道の長い階段の坂道の上にあります。毎日、坂下を眺めて父が登ってくるだろうと待ちました。
 ある日、本当に父が登ってくるのです。母に大声で知らせて外に飛び出し、抱きついた覚えがあります。それは母に聞くと、1945年8月31日だったそうです。終戦ほんの2週間目ですが、少年には随分長く待ったような気がしています。
 今考えてみれば、父母ともにその時35歳、肉親を失うのがあたり前の時代に、両親共に若くそろったのは幸せなことだっ たのです。 

●学校での生活 

 戦争教育については、国民学校低学年ですから、あまりそれらしい記憶はありません。修身の時間に校長先生が教室にやってきて、神話の話をしたような気がします。校庭で毎日の朝礼の時に、段の上に立った先生だか上級生だかが、モールス信号の機械で、なにか文を打ってみせます。分かった生徒は手をあげて答えます。もちろんわたしには手におえませんでしたが、今のクイズのようで面白く好奇心が湧いて、一生懸命に信号を覚えたものです。こうして銃後の少国民(これも当事の常套語)が育っていました。

 戦争が終わると、月に1回ぐらいの割合で、学級に編入生がやってきました。ほとんどが引き揚げ者、つまり中国や朝鮮半島からの帰国者のこどもです。今の残留孤児たちと同じになっていたかもしれない人たちです。
 転校生にはじめは違和感をもっていても、こどもはすぐに仲良くなりましたし、たいてい1年遅れでることもあってか勉強 もよくできて、田舎の子には刺激になりました。中には、親戚に縁故疎開でやってきて机をならべていたこどもが都会に帰って行き、あるいは親を失った子が都会の親戚に引きとられて行きました。

1950年高梁北小学校のある日の風景

 ある日、転校していった一人の女の子が何か事情があったのでしょう、1年足らずでまた舞い戻ってきました。その子がなんと東京弁らしき言葉を話すのです。たった1年でなんじゃい、きどるなよと、いじめにあいました。今思うと、田舎からの転校生が東京で馬鹿にされないように頑張った結果でしょう。向こうでもいじめられたのかもしれません。混乱期にあちこちと転校して大変だったろうと、かわいそうなことでした。
 高梁町の近くの美袋町の小学校に、満州の奉天(現在は中国東北地区の審陽)から家族とともに少女が引き揚げてきました。後にわたしの連れ合いとなる人です。

●食糧戦争

 戦後は飢えの時代です。幼い少年にとっては、実際にはここから戦争が始まったようなものです。小作米が入らなくなったので、配給だけでは生きていけない普通の家になりましたから、父母は食糧の調達に苦労をしていたようです。
 神社の広い境内広場は芋畑に転じ、竹薮のタケノコも春の食糧になりました。秋には大木の銀杏がたくさんの実を落とし、それも重要な食べ物でした。母の実家が農家でしたから、比較的恵まれていたのかもしれませんが、それでも空腹の日々でした。5人家族が食べていくのは大変なことで、親は食糧買い出しにいっていたようですが、こどもにはよく分かりません。

戦中は武道鍛錬の弓道場、戦後は芋畑だった神社境内広場 1996年撮影

 なによりも、神社の神主という職業自体がなりたたなくなって、収入の道がなくなった大問題があったようです。 教科書も給食も有料でしたから、学校へのいろいろな支払いについての親の態度で、わが家の経済状態が少年にもよく分かりました。数年後に父が高等学校に職を得るまでは、家計は大変だったようです。

 大人たちは、どこでもいつでも食糧調達の話ばかりしていました。それが大人の通常の会話なのだとわたしは思っていたのですが、伯父が誰かとの話に、こんな食い物の話ばかりして世の中困ったものだというのを聞いて、これは異常なことなのだと気がついたことがあります。
 ところが、食料調達の話は終った今も、戦後から続く大人の 話があります。住宅調達のことです。半世紀以上たっても住宅問題は本質のところで解決していなくて、いまだに戦後を引きずっています。奇妙なことです。

●空腹の日々

 小学校で給食が始まりました。脱脂粉乳を湯にとかしたミルクと、マイロ粉という輸入トウモロコシ粉のコッペパンがメインで、たまに干した果物がついたりしました。当時でも美味だったとは言えませんが、空腹のこどもには嬉しかったものです。多分、一番嬉しかったのは、一食分を食べさせなくてもよくなった親たちでしょう。
 わたしは栄養状態が悪くて、肝油という実にまずい栄養剤を学校から支給されて、のまされていたことがあります。衛生状態も悪く、廻虫という寄生虫にもとりつかれました。もちろんどちらもわたしだけのことではありません。

 空腹の記憶は、どうも恥ずかしいことばかりです。台所で飯釜に手を入れて盗み食いして叱られたこと、母の里お祭りのご馳走を腹一杯食べすぎて笑われたこと、弟のおやつを とりあげて叱られたこと、パン屋が実に横柄だったこと、神社のお供え物の小さな赤飯握り飯がうまかったこと、今思えばつまらないことなのに、傷のように覚えています。

 まともな主食はなくて、朝早く行列して買った水ぶくれこんにゃく、麦のほうがはるかに多いお粥、野菜たくさんの雑炊、薄いうどん粉団子のすいとん汁(団子汁といいました)、蒸したさつま芋(これはご馳走)などが主役でした。もちろん、これらが同時に食卓に並ぶことはありません。それも一人あたりの量がきまっていて食べ終わっても空腹でした。

 空腹なら動かなければよいのですが、幼い少年ですから空腹を忘れて飛びまわって遊び、遊び終わると突然の大空腹で、毎日、なにかたべるもんない~?と、親を困らせていました。どれも、供給側の親の苦労と比べると、消費側の些末なことばかりのようですが、少年にとってはいずれも重大で、あまり思い出したくないことばかりです。

 あの頃の親たちは、自分の分を減らし、時には食べないで、こどもに食べさせていたはずです。いま、日本の食糧の6割は輸入だそうです。発展途上国の人口爆発で、そちらに食糧が回される時代が近いうちに来ます。その時に日本はまた飢えるに違いないと、飽食の時代の中で心配しています。

●変わる価値観

 予科練帰りという言葉がありました。予科練とは戦闘機に乗る少年訓練隊だったようですが、戦争が終わってそこから帰ってきた若者は不良青年の代名詞でした。かれら17、8歳の少年が、軍人になって連合軍と闘うべく養成を受けていたのですが、敗戦でなすすべもなく家に帰ってきました。若くして死ぬべき人生の目標を突然失って、反対に生きなければならないことになり、そのあまりの大転換に幼い頭はついて行けず、自暴自棄の彼らは犯罪予備軍となったのでした。近所にもその青年がいて盗みや暴力沙汰を起こして、大人たちは、あいつには困ったものだと話していました。その後、どうなったのか知りません。

 その大人も実は価値観の転換にとまどって、右往左往です。小学校の教育のやりかたも変わってきました。教室の席の並び方が何度も変わった記憶があります。黒板に向いて先生の話を聞く授業から、みんなで話し合って考える方式に変わったらしいのです。ところが教師もよく分かっていないらしく、グループに分けたり、丸くならべたり、四角にしたりと、あれは実験していたのでしょうか。

 時には、教師が授業中に黒板に書きながら「こんなやりかたをしてはいけなんだけど、」と、弁解していた記憶があります。それは戦時中のやりかたで、これからはやってはいけないと教育委員会あたりからでも言われていた教育方法だったのでしょう。こちらにはどこがいけないのか分かりませんが、先生がこどもに弁解するのもおかしなものだと思ったので記憶にあるのでしょう。 

●墨塗り教科書 

 教科書が問題でした。教育方針が180度転換して内容を変える必要があるけれど、紙がないし印刷も間に合わない。とりあえず戦争教育の問題箇所を墨で塗りつぶして、使えるところだけで再利用しようとなったらしいのです。
 それまで使っていた教科書のあちこちの文章を、学校からの指示にしたがって、母と一緒に筆で黒く塗ってゆきました。その時にわたしが最初に思ったことは、これまで教科書は大切にして汚さないようにといわれていたのに、こんなことしてもよいのか、ということでした。 でもそれは、なんだか面白い作業でもありました。あちこち消すことで、終わりのペー ジまで読むことになり、ちょっと勉強した気になりました。

 消すところは国語に多くて、どういうわけか理科にもあったような気がします。消しながら、どうしてここを消すのか不思議に思ったところもありました。これはもしかしたら、母がそういったのかもしれません。
 次の年、印刷した新しい教科書がきましたが、それは製本してありませんでした。8ページ分が1枚になったままの数枚でしたので、それらを切りはなしてページ順にそろえて、自分流の表紙をつけて1冊の書物に作り上げました。なんだか自分が教科書を作ったような気がしました。いまだに製本デザインや編集が好きなのは、その時の後遺症かもしれません。

 戦争中もそうでしたが、その頃は学年の変わり目に、教科書を次の学年の子にゆずるのが普通でした。近所の家同士で誰のを誰にと約束をしていました。今で言うリサイクルですが、その頃の本当に物が無くてのリサイクルと、今のような物が余っていてのリサイクルとは、取り組みの真剣さに大きな違いがあります。

●占領軍と天皇

 いかにも戦争直後らしいこどもの遊びで、当時の日本占領国連軍幹部の名前を自分に付けて、互いにそう呼んでいたことを思い出します。マッカーサー、リッジウェイ、アイゼンハウアー、アイケルバーガーなど、当時の新聞・ラジオをにぎわわせていた軍人たちです。このなかでは、後にアメリカ大統領となったアイゼンハウアーが最も出世頭です。もっとも、私はこの遊びをどうも苦手で敬遠していました。

 占領された日本の影は、田舎町にはほとんどありませんでした。ときたま、それらしい外人がジープに乗ってやってきましたが、遠まきにみていただけで平和なものでした。
 1952年だったでしょうか、中学校の修学旅行で奈良に行きました。米軍キャンプが中心部にあり、日本女性(パンパンと呼ばれ た)と外人のカップル(アベックといった)をたくさん見ました。進駐軍とはこういうものかと驚きましたが、今思えば朝鮮戦争の最中で、国連軍として居たのでしょうか。
  引率の先生が、奈良公園の近くに行かないようにと注意していましたが、公園でキスするところを見たと大はしゃぎの生徒もいました。当時の田舎少年たちにとっては大事件でした。奈良公園は金網みの中だった記憶があります。基地を取り囲んでいたのでしょう。

 その時は京都もまわりましたが、国鉄京都駅が建て替えられたばかりで、蛍光灯の真昼のような明るさに田舎少年たちは驚いて見まわ したものです。その近代建築も今は建て替えられ、あいかわら ず修学旅行の田舎少年少女が見まわし、歩きまわっています。 

 昭和天皇が備中高梁駅を通過したことがありましたが、1946年だったでしょうか。専用列車の停車中に、駅ホームのお立ち台で群集に帽子を振る天皇の姿が記憶にあります。
 今思えば、あの当事に天皇が全国をまわるのは、その地位をわざわざ残した占領政策の重要なイベントだったのでしょう。明治政変後における明治天皇の全国巡幸とおなじで、政変のときに主役でなかったはずの天皇が出てくると、どういうわけか民衆は唯々諾々と事態を受け入れたのです。

●民主主義すくすく世代

 それまで市内にあった中学校は新制高等学校となり、別に新たな制度の中学校(新中といった)ができました。入学したころまでは、まだ戦後の混乱が尾を引いていたようで、1年生の時は新しい校舎が間に合わなくて、市内隣学区の小学校に間借りしていましたので、遠距離通学でした。といっても、田舎道を遊びながら、歩いたり自転車だったりと楽しいものでした。

 2年生から新校舎ができ、3年生頃は次第に高等学校受験体制が整ってきて、教育現場は定常化していきました。田舎町ではもう戦争の時代は完全に終わりました。
 それが50年代はじめ頃であり、その頃朝鮮半島で次の戦争が始まっていました。隣国の不幸な事件が日本に戦争特需景気をもたらし、敗戦のどん底から経済復興したのです。かの国を踏み台に、この国の繁栄かもしれません。

 わたしは、民主主義教育の実験段階の先端を行った世代です。民主主義を疑うことを知らず、実験段階から安定段階までを歩んで育ったので、自分たちを「民主主義すくすく世代」と、わたしは呼んでいます。この自称は、よい意味であり、自慢として言っているつもりです。 後にこの世代が、60年安保闘争の中心で、いわゆる安中派となり、高度成長時代を会社人間となって支えました。 

●ふるさとは今

 少年の日の戦争体験をしたふるさとの高梁盆地は、いまでは伝統的な町並みと古城のある、ちょっとは知られた観光地になっています。映画の寅さんシリーズに登場した街です。
 あたり前ながら、戦争の影はどこにもありません。あるいはもしかしたら、町家の白壁に空襲よけの墨を塗ったところがあるかもしれません。でも、誰も気にもとめません。

 生家の神社は、疎開児童のいた社務所もわたしの育った家も 建て替わりましたが、例の鐘つき堂は健在で、町の観光ポイントのひとつです。時の鐘を鳴らしようもなくなっていましたが、近年、奇特な方のご寄付で、プラスチック製の鐘と時の鐘の音を吹き込んだテープレコーダーが鐘楼に設置され、タイムスイッチにより定時に鐘が鳴るのだそうです。うーむ、便利なような、味気無いような、。 

 戦争教育を受けた小学校は、その昔に中学校が間借りしたもうひとつの小学校と合併して他に移転、現地には木造洋館の本館講堂だけが健在ですが、身分を替えて郷土資料館となっています。
 中学校は、戦後の混乱期に新制度に対応して、近隣の自治体と協力して組合立で新築したのに、今は別の場所に移転してしまって、その跡地は工場です。

今は郷土資料館になった旧国民学校校舎

 昔の高梁町は戦後に近隣村と合併して、今は高梁市といっていますが、その人口は3万人を切っています。最近は4年制の大学ができて、高齢者よりも若い世代が多いという、田舎町には珍しい人口構造になっています。 数年前に、ドイツのハイデルベルクを訪ねた時に、ここの地形や風景、町並みの構造が、高梁とそっくりなことを発見しました。今や形だけでなく、大学町であるというソフト面でも同じかもしれません。

上はハイデルベルク:1991年撮影 下は高梁盆地:1996年撮影

 わたしの同期生たちもそれなりに要職についたり、定年退職して地域づくりや福祉の活動をしたりしています。高校時代の国語教師を中心とする大人の塾があり、同期生が事務局長として企画する勉強会をしています。昨年のことですが、専門の都市計画について話をせよと、わたしの講演会を企画してくれたのでした。
 高梁を出てから43年、今はちょっと自慢したくなるふるさとです。どうぞ、おいでんせえ(いらっしゃい)。 

(完 2000年5月14日・偶然にも母の日にできたので印刷して母に送った)


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