【nepal3-2011】 フォトエッセイ:ネパール風土逍遥 ・異文化への旅 2011(その3)

 その2のつづき)

ネパール風土逍遥
(その3

写真と文章 伊達美徳 2011


6.世界遺産の塔と王宮

ネパールの木とレンガと石の塔

●日本の塔・ネパールの塔

カトマンズ盆地の古都の世界遺産である王宮や寺院には、多くのがたっている。
石やレンガを積上げたトウモロコシ型のインド風の塔も多いが、
日本にある木造塔によく似た三重塔、五重塔がいくつもたっている。
カトマンヅ旧王宮のバサンタプルタワーは城郭の物見の塔であろうか、
いわば王宮の御殿の上に建ちあがる天守のようなものである。

かなり深い庇が重層してはりだして、遠目には日本の塔や城郭建築によく似ている。
カトマンヅ王宮広場に建つシヴァの寺院マジュ・デガや、
王宮の横の丘の上の建つタレジュ寺院は、高いレンガ積み基壇の上にたつ三重塔である。
バクタプルには五重塔のニャタポラ・ラクシュミ寺院もある。

日本の三重塔や五重塔と比較すると、似ているようだがどこか違う。
日本の塔の屋根は軒先がそりあがるが、こちらは軒線はまっすぐ な直線だ。
日本の塔は下層から上層に行くほど軒の出方がしだいに短くなるが、
ネパールの塔にその差はあまりない。

ネパールの塔では各階の軒の出方が、まるで四角錘を描くように
上に行くほど急激に後退していく。
そのほうがパースペクティヴが効いて、高く見えるようであるが、
日本の塔を見慣れたわたしには全体に軽くなって重厚さに欠ける。
反対にネパールの人が日本の塔を見ると、頭でっかちだと思うだろう。
美への文化的視覚の違いというものか。

●軒の支え方が違う

塔でも王宮建築でも、近寄ってみると全部が木造建築ではなく、
煉瓦造と木造とを混合した構造であることが分かる。
レンガ壁の四角な筒型や箱型の構造物を建てて、
これに木造の柱や梁を絡ませて補強し、外に木造の庇を出している。

その庇の支え方が、日本の塔とは大きく異なる。
日本では柱から木の組み物(斗供)を出して軒を支える。
右腕を真っ直ぐに出して軒を支え、それを曲げた左腕で支えるようなものだ。
それがいくつも重なって、庇の下が特徴あるデザインとなる。

ネパールでは、軒の出ている階の下の床レベルの煉瓦壁から、
斜め上に軒先に向って、何本もの方杖(ほうづえ)を立てて、
庇の先を支えている。その方杖がデザインの特徴になっている。



日本の塔の軒を支える組み物は、素人目にはわからない技巧に富んで複雑だ。
ネパールの塔の軒の支え方は壁から斜めのつっかい棒の方杖で支えるのだから、
実に直裁簡潔で建築の素人でも分りやすい構造である。

そのかわりにその方杖全体にじつに細密な彫刻をほどこしている。
日本の組み物にも一部に彫刻の細工をするがネパールの方杖ほどではない。
この斜め方杖と深い軒の組み合わせが、ネパール建築の特徴のデザインコード。
王宮の軒はもちろん、街なかの新旧の建物にも使われる。

これらの歴史的建築は14世紀ごろが創建であるという。
もっとも地震国ネパールでは何回も崩壊しては建て直して14世紀のままではない。
特に1934年に大震災に見舞われて長らく放置されていたものを、
この2~30年間に諸外国の援助で修復したらしい。

●カトマンズ盆地の3つの世界遺産王宮

カトマンヅ盆地には3大古都のカトマンヅ、パタン、バクタプルがある。
それぞれに中心部には世界遺産登録の王宮があり14世紀の建築群がある。
ここにはたしかにネワール文化とよばれる個性的な風景がある。

カトマンヅ旧王宮には、なかなか整った白い洋風様式建築もならんで建っている。
これはラナ専制時代の1914年に、イギリスの建築家の設計によるという。
この14世紀と20世紀との建築様式のとり合わせは、観光客に評判が悪い。

だが思えば、日本でも19世紀中ごろから、脱亜入欧とて近代化にはげみ、
一生懸命に洋風様式建築で近代化を目指したが同じことにも見える。
1914年といえば、日本では重要文化財の赤レンガの東京駅が建った年である。
わたしの目には、それらの歴史文化の重層する風景が実に興味深く面白い。

カトマンヅ王宮広場には14世紀と20世紀はじめの歴史的建築が共存する

パタン王宮広場には石造と木造の塔が並び立つ
バクタプル王宮広場は3古都王宮ではいちばん美しい


7.日本人建築家の仕事

まずはルンビニ博物館と図書館をご覧ください。
世界的な建築家の丹下健三による設計です。
ルンビニ図書館 丹下健三設計

●ルンビニはネパールだったのか

ネパールのいちばん南の端にあるタライ平野のインド国境に近い町、
ルンビニは釈迦生誕地であることは 、わたしでも知ってはいた。
だがじつは、これまではルンビニはインドにあるとばかりおもっていた。
もっとも、紀元前の釈迦が生れたころは、ネパールはないのだが。

釈迦が生み出した仏教がインド、ネパール、東アジアを席捲していたのに、
今では元祖インドもネパールも仏教を追い出してヒンヅー教の国になった 。
釈迦にまつわる仏教聖地はインドとネパールにあって仏教徒は巡礼するらしい。
ネパールもその聖地のひとつである。
白い建物が釈迦生誕の場の遺跡を覆う建物、手前は寺院・僧院の遺跡

その聖地のアイテムは、たとえば、
釈迦生誕の場の寺院(不似合いな白い建物が遺跡にかぶさって建っている)、
アショカ王の石柱(2千年以上経っても碑文が風化していないのはなぜだろう)、
釈迦の母が水浴びした池(赤いペンキを塗ったコンクリートで四角く固めてある)、
釈迦の母が掴まったというベンガルボダイジュの大木(いったい何代目だろう)、
僧院や仏塔の基礎だけになっている遺跡(AD3~4世紀)、などなど。
わたしには信仰心がないから、あまり興味がわかない。

ルンビニの仏教遺跡は世界文化遺産に登録されていて、
その保存のためにルンビニガーデンの整備を進めている。
ルンビニとは、広くはこのあたりの地名だが、
狭くは釈迦生誕のルンビニ遺跡の範囲(世界遺産登録)、
中間的には約770ヘクタールのルンビニガーデンを言う。

BC623年の春、釈迦はここルンビニの地で生まれたとされる。
そしてここには仏教の聖地として古代から寺院、僧院、仏塔が建ち、
仏教徒たちの巡礼地となって、14世紀まで永く繁栄したのだ。
それ以後はヒンヅーやムスリムが台頭し、天変地異による変化もあり、
仏教聖地はしだいに忘れられていき、ジャングルの中に埋もれた。

それから500年、ルンビニ聖地が再発見されたのは19世紀末、
そしてこの地を1967年にここを訪れたのが、当時の国連事務総長ウ・タント、
彼は世界平和のための聖地として再整備することを提起した。
そこで日本も含むアジア17カ国が援助協力することになり、
国連は聖地としての新たな整備マスタープランを丹下健三氏に委嘱、
1978年「ルンビニガーデン」マスタープランは承認、忠実に実現しつつある。

●ルンビニガーデンのマスタープラン
ルンビニはネパール南部の穀倉地帯のタライ平野にある。
北の山地とはうって変わって一面の田園地帯のタライ平野

空から見ると自由な形に広がる田園の中に異様に幾何学的な長方形の緑が見える。
そこが釈迦生誕の聖地を含むルンビニガーデンの菩提樹の森である。
東西1.6km、南北4.8km、770haのエリアを30年以上にわたって整備中である。
長方形の森のルンビニガーデン     その中の博物館と図書館
(goole earthより引用)

ルンビニガーデンの菩提樹の森     森の外は一面の田園地帯

その森のなかを、南・中・北の3つのゾーンに機能を分け、
中心を南北に貫く軸線として運河を貫通させる。
軸線プランは丹下が得意とする計画手法である。
南地区は、釈迦生誕の遺跡がある聖地でここが世界遺産、
中央地区は、世界から仏教の僧院寺院群を配置、
北地区は、世界の人々の交流の場と仏教研究の文化ゾーン。
ルンビニガーデン衛星写真と丹下健三のマスタープラン1978

マスタープランに登場する形態はいかにも幾何学的だ。
丸い池、四角な敷地、まっすぐな道路、自然にはないエッジが景観を切り裂く。
衛星写真で明確に浮かび上がる緑色のルンビニガーデンは、
どこか異形の世界、そう、SF世界の火星コロニーのように見える。
アジア的融通無碍の田園空間に、西欧的な近代規範空間が舞い降りている。
その対比による強調が、建築家丹下健三が意図したことであろう。

マスタープランは図で見ると分かりやすいのだが、
実際に中に入ってみると、まだ進行中ということもあるのか、
あまりにも広すぎて全体像は茫洋として 目には見えにくい。

ルンビニガーデンの中心軸の北端から南を望むも茫洋として

南の生誕遺跡には、仏教徒の聖地の世界遺産らしく世界各国の人たちが行き交う。
遺跡のそばで工事人夫がペタペタ土を板でたたく手仕事で工事をしている。
中央部の世界の仏教寺院のゾーンでは、これが仏教寺院なのか思うような
ハデハデ装飾寺院建築が、ごたごたと立ち並んでいる。
こちらに宗教心がないから、どこもありがたみがない。

北部では、博物館と図書館が圧倒的な建築景観であるが、
これら二つの間に建つはずの会議場ができていないから、落ち着かない。
ホテルは森の中に孤立していて、猛獣も毒虫もいるのでうっかり外に出られない。

全体をつなぐ中心軸となる運河も未完で景観的な脈略もない。
軸線の北端に日本の仏教団体がたてた巨大な塔がランドマークとなっている。
全体景観をまとめるのに成功しているのは人工林である菩提樹の森である。
この新たに生れた菩提樹の森こそが現代の聖地サンクチャリーである。

タライ平野は半世紀ほど前は森林の湿地帯でマラリアが人間を寄せ付けなかった。
そこをきりひらいて田園地帯とし、ルンビニガーデンも作られた。
丹下マスタープランによる開発が完成する頃に来て見たいが、
それは何十年も先で、わたしは生きていない。

●ルンビニ博物館と図書館のデザイン

丹下健三はマスタープランだけではなく、博物館と図書館の設計もしている。
それらは新ルンビニ村の予定地の森の中に姿を見せている。
レンガ(中身はコンクリートだろうが)による分厚い壁の上にのった、
丸いかまぼこ型の建物がいくつもいくつも並び、それらが縦横に交差していく。
そのボリューム感とリズム感は、なかなかに迫力あるデザインである。
ルンビニ博物館 丹下健三設計

あの分厚い構造体に、夏の40度を超える熱さを吸収させるのだろう。
日除けになるボールト天井が連続するアーケードの姿が美しい。
内部の展示場の高い天井も、連続ボールトの構成で気持ちが良いものだった。
床の構成も単調ではなく、高いところからもみおろせるし、
天井の低い閉鎖的な空間もある。ただし展示がその空間を生かしきれていない。
展示はパネルとレプリカが多い 釈迦誕生を表現する古代レリーフ

図書館は日本の仏教団体が寄附して運営もしている。
博物館はインドの寄附で完成し、今後アメリカの寄付で会議場が立つ予定。
会議場が博物館と図書館の間にできればこの文化施設は完成する。

この建築はどこか丹下健三らしくないデザインである。
そしてまたネパールらしくない形態をしている。
ネパールではボールトやアーチの組積造には出会わなかったからだ。
デザインソースはインドの組積造建築にありそうだ。
ルンビニはインド文化圏だから、それもありうることだ。

この建物の設計を担当したのが建築家・後藤宣夫だった。
わたしの同期生であり、当時、丹下健三が主宰するオフィスに所属していた。
1984年ルンビニガーデンで記念植樹を前に立つ後藤宣夫氏(左)
いまは大きく育った菩提樹の森の1本であろう

 この建築は後藤宣夫デザインだろうか、2000年に逝った から聞くこともできない。
ルンビニで亡き親友を偲んだのは、仏教聖地のゆえだったのだろうか。(完)
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 1.ネパールって ? 狭い国土に多様な民族、言語、地形、気候……
 2.神々と人々と  たくさんの神と仏がいて多様な顔の人間がいて
 3,憧れのヒマラヤ 世界の屋根見物はちょっとあてはずれ
 4.消えゆく森林 耕して天に至る段々畑に環境の破壊が心配
 5.豊かな水・汚れる水 ヒマラヤから流れ下る豊富な水がありながら……
 6.世界遺産の塔と王宮 日本の塔と似ているようで違う世界遺産の建築
 7.日本人建築家の仕事 ルンビニの丹下建三設計の建築は亡き親友が担当

2011年10月伊達美徳  Copyright(C) 2011 DATE,Y. All Rights Reserved

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