コーカソイド系からモンゴロイド系までメジャーなだけでも10種以上、
細かく数えると100以上もの多種多様な民族が棲み分け入り混じり、
それぞれ言語も民族の数以上に多数あるそうだから、いろいろ大変であろう。
たくさんの言語のなかにネパール語を使うパルパテ族が主流派を占めていて、
ネパール標準語となり、その高位カーストが社会のリーダー的存在という。
何段階もの身分制度のカーストが今も生きており、
民族、言語、宗教、職業にカーストが細かく絡んでいるらしい。
単一民族、単一言語の日本人のわたしには想像もつかない世界だ。
ネパールはもともとは仏教国だったのが、
今では9割がヒンヅー教、1割が仏教だそうだ。
ヒンヅー教徒の家に生れたら自動的に教徒になる。
他に改宗もできないし、他からヒンヅーに改宗もできないそうだ。
ヒンズー教には日本の神道のように八百万(やおよろず)の神々がいる。
街にはその神々がいろいろな姿かたちで登場する。
かつての仏教の仏たちとも仲よく祭られ、人々から拝まれている。
そしてそれを祀るたくさんの行事が毎日のように町にも家庭にもある。
まるで日本の神仏習合の江戸時代のようである。
日本で野外にある神仏といえば地蔵尊とか狛犬である。
ネパールよりも温和な顔立ちなのは仏教とヒンヅー教の違いか。
●村の子どもと国際交流
初日はカトマンヅ盆地の西の峠の上にある小さな村のホテル泊りであった。
地名のタンコットのコットとは要塞とか出城のこと、
王国時代にはカトマンヅ盆地のひとつの入り口を守る拠点があった。
日本で言えば、中世の鎌倉七口の切り通しである。
急な斜面の段々畑の集落の中の山道を登った一番上に、
集落を睥睨する位置にあるホテルは、日本資本だろうか。
着いた次の日の朝、目の下に見える集落の探検に出かけた。
集落風景はわたしが少年の頃の日本の山村と似ている。
急傾斜の段々畑の中に、煉瓦や割石を丹念に積み上げて
赤い漆喰で固めた壁の小さな家が散在し、赤や黄色の派手な洗濯物がひるがえる。
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村の風景と村人(稜線の左上のホテルが村を見おろす) |
山羊3匹と幼児が3人、こっちを珍しげに見つめつつ寄ってくる。
ためしに「ナマステ」というと、手を合わせて返事してくれる。
そこへ少年が3人寄ってきてカタコト英語が分る子がいて、
「ユアネーム?」「ハウオールド?」などといいあう。
子どもを苦手のわたしがネパール日本ミニミニ国際交流をした。
女と子どもばかりが見えるが、男はカトマンヅに働きに行っているのか。
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タンコット村のこども |
ホテルの泊り客は外国人ばかり、地域になにをもたらしているのだろうか。
戻り道でこざっぱりした風体の若者が後ろから追いついてきた。
聞けばホテルのウェイターで 、ただ今出勤中だという。
「シーユーレイター」とスタスタと登っていった。
なるほど、ホテルは就業機会をもたらしているのか。
ホテル経営のぶどう園もある。いまに段々畑はぶどうで埋まるか。
●よく働く女たち
ネパール人の平均寿命は、男は約60歳、女は50.5歳。
日本とは逆であるが、ガイド氏によればその理由は、
男性よりも女性のほうが肉体労働を多くしているからだそうだ。
たしかに、男よりも女が肉体労働する姿が目に付いた。
都市の土産物屋や街道筋の店先で忙しく立ち働くのも、
農村で重い荷物を運ぶのも女性ばかりであった。
畑でも道路工事でも店舗でも働く女ばかりが目に付いた。
田植えの最中の地域も見たが、田圃で働くのは女と子どもばかり、
ただ、牛を使うのは男の役目らしく、水牛で代掻きをしていた。
ドコという丸くて深い下すぼまりの大小の竹篭がある。
背丈の半分以上もある大きなドコにいっぱい物を詰め込む。
これをナムロという布紐でからげて、頭で支えて背負って運ぶ。
この大荷物を背負って道を歩くのは、ほとんど女なのである。
山林からは肥料や家畜の餌にする落ち葉や木の枝を集め、
田畑からは収穫物などを集めて、一歩一歩あるいて運ぶのだ。
働く女の姿が民族衣装、肉体労働には不むき のはずだ。
裾を引きずるような長さ、鮮やかな色模様ショールがひるがえる。
それにくらべて男はどいつもこいつもいい加減な服装である。
日本でも同じで、男の服装はダメ傾向で、女はファッション性が高い。
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働くネパールの女たち |
●日本語学校で生け花と謡曲と
旅の最後の朝は、カトマンヅ日本語学院で文化交流会であった。
学院側は教師と生徒が15名、こちらは10名 、にぎやかな会であった。
会場の教室に日本からの寄贈品のお雛さまが段飾りしてある。
見ればどうも三人官女や五人囃子の並び方や持ち物がおかしい。
思い出しつつ直してあげた。
関西組の方が、華道の生け花の実地指導をなさった後を受けて、
わたしはもうひとつ日本文化として能楽を紹介した。
話しながら、似た芸能がネパールにもあるかと聞くと、あるという。
神話マハーバーラタの舞踊劇があるにちがいない。
能「羽衣」を例に、天女と漁夫のやりとりのストーリーを話し、
最後の天女が舞い上がるあたりを朗々と(?)謡って収めた。
♪♪~天の羽衣 浦風にたなびきたなびく 三保の松原浮島が雲の
愛鷹山や富士の高嶺 かすかになりて 天つ御空の
霞にまぎれて失せにけ~り~ ♪♪
謡っている当人もよく分らぬ古語では日本語勉強には役に立たない。
でも、みなさん興味もって(あっけにとられて)聞いてくださった。
通訳してくださった校長先生に感謝申上げます。
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文化交流で生け花をするカトマンヅ日本語学院の教師と学生(校舎 教室にて) |
「カトマンズ日本語学院 草の根校舎の会」のことを書いておこう。
この学院は1965年に創設、これを日本のNGO「草の根校舎の会」が、
1999年には校舎を寄付し、その後の支援活動を続けてきている。
カトマンヅには日本語学校が大小200以上もあり、公的に認定校は20。
この学院の今の生徒数は30人、盛時には150人もいたのだそうだ。
日本人観光客が多かった時代はすぎて、いまは中国人が多くなり、
中国語学校が増加中だそうだ。いずこも同じである。
3.憧れのヒマラヤ
ネパールならヒマラヤだ、その程度しか知識がなかった。
大学山岳部以来のあこがれのヒマラヤになんとしても出会いたい。
ヒマラヤに行く根拠地として有名な町のポカラに宿をとった。
明日の予定にはミニトレッキングと書いてある。
着いた日は曇っていてヒマラヤが見えない。
町の土産物屋にはヒマラヤの山々の 大きく美しい写真が置いてある。
いい歳をして、わくわくする。
翌朝午前4時頃まだ暗闇、マイクロバスでサランコットへ出発。
小1時間走って小高い山腹に停車、ここからサランコット山頂へ歩く。
真っ暗闇の山道をヘッドライトを頼りによろよろと登っていく。
後から来た若者たちにどんどん追い越されつつ、
1時間半かかって息絶え絶えに山頂につく。
暗くてさっぱり分からないが、大勢の見物客がいるらしく騒がしい。
ほのかな薄明になって分かったが、狭い山頂に数百人もいるようだ。
さてヒマラヤはどちら?、人々の頭の稜線があってその上らしい。
暗いのでヒマラヤ稜線か、それとも黒雲なのか、よくわからない。
やがて太陽が右の雲間から顔を出し、大勢の見物客のゆれる頭越しに、
左の方に白雪の山が輝いてきた、う~む、あれがダウラギリだ、
こんどはその右に白い布のカーテンのように輝くのがアンナプルナ、
真正面の黒から白い三角になってきたのが聖なる山マチャプチャレ、
なんだかマッターホルンにそっくりである。
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曙光に輝きだす左にダウラギリ 右にアンナプルナ |
さらに右に頭を回して真正面へ、
黒から白い三角になってきたのが聖なる山マチャプチャレだ。
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左にアンナプルナ 右にマチャプチャレ |
暗かった空が次第に明るくなり、かかってたた雲が晴れてくる
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サランコットから展望する聖なる山マチャプチャレの夜明け |
でもねえ、実は本当の風景はこうでした、
見回して驚いた、大きな鉄塔が建っていて、寺院のような祠もあり、
屋根つきの展望台もあって、ヒマラヤ見物にあれこれと邪魔物だらけ。
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頂上広場の崖っぷちの大勢の頭越しヒマラヤ見物 |
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ちょっと引いて眺めると電線にからめとられたヒマラヤ |
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左に頭を回すとダウラギリもアンナプルナも籠の鳥 |
そりゃまあ、崖ぷちに立って騒ぐ若者たちの前にでりゃ見えますよ、
でも怖いよ、人間の頭越しと鉄骨越しヒマラヤを眺めて ウロウロ、
あれ、日本のテレビ 放送屋が来てるよ、俗っぽいところに来たもんだ。
(仲間のひとりが帰国後に偶然に見たTV番組に2秒くらい当人が映ったそうだ)
明るくなって下り道から振り返ったら、町外れの小高い丘だった。
なにがミニトレッキングだよ~、小学生でも行ける遠足だった。
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スイスアルプスのマッターホルン2006年 |
マチャプチャレって、マッターホルンにそっくりである。2006年にみたスイスアルプスのマッターホルンは迫力あったが、マチャプチャレもこれくらい近く見えてくれるとよかったのになあ。
アイガーもユングフラウも、アルプスはものすごい迫力だったぞ、あんたヒマラヤでしょ、もうちょっと迫力もったらどうなのよ。なんで鉄塔と電線の向こうに隠れてるんだよ、気に食わん、土産物屋の写真とは大違い。
明るくなって下り道から振り返ったら、町外れの小高い丘だった。
なにがミニトレッキングだよ~、小学生でも行ける遠足だった。
こうなりゃ意地でも敵討ち、翌日にヒマラヤ遊覧飛行を申し込んだら、
今日は飛んでません、ちぇっ、返り討ちにあってしまった。
もうヒマラヤはあきらめた。(
その2へつづく)
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