【nepal-2011】 フォトエッセイ:ネパール風土逍遥 ・異文化への旅 2011(その1)

ネパール風土逍遥
(その1)
写真と文章 伊達美徳


はじめに

このサイトは、世界の屋根のヒマラヤの国・ネパールを訪ねて
旅で見てきたかの地の風土と文化を日本のそれと比較しつつ
わたしたちの現代の生活を振り返ってみたいと考えて
写真とともに書くエッセイ集です。

ヒマラヤの豊穣の女神アンナプルナと聖なるマチャプチャレの朝日による変化

 わたくしがネパールを訪れたのは、2011年の3月から4月にかけて
東日本大震災の余震があり、福島原発事故で停電の日々です。
訪ねたネパールもまた地震大国であり停電大国でした。
原発は一機もないので放射能の心配はないのでした。

<内容一覧>

はじめに
1.ネパールって ? 狭い国土に多様な民族、言語、地形、気候……
2.神々と人々と  たくさんの神と仏がいて多様な顔の人間がいて
3、憧れのヒマラヤ 世界の屋根見物はちょっとあてはずれ
4.消えゆく森林 耕して天と谷底に至る段々畑に環境の破壊が心配
5.豊かな水・汚れる水 ヒマラヤから流れ下る豊富な水がありながら
6.世界遺産の塔と王宮 日本の塔と似ているようで違う世界遺産の建築
7.日本人建築家の仕事 ルンビニの丹下建三設計の建築は亡き親友担当
ー―――
ネパールは今、都市の成長と農村の停滞が大きな課題のようです。
都市では日本の1970年代の高度成長初期の時代に
地方の農村では日本の戦前の時代に、それぞれ似ている様相です。
日本の高度成長は良くも悪くも大変化をもたらしました。
同じような問題にネパールもこれから直面しそうです。

ネパールは今、都市の成長と農村の停滞が大きな課題のようです。
都市では日本の1970年代の高度成長初期の時代に
地方の農村では日本の戦前の時代に、それぞれ似ている様相です。
日本の高度成長は良くも悪くも大変化をもたらしました。
同じような問題にネパールもこれから直面しそうです。

世界遺産が顔を見せるカトマンヅ繁華街ニューロード

耕して天にいたる段々畑の山村 (goole earthより引用)

 日本とネパールとは互いに他山の石か反面教師か、
狭い国土の多様な風土にいろいろと考えさせられました。
 では、いくつかのテーマでのフォトエッセイをご覧ください。
なお、さらに詳しいレポートは下記
をご覧ください。
ネパール風土探訪・400kmバスの旅2011(PDF)

〇参考文献
 「ネパール全史:世界歴史叢書」佐伯和彦:明石書店2003/「ネパール・旅の雑学ノート」平尾和雄:ダイアモンド社1996/「ヒマラヤの自然誌・ヒマ ラヤから日本を遠望する」酒井治孝:東海大出版会1999/「アジア都市建築史」布野修司:昭和堂2003/「ネパール建築逍遙」藤岡通夫:彰国社 1992/「THE ROYAL BUILDINGS IN NEPAL」日本工業大学1981/「ネパール周遊紀行」田村善次郎:武蔵野美術大学出版局2004/「LUNBINI BECKONS」BASANTA BIDARI 2009

〇参考WEBサイト
http://www.edu.nagasaki-u.ac.jp/private/tanigawa/asia/p-culture/index.htm
http://digitalhimalaya.com/collections/maps/himalayanmaps/
http://www.thegreathimalayatrail.org/route-map/
http://whc.unesco.org/en/list/121
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB


1.ネパールって?


●日本にいないほうが役に立つ

ネパールの旅に大学同期の畏友から誘われた。
カトマンヅにある日本語学校を支援する大阪のNGOの企画だそう だ。
飛行機の切符を買った次の日が3.11東日本大震災 、
さて、こんなとき海外で遊んでいてよいのかと友人と話す。
「オレたち老人は、復興の力仕事には役に立たないよね」
「そうそう、いまどき日本にいないと、その分の食料など被災地にまわるね」
「うん、オレたちは日本にいないことで、すこしは役に立つね」
旅程には、日本語学校支援の文具運搬と文化交流もはいっているという。
これも地震直後のいまどき日本を逃れる言い分けになりそうだ。

同期畏友老人2人をくわえて、関東から男老人組4名、
関西からは女性3名を含む6名、あわせて10名の旅になった。
行って分ったが、わたしが 生まれ月の差で最年長であった。
最近は、会議でも飲み屋でもこうなることが多いのが、しゃくだ。

予期しなかったのに 今回の旅でもっとも印象的だったのは、
カトマンヅからポカラを経てルンビニに至るまでの、
およそ400キロメートルにおよぶ長距離のバス旅であった。
中高地から低地へ、山地から平原へ、温帯から亜熱帯へ、多様な植生、
農山村集落、街道筋の地方都市、大都市の市街、
そしてそこに暮す多様な民族の暮らしや宗教などなど、
つぎつぎと展開するネパールの人間と自然の景観に興奮した。
ほんの通りすがりの異文化体験だが、たくさんのことを考えた。
ネパール400キロバス旅マップ(←←


●ネパールも日本に負けぬ地震大国だった

東日本大震災の日本を逃れて行ったネパールも、実は地震大国である。
この100年間にマグニチュード8・4を超える巨大地震が4回も発生、
1934年の大地震で首都のカトマンズでは4,296人、
1998年にはウダイプール地震で721が死んだそうだ。

現在のネパールの全人口は2300万人、
カトマンズ首都大都市圏はその13パーセントの300万人が住む一極集中、
この20年でも増の勢い 、カトマンヅ盆地には100万人近くも住む。
みたところ、街には地震で壊れそうな建物がいっぱい。
海がないから津波の心配はまったくないのだが、
ヒマラヤの氷河湖が決壊したら山から津波がやってくる。
原子力発電所はないから、その点での危険性はない。

5000万年前、ユーラシア大陸の南の海岸にあったネパールの地に、
ずっと海の向うに離れていたインド亜大陸が押し寄せてぶつかってきた。
そのインド亜大陸プレートが、ユーラシア大陸のネパールの下にもぐりこむ。
押し上げられてできたのが今のヒマラヤ山脈である。
その南には高い山のシワがいくつもできて南の端に平らなところが残っ た。
こうやって北のヒマラヤ山脈から南のタライ平野まで、
しわくちゃタオルのようなネパール地形ができて、
その北には盛り上がったチベット高地がひろがる。
これらの間には国土を 東西に縦断する大断層を3本も抱え込んでいる。
現在も南からインド亜大陸に押されつづけているから、
日本とおなじように地震が頻発する地帯なのだ。
国土を南北に切って断面を眺めると、ここは崖地ばかりに見えるほどだ。
日本の本州と大差ない幅の国土なのに、その高低差は8000mもある。

●ネパールは毎日停電の国だった

停電と地震の日本を逃れて、安全なネパールに疎開してきたつもりが、
まったくもってあてはずれと知ったのは、現地についてからだった。
ネパールの旅の時の東日本は大震災直後で毎日計画停電中であった。
ところがネパール では毎日計画停電があたりまえの国だった。
こちらは水力発電だけで火力も原子力も発電に使っていない。
乾季の今は発電が需要に追いつかなくて日によっては14時間も停電 。

毎日18時から21時までかならず停電で、夕食となると突然に真っ暗。
レストランでもホテルでも、あっと声を上げるのは外国人だけ。
慌てることはない、そのあたりにローソクを用意してある。
こんなゴールデンタイムが停電、というところが日本とは違う。
やがてどの店もホテルも自家発電機 が動いて騒音と排気ガスのにおいだ。
停電でも暗闇の街にはならなず、店は明るく営業している。

日本語学校のネパール人教師から、日本でもそうかと聞かれてとまどった。
そうか、日本でわたしたちは停電がないことを前提に生活してい たのだ。
日本でも、太平洋戦争で敗戦して数年間は、日常的に停電していた。
自家発電機はなかったが、ローソクもマッチも用意していたものだ。

旅が終わり日本に戻ってくると停電しないのが当たり前の生活になっていた。
そして揺れないのが当たり前の生活にもなって安心と思ったら、
死者が出る余震はあるし、原発の放射線の毒が降って恐怖はあいかわらず 。
原発のないネパールで日本の震災のお見舞いの言葉をいただいて、
なんだかはずかしい思いをした ことを思い出した。
停電は平気でも地震と原発は怖い。

●ネパールも首相がころころ変わる国だった

ネパールは南にインド、北に中国のアジアの両大国にサンドイッチ、
これがために政治的に微妙なことのある国らしい。
20世紀半ばまで鎖国していて、日本と同じに植民地にならなかったが、
隣国インド宗主国のイギリスと関係深くならざるを得なかったらしい。

カトマンヅ盆地には13世紀からネワール族のマッラ王朝が栄えていた。
今見ることができる世界遺産の旧王宮や寺院などの
歴史的建築はその時代の遺産が多いそうだ。
まだネパールという国はなくて、各地に部族社会があった。
17世紀半ばに中央山地にいたゴルカ族がマッラ王朝を滅ぼし、
とってかわったシャハ王朝がネパール全土統一を果す。

18世紀半ばに王家で王族どうしの大虐殺事件があって、
そのどさくさなのなかでラナ家が台頭した。
その後の100年を王に代わって専制的にネパールを牛耳った。
ラナ家は日本 でいえば朝廷に対する幕府のようなものだったらしい。

1951年、国王のクーデターでラナ家を追放して王政復古、
これはイギリスの裏支援だったらしい。
その後は不安定ながらも開国して近代化の道を歩んできた。
1996年からマオイスト(共産党毛沢東派)が台頭して急進派が政治を左右、2001年にはまた王家で大量虐殺事件、王の弟が即位 する。
国王クーデターや大規模な内戦など不安定な政情を経て、
2008年にはついに王政を廃止して共和制となった が、
小政党が分立していていがみ合い、官僚や政治家の腐敗もあって、
決まることも決らない政治的不安定がつづ き、いまだに憲法が決まらない。。
 
ちょうど日本が東日本大震災で、てんやわんやの時だったので、
あるネパール人がわたしに皮肉っぽく 語った。
「日本は自然災害の国だけど、ネパールは政治災害の国なんですよ」
な~に、日本だって負けてませんよ、首相を毎年とりかえるんだから。
ところが、ネパールでは首相が3ヶ月程度しかもたないんだとか。

2.神々と人々と

●多様すぎる民族、言語、身分制

コーカソイド系からモンゴロイド系までメジャーなだけでも10種以上、
細かく数えると100以上もの多種多様な民族が棲み分け入り混じり、
それぞれ言語も民族の数以上に多数あるそうだから、いろいろ大変であろう。
たくさんの言語のなかにネパール語を使うパルパテ族が主流派を占めていて、
ネパール標準語となり、その高位カーストが社会のリーダー的存在という。
何段階もの身分制度のカーストが今も生きており、
民族、言語、宗教、職業にカーストが細かく絡んでいるらしい。
単一民族、単一言語の日本人のわたしには想像もつかない世界だ。
ネパールで出会った多様な民族の顔

●ヒンヅー教の神々

ネパールはもともとは仏教国だったのが、
今では9割がヒンヅー教、1割が仏教だそうだ。
ヒンヅー教徒の家に生れたら自動的に教徒になる。
他に改宗もできないし、他からヒンヅーに改宗もできないそうだ。

ヒンズー教には日本の神道のように八百万(やおよろず)の神々がいる。
街にはその神々がいろいろな姿かたちで登場する。
かつての仏教の仏たちとも仲よく祭られ、人々から拝まれている。
そしてそれを祀るたくさんの行事が毎日のように町にも家庭にもある。

まるで日本の神仏習合の江戸時代のようである。
日本で野外にある神仏といえば地蔵尊とか狛犬である。
ネパールよりも温和な顔立ちなのは仏教とヒンヅー教の違いか。

ネパールでであった神仏たち

日本の野でであう優しい神仏たち

●村の子どもと国際交流

初日はカトマンヅ盆地の西の峠の上にある小さな村のホテル泊りであった。
地名のタンコットのコットとは要塞とか出城のこと、
王国時代にはカトマンヅ盆地のひとつの入り口を守る拠点があった。
日本で言えば、中世の鎌倉七口の切り通しである。

急な斜面の段々畑の集落の中の山道を登った一番上に、
集落を睥睨する位置にあるホテルは、日本資本だろうか。
着いた次の日の朝、目の下に見える集落の探検に出かけた。
集落風景はわたしが少年の頃の日本の山村と似ている。
急傾斜の段々畑の中に、煉瓦や割石を丹念に積み上げて
赤い漆喰で固めた壁の小さな家が散在し、赤や黄色の派手な洗濯物がひるがえる。

村の風景と村人(稜線の左上のホテルが村を見おろす)

山羊3匹と幼児が3人、こっちを珍しげに見つめつつ寄ってくる。
ためしに「ナマステ」というと、手を合わせて返事してくれる。
そこへ少年が3人寄ってきてカタコト英語が分る子がいて、
「ユアネーム?」「ハウオールド?」などといいあう。
子どもを苦手のわたしがネパール日本ミニミニ国際交流をした。
女と子どもばかりが見えるが、男はカトマンヅに働きに行っているのか。
タンコット村のこども

ホテルの泊り客は外国人ばかり、地域になにをもたらしているのだろうか。
戻り道でこざっぱりした風体の若者が後ろから追いついてきた。
聞けばホテルのウェイターで 、ただ今出勤中だという。
「シーユーレイター」とスタスタと登っていった。
なるほど、ホテルは就業機会をもたらしているのか。
ホテル経営のぶどう園もある。いまに段々畑はぶどうで埋まるか。

●よく働く女たち

ネパール人の平均寿命は、男は約60歳、女は50.5歳。
日本とは逆であるが、ガイド氏によればその理由は、
男性よりも女性のほうが肉体労働を多くしているからだそうだ。
たしかに、男よりも女が肉体労働する姿が目に付いた。

都市の土産物屋や街道筋の店先で忙しく立ち働くのも、
農村で重い荷物を運ぶのも女性ばかりであった。
畑でも道路工事でも店舗でも働く女ばかりが目に付いた。
田植えの最中の地域も見たが、田圃で働くのは女と子どもばかり、
ただ、牛を使うのは男の役目らしく、水牛で代掻きをしていた。

ドコという丸くて深い下すぼまりの大小の竹篭がある。
背丈の半分以上もある大きなドコにいっぱい物を詰め込む。
これをナムロという布紐でからげて、頭で支えて背負って運ぶ。
この大荷物を背負って道を歩くのは、ほとんど女なのである。
山林からは肥料や家畜の餌にする落ち葉や木の枝を集め、
田畑からは収穫物などを集めて、一歩一歩あるいて運ぶのだ。

働く女の姿が民族衣装、肉体労働には不むき のはずだ。
裾を引きずるような長さ、鮮やかな色模様ショールがひるがえる。
それにくらべて男はどいつもこいつもいい加減な服装である。
日本でも同じで、男の服装はダメ傾向で、女はファッション性が高い。
働くネパールの女たち

●日本語学校で生け花と謡曲と

旅の最後の朝は、カトマンヅ日本語学院で文化交流会であった。
学院側は教師と生徒が15名、こちらは10名 、にぎやかな会であった。
会場の教室に日本からの寄贈品のお雛さまが段飾りしてある。
見ればどうも三人官女や五人囃子の並び方や持ち物がおかしい。
思い出しつつ直してあげた。

関西組の方が、華道の生け花の実地指導をなさった後を受けて、
わたしはもうひとつ日本文化として能楽を紹介した。
話しながら、似た芸能がネパールにもあるかと聞くと、あるという。
神話マハーバーラタの舞踊劇があるにちがいない。

能「羽衣」を例に、天女と漁夫のやりとりのストーリーを話し、
最後の天女が舞い上がるあたりを朗々と(?)謡って収めた。
♪♪~天の羽衣 浦風にたなびきたなびく 三保の松原浮島が雲の 
   愛鷹山や富士の高嶺 かすかになりて 天つ御空の 
   霞にまぎれて失せにけ~り~ ♪♪

謡っている当人もよく分らぬ古語では日本語勉強には役に立たない。
でも、みなさん興味もって(あっけにとられて)聞いてくださった。
通訳してくださった校長先生に感謝申上げます。
文化交流で生け花をするカトマンヅ日本語学院の教師と学生(校舎 教室にて)

カトマンズ日本語学院 草の根校舎の会」のことを書いておこう。
この学院は1965年に創設、これを日本のNGO「草の根校舎の会」が、
1999年には校舎を寄付し、その後の支援活動を続けてきている。
カトマンヅには日本語学校が大小200以上もあり、公的に認定校は20。
この学院の今の生徒数は30人、盛時には150人もいたのだそうだ。
日本人観光客が多かった時代はすぎて、いまは中国人が多くなり、
中国語学校が増加中だそうだ。いずこも同じである。

3.憧れのヒマラヤ
 
ネパールならヒマラヤだ、その程度しか知識がなかった。
大学山岳部以来のあこがれのヒマラヤになんとしても出会いたい。
ヒマラヤに行く根拠地として有名な町のポカラに宿をとった。
明日の予定にはミニトレッキングと書いてある。
着いた日は曇っていてヒマラヤが見えない。
町の土産物屋にはヒマラヤの山々の 大きく美しい写真が置いてある。
いい歳をして、わくわくする。

翌朝午前4時頃まだ暗闇、マイクロバスでサランコットへ出発。
小1時間走って小高い山腹に停車、ここからサランコット山頂へ歩く。
真っ暗闇の山道をヘッドライトを頼りによろよろと登っていく。
後から来た若者たちにどんどん追い越されつつ、
1時間半かかって息絶え絶えに山頂につく。

暗くてさっぱり分からないが、大勢の見物客がいるらしく騒がしい。
ほのかな薄明になって分かったが、狭い山頂に数百人もいるようだ。
さてヒマラヤはどちら?、人々の頭の稜線があってその上らしい。
暗いのでヒマラヤ稜線か、それとも黒雲なのか、よくわからない。

やがて太陽が右の雲間から顔を出し、大勢の見物客のゆれる頭越しに、
左の方に白雪の山が輝いてきた、う~む、あれがダウラギリだ、
こんどはその右に白い布のカーテンのように輝くのがアンナプルナ、
真正面の黒から白い三角になってきたのが聖なる山マチャプチャレ、
なんだかマッターホルンにそっくりである。
曙光に輝きだす左にダウラギリ 右にアンナプルナ

 さらに右に頭を回して真正面へ、
 黒から白い三角になってきたのが聖なる山マチャプチャレだ。
左にアンナプルナ 右にマチャプチャレ

  暗かった空が次第に明るくなり、かかってたた雲が晴れてくる
サランコットから展望する聖なる山マチャプチャレの夜明け

でもねえ、実は本当の風景はこうでした、 
見回して驚いた、大きな鉄塔が建っていて、寺院のような祠もあり、
屋根つきの展望台もあって、ヒマラヤ見物にあれこれと邪魔物だらけ。
頂上広場の崖っぷちの大勢の頭越しヒマラヤ見物

ちょっと引いて眺めると電線にからめとられたヒマラヤ

左に頭を回すとダウラギリもアンナプルナも籠の鳥

そりゃまあ、崖ぷちに立って騒ぐ若者たちの前にでりゃ見えますよ、
でも怖いよ、人間の頭越しと鉄骨越しヒマラヤを眺めて ウロウロ、
あれ、日本のテレビ 放送屋が来てるよ、俗っぽいところに来たもんだ。
(仲間のひとりが帰国後に偶然に見たTV番組に2秒くらい当人が映ったそうだ)
明るくなって下り道から振り返ったら、町外れの小高い丘だった。
なにがミニトレッキングだよ~、小学生でも行ける遠足だった。

スイスアルプスのマッターホルン2006年
マチャプチャレって、マッターホルンにそっくりである。2006年にみたスイスアルプスのマッターホルンは迫力あったが、マチャプチャレもこれくらい近く見えてくれるとよかったのになあ。
 アイガーもユングフラウも、アルプスはものすごい迫力だったぞ、あんたヒマラヤでしょ、もうちょっと迫力もったらどうなのよ。なんで鉄塔と電線の向こうに隠れてるんだよ、気に食わん、土産物屋の写真とは大違い。

明るくなって下り道から振り返ったら、町外れの小高い丘だった。
なにがミニトレッキングだよ~、小学生でも行ける遠足だった。
こうなりゃ意地でも敵討ち、翌日にヒマラヤ遊覧飛行を申し込んだら、
今日は飛んでません、ちぇっ、返り討ちにあってしまった。
もうヒマラヤはあきらめた。(その2へつづく)  
              
 2011年10月伊達美徳   Copyright(C) 2011   DATE,Y. All Rights Reserved

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