亡き親友Fへのオマージュ
●Fとわたしの付き合い67年
今年2023年5月5日、わたしは人生で登ってきた八十路の坂の半ばを超えた。自分の体調の様子を考えると、どうもこのあたりに峠があるような気がする。この後は下降一方だろう。
そのわが生誕記念日の空は五月晴れだった。きらきらするような光と風の中を抜けて、鎌倉の郊外を訪ねたが、それは決して楽しい遠足ではなかった。
そこの萌える樹々の森の中で、親友(ここでは姓の頭文字をとって「F」と言う)がこの世から消えるのを見送ってきたのだ。
そのFとの交友の記録らしきことを、自分の記憶のために、プライバシーに触れることなく、ここに記しておきたい。
父親を例外として個人について記事を書くのは初めてだが、初めてでも書き残したい親友であった。わたしはもうすぐ彼のことを忘れるに違いないが、それは哀しいのでここに特別記憶装置を作るのだ。
これまで85年の人生でわたしは多くの人の死に出会ってきた。近年はその頻度が上がっている。その死者とわたしの関係を詳しく記録したのは、父親だけである。父は日本の十五年戦争に、通算して3回7年半も兵役についたので、そのことを書いたのである(Dブログ記事参照:父の十五年戦争)。
Fの死で彼との交友を思い出してその記録をつくり出したのは、葬儀の日に出会うはずの面識のあるFの妻子に渡したかったからだ。PCとブログの中にあるF関連の寫眞と記事を拾い出して編集し、USBメモリーに入れて二人に進呈した。ここに載せた記録は大急ぎで書いたその文章などをリファインしたものである。個人写真は載せない。
これまでに同様なことをした親友がもう一人いた。2018年末に見送った親友のKである。このときはブログから採録した共に遊んだ記録とPCから拾い出した写真とで、小冊子を作ってKの妻子に渡した。
Kはわたしと専攻が同じ建築でしかも寮仲間であり、よくFとも一緒に遊んだ。思えばKは実にうまい時に死んだものだ。次の年の末からのコロナウィルスパンデミックも、その2年後からのウクライナ戦争も、Kはいずれも知らないままだ。羨ましい限りである。
●Fとの出会い
Fとわたしの最初の出会いは、東京の大学の新入り同期生として、同じ大学寮に入った1957年春だった。Fは広島県出身、わたしは隣の岡山県出身である。
同じ時代で大差ない人生と思ったら、大きな違いにショックを受けた。Fには1945年ヒロシマ核爆弾被爆という過酷な体験があるのだった。ノホホンと生きてきたわたしとは大いに違う。
日常のFはその過酷体験を全く感じさせなかった。陽気で、多才で、物知りで、よくしゃべり、よく飲んで、よく一緒に旅にも出た。核爆弾被爆の日のこと、その場からの辛すぎる避難行のことなども話してくれた。もちろん原爆手帳(正式には「被爆者健康手帳」というらしい)を持っていて、毎月のその関係の検診を受けていた。しばしば美術館等に同行して、わたしを付き添い者にして無料で入れてくれたものだ。いいやつだった。
彼もわたしを親友として認めていたらしいと、その死の2年前に知った。特異な病の床に伏したことを、近親者のほかはわたしだけに伝えてきた。そしてその遺志により内輪だけの葬儀に入れてくれたのだった。
1958年2月高津寮にて |
木造2階建てで部屋は8畳間に3人同居、共同便所だった。まかないつきで食堂の別棟もあった。思えばあの頃はまだ戦争直後の混乱の影が濃い時代だった。(Dブログ記事参照:高津寮今昔2015、大学寮時代写真集) グーグルマップ高津へ
今はびっしりと都市化している大学寮舎のまわりは、そのころ一面の梨の果樹園だった。やがて果実の季節になり、長十郎梨の茶色の球がたくさん実って、貧乏腹ペコ寮生たちは大いに喜んだ。寮舎には梨が香り、汲み取り便所もその匂いに満ちていた。もう時効だろう。それから高度成長日本に向かい、急速に住宅地化し都市化してしまった。
全国各地からやってきた若者たちはすぐに仲良しになり、多摩川を渡る電車(橋の上だけ路面電車だった!)に乗って都内の大学キャンパスに通学した。わたしは生まれて初めての電車通学だったが、都会っ子のFはそんなことはなかっただろう。
そのころのFとの記憶に、夜遅くまで誰かの部屋で仲間たちと話し込んでいたこと、ある日数人連れだって東京見物に行き有楽町駅前のごみごみした飲食街で餃子を食ったことなどがある。わたしは初めて餃子なるものを知った。広島の都会っ子のFに対して、わたしは中山間部の旧城下町小盆地の田舎っ子であった。
寮生は日本全国からあつまってきていたので、実に面白い仲間たちであった。出身のいろいろな地域の背景を抱えていて、話題が尽きなかった。
ずっと後にわたしが提案して、寮同期生たちの戦争体験の記録集を作ったことがある。それで知ったが、出身地が日本列島各地に散らばるとともに、日本の植民地であった海外から引き揚げてきた者も数人いた(向嶽寮ブログ記事参照:昭和二十年それぞれの夏)。そのような時代に育った若者たちの梁山泊の様相だった。
大学2年生になってからは都内の大学キャンパス内の寮舎に移った。Fとは寮内では何度も出会っているはずだが、専攻が異なるので1961年3月卒業までのFの記憶があまりない。更に卒業後は互いに無関係な仕事だったから、出会うこともなかった。
●Fとの再会から共に遊ぶ日々
時間は大きく飛んで次に出会ったのは、2000年10月だった。卒業後初めての大学寮同期会を大学キャンパス内で開催した。実に39年の空白があって寮仲間たちと再会したが、同じ釜の飯を食った仲だったものといっても、さすがに長期の年月過ぎていた。(寮同期会写真集その1、その2)
改めて付き合いが始まった。その再会した多くの旧友の中にFもいた。そのころはFは勤めていた大企業を定年退職して悠々自適の身、わたしは50歳からフリーランス都市計画家として仕事をしていた。
2002年にわたしは鎌倉から横浜都心に引っ越して、Fの住まいと近くになり、それからはけっこう親密な遊び仲間となった。コロナ禍が来る2020年までは、横浜はもちろん全国各地で、更にネパールにまでも行って一緒に遊んだものだ。
Fは退職後に趣味で絵を描くようになり、絵描き教室仲間との展覧会を春秋に開催した。その時は絵に関心あるやつばかりではなく、Fを知る寮同期生たちが集まった。もちろん集まれば飲み会になる。時間はたっぷりあるリッチリタイアたちである。
●Fと日本あちこちを歩いた
21世紀になってFと再会してから、あれこれと一緒によく遊んだものだ。あちこち旅行、あちこちで花見、あちこちで飲む、あちこちで絵画鑑賞などなど。
その中で2000年の初の寮同期会で再会後の最初の遊びは「100キロウォーク」だった。5日間で100キロの道を歩く遊びである。寮同期会の中のひとり(姓の頭文字でHという)が長距離歩きを趣味としており、寮同期仲間で一緒に歩く会をつくろうと提案した。誘いに乗ったものにFとわたしのほか数人がいた。
2002年5月、その第1回100キロウォーキングツアーをHの企画により、5人が房総半島で歩く旅を5日間やった。わたしは仕事の都合で2日目から参加して、Fと4日間行動を共にして歩きながら多くの話をして、ウマが合うやつだと仲良くなった。そういえばその時の5人のうちの3人は、もうこの世にいない。
その後10年以上もつづいたこのウォーク旅は、Hが旅程を企画してくれて、毎年の春秋にどこかの地でやる定例会になった。このグループの基本は、「参加者はたまたま歩いていたら一緒になったことにして、誰かがリーダとか責任者とかはいないことにする」とHが言う。わたしはそれが気に入ってグループに入った。
わたしは山岳部だったから歩くのは得意である。長期ブランクがあるから一抹の不安もあったが、案外に無理なく長距離を毎日歩くことができたのが嬉しかった。
Hの企画は毎回詳細を極めているので、「どうしてそこまで親切にやってくれるのか」と聞いたことがある。「親切じゃなくてこれが趣味なんだよ」というので、なるほどそういうものか、ではその趣味にありがたく載せてもらうことにした。
5日間に歩く距離は100キロとして1日平均20キロだが、その最初日と最終日は自宅からその地まで遠路の交通時間もあるから、日によっては30キロ以上歩くハードな日もあった。わたしは求道的に歩くことを好まないので、時に短絡のバス利用もしたが、なんとか脱落しないでついていった。10年以上続いたようで、参加者は最初は5人だったのが、最大で15人くらいまでになった。
みんな仕事をリタイアしていたが、わたしはフリーランスとして仕事をしていたので、まじめな毎回は無理で飛び飛び参加だったし、途中参加や脱落も多かった。たぶんグループの中で最もルーズなメンバーだったろう。
話し好きのFとしゃべりながら歩くのが楽しかった。Fの専門分野の化学に限らない博覧強記に驚きつつも、こちらもそれなりの専門とその周辺の話題を返したりするのは、実に刺激的であった。
ヒロシマ核爆弾被爆体験の話もその時に詳しく聞いた。あまりに興味深い事件の「ヒロシマ話」を、わたしが記録したいと言ったことがあるが、うんと言ってくれなかった。個人的には話すが、積極的に他に伝えることはしない、それが信条というのであった。
そのウォーキングのわたし流の記録を、わたしのブログ「まちもり通信」にいくつか載せているが、その中のFと一緒に参加した記録は下記のようである。なお、そこにFのことや写真が必ずしも登場しないが、そこにFがいたことは確実である。また、ほかにも一緒だった伊豆や出雲などのウォーキングがあったが記録していない。
・「房総:歩く人間を忘れた道づくり」2002年(Dブログ記事、以下同)
・「奥能登100キロ:漁村と山村を歩きつつ考えた」2004年
・「祖谷100キロ:越後法末と阿波祖谷 両山村の自然と生活を見る」2005年(PDF)
・「会津100キロ:野口英世記念館に建築文化的保存のあり方を見た」2007年
その頃このウォーキング仲間たちは「20@80」なる標語を作り、「80歳になっても1日に20キロ歩くぞ」と気勢をあげていた。Hがその標語を掲げてこの活動を何かのコンテストに応募して、見事に入賞したことさえある。しかし、実際にその歳になってそれを実行できたのは一人だけである。気力は残れどもさすがに脚力の衰えは争えない。それどころかFのように不帰ウォーキングに出てしまったものも少なくない。
●Fと中越震災復興ボランテイァに
2004年10月に中越大震災があった。被災した長岡市の山村の法末集落に、わたしは2005年から復興支援ボランティアにかなり頻繁に通っていた。ここにFを数回誘って行ったことがある。
最初は2007年10月に大学寮同期の100キロウォーク仲間数人も入れて誘い、山古志村などの他の被災山村も歩いて、被災地を眺め復興を見学した。
2011年秋には、Fを棚田稲刈りに誘って山古志再訪もした。後には春の田植や小正月行事等に一緒に行った。下記の記録はその中の一部で、Fの名も写真もないが、一緒にいた。
・「中越震災の山古志を訪ねた」2007年
・「中越震災7年目の山古志と法末」2011
・「豪雪3m法末年中行事の賽の神」2013年
・「法末集落の四季:棚田、紅葉、豪雪」2016年
●Fと東北震災被災地復興ボランティアに
2011年3月に東日本大地震が起きたが、これには直接的に復興支援に加わることはなかったが、何回か現場見学に訪れた。そのうち2012年10月には、仙台を拠点に3日間の「森の長城づくり」ボランティア活動のドングリ拾いにFと一緒に参加した。このブログにもFの名は出ていないが常に一緒に動いた。
・「仙台:森の長城市民プロジェクト」 2012
・「東松島野蒜:自然と人間が折り合い持続環境維持できるか」2012
・「石巻:映画「猿の惑星」主人公になった眩惑に 」2012
●Fと甲州・信州方面に何度も
わたしが関係していたNPOのイベントの一つが2008年に長野市と松代氏で行われたことがあり、Fを誘って行った。
・「松代:江戸街並み風景と戦争遺構」2008年
韮崎市に住む寮同期生のMを訪ねて、Fと一緒に何度も遊びに行った。Mが研究開発している盲人歩行ガイドロボットつくり実験の作業手伝いと、甲府盆地の春の花見であった。ほかにMの企画で身延へも行ったし、木喰上人の仏像を訪ねる旅もした。
・「柏崎と長岡に木喰仏を訪ねる旅」2008年
・「信州高遠へ櫻の花見は初めての旅」2008年
・「赤沢宿:急斜面の集落は身延巡礼宿場町」2009年
・「木喰微笑仏の微笑とは男女交合のこととは」2009年
・「木喰上人の故郷身延に木喰仏の原風景を訪ねる」2009年
・「韮崎市新府城の花吹雪」(Fの声に花が散る動画)2012年
・「桃源郷で徘徊老人の花見野外宴会」2014年
・「関東の桜が散ったので甲州の桃源郷へ」2018年
・「花競う桃源郷に来てみれば黒板敷きつめ電源郷に 」2019年 googlemap穴山へ
●Fと一緒に信州安曇野から上高地へ感傷旅行に
大学での専攻がわたしと同じ建築であり大学寮同期仲間のK(2018年没)が、信州安曇野のコテージに絵描きアトリエとして毎年の春から秋にかけて住んでいた。そこに大学での寮や建築の同期仲間で何度か泊りがけで遊びに行った。毎年秋に「安曇野収穫祭」と称して集まり、Kがクラインガルテンで精出して作る農作物をみんなで料理して宴会をし、安曇野を歩き回ったものだ。FとKは絵描き趣味仲間として、横浜近辺でも一緒によく遊んだものだ。
・「信州安曇野山中の金ぴか御殿」2010年
・「松本不良老年組の安曇野収穫祭」2010年
2010年の安曇野への旅は、上高地へも足を延ばした。わたしは山岳部員として1958年の前穂高岳雪山合宿に、やはり寮同期生山岳部員のOとともに来て帝国ホテルの管理人小屋に泊ったことがある。Fは学生時代にOとともにFの妹とその友人女子大生たちを連れて来て、ここの河原で体験野宿(山用語ではビバーク)したというから、どちらも感傷旅行であった。後にFから聞いたが、OはFの妹をアメリカ留学に拉致したそうだ。
・「上高地に学生時代思い出旅行」2010
●Fとネパールへ東日本震災避難旅行に
東日本大震災があった2011年の3月末から4月にかけて、Fも入れて寮同期生4人でネパールに「避難」した。やはり寮同期生のMからの誘いに乗って、ネパール旅行の予約したとたんに大地震、参加取り消しかとおおいに迷った。だが、年寄りが日本にいても復興の手足まといになるだろう、この間は不在の方がいろいろ有益だろう、と理由を付けて出かけた。
その旅の真の目的は、ネパールの日本語学校の支援活動団体が大阪にあり、現地学校への文具等の物資支援のために旅行企画を立てて費用を調達しており、参加者は金銭支援と荷物運搬をするのであった。一種のボランティア旅行だった。わたしとFとは同室で、もの珍しくも愉快な10日間であった。
・「ネパール風土称揚:異文化への旅」2011年
・「地震大国ネパールの地震に危険な歴史的街並み」2011年
・「ネパールから通訳ガイドのモティさんがきた」2011年
●Fに金継ぎ教授してもらった
わたしがかなり前の沖縄旅行で買ってきた陶器のマグカップがあり、銘品でもないが愛用していた。あるときパカッと割れた。それで思いついたのがFが接着剤の専門家であることだ。割れ陶器を貼り継ぐにはどんな接着剤がよいのか相談した。
ところがなんと単に接着剤だけではなくて、Fは陶磁器修理再生修復伝統技法の金継ぎを知っているという。よしやろうと、本格的にそれをやることにした。何度かF邸に通ってその指南を受けつつ、かなり長くかけて見事に修復した、だが、この結果はブログ記事へ。
・「琉球焼物マグカップ金継ぎでわが家宝に… 」2013年
●Fの抽象画
いつのころから始めたのか知らないが、Fは絵を描く趣味を持っていた。たぶん、リタイア後からだろうが、画塾に毎週のように通い、その画塾の仲間と春秋に横浜市内の画廊で展覧会をやるので、その時は大学同期の遊び仲間が集まる。1時間ほど絵画鑑賞の後は、飲み屋に移行するのが定番であった。
Fが描く絵は抽象絵画に分類される。大工仕事も趣味だから額縁も自作であり、絵と額とを合わせて抽象作品である。わたしはFの絵を好きだった。Fの画塾の展覧会を見ても、ほかに抽象画を描く人はいない特異な塾生のようで、いかにもFらしい。
Fの大学での化学専攻仲間たちによるアート作品展を、やはり横浜の画廊で年に1回やっていた。これにKの建築専攻仲間も合流して出品するようになった。この展覧会の時は寮仲間と建築仲間がやって来て鑑賞そして飲み屋で終わるのが定例だった。どちらもコロナの来襲とともに終わってしまった。
Fの最後の展覧会出品は、2020年10月の画塾の展覧会だったが、当人は外出できなくて作品だけだった。いつもの仲間と観に行き、飲み屋で絵と作者を肴にした。
Fはその後に病の床にあっても絵を描いていたのだろうか。
2010年10月出品作 Fの最後の作品か? |
●Fとの永遠の別れ
2020年からはコロナ禍の世になり、ヒマな年寄りも集まって飲み会やるわけにいかなくなった。そしてFは2021年4月からは血液の病になり、感染症が最も大敵とて閉じこもってしまった。病院と家を毎週往復する日々だった。
インタネットによる交友仲間にならざるを得なくなり、わたしとはもっぱらLINEメッセージによる情報交換になった。その年に一度だけ、入院している病院のそばまで行き、LINEヴィデオ通話したときに見た顔が最後の面会になった。
寮仲間の交流は、2000年の同期会発足からメーリングリスト40数名のEメールによる情報交換をやるようになった。更にコロナ禍の始まりの2020年からはその中の20人ほどがZOOMによるようになった。もちろんFもそこにいた。
20230401 Fと最後のLINE交信画面コピー |
そして4月30日昼頃、F夫人からLINEメール、昨日彼は旅に出てしまった、と。5月5日に内輪の葬儀に加えてもらい見送った。一緒に遊んだあまりにもいい奴が無に帰する儀式は、親のそれにも平気だったわたしにも、ちょっと辛かった。その日はわたしがこの世に出てきた記念の日であったが、くしくも親友がこの世を去っていった記念の日ともなった。
思い出すFとの酒飲み話、F「夜寝るときにな、明日の朝このまま目覚めなきゃいいのになあって思うことがあるよ」、D「そうそう、オレもしょっちゅうそう思う」、F「な、そうだろ、ワイらもう充分生きたもんなあ」、D「だけどだな、次の朝またうっかり目覚めてしまうんだよな」、F「そう、また朝かよってガックリ、で、また夜になるとやり直すのだけどなあ、、」
なんでもわたしよりも先行してやっているやつで、これも先を越されてしまった。
●Fのヒロシマ核爆弾被爆
Fはその死の前の2年間は、身体内で自ら血液製造が不能になる特異な病になり、現代の医学では治療方法がないと判明後は、毎週の輸血で生き続けた。
意識も食欲も普通だけど、どこか体の内外に傷がつくと血が止まらない、静かに静かに過ごしており、家と毎週の病院への輸血通いの日々だった。そのことはFからLINEでわたしも日常的に知っている。
この病になるよりもはるか前のこと、原爆症なるものはどのようなものかとFに聞いたことがある。実はいまだに何が原爆被曝による病であるか、医学的に分からないままだと言うのだった。だからFの死に至る病が原爆症かどうか分からない。
そこで素人のつよみで、Fの死は原爆症に違いない、そうに決まっている、といいたい。だが85年の長命は生物としての限界によるものか、核の毒の作用が死を早めたのか、それさえ分からないのが残念だ。そういえば、核被曝で命が伸びたかもしれない、とFが言っていた。
その日々を生きることは、彼のLINEメールから推察すれば、自分の意思というよりも、家族の願いと医師の努力への対応だったようだ。いつも旅立ちスタンスから振り返っている日々であったらしい。
もちろんそのような彼の言葉を、わたしも心の中にしまい込んでおくしかなかった。だが、わたしも同年の超高齢者だから、それはちっとも重荷ではなかった。
そしてFは被爆体験を個人的には語ってくれたが、積極的に他に語らなかったし、記録にも肯んじなかった。それがFの矜持であった。
しかし、同時被爆者であるFの妹は、今は加害の立場にあった国の地に市民権を得て暮らしながら、核爆弾について積極的に語り書き、歌人として詠う。その出自でその地であればこそ、大いに有用なる核爆弾への抗議の声となろう。わたしのブログページにあるその声を記載して、Fとの交遊録の筆をいったん閉じる。
・「日本人は5度目の大被曝体験をしても原発を動かす」2012年
・「カリフォルニア閨秀歌人の歌が朝日歌壇に入選」2013年
・『いまなお原爆と向き合ってー原爆を落とせし国でー』2015年
・「戦争の八月:広島核爆弾体験少女の短歌ほか」2019年
以上、この一文はわたし自身のための一種の備忘録である。
(2023/07/09 記)
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