2021/07/24

yamakosi2007【中越震災】山古志を歩いてみてきた

中越震災の山古志を訪ねた
2007年

伊達美徳

 ここは1970年代の各地の大都市郊外でおこなわれていたニュータウン造成現場を思い出させた。あの中越大地震から3年目の2007年10月、大被災地・長岡市山古志をはじめて訪れた印象である。
 大地震から関係者の外は立ち入り禁止となっていたのを、2007年4月から解除となったので訪問した。2日間で、計9時間、芋川流域を約25キロの間をてくてくと歩いて見た風景は、自然の大地生成活動と人間の大地創造活動の短期決戦の戦場であった。
 自然の時間と人間の時間の大きなギャップを見させられたのだった。だが歩いてみても実際のところ、これからどうすればよいのかは、ほとんど思いつかなくて、ただただ考えさせられることばかりであった。


●道のない地図、地図にない道

 行く前にこの地の復興にかかわっている知人たちに幾分かは聞いてはいたが、これほどすさまじいものとは、現場を目で観ないと分からないものだ。
 中越地震被災地を訪れるのは初めてではない。これまで2年間にわたって、山古志の西方に信濃川を隔てる法末集落(長岡市小国町)にもう数十回は訪れていて、地震の爪あとも復旧の様も見てきているのだが、落ち着いてきた法末と比べて3年目の風景のあまりの違いに驚いたのである。

 山古志には地図がない。私のように歩くのが趣味で、歩いてこそ物事がよく見えると確信しているものにとっては、地図がなくて歩くのは不便というか不安である。
 長岡市が作った観光地図らしい案内図はあるが、歩くものにまったく留意していないからほとんど役に立たない。歩いてくる人間がいるなんて、想像もしていないのだろう。
 もちろん、国土地理院の縮尺2万5千分の1の地図はある。だが最新版は地震後に修正したものだが、地震や復旧工事によるによる地形変動に改定が迅速に対応できないためか、ほとんどの道を点線にしてしまっていて、これは実に見づらいし使いにくい。

 地元の人に地図上で聞いても、その道を今も歩くことができるのかどうか分からない。そこまでいってみてはじめて、通行止の標識が出てきて分かるのである。もっとも、自動車なら不可能でも歩いて行く分には何とでもなるから、私たち歩き仲間は通行禁止標識を気にしないで歩いて行くのである。
 逆に、地図に当然あってもよさそうな2車線側帯つきの立派な道路が、突然出現することもあった。地すべりダム(専門用語では「河道閉塞」というらしい)のできた寺野や東竹沢のあたりである。周りを見回すと、旧道らしきものが埋もれている。
 そのような地図を頼りに歩いて、地震の仕業をつぶさに見てきたのであった。

山越の地図1/2500 歩いたところ

●滑落する大地

朝霧が美しいが晴れると災害が出現
 山古志の地震災害は、地域を縦貫する芋川の周辺に典型的に見ることができるから、東竹沢から芋川をさかのぼって木籠、楢木、池谷、寺野、種苧原をへて源流の萱峠へ、そして猿倉岳、風口峠まで歩いてきた。これに加えて梶金から大久保までも車両通行止の道も歩いた。

 WEBサイトに出てくる地質学関係の情報を読むと、山古志は大小の地すべりや崩壊がいつも起きている典型的な地質の土地だそうである。斜めに隆起した地層は、当然のことに斜めに滑りやすいと素人でも分かる。地震でそれが短期に大きく起きたのだ。

 尾根の長手方向に幾重にも板状に重なった地層が斜めに立てかけたようになっていて、それが何かの原因で上から1枚か2枚か知らないが滑り落ちるのだそうだ。だから尾根の両側が崩落することは少なく、片側になるそうだ。法末集落で尾根筋の背に沿って地割れが起きているのを、あちこちで見ることができるが、それはそういうわけだったのだ。

 法末で崩落尾根の真上からのぞき込んで手に触って直接にしげしげと崩落面を観察したことがあるが、こんな山奥にどうしてと思われるような、河川下流の河原にあるような丸い砂利ばかりなのであった。これなら滑って当然に見えた。
 尾根から土が崩落して谷間に土が溜まる、そこを段状に均せば棚田になる。何年もかけてなんどもそれを営々と繰り返して次第に棚田は成長し、典型的棚田風景を作り上げてきたのだ。有名な輪島も山古志も法末もそうである。
 棚田は人間が一方的に作った造成地ではなく、崩落する自然とそれを均していく人間との共同作品としての景観なのである。

●変る棚田の風景

上:楢木近くから見上げる天空の里
下:木籠集落移転先の山古志モデル住宅

 棚田が美しいとわたしたちが思うのは、それが等高線の曲線に沿って少しずつ変化しながらくり返し重なる風景に、音楽でいえばフーガというかボレロのような趣を感じるからだろう。これが同じ棚田形式でも、ニュータウンのひな壇型宅地造成のように直線幾何学的では、そうは感じない。

 山古志で見た壮大な天地創造のごとき工事風景の多くは、棚田復原と地すべりダム対策の工事のようであった。もちろん集落の住宅地再建も重要な工事なのだが、比較すると面積的には少ないものだ。
 棚田復原は、芋川の両岸あるいは支流の谷間で壮大な工事が行われている。寺野のあたりは特にすごいもので、まさにニュータウンの宅地造成を思い出させる。ニュータウンの宅地は人間が住むためだからちょっとは傾斜があってもよかったが、水を載せる水田や養鯉池ではそうはいかないから、ブルドーザーが走りまわって平らな面を作る。どうも復原は忠実ではなくて面積があれば良いらしく、平面形が直線的になっているようだ。そのほうが造成のブルドーザーも稲作の田植機やコンバインも動きやすい。

 考えてみれば、斜面地に棚田の平面を人手で営々と築くときは、労力の都合で土の切り盛り移動量をできるだけ少なくしたいから、おのずから自然地形の等高線にできるだけ沿った曲線をもつものとなる。これが機械となると移動量は大きくなっても力任せ仕事が可能となるから機能的な直線とするのだろう。

上:植木近くの大崩壊修復工事は芸術的大工事
下:寺野の右岸、風口峠下の棚田復元修復工事


 こうして復原された棚田はどこかニュータウン宅地に似てきた。さて、これで山古志の棚田風景は味がなくなるのか、それとも畦に草が生えたに稲が実ると、それなりにまた棚田棚池風景が美しく復活再生するのか。

●棚田復原事業

 ところで当然のことと思うのだが、棚田復原は震災前に既に棚田であったところが崩壊したので工事をしているのだろう。そして棚田は私有財産だが、農政においてその復原費用の9割以上が税金でまかなわれるのだそうだ(自己負担率は2.8パーセント)。食料確保の基盤となる水田は公共の資産であるというのだろう。住宅とは違うところだ(わたしは住宅も公共資産と持っているが)。

 それはそれで良いことと思うのだが、崩壊前も耕作をしていたのだろうか、休耕田だったのだろうか、耕作放棄地だったのだろうか、このあたりはどう農政は対応しているのだろうか。
 これだけ税金を投入して復原後も休耕田や放棄田であっては、なんだかどうももったいないように思うのだ。現に耕作放棄田があちこちにあるのを見たが、それは崩壊しなかったのでそのままになっているのだろう。復原棚田は耕作義務があるにちがいないと思いたいが、、。

上:芋川上流の新旧の棚田が混じる風景
下:梶金近くの谷間の棚田復旧工事

 では、棚田でなかったところが崩壊して、造成すれば棚田新設が可能なところはどうしているのだろうか。土地所有者が棚田を作りたいといえば、復原と同じに税金が投入されるだろうか。
 崩壊農地を公共財として復活するのなら、新たな公共財つくりもあって良いとも思うが、減反政策時代にそれに税金投入はしないだろう。それともそこは防災対策だけ行って、あとは放っておくのだろうか。よく分からないことが多い。

 ところで養鯉池はどうしているのだろうか。食糧確保の基盤とはいえないから、自己負担で復原しているに違いないと思うのだが、どうなのだろうか。だって養鯉業は漁業というよりちょっと投機性もある商売でしょ、まさか棚池復原も棚田と同じ97パーセント税金投入ってことはあるまいと思うが、。東京目白の田中角栄家の池で泳いでいたン百万円の錦鯉は、山古志出身であったときく。

●人間の力づくの営為

 地すべりや崩落の有様は、大地の皮が大きく剥け、巨大な瘡蓋となり、乾ききらぬ血となって、自然の営為を見せている。その大きさは人間の営みと比べるとはるかに大きい。
 ところが、その大きさに挑むが人間である。あちこちに巨大な土木構築物が、大地を覆い、縫い、刺し、結び、貫く様は、力づくで自然の営為に立ち向かう人間の意志の造形としての山古志の景観を作り上げつつある。

 巨大な土木工事の場所には、解説のパネルが立ててあり、どのような災害がおきて、どのような工事をしている書いてある。だが、災害の前がどうであったかは全く書いてない。震災の前まではどのような風景であったのか現地で判断はかなり難しい。

 例えば東竹沢の水没家屋の辺りを見て、どうしてあんな低い土地に住んで居たのだろうかと思いかねないのだ。災害前の状況を知りたいが類推するしかない。
 芋川の上流に行けば崩落しない棚田の景観を見ることができるし、写真家たちが以前から撮っていた画像もあるから、ある程度類推はできる。

 そうやって見て行って次第に分かってきたのだが、特別なところのほかは、原則として復旧であるらしいことだ。つまりもとに元に戻すのである。棚田が典型的な復旧であるようだ。
 かつての主要道路は、棚田を縫うようにある農作業用の道に毛の生えた程度の七曲りだったらしいが、ほとんどの場所で新に立派に作られたようだ。寺野バイパスや旧道に並行するトンネルがその典型だろう。

 復旧であって都市計画的なプランによる復興ではなく、元の機能を回復するのが特徴のようだ。気になるのは機能的に復旧であって、風景の復旧はどうなっているのだろうかということだ。あの巨大さ、異形さの土木構築物はいつか森林に覆われて、風景が復旧するのだろうか。

 崩落した急斜面の人家、道路、棚田等のあるあたりは、急斜面を安定させるためにいろいろの仕掛けが施してある。コンクリ壁、コンクリ吹きつけ、石垣模様のブロック積み、コンクリ棒で組んだ網かけ、外来種芝草の生える土の吹きつけ、同じく草の生える布シートかぶせなどなど。どうしてこれほどの多様な方法をとるのだろうか。

 その場所ごとの地形や地質によってそうしなければならないのだろうか。あまりに多様であるから、どこか景観に落ち着きがない。急患の大負傷者を土木の名医たちがそれぞれの傷の場所や状態に対応してそれ相応の手術や手当てをしたのだろうから仕方ないが、その包帯・眼帯・ギブス・松葉杖・絆創膏はいつになったら外れるのだろうか。

●水の制御

上:レゴブロック型の砂防ダム(大久保)
下:ドラム缶並べ型砂防ダム(神沢川)

 工事現場を次から次へと見ていてつくづく思ったのは、土木工事とは水の制御作業だということだ。溜めるには水平面を要求する水のために棚田を復旧し、流すには斜面を要求する水のために水路を作る。そこには機械が作る地形が出現している。

 河川の流れを制御するために、ダムを築き、護岸をつくる。そこに登場するコンクリート構造物の多様な造形に驚かされる。板状、積み木状、茶筒状、網状、まるでレゴブロック(子どもの玩具)でつくったようなダムなどなど、それぞれ場所に応じて意味を持っているのだろうかと思うが、もしかしたらあれこれ実験的試用しているのだろうか。

 直径10mもあろうかという巨大なドラム缶が、何本も谷に中に並び立っているのが見える。巨人が地球に打ち込んだ鉄の列柱だ。上にまわってみるとこれがダム本体らしく、水流をせき止めてそこから上の谷は細長い池になっている。

上:種芋原の高校と中学校はとっくに廃校
下:地滑りダムで次第に埋没する木籠集落
 それにしても自然地形にこの円筒形構築物の並ぶ景観は、力学的なことは知らないが、どうして出てきたのだろうか。あの巨大な筒に全部コンクリートか土が詰まっているのだろうか。筒の外側が鉄板らしく、ドラム缶のように赤錆びているのは、鉄板でつくった型枠にコンクリートを流し込んで、鉄板をそのままにしているからだろうか。そのうちに鉄錆が谷川に流れ出しても環境上の問題はないのだろうか。

 ところで、棚田復原の現場を見て歩いて気がついたのだが、そこにはコンクリート構造物がほとんど登場しないのだ。棚田の畦も法面だって、コンクリートで固めれば壊れにくいだろうし、草が生えないから管理が便利だろうと思うのは、法末集落で2度の季節を棚田で米つくり経験があるからだ。それともコンクリートから出るアルカリ性物質が、田畑にはよくないから使わないのだろうか。ということはコンクリートを使わなくても復旧できるってことかしら、。

上:山古志の植生は棚田と崩落のために概して貧弱
下:大地すべりダム湖の寺野あたり
 とにかく土木構築物による景観の改変が著しいのだが、棚田のほうが景観的にはひずみが少ないのはそういうことだからだろう。建設土木系と農業土木の違いが興味深い。

●植生と地震

 山古志の山野の植生は、概して豊かではない。ここで豊かでないという意味は、自然植生に近いとはいえないということであり、それは農耕や植林による人手が加わった地域だから当たりまえなのである。棚田には日陰になる樹木は邪魔であるし、森林は自然林のブナ林よりも杉の植林が金になるのだ。

 このあたりの潜在植生はブナクラス域だから、最も安定した植生はブナ林でミズナラが混じるだろう。耕作放棄地をそのまま放置すれば、次第に遷移していってブナ林が極相植生になるはずであり、そのときに最も安定する。

 ところが土地の崩落が日常的に起きているとしたら、植生も安定しないから貧弱とならざるを得ない。自然遷移が初期で繰り返されてブナ林に移行しないのだ。池谷闘牛場の周りに立派なブナ林を見ることができたくらいであった。

上:放棄田は植生遷移が進む
下:池谷闘牛場あたりにみるブナ林

 植生と地震の関係はどうなのだろうか。針葉樹のスギやヒノキは根が横に広がり、広葉樹のブナは根が下に深く入っていく。単純に考えるとスギ・ヒノキ林は地表とともに崩落しやすいが、ブナ林は地表の崩落を止める側に働くだろう。
 実際にブナ林であったところは、地震による地すべりや崩落との関係はどうだったのだろうか。東竹沢の地すべり直後の航空写真を見ると、棚田と杉林である。

 池谷闘牛場は被災していないのは、ブナ林が有効であったからなのか、それとももともと安定地形なのでブナ林が育ったのか、因果関係はどっちなのだろうか。このあたりの研究はあるのだろうか。

 急な崖地の防災工事には緑化をしているようだが、それはどのような植生復原計画なのだろうか。植林をしているのだろうか。できるだけ早く安定したブナ林にする方法を採っているのだろうか。耕作放棄田にはススキが生えて、次第に植生遷移するだろうが、これもブナ植林してはどうか。植生学者の宮脇昭さんの提唱し実施している方式で復興イベントしてやってはどうか。いや、もうやったのだろうか。

 大規模な崖地法面緑化工事をしている。コンクリートを格子に組んでその中に芝を生えさせる方法、芝の種が入った土を吹きつける工法、芝の種の入った布を貼り付ける工法など、さまざまである。その芝は山古志にとっては外来種(外国産であってもなくても)であるが、これだけ大量に入ってくると農作や山野草にも影響を及ぼすような気がするが、どうなのだろうか。

上:工事現場案内 右の不自然な法面は植生回復するか
下:草の種が混じる黒い土を斜面に吹き付け中 

 芝の面を森にするような方法はあるのだろうか。防災面では森にしてはいけないのだろうか。土木工学と植物生態学との連携はあるのだろうか。分からないことばかりだ。
 分かっていることは、どんなに芝が一面に生えてきても、その風景は異様であることだ。この「不自然さ」が「自然さ」に何時なるのだろうか。

●災害とは

 災害とは何だろうと考える。山古志で起きた地震、地すべり、崩落、洪水は、それ自体は自然現象であり、それに伴う人間への害が起きたら災害となる。

 もしも山古志に人間が居なくて田畑もなかったとしたら、震災とは言わなかっただろう。災害復旧工事をしているところは人間の手が入っていた場所であるらしい。崩落が起きたままで放置されているところもかなり広く見えているから、そこは人間の手が入っていなかったところなのだろう。だから震災はないので復旧もない。

 山古志に関する情報をインタネットで探すと山ほどあるが、地質学の専門レポートにはこのあたりは地すべり地形であり、また地震も起きやすい地帯と書いてある。
 ということは、ここに住み耕すことは、いつか災害をこうむる危険性を承知のうえであるのだろうか。

 日々小さな崩落が起きていることは、実際に山地をあるいてみて分かった。多分棚田のあたりも同じことが起きているのだろう。一方ではそれが棚田を新に生み出す機会ともなっているようだ。そのことは法末集落でも聞いたことがある。

 東竹沢で大規模な地すべりによって芋川がせき止められた。約300m四方もあるほどの土地が棚田も森林も乗せたままそっくり滑り落ちたのだ。今、その大地すべりの上はきれいに整地されていて、俗称「山古志平野」といわれるほどに、地域で一番広い平地になっていた。これが昔だったら、人力で段々状に整地して、新たな大棚田群にしただろうと思う。

 自然はときどきの大地を揺さぶって安定方向に向かわせる。大揺さぶりから次の大揺さぶりまではの時間に、人間はいくつかの世代を繰り返していて、人間の時間と自然の時間とは大きな差がある。大揺さぶりで災害がおきるが、その頃は人間は前の災害を忘れているのかもしれない。

 あるいは、大揺さぶりが起きても、それよりも人間の住み耕す場として魅力のほうが大きいのだろう。そうやって人々は地すべりと折り合いをつけてきたのだろう。
 考えてみれば、火は人間に必要だが制御できないと火災となるように、地すべりは棚田を生み出すが制御できない規模になると災害である。水も同じようなものである。どこで折り合いをつけるのか、完全制御できるか、それを探ってきた人類の長い歴史があるのだろう。

●ムーミン谷から天空の郷へ

 山古志とはいくつかの集落をまとめて言っている地域名である。そのなかの6集落が特に大きな災害をこうむった。それ程広い地域ではないから一様に揺れたろうと思うのだが、大災害のあった集落とそうでもなかったところの違いは、なに故なのだろうか。

 現地を歩いて見ながら直感的に思ったのは、比較的高所の丘陵上にある集落(虫亀や種苧原)は被害は少なく、谷地にある集落が大被害のようだ。集落を再生するにあたって、現地での修復が不可能と判断して他の場所に移転せざるを得なかった木籠と楢木はいずれも谷地である。

 地すべりダムで芋川からあふれて堆積する土砂に埋もれつつある木籠集落は、川沿いだが元よりも小高いところに新道と宅地をつくって移転している。元の集落が川に沿った長い形だったのに対して、新集落は比較的集約的になっているようだ。かつてのように家の周りに大きな畑を持たないのだろう。

 楢木集落は劇的な移転である。ムーミン谷といわれたのどかな谷地を出て、目の前に立ちはだかる尾根の上に登り、その名も「天空の郷」と呼ぶ新天地の集落を作っている。
 ムーミン谷から天空の郷へ、そのふたつの名は場所を意味すると同時に、穏やかだった生業のある暮らしから、新たな希望の人生へ駆け上がろうとする暗喩であろう。ムーミン谷から見上げる天空の郷は、まだ手術跡も痛々しい肌の懸崖の上にあった。

 その天空の郷の地では、集落作りが進行中であった。どこか東京郊外の山を切り開く新開発住宅地を思わせつつも、住戸の姿や敷地の大きさがそれなりに地域性を持っているようだ。なお、この天空の郷のネイミング発案者は、復興支援に係っている都市プランナーの浜田甚三郎さんだそうである

 震災復興のために山古志型とでも言うべき、雪国対応モデル住宅をやはり復興支援に係っている建築家の三井所さんが提案されたが、ここでも木籠でも使われているようだ。建物はなかなかに好もしい姿だが、建物周りはどのようになってくるのか、まだ見えてこないランドスケープが気になる。

●集落維持はできるのか

 各集落から一時避難してい人たちも、今年秋からようやくに元に戻れるようになったが、100パーセントが戻るわけではない。報道等によれば、地震前の6割程度の1300人余(もっと少ないとも聞くが)、集落の被災度合いに反比例するという。高齢化も大きく影響しているだろう。どの集落もいまや高齢化率5割以上で、いわゆる限界集落であるだろう。

 日本全体が人口減少時代になって、山村集落の場所によってはいずれは起きざるを得ない縮退方向を、地震災害が後押しした形である。その縮退防止のためと考えてよいのだろうか、復旧工事費約1000億円が投じられている。なお、新潟県の算定によると、地震による直接被害総額は1兆6542億円だそうである。

 集落をできるだけ早くもとに戻す復旧は、人が生きるための方策としてますは必要なことである。そのときに復旧の先にある生活の維持はどのように見すえることができるのか、これは山村の場合はなかなか難しそうだ。

 神戸のような大都市では将来像をトレンドとしてみることもある程度は可能だろうだが、山村ではトレンドで見てしまうと復旧の向こうは見えなくなってしまう。だから復旧をしなくてよい、のではないところに悩みがある。

 山古志を歩いてみて、法末での体験や研究をもとに感じたことだが、これだけ立派な道路が麓の町とつながってしまうと、少なくとも農業は通勤耕作が容易に可能となった。農業のために山に暮らす必要は減った様に思われる。

 豪雪の冬は街に、春から秋は山で暮らす、あるいは週末滞在型も容易であるとすれば、生活圏としての集落再生とは何かと考えさせられる。もちろん通い型も新たな生活圏としてとらえることもあるだろう。復旧のための1000億円は、そのような新たな生活圏構築のモデル投資と考えるのだろうか。山古志のもうすこし将来の生活像をどう構築しているのか知りたいものだ。

●震災を世にどう伝えるか

 地震動による大地の変化の跡は、人間の手による手術の跡のように残る傷もあり残らぬ傷もある。人間の手で消さなくとも、日本は豊かな雨によって植生は早期に復活してくるから、放置した崩落跡もいずれ見えなくなる。現に法末ではそうである。

 自然の時間の中に人間の時間が埋没して、また人間は災害を忘れるだろう。そうやって世代を継いで生きてきたのが山古志のながいながい歴史であろう。
 ところがさて、阪神淡路、中越、福岡沖玄海、能登半島、中越沖と地震災害がこのところ続けて起きるのはどうしたことだろう。昔とちがって高度情報流通の時代となって、地震被害が伝わりやすいからだろうか。それとも人間が多くなりすぎて、あちこちで地震に出くわしやすくなったのか。地球温暖化と関係あるのか。

 災害を後世に伝えることの難しさは、できるだけ早期に復旧したいとて、被災跡が消されるからだが、それは地域社会再建のための必要条件であり、被災者にとっては思い出したくもない事件とての要請に対応するのは施策として当然のことだろう。

 大災害と復興のいきさつは、文献の中に記録としてのこされてきたことは、関東大震災をはじめとして太平洋戦争の戦災もそうである。だが文献だけでは目に見えないから、一般には忘れられる可能性が高い。

 例えば、東京大空襲の被災と復興を目に見える形で物語るものとして、東京駅赤レンガ駅舎が原爆ドームに並ぶ戦争遺産として現存するのだが、これとてもその悲劇の戦中戦後史を忘れて、戦前の歴史に引き戻すべく復原工事が始まった。
 避けられるはずの人間が自分で引き起こした戦争災害さえも忘れようとするのだから、ましてや受動的な自然災害は忘れやすいだろうことは、寺田虎彦の『災害は忘れてころにやってくる』の言やよしである。

 山古志が地域をあげて地震のエコ・ミュージアム(1970年代から出てきた地域全体をひとつの博物館・資料館・美術館としてとらえるミュージアム構築論)として、観光地になる資源的可能性は充分にあるが、それを被災者の住民たちが受け入れるだろうか。もし、それができるならば山古志のこれからの集落維持の振興策のひとつとなるだろう。

 それは悲劇を売り物にするのではなく、どこにでも起こりうる災害を、どう克服するか先人としての知恵を伝えること、それがこのエコ・ミュージアムの役割である。
 そうするならば、どこにでもあるようなハコモノ「地震資料館」ではなく、現地現場保全方法を手当てしなければならないだろう。このミュージアムは、迫力のある景観がまさに展示物であり、災害にあった住民たちこそ真の学芸員なのである。

 沖縄の戦争の語り部が戦争の抑止力になるならば、山古志の語り部たちは地震抑止はできなくても減災力にはなるはすだ。被災者たちが被災のつらさを乗り越えるには、まだ時間がかかるかもしれないが、。
 奥尻島とか淡路島とかには、そのような地域ミュージアムができているのだろうか。あるなら見に行きたいものだ。  (20071104記、20071105補綴)

山古志の被災集落にて

法末集落のコウモリのトンネルにて

注1:この記録は旧グーグルサイト版「まちもり通信」に載せていたが、ここに移設した。20210724

注2:山古志へはさらに2011年にも行った。その記録は下記参照。
2011/09/22 https://datey.blogspot.com/2011/09/498.html
498中越震災7年目の山古志と法末




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