ディズニーランド化する歴史的景観の保全
東京駅、三菱一号館、日本橋に景観復原(復元)の思想を問う
伊達 美徳
2006年
●東京駅赤煉瓦駅舎の保全に関する思想はどこにあるのか
東京駅赤煉瓦駅舎(1914年建築、1947年改修)の復元計画が進んでいるようで、2006年4月ころからホテルもギャラリーも休業するという。ホテルの休業挨拶の広告に2011年再開業とあるから、その頃に復原の姿が現れるということだろう。
この復原計画には、私から見るとまったく文化的思想を欠いているとしか考えられないのだ。ひとつの建物で戦前と戦後の二つの時代を体現して表現し、しかも巧みなそのデザインにより稀有な歴史的景観を見せているのに、戦災でなくなった3階とドームをレプリカでつくって載せるなんてことを平気で行い、なんの考えもなく戦後復興の記念碑的部分を破壊してしまうのだ。
保全するべきとした建造物を、単体の物体としてのみとらえて、古い時代のものでればあるほど価値があるという考古学的な視点に立っているらしいが、それでは人間の生きてきた時間的な履歴を記録する歴史の記念的な視点を欠いてしまう。
重層する歴史を体現する建造物の姿こそが保全に値するのであり、その履歴の時間の長さがその建造物に刻まれているからこそ価値があるのだ。
もしも、そのあたりの歴史的景観に対する保全の思想的検討をしたのなら、ぜひ公表してほしいものである。東京駅はJRという私企業の持ち物であるが、もともとから公のものであり、その景観は日本のほとんどだれもが知っている重要なる位置づけにあるからである。
ここで日本の文化行政をつかさどる文化庁にお願いしておきたいが、東京駅は重要文化財指定になったのだから、今度の改変(復原)については、JR東日本から許可申請が出されるはずであるので、ぜひともそれを不許可にしていただきたい。
●本物を壊してレプリカをつくる三菱一号館再建計画
ということで、これは一体どうしたことか、と思っていたら、また変な再開発計画が出てきた。三菱1号館(コンドル設計、1894年建築、1964年取壊し)をレプリカ復元して、その代わりに丸の内八重洲ビルを壊すという。これまた歴史的な思想をまったく欠いた再開発計画である。
現存する歴史的資産として本物の八重洲ビル(1928年建築)を破壊して、いまごろになってむかし識者や建築学会等から反対されたのに無理やり破壊した三菱一号館を、レプリカ復原して建てるという。
まったく何を考えているのやらと思ったのだが、どうやらレプリカ三菱一号館によって、都市計画で歴史的建造物保全型容積率割増しを受けて、これに隣接して建てる新ビルの巨大化で有利な不動産経営をねらっているのかもしれない、いやそうでないと話が合わないと、思いついた。
そんなレプリカのディズニーランド建築に、まさか歴史的建築保存の容積率割り増しをやるほど、東京都も文化庁もいいかげんなことはしないだろう。なにしろ今、文化庁は八重洲ビルのすぐそばにいるのだから(虎ノ門の庁舎建て替えで、一時的に今は丸の内に引っ越している)。
かつて丸の内にある建築群は、軒高をそろえ、コーナーには階段塔や時計等を立ててランドマークの表現をしていた。今やそれを残すのはこの丸の内八重洲ビルだけになってしまったのである。それを壊すとはねえ、、。
オーセンティシティauthenticityという言葉がある。ものごとの正当性・真実性をいう。ところがこの二つの開発計画ほど、、復原・復元というちょっと美名に聞こえる言い草で、実は偽者のレプリカを展示するという、建築保存のオーセンティシティを欠き、都市のディズニーランダイゼイションを推し進める典型的な例は、ほかにはないだろう。
さて、そうしたところに、今度は近くの日本橋(と日本橋川)の上空に覆いかぶさる高架道路撤去問題がおきてきた。なんでも小泉首相があれをとっぱらえないかと言ったとかが始まりという。そのもとは都市再生本部のブレーン伊藤滋氏(都市計画家)の提案だそうだ。それにしても一国の宰相が、一本の橋ごときになぜにそうまで言うのか。
あの高架道路ができた頃は、景観なんて話題にならない時代だったのだが、いまや景観。景観と猫も杓子も、よくわからないままに、「格好よい」ことが良い景観と思って、変にかまびすしい。
おりしも韓国のソウル市で、高架道路のあったチョンゲチョン(清渓川)という川が、日本橋川そっくりどころか暗渠化していた状態だったのを、高架道路を撤去して川を復活、公園のようにした事業が、ソウル市長の選挙公約で当選後たちまちにできあがったから、これは東京も負けちゃいられないってなことになった、のかもしれない。
実は日本橋上空の高架道路撤去計画は、専門家や地域の人々ではずいぶん前からけっこう話題となっていて、いくつかの提案もあったのだが、あまり外に出なかったようだ。
それがとつぜんに一般ジャーナルの話題になったのは、上からのお達しと韓国からの一種の外圧?のせいらしい。
たしかに、高架道路と日本橋の取り合わせのほうは、東京駅赤煉瓦駅舎の1947年修復と大きく違っていて、美しいとはとても言えないのが大いに問題である。極貧時代の東京駅と豊かになる時代の日本橋高架道路に、どうして逆の現象が起きたのか。
日本橋(1911年)は、建築家・妻木頼黄のデザインによるクラシックな造形だが、1964年東京オリンピックのために日本橋川に上空を覆うように高架道路の高架があわただしくつくられたときに、この橋の上空も覆われた。もっとも上空を覆われたのは、この橋だけではないのだが、東海道五十三次の始まりなどで有名なので話題になりやすい。
あの高度成長に向おうとする時代では、日本橋を覆うことによる景観破壊を言うものはなかった。物をつくることそのものが目的だったともいえる時代だ。
高架道路ができておよそ10年後、建築評論家の長谷川尭氏が名著「都市回廊」(1975年、相模書房)を上梓して、妻木頼黄のデザイン意図を見破った論展開をしている。妻木は水上の視点場からの景観をもって、日本橋を明治へのオマージュとしてのカテドラルもしくはゲートととらえて、「陸の東京」に報いた一矢ではないか、とした上で、長谷川氏は「中空の東京」たる高架道路のあまりの醜さに、将来は天罰が下るとさえ記したのだった。もちろん、長谷川氏の狙いは騒音と排ガスという公害の天罰ではなく、もっと深い意味を込めているだろう。
赤煉瓦東京駅の修復には、腕の立つ国鉄の建築家がいて入念なる修復デザインを行ったのに、オリンピック高架道路の設計にはその人材の起用がなかったのだ。
日本橋がそうであるように、かつては腕の立つ建築家が土木技術者と組んで、橋梁のデザインにかかわったのであった。関東大震災の復興局にその典型を見ることができるのだが、戦後は土木技術者だけで設計して景観や意匠には見向きもしなくなったのだ。
ようやく土木にも景観デザインが言われるようになったのは、80年代になってからだろうか。しかし、土木ではデザイン教育がなかったので人材がいない問題が今にあるようだ。シビックデザインを始めて標榜した、土木研究者にしてデザイナーの篠原修氏の努力が実るのは未だか。
●「ケ」の景観として日本橋川にもどせ
長谷川尭氏が景観と言う言葉は言わずに、その醜さを指摘してから30年余だが、その歳月のうちに何もしなかったわけではない。
事業者の首都公団WEBサイトにこんなことが書いてある。
「その後、景観向上等の社会の意識変化に対応すべく、平成2年度に日本橋付近の首都高架道路と周辺景観の調和を改善するため、高架道路の美化工事を行いました。その工事では、日本橋に調和する色で塗装する、外装板を取り付ける等の対策のほか、高架下の空間をより広く・明るくするために照明を工夫する等、景観の改善に向けた取組みを行い、名橋「日本橋」保存会会長より橋周辺の環境整備に対して感謝状をいただきました。」
1987年の日本橋 高架は構造の表現
余計な照明と模様の板がついた「美化」後の日本橋上空の高架道路は、「美化」前よりもむしろ日本橋の特異な景観を邪魔している(2002年7月撮影)
なるほど、首都公団も気がとがめたのだろうか、日本橋上空の高架道路にも、なにやら付加物がついて、意匠的デザインをしたらしい様子が見える。ところが、その「美化工事」の結果がどうにもいただけないのだ。
日本橋に調和するとして、高架道路橋桁の間に何やら模様の板がついたり、桁のサイドを曲線にしたり、照明を模擬意匠でつけたりしたのだが、それらのヘンに媚を売る形が本来の日本橋の景観を邪魔になるのだ。元来の直截なザハリッヒな形態のほうが、明らかに日本橋本体とは異なっていて無関係に近く、そのほうがむしろよかったとさえ言えるのだ(あくまで「美化」後との比較であるが)。デザインとは「美化」であり、それは厚化粧と思っているふしがある。
あまつさえ、高架の橋桁に「日本橋」と大きな銘板を麗々しくつけたものだから、知らない者は高架道路が日本橋だと思ってしまう始末である。それはそうだろう、妻木頼黄のデザインは水上からの視点を主眼においていたのだから、路上では高架道路の暗がり閉じ込められた麒麟像もよく見えないのだ。
先般あるところで、日本橋の高架道路撤去に関する会議(「日本橋みちと景観を考える懇談会」か「東京都心における首都高架道路のあり方委員会」かどうか知らない)の資料とかで、コンピュータグラフィックによる日本橋と日本橋川に高架道路のかぶさらないシミュレーション画像を見た。3次元に動いて見られるすごいCG技術なのだが、それがどうにもいただけなかった。
日本橋の上を花電車が行き、復元した土手には桜が咲いて花見の時、色とりどりの沿岸の高層建築、どこか非日常のありえないようだけどありうるかもしれない極彩色の風景なのである。現代錦絵とでもいえばわかりやすい。これはもちろん復元景観ではない。日本橋川はかつては河岸(かし)とよばれる水運を利用した物資集散の場であり、川沿いには倉庫群が建ち並んでいて、お花見などしようもなかったのだ。
要するにこのCGも土木流の「美化」であり、白塗り厚化粧と花魁簪類を大々的にやろうとしている。まさに都市のディズニーランド化だ。しかし、それは違うのだ。あるべきところにあるべきものがあり、あるべきところにあるべきでないものはない、日常的ないわば素顔スッピンの美しさ、それが美しい景観なのだ。これは実はアメニティの本来の定義である。
わたくしたちの日常景観のよさは「ケ」の時に基こそ基本があり、祭りやイベントあるいはディズニーランドは「ハレ」の時の景観なのだ。日常空間がいつもハレであってはたまらない、ケが日常であればこそハレが生きるのだ。そこのところを間違えないで公共空間のデザインをしてもらいたものだ。
●「負の遺産」は撤去してしまえば済むのか
では、高架道路を撤去することでよいのかだろうか。ここでは高架道路の代替交通路等の交通機能的な話は抜きにして、「撤去のデザイン」を考えることにする。
あの高架道路の工事中に、その支持杭を川のなかに打ち込む風景は、私自分の目で見た東京風景の記憶のひとこまにあるのだ。その頃は杭をスチームハンマーで打ち込んでいたから、大きな槌音が街に響いていた。打ち込む最初のあたりは、ハンマーを打つまでもなく、ずぶずぶと泥の中にコンクリート杭が沈んでいく。ハンマーも景気の悪い音しか立てない。見ていてこのようなことで支持杭になるだろうかと思ったものだが、ずぶずぶ入り込んだ杭の上にまた継ぎ足して打ち込んでいると、やがて硬い槌音が響いてくるのだった。そうやって高揚期の日本、東京の景観はつくり上げられていったのだ。
いま、それが槍玉にあがるのだが、東京駅赤煉瓦駅舎を戦後復興の記念碑として保全せよという、わが主張の論旨からすれば、日本橋の上空の高架道路は、高度成長期の記念碑として保全せよとなる。だが、そうは簡単にはいかないのだ。
東京駅の場合は下半身に残る戦前の姿と、上半身の戦後の姿の調和が明確にあって、まさに二つの時代の記念碑として「美化」の姿であるのだが、日本橋と高架道路とのとり合せは悲しいかな、美しくないのである。
美は時間が醸成する要因が多いのだが、東京駅60年、日本橋40年の差ではなく、そこに働くデザインの意思が根本的に異なるのだ。東京駅には保存と修復にこめられた景観の思想が上下一体となって存在主張しているのに対して、日本橋と高架道路との間には対立する関係があるのみである。対立して美しい景観となる場合ももちろんあるのだが、ここにはない。
それにもかかわらす、その対立関係にさえ、わたくしたちは歴史の意義を見出すべきである。この対立的景観にこめられた履歴は、1945年東京駅を焼いた日から、1950年代の復興への助走、そして1960年代の東京オリンピックを契機にテイクオフした時代の記念碑であり、それが江戸から明治にテイクオフした記念碑・日本橋と相対峙する景観として見つめることも必要なのだ。
日本の高度成長期に向かってオリンピックは起爆剤の役割を果たしたのだが、その時代のひとつの履歴を表現するものとして、日本橋上空の高架道路を、いったんは私たちは認めよう、これがオーセンティシティというものである。今の時代に人間が、明治の歴史的建造物の邪魔者としてのみ見る単純細胞的マイナス評価はやめたいものである。
今回の震源地の伊藤滋教授はこれは高度成長期の「負の遺産」というが、負であっても負であることをもって切り捨てて忘れさることはできない。次の負を生まないためにこれを履歴として次世代にも伝えなければならないのだ。それは三菱一号館を取り壊したという事件としての負の遺産を思い出させるのだ。
だから例えば、高架道路の構造体の一部を、モニュメンタルに残すデザインがあってもよいと思うのだ。それは産業遺産という文化的な位置づけになるだろう。(注)
こうした景観の思想的な検討が進むと、もしかしたら高架道路がケの景観として定着する時代が来るかもしれない。そうなったときにようやくにして土木デザインが世に受け入れられることになるだろう。いや、土木デザインがごく当たり前の風景となるだろう。そのようなときが来てほしい。(2006/03/23)
注:これを書いた後、ある会合で偶然に知ったのだが、ソウルのチョンゲチョンでは、撤去した高架道路の橋脚の一部を、川の中にモニュメンタルに残してあるそうだ。(2006/04/13)
●20210723伊達美徳注:この論考の初出は2006年に旧nifty「まちもり通信」・「東京駅復元反対論」サイトに掲載したが、この度こちらに移設した。
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