2021/07/22

tokyost1988近代建築保存の論理ーシンポジウム赤煉瓦の東京駅保存をめぐって

 ●近代建築保存の論理について●(1988)
 ー「シンポジウム赤煉瓦の東京駅保存をめぐって」をめぐる問題ー

会員  伊達 美徳

 竹村文庫の代表岩瀬氏から、「竹村文庫たより」に何か書くようにと“命令”を受けた。竹村さんにはお世話になりはなしだし、文庫の集りも欠席ばかりだから、代表の命令には一言の反論もない。

 そこで、近代建築のことなら文庫らしい話題であると思い、このところ仕事で関っている東京駅再開発で、例の辰野金吾設計の駅舎の保全策等の研究をしているものだから、これに関する小論を見ていただくことにした。

 この“たより”は内輪のものだから、少し言いたいことを気軽に言わせてもらうことにした。仕事では言えないことも多いので、ここでフラストレーションをはらすというつもりである。

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 少し旧聞の感もあるが、事情はその後変らないのでお読み願うことにする。
 今年(1988年)6月29日の夕刻から2時間半、『赤れんがの東京駅を愛する会』が主催するシンポジウムが開かれた。私も興味をもって出席した。
 仕事の関係でこの会の運動には興味を持っているので、いちど自分の目で「愛する会」の状況を目にしたかったのでもある。この会は現在の東京駅の姿を創建時の形に復元することをうたっている市民運動団体である。

 “赤煉瓦の東京駅保存をめぐって”というタイトルのもとで、200人は集まっていただろうか。かなりの高齢と見受けられる世代から学生まで老若男女の幅がひろいことは、この運動の特徴を示している。
 会は代表の一人高峰三枝子女史の挨拶ではじまった。シンポジウムは英文学の小池都立大学教授と建築史学の坂本勝比古千葉大学教授の司会で、パネラーは三浦朱門、村松英子、大谷幸夫、稲垣栄造の各氏であった。

 坂本氏の概況報告が長過ぎて、出発点でちょっとだれ気味になった。建築の専門家には面白いが。一般の人はどれくらい興味あるのだろうか。

 創建時の形に復元保存する論理を各パネラーが順に述べた。概して明確な論理構成というよりも情緒的な面がかなりを占める感があった。要約すると、現在の姿は第2次大戦の戦災で焼けた直後の仮復旧の姿であるから、わが国の近代化を果した明治の精神を見事に具現化した辰野金吾の名作である昔の姿にもどして、先人の良いものを受継ぐべきである、ということになる。(このあたりの論は会の出版してるパンフレットを参照されたい)

 大谷氏はさすがに、明治の精神ということを余り言い過ぎるのは危険なこともあることを指摘されたのであった。それでもなおかつ明治の形に復元する側に大谷氏が立つのは、これが一般市民のレベルでの運動であることによっている、ということであった。

 ところで、しきりに言われる“今が仮の姿だから昔に戻せ”という論理はどこかで聞いたような気がしていたが、思いついてみると、これはまさに憲法改正論者の言い方である。新憲法は進駐軍のおしつけだから変えなければならないという言い方に加えて、明治憲法はよかった、と言えばソックリだ。

 なるほど、そう思いながら会のメンバーをみると代表のひとりに黛敏郎氏の名が見える。とは考えすぎで、黛氏は上野奏楽堂保存における手腕を買われたのであろう。こんな保守反動論のもとに、彼ら彼女らは保存運動をしているのでもあるまい。

 だが大谷氏の指摘のような、なにやら気にかかることもある。当人たちが気がつかないでいてもこれを思わぬ方向に利用する人がでることは、いつの時代にかあったではないか。一本気で純真にしてかつ単純なる大衆運動が、ある政治に都合良く利用されたことが……。
 この復元論あるいは改正論の持っている大きな問題は、手続きや見えがかりを優先して、ことの本質を見ないことにある。

 あえて言おう。

 たしかに戦後2年目の修復は仮であったかもしれない。だが本当に仮であったとしても、それがすでに40年を経たとき、現実は仮という概念を超越したと見るべきであろう。今の姿を見てこれが東京駅であると思っている人々の数は、昔の姿こそ東京駅であると思っている人々よりはるかに多い時代になっている。
 人間の営みのそれだけ多くの時間が東京駅の内外を過ぎ去っていったのだ。それでも仮であろうか。

 また更に見ると、本当に仮のものならば、屋根はあのように壮大でなくとも3寸勾配のトタン板葺でよかったし、あのインテリア空間にドーム天井(なんとアルミ製!)など不必要でボード張りの平天井でよいのである。あの物資の極度になかった頃の昭和22年に、この修復を果した国鉄の建築家の努力はなみたいていなものではなかったと推測される。

 この修復された姿こそは、見事な保存修復の手本にもなるとさえも思えて、転換の時代にかけた国鉄の建築家の燃える気概を感じさせてくれる。山崎克氏が修復のために描いたパース、つまり今の東京駅の姿の予想図を見たことがある。もちろん予想図でなくとも、今は現物があるのだが、改めてそのパースで見ると、それは昔の姿を保ちながらもなおかつ近代と現代のデザインのバランスを意識して、実に端正な現代建築の姿へと転換をみせた名作とさえ言える。

 3階が無くなったために、パラペットを高くしてプロポーションを保ち、巨大なドームは端正な形に変化したが、そのデザインボキャブラリーは様式建築を受け継いでいる。
 辰野式ルネサンス様式といわれる日本化した様式デザインは、新しい時代にまた芽をふいたのである。復元的保全の一つのありかたを既に示している。

 歴史家である稲垣氏は、復元や取壊し再開発でなく、第3の道という方法に言及された。だが、肝腎の第3の道の内容を示さずに、第3の道を具現化できる力量のある建築家がいないわが国では、次善の策として復元をするという立場をとるとされたのである。

 この稲垣氏の論は、氏の予期せぬ方向で、丹下建三案を支持するものとなるのである。都市の歴史的イメージを継承しつつ力量のある建築デザインのできる人として、このスーパースターをあげる人は世に多くいるだろう。“力量のある建築家がいない”とは稲垣氏の考えであり、これは改築側にとっては力量ある建築家を選べば改築OKという論理になるだろう。愛する会としてこれでよいのであろうかと、伺いたいものである。

 私は会場で稲垣氏に質問を出した。その文面は次のとおり。

 『稲垣先生へ。当初の姿が明治の精神を発現し、第1次世界大戦の記念碑として復元に値するとするならば、現在の姿はその様な明治から昭和の始めにかけての精神を大転換させた第2次世界大戦の敗戦の記念碑として保存に値するという論理も成立ち得るでしょう。歴史は戦後も脈々と流れているのです。歴史家としてお教えいただきたく存じます。  鎌倉市在住 伊達』

 これに対して稲垣氏は、現在の形態保存でなく当初形態復元の論理として、ナチに爆撃をうけて破壊されたが、町が昔の形に復元したヨーロッパの都市の例をあげて、ある歴史的事実を視界から抹殺することも必要であるとして、現在形でなく当初形を支持する旨を回答された。

 歴史家としてこれは果して適切なる回答であろうか。正直なところ、私の質問への回答としては理解できなかった。ナチの爆撃の一方的な被害者であるポーランドの例をもって、連合軍による東京大空襲とを同列に扱えるものであろうか。われわれは、それほどに被害者の立場で太平洋戦争の痕跡を抹殺して良いのであろうか。

 建築史家の平井聖氏は、今の赤煉瓦駅舎は東京に残存する第2次世界大戦の貴重なる記念碑だと言われる。もしそうならば、これを抹殺することに単純には与し得ないものを覚えるのである。

 私には稲垣氏の言われる第3の道こそは、実は今の姿が最も適切に当てはまるように思われてくる。その記念性と修復にかけた意気は十分に第3の道の資格を備えているではないか。

 全般に建築家はノーテンキすぎる。辰野金吾の作品だから…、今の姿は仮だから…、昔の姿が美しいから…等というあまりに情緒的かつ短絡的な言い口で、世論を復元論に沸きたたせることが可能と思っているのだろうか。それによって改築論を克服できると思っているのだろうか。

 大谷氏にしても、明治の精神の復活に対してのある種の危険性を嗅ぎつけながら、“自分は大衆の味方だから復元の側につく”との言い方については、世の中では通常こういうのを“日和見”とか“風見鶏”と呼ぶ。大谷氏ほどの知識人がこの程度でよいのだろうか。彼こそ復元の論理を確立する役割にあると思うのだが…。

 会場からのいくつかの質問も、私の仲間の風見女史が都市景観としての保存の意義を問うたのが気がきいていた程度で、主に建築家と思しき人々らしい質問は、杭は大丈夫か、復元したらサッシはアルミか等と、物事の本質をつくものはひとつも無いのであった。

 あまりにも本質を論議しないので、もしかしたらこれはその様な戦略が働いているのかもしれないと思われてきた。本質論を真剣に討議すると、色々な保存論が登場して収拾がつかないおそれがある。そうなるとせっかくの運動が分裂したりして、取壊し派を利することになる。だから本質論はさけて、とにかく復元保存とだけ念仏のように唱えよう……という作戦かもしれない。

 だとすれば、戦術としてはよいだろうが、戦略としては実にまずいであろう。ことの本質を十分に討議して、他の考え方への理論武装のない運動は、単なる仲良しクラブのサロンに墮して、次第にエネルギーを失うものである。

 このシンポジウムにしても同じ意見の者だけ集って、賛成し合っているだけでは、これからどのように発展するのか誠に心もとない。次の時代の市民レベルの運動の行方のためにも憂えるものである。

 近代建築にはその背負う歴史が、その前の時代とは格段に異なり、生々しい背景を持っている。古いことがそのまま保存復元の価値ありとする前に、われわれの生きてきた歴史空間としての建築に目を向ける必要がある。

 東京駅の保存運動が大衆運動のなり得る基盤は、そこが大衆の生きてきた歴史空間であるからである。宮廷でもなければお役所でもない、だれもがそこを通り抜けた空間なのである。建築家の目はレンガの積み方や辰野金吾大先生にばかり向いているのではないか。

 こうして、私の迷いはますます大きく育つのであった。(1988/11/21)  

       注:この論は、竹村文庫「文庫だより」掲載した。

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