2021/07/22

tokyost2002戦後の歴史を消すなー東京駅赤レンガ駅舎は復元せずに現在の姿で保全を

 戦後の歴史を消すな(2002)

 ー東京駅赤レンガ駅舎は復元せずに現在の姿で保全をー 伊達 美徳 

●リンボウ先生の緑の東京駅論

 『どうも復元案の絵を見ると、いかにも昔の国家主義高揚の時代にもう一度戻ろうという景観ですね。もっと現代にふさわしい復元案として、例えば駅前広場は森にする案はどうですか。復元した東京駅が緑の間にかいま見える、それが国家主義時代でなくなった現代日本の中央駅復元の姿でしょう。そうでなくても、あれじゃあ夏は暑くてとてもいられませんよ』


 これは書誌学者の林望氏の言葉である。建築学会でのシンポジウム「赤レンガの東京駅保存 どう残すのか、なにを残すのか」(2002年3月9日)で、復元計画のイメージ図(「東京駅周辺整備に関する研究」報告書として2001年12月東京都発表)を見ての、パネラーとしての意見であった。

 この日、赤レンガ駅舎持ち主のJR東日本の北澤章さんから当初形態復元計画の発表、その委員会の保存部会委員の鈴木博之さんの復原論、愛する会事務局長の前野まさるさんの運動論、建築家の横河健さんの丸の内景観論など多彩な発表とともに、こちらの専門でない林さんの話も聞いたのだった。

 たしかに、私が見ても殺風景に軸線ばかり強調した行幸通り・駅前広場と、派手に着飾る復元東京駅の絵は、明治日本よもう一度的なノーテンキさが、どこか見え見えである。
 これはまだイメージで、このとおりに作るわけじゃありませんと、北澤さんは一生懸命に弁解しても、絵は雄弁に計画者の思想を物語るものである。さすがにリンボウ先生、鋭い一撃であった。

●戦災前の姿に復元するとJR発表

 今年2002年2月の新聞一般紙に、東京駅の丸の内側にある赤レンガ駅舎について、戦災前の姿に復元することが決まったと報道された。持ち主のJR東日本が発表したという。

 昨年の業界新聞記事に、赤レンガ駅舎を復元の具対策を検討することで、JRもはいった関係者と学者の委員会が、都市計画学会にできたと報じた。新聞記事は新聞記者の思いこみで書くこともあるから本当かしら、本当ならどんな理由で、いったい巨額の金がどこから出るのかとおもっていたら、上記の研究報告書が出たし、JRも復元すると言っている。これはどうも本気らしい。困った。

 2階建てを3階建てにして、角型ドームを丸型ドーム屋根に復元のためには500億円もかかるそうだ。その捻出は、赤レンガ駅舎の敷地の未利用容積(敷地面積の10倍を使うことができるが、実際は2倍程度だろうからその残り分)を、八重洲口のまわりの土地に移し、その開発権を売ってその売却代金か、自分の別の土地に(八重洲か)移して使うことで得られる利益を投じるかして、まかなうらしい。

 都市計画としては「特例容積率適用区域」という、地主家主借家人たち全員同意して、容積の移転をする制度を使うようである。


●平井先生の保存意味論

 話を冒頭のシンポジウムに戻す。会場の平井聖先生(昭和女子大教授)から、保存と復元の意味を問う問題提起がなされた。その論の要旨は次のとおり。

 今日の当初形態復元保存の話は、建築単体としてどう保存復元するかという、いわば技術論だけであるが、建築保存とは何のためかという意味を問わないままであるのは、本質を欠いていておかしいと思う。
 建築保存は、その時代の文化社会の歴史を伝えるためになされるのである。当初形態復元とは、いわば日露戦争に勝って日本の戦威高揚の時代を復元するものであり、その高揚の結果である戦争の悲劇以後の姿を消しさってしまうことになるが、それでよいのか。戦前・戦中(戦災)・戦後の3つの時を経てきた姿を、いかに保全するべきか考えよ。そもそも委員会では、保存の意味を検討してきたのか。

 私は、先生はついに現在形態保全論を公に言ってくださったと、嬉しかった。リンボウ先生の冒頭の言も、これに関連しての発言であった。


●鈴木さんのレプリカ論

 この平井提起に対する鈴木さんの回答は、委員会でその検討をした記憶があるが、自分は当初形態復元をとる立場である。3つの時代相を見せるとなると作り物のレプリカになり、建築保存の本筋ではない、というものであった。
 これは私には、どうも理解できなかった。では、3階部分をつけたして復元するのがレプリカではないのか。戦後の今の姿を補強し保存したらなぜレプリカなのか。

 鈴木さんは、景観論から保存を論じる人は、レプリカでもよいといいやすいが、それは偽の作り物であるから、良くないともいわれた。京都の第一勧銀ビルのことがあるのだろうが、ではヨーロッパの各都市で戦後の復興を、戦災前とそっくりにもどしたのはどうなのか。それがレプリカの大御所であるディズニーランドと同じとはとても思えない。
 それはそこに住む人それを使う人が自分の意思で自分の金で復元したのであり、他人が作った遊びの場ではないからだ。そこにこめられた市民の意思があるからだ。

 同様に東京駅も、市民の意思が込められているならば、3階建てレプリカ復元でも良いと、私は思うのだ。JRが勝手に復元してもらっては困る、今の姿にはあれを使い見て戦後をすごした私たちの意思が込められているのだから。
 建築家のレプリカ反対論には、どうも技術論をでないところがあり説得性に欠ける。レプリカ反対論を唱えると、3階復元はレプリカの陥穽に落ちるのではあるまいか。

●前野さんの悩み

 平井意見に対する前野さんの答えは、ちょっとお悩みの様子であった。

 すでに10数年前に、何かのときに平井意見を聞いていらして、それが深く胸に刺さっていながら、愛する会事務局長の立場から当初形態復元を唱えている。実は一度、会の中で現状保存を唱えたこともあるが、大反対にあった。
 だが個人としては、戦後の歴史を消すことはしたくない、復元するとしても、復元したところはそれとはっきりわかるようにしてはどうかと考える、というのであった。

 さてそれもどうかな、と、私は思うのである。
 復元するなら、新設の3階のみならず、傷んでいる今の表面のレンガも石もすべて張り替えざるを得ないから、見たところすべて新しいものとなるだろう。それはもうレプリカとどこが違うのであろうか。中身の壁材料は本物ですといっても、建築家だけしか通用しない論になる。
 レプリカ論と現物論は、もっともっと論じられなければなるまい。

●風景の保全はどうなる

 東京駅の保全に関しては論が進んだが、時間が足りなかったせいか、風景の保全に関しては、横河さんが若干述べたが論の展開はないし、都市計画学会での検討にもなかった気配がある。

 とにかく復元できれば万歳とて、そのための容積移転の手法を検討するという、これも技術論には精を出したろうが、肝心の東京駅とその周辺の風景を保全する計画はどれほどなされたのだろうか。

 八重洲側の大丸や観光会館なのどの土地に容積移転するらしい。今の大丸を取り壊して、左右に分かれてかなり太い超高層ビルが2本建つようだ。今の横にひろがる邪魔な大丸に替わって、今度は縦方向の建物が、赤レンガ駅舎の背景の視界にはいってくるのだろうか。


●建築復元はいつも正しいか

 ところで、JR東日本は文化貢献だけで復元をやるのだろうか。そうならばたしかにすごいことだ。それにもかかわらず、わたしは戦災前の姿に復元することには反対である。今の姿を保ってもらいたいのである。

 都市計画学会での検討も、保存部会長が建築構造学者であることから推して、復元することを前提として始めたらしく、復元の技術と方法は検討されても、復元の是非論・意味論の論議はなかった気配があるが、どうなのだろうか。

 はたして復元はいつも正義であるか。
 わが復元反対論(現姿保全論)は、ひとつはあの赤レンガ駅舎は、西の原爆ドームに匹敵する東の貴重かつ重要な戦争記念碑だからであり、ふたつ目は、わたしたちの戦後の歴史を抹殺するな、ということである。

●戦争記念碑としての東京駅赤レンガ建築

 あの駅舎は、第1次大戦と第2次大戦の両方の記憶を、下半身と上半身に明確に形態に刻み込んだ、いまはもう日本では稀有な歴史的記念碑なのだ。1914年東京駅開業イベントに、ドイツ領中国の青島占領の凱旋参内行事をあわせたように、これは第一次世界大戦の戦争景気のもたらした記念碑なのだ。

 原爆ドームと大きく違うのは、それが今も使われ続けている市民の文化資産であることであり、そこに大きな意義がある。また原爆ドームが戦争破壊の姿であるのに、東京駅は戦後復興の姿なのである。あの物資の極端に不足しているときに、あの姿に復興した当時の国鉄建築家の意気に、本当に頭が下がる。


●今の姿にこめられた国鉄建築家の努力

 復元推進論には、今の姿は戦争直後の応急修理の姿だから早く直せという意見がある。本当に応急措置ならば、ドームはは台形スレート葺きでなくて切り妻トタン葺きでよかったし、ホールの天井はアルミ成型丸天井でなくてベニヤ板で平らに張ればよかった。柱頭オーダーなど付け替えなくてもよかった。本当に応急で半世紀以上も保つか。

 今の姿と昔の姿と見比べて、今の形が当初の形に十分に匹敵するデザインであることを誰が否定できようか。戦後復興にあたって、国鉄建築家の画いたパース(完成予想図)の美しさよ。これを見ると、ドームが丸屋根でなく、角屋根でなければならないデザインの必然性さえも見えてくる。まさに近代建築保全再生の模範といえるものである。

 日本建築界の大御所辰野金吾の設計だから復元せよとの論もあるが、それでは国鉄の建築家は辰野より劣るのか。


●わたしたちの歴史風景としての東京駅

 そしてもうひとつ、1914年から45年までと、46年から現在までの時間を比べてみよ。人々の記憶と日常に、東京駅は今の姿が生きているのだ。戦争から復興してきた時代と、その後のわたしたちの歴史を表している現在の姿を、復元の美名のもとに抹殺してはならない。

 今の姿には、日本の繁栄と悲劇の両面の歴史が込められている。もしも戦後の姿を捨象してしまうならば、戦後の近現代建築保存の論理はどうなるのか。

 駅前広場のごたごたと、背景の八重洲鉄道会館(大丸)を取り除けば、それでよろしい。ゆずっても4本の尖塔の復元くらいか。もちろん、木造屋根を鉄骨造に直すなど構造補強は必要だろう。


●都市に風景としての東京駅はどうなる

 ところで、八重洲側の大丸はどうするのだろう。今は赤レンガ駅舎の背景景観として邪魔である。これから大丸も建てて直したら、駅舎の背景としてどうなるのだろうか。どうしても後ろに建てたいなら、金屏風みたいなビルにして、そのまえに赤レンガ駅舎が建っているのもいいかもしれない、とは、村松貞次郎先生(88年当時の八十島委員会)の言であることを思いだした。

 もしも赤レンガ駅舎の敷地の未利用容積率を、他の敷地へと移転するならば、移転されたほうは2000%とかのとてつもなく高い容積率となるから、当然超高層建築の巨大ビルとなる。その巨大ビルの足元にひれ伏して赤レンガ建築が横たわるのだろうか。復元は言われても、それが周辺との関係でどうなるのかが見えない。

●東京駅開発の論議は繰り返される

 面白いことに、東京丸の内あたりでは赤レンガ駅舎建て替え問題も含め、11年周期で開発騒ぎがおきてくる。丸の内美観論争の1966年から77年、88年、99年とあり、次は2010年かと思っていたら早くくるらしい。

 東京駅の保全方法は、当初形態復元ではなく、現在の姿を保つべきというわたしの復元反対論は、じつは1988年頃から唱えている。
 そのきっかけは国土庁・建設省・運輸省・郵政省が共同して調査した「東京駅周辺地区総合整備基礎調査」(報告書は1988年3月にでた)の、通称「八十島委員会」の作業班として携わったことである。

 当時、中曽根内閣の都市開発推進で、東京の中で東京駅周辺、汐留駅周辺(新橋駅)、13号地埋立地(レインボウタウン)が、ビッグプロジェクトとしてとり上げられたのであった。国鉄の分割民営化の前夜であり、バブル経済の前夜とも言うべき民活推進時代であった。

 私は国土庁と建設省のコンサルタントとして、都市計画と赤レンガ駅舎保全問題を主に、まとめ作業を担当した。ここで当時の、いわば当局側のインサイダー情報(といっても秘密にするようなことは何もないが)を、若干記しておくこととする。

●3つの姿を持った東京駅

 私の専門は、都市計画と都市再開発が専門だが、実は大学では建築史の勉強をして出ているから、私としては赤レンガ駅舎保全問題におおいに傾注したのであった。当時、師匠の平井聖東工大教授(当時)によく相談したものである。

 当時の平井先生のお考えは、既に冒頭のシンポジウムでの発言のように、建築保存は時代の文化を伝えることであり、古ければよいのではない。東京駅は戦争後の今の姿が大切であるとするものである。私もその通りと思い、作業を続けた。

 ところで数年前のこと、平井先生はある計画コンペに、東京駅復元計画案を応募して佳作となった。その案は、赤レンガ駅舎の南半分は現在形態のまま、北側半分は戦前形態に復元、そして中央のドームは戦災時の焼けただれた姿に復元というのであった。

 つまりあの駅舎がこれまでに持った3つの姿を見せることで、だれもが歴史を体験することができるのである。これはまさに、安易な復元論に対する、まことにドラスティックな批評であると思う。

●村松先生の復原論

 八十島委員会のなかで建築系は、建築家の芦原義信さんと建築史家の村松貞次郎先生であった。村松先生には、たびたびご指導を受けた。そんお委員会の様子を、当時の雑誌「東京人」に「東京駅を失うことは東京の顔を失うことだ」のタイトルで書いておられる。

 村松先生はその10年程前の美観論争当時に、建築雑誌に丸の内地区の建築について書かれたことがあり、時代の変遷を気にしておられた。最悪ならファサード保存でも良いから、当初の姿に復元して保存したいとも言っておられ、上述の金屏風論もその文脈のなかであった。

 辰野金吾の作品の中での東京駅の評価を伺ったところ、Aクラスの下というところか、とおっしゃった。あのくらいレベルの様式建築は、植民地だったアジアの都市に行けばごろごろある、とも。

●88年八十島委員会

 当時は、国鉄の民営化直前であり、東京駅の敷地全体を民営化後にどう分割するかについてさまざまな動きもあり、東京駅赤レンガ駅舎もその中で翻弄された。

 委員会は都市と建築各界の大御所たちであったが、赤レンガ駅舎は総じて保全の方向で推移し、結論は「現在地で形態保全する」方針となった。この現地保全となった重要なフレーズの原案は、もちろん運輸建設両省の官僚の作であるが、実はその「形態保全」をひねり出したのは、わたしであった。

 そこに至るには、委員会での討議検討によることはもちろんだが、国鉄民営化で分割する会社間のかけ引き、運輸建設両省の縄張り争い、政治家の動きなどとともに、赤レンガの東京駅を愛する会の運動などが背景にあることは言うまでもない。

 国鉄分割民営化にあたって、鉄道事業再建のために民営化会社に移る土地を高度利用したい、一方で赤レンガ駅舎の形態保全もしたい、その間にたっての「形態保全」である。その方法として「駅舎の背後に駅舎の形態保全に十分配慮しながら新しい建物を建築する方法、駅舎の上空の容積率を本地区内の他の敷地に移転する方法等」(上記調査報告書より)と表現したのであった。JRの最近の発表では、この後段のくだりの方向となりそうな気配である。

●「形態保全」の意味

 ここで「形態保全」としたときのわたしの気持ちは、現在の姿かたちを保ちながら機能は現在と未来に使いやすく、という期待を込めたのであった。今もその気持ちは変わらない。

 もちろん当時は諸般の事情で、どの形態で保全するかまで書けるほどに機は熟していなかった。当初形態復原論(例:村松貞次郎、愛する会)、現在形態保全論(例:平井聖)、イメージ継承新規意匠論(例:丹下健三)など、さまざまであったので、玉虫色にも読めるようになったのである。

 これにより、少なくとも現地で赤レンガ駅舎が何らかの形で、その姿が保全されることが決まったことは確かであり、愛する会も運動の成果と喜ばれた。黒衣の私も密かに嬉しかったものであるが、それを復元と解釈されたのは、私の考えとは違っていた。

 それだけに、読みようによってはどうにでもなる危険性を感じたので、第13回全国町並みゼミ(1990、京都)分科会で、形態保全の意味と拡大解釈の可能性を私は発表したのだが、とくに注目されなかった。

 だがやはり、復元への危惧を読み取った愛する会は復元運動を継続した。復元を期待するのは、建築家たちもそうであるようで、辰野金吾設計だから復元せよという建築界でしか通用しない論も聞こえるので、日本建築家協会で私の形態保全論を話したこともあった。しかしどうも、私の現形態保全論は蟷螂の斧である。

●建築家T氏の新復元提案

 88年の八十島委員会の作業のなかで、東京駅の保存に関して、各界の著名人たちのご意見を伺ってまわったことがある。そのうちで興味深い二人のお話を思い出す。

 建築家のTさんに予約するのは時間がかかったが、オフィスをたずねて驚いたことに、畳2枚もあろうかという丸の内から東京駅にかけての大きな模型を見せられた。その模型の中心に、Tさん提案の東京駅計画案の模型が立っている。

 わたしは、建築を計画するときはその周辺のこれくらいの範囲まで模型をつくるのですよ。

 まさか、待たせられた間に、これを作っておられたわけではあるまいが、時間と金がかかりそうな精巧なる代物である。以前から東京駅に関して独自の開発案を発表しておられたが、それを改めて模型で見せてくださったのである。

●高さ100メートルの赤レンガ駅舎

 その駅舎建築の形は、戦災前の東京駅の姿をそのまま、高さ100メートルまで縦に引き伸ばしたといえば分かりやすい。もちろん駅前広場のデザインや交通計画など、新たな提案も盛り込まれているが、2階建ては30階建てくらいの赤れんが壁となり、スカイラインの屋根には尖塔やドームが辰野設計の形で復元されている。

 辰野先生の設計当時は、周りにはなにも建物が無いといってよかった時代です。そのとき先生は、街並みを創りたかったに違いないと思います。あの長さと多様なスカイラインを見ればよく分かるのです。今、それと同じに復元しても、周囲の街並みが100メートルを超えるスカイラインであるとき、先生の意図した街並みは埋没するばかりです。今ならば辰野先生がこうしたであろうと思うのが、この模型なのです。

 Tさんは熱をこめて、このようなことを丁寧にお話しいただいたと記憶している。説得性があった。

●学者C氏は日本のシンボル建築を提案

 経済学者C氏はオーストラリア出身の方だが、そのお考えも実に面白かった。

 シドニーのオペラハウスは、国のシンボルとなる建築であるが、日本にはそれに相当する建築があるだろうか。東京駅こそは、そのような建築を創るのに最も適したところであると思う、との趣旨で、保存や復元よりも世界の建築家の設計競技などで、日本の新たなシンボル建築をつくることを提案したいとおっしゃった。

 わたしは建築史の出身だからか、めったなことでは建築物を見て心を動かされるようなことは無いし、特に現代建築では皆無である。ところが、あのオペラハウスだけは例外だった。すばらしい建物だと知ってはいたが、50歳近くなってはじめて現物を見て、われながらちょっと気はずかしくなるほど感動したものである。

 Cさんの話で、そうか、オーストラリア人も誇りに思っているのだと、改めてあの建築のすごさを思い、これまたお話に説得力があったものである。日本にそのような現代建築が果たしてあるだろうか。 

●巨額の復元費用はどこから?

 それからかれこれ15年、2002年の2月に発表されたJR東日本の復元の投資額は500億円とか。今の時代では敬服すべきまことに大変なものである。庶民としては、これがために運賃値上げになるのじゃなくて、文化貢献で儲けていただいて値下げになることを祈るのである。

 公式に持ち主から復元という考え方はだされたが、まだまだどうなるか分からない要素がありそうだ。事業主のJRが復元資金を捻出するには、その容積移転による稼ぎをあてにするとしても、それは果たして事業採算的に可能なのだろうか。

●最大投資の当初形態復元計画

 単純に考えれば、今の場所で大規模な新建築に建て替えるのが、最も収益が上がるはずである。それをあえて金が最もかかり、それに見合う収益がそのものからは期待できない当初形態復元保全を行うだから、公益企業の社会還元としての貢献は誠に崇高であるが、それにはそれ相当の理由を株主に説明責任だって生じるだろう。

 我田引水のようだが、駅舎そのものへの投資は、現在形態保全が最も少なく、容積移転するのであれば残る赤レンガ駅舎が2階であろうと3階であろうと関係ないから、これが最も経済的な開発投資方法であるはずだ。
 形態保全の技術論や文化論ばかりじゃなくて、企業の経営論としてこれから多くの検討がなされて当然である。

●まだまだ考えたい形態保全

 景気の先行きは不透明過ぎる。これまで何回も復元や建て直しの話しが出ては消えてきた「歴史」があるから、これから最短でも15年はかかるであろう復元事業が、果たして円滑に行くかどうか。
 11年周期説から言えば、その前に出直しがあるかもしれない。

 会場の建築家から、保存復元と持ち主でないものが唱えても、持ち主の経済的補償の手段がないままでは限界があると問題提起の発言もあったように、東京駅だから容積率移転しても開発が可能だが、開発ポテンシャルを持たない地方都市では意味を持たない。

 前から私は唱えているのだが、空中開発権を公が買い取る方法はないものか。公園が公共施設であるように、ある条件のもとでは見渡すことのできる広い空という空中もそうならないものか。倉敷の背景条例の実例もある。

 とにかく今こそ、形態保全の意味をじっくりと市民が考えるべきである。ここまで時間がたったのだから、まだまだしっかりと考えても、遅れているとはいえない。(020316)

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