2021/09/18

chintaitosi2000-賃貸借都市の時代へ-体験的住宅論

賃貸借都市の時代へ-体験的住宅論
伊達美徳
(2000年~)

・小論は、2000年2月から書き初めて、社会の変化やわが身の変化に対応して、少しづつ書き足している。

・わたしの体験的な住宅論であるが、基本は都市計画家の泉耿介氏の唱える「賃貸都市論」の実践であるとしておこう。ただし、私は「賃“借”都市」の立ち場であるが、、。

・最初の「1.私の住宅体験」は、WEBマガジン「週刊まちづくり」200年2月5日号にコラムとして掲載し、引き続いて2,3をつづけて掲載した。この頃は、東京都心で実験的借家体験を続けていた。

・2001年12月に4、5を書き足して既掲載文を一部修正した。都市公団の解体が話題になっていた頃で「都市公団廃止反対」として書いた。

・2002年9月から鎌倉の持ち家を出て、横浜で借家暮らしをはじめたので、2003年1月1日に6,7,8を書き加えた。

・2004年10月に鎌倉の持ち家を貸家としたので、2005年1月26日に9,10を追加した。

・2006年9月5日に、姉歯事件に関連して露呈した分譲型集合住宅について11を書き加えた。


1.私の住宅体験
(2000/02/19)

 「借家」とかいて、「しゃくや」と読むか「しゃっか」と読むか、あなたはどちらですか。しゃくや派ならば庶民、しゃっか派なら金持ちか学究派かも、。これを書いているWPソフトは、「しゃくや」でないと「借家」と出してくれないから、庶民のつくったソフトでしょうね。

 最近の借家の話題は、「定期借家法」(もちろんシャッカと読む)ができたことと、日本一の大大家の都市基盤公団の廃止問題です。これらがなにを意味するか分かる人は庶民、あるいは金持ちの貸し家や土地持ち。

 ここで、わたしのこれまでの人生で体験した住み家の変転を数えてみる。
 ①持家(一戸建て:生家)→間借り(大学寮)→間借り(低層木造大学寮)
間借り(大学寮)→間借り(会社寮)→借家(民間低層木造共同住宅)
借家(民間低層木造共同住宅)→借家 (公団中層共同住宅)
借家(民間低層ブロック造共同住宅)→⑩借家(公団中層共同住宅)
→⑪持家(木造戸建住宅:2000年現在の住居)→⑫借家(公団高層共同住宅)
→⑬借家(民間高層共同住宅)→⑭借家(民間低層共同住宅)
→⑮借家(民間高層共同住宅)-⑯借家(民間高層共同住宅)
→⑰借家(民間高層共同住宅)→⑪→⑱借家(公社高層共同住宅)

 エーッと自分でも驚きくが、特に転勤族でもないし、引っ越し趣味でもないのに、18もの住宅に暮らして生きたことになる。
 このスゴロクのような変転は、数回の転勤及び単身赴任と、引っ越し趣味(都市の暮らし方自主モルモット的実験)も兼ねた仕事場兼用の自主単身赴任住宅が混じっているから、普通の人よりはずいぶん多いだろう。
 でも、この動きの順序は、日本の高度成長時代を駆け抜けて働いてきたものたちの、典型となるかもしれない。
 ご覧のように借家のベテランである。そこで定期借家法が喧しい世になったので、体験的借家論をこの際書いておこうと思いついたのである。わざと資料を見ないで書くので、年代の誤りがあるかもしれない。

2.団地族の出現(2000/02/19)

 木賃アパート→公団賃貸住宅→郊外持ち家という、人生の住家遍歴典型的コースがある。この持ち家が人生の「上がり」になるとする政策が出たのは、1960年代中ごろだったろう。そのころ、住宅公団(現在の都市基盤整備公団)の賃貸住宅は、戦後日本の都市化の中で大きな貢献をしてきた。

 わたしは61年に大学を出てから4年ほどのうちに、⑤間借り(会社寮)→⑥間借り(民間木造アパート)→⑦間借り(民間木造アパート)→⑧借家 (公団中層集合住宅)ときて、公団賃借住宅にすんでいたが、建築・都市計画の専門家の卵として、その政策、その技術に大きな期待を持っていた。

 ところが、政府が持ち家政策に転換して、公団も分譲マンション業に精をだすようになった。高度成長時代を流浪しながら働く都市住民として、持ち家政策は不自然な感じを持ったものである。
 まず、持ち家を買えるようなサラリーの額でないこと、職場と遠いこと、転勤に対応しないことである。その一方では、安価な賃貸住宅が低質になってくることなど、生活の基本的な点で本当に困ったのであった。

 公団が賃貸住宅から分譲住宅に事業の軸足を変えたのは、持ち家政策の根本のところが、政治的事情であることがその不自然さの大きな原因であった。いわゆる55年体制を維持するための保守政策に、日本人が乗せられてしまったのだ。
 それが低質なアパート群と密集市街地を放置し、都心の空洞化を招いたのである。そのところを体験的にしっかりと言っておきたいのだ。

 60年代初めに社会に出たわたしは、高度成長時代を都市漂流していた。勤めた小さな建築設計事務所(今は都市計画の中会社になっている)に、社宅制度が整っているわけもない。仕事の場所と出身地と関係ないから、わが住家を自分で調達しなければならない。借家のベテランになるのは必然だ。

 当時の日本住宅公団(今は都市基盤整備公団)は、賃貸住宅だけを供給していた。その集合住宅供給への態度は実に先進的であり、日本の今のマンションや住宅地づくり技術の基本は全てここにある。60年代末から70年代前期までが、その賃貸住宅供給のピークだったろうか。
 都市漂流民にとっては、結婚とともにその賃貸住宅に入るのが憧れだった。団地族という当時の流行語にはそれがこめられていた。

3.政治にもてあそばれた持ち家政策(2000/02/19)

 ところが、数十万戸にもなってくると、団地族がひとつの社会的な力を持ってくる。若くて旺盛な知識と労働力を振りかざす団地族は、身近な住宅政策をてこにして政治的な力さえ持ち始めた。
 それが当時の社会党の支持層と重なり、都市を漂流する団地族予備軍もこれに加わって、ひとつの圧力団体の姿が垣間見えてきた。これはもしかすると、55年体制を危うくするという、保守的政治的観測が表面に出てきたようだ。

 こうなると、自民党にとって55年体制を堅固にするためには、できるだけ早く団地族を分散させなければならない。予備軍には団地迂回ルートを作らなければならない。それが、持ち家政策への大転換であった、と、わたしは位置付けている。以後、分譲住宅で小さな小さな地主たちが輩出して、ミニ保守層となって中流と称する小市民社会日本を生み出したのである。

 公団はそれまでの賃貸住宅供給を後回しにして、分譲宅地・分譲住宅をつくることへと転換した。もうひとつの大きな賃貸住宅政策だった自治体の公営住宅政策もも弱者対策的な方向へと変わり、その一方では住宅供給公社という自治体分譲不動産屋を行うのである。

 列島改造ブームを煽りたててで、山を切り谷を埋めて土建屋の仕事が郊外宅地・郊外住宅・郊外マンションの分譲が進む。分譲というように、文字どおり切り売りである。集合住宅ならば大きな宅地開発をしなくても良いのに、小さな土地をたくさんつくるから郊外へ郊外へと広がる。それがいまの拡散都市問題となっているのだ。

 これに団地族や予備軍が買えるようなローンシステムを用意して、借家を借金に置き換えるとともに、持ち家こそ日本人の基本的志向であるという嘘っぱちのキャンペーンもされて、小さな土地住宅持ちがやたらと増えてきた。
 昔から地主は、持っている資産の大小に関わらず保守層なのだ。彼らはそれを守るために、小市民ながらも保守層あるいはその予備軍となって、55年体制は維持されることになった。

 その陰には、わたしのような、この政策に乗りきれない都市標流民層と高齢者層が見捨てられ、その彼らを吸収したのが、今、問題とされている密集市街地であり、その主役の木造賃貸アパート群である。その問題は阪神淡路地震がみごとにあぶり出してくれた。
 日本の政策が変わるには、人柱が立つか、外圧(地震も一種の外圧)が必要なのである。

 持ち家政策が出された当時は、これほどに住宅漂流都市難民がいるのに、なんでこうなるんだろうと実に不思議に思い、その後も何回もの転勤・移転のたびに、日本の持ち家政策に腹を立てながらやってきた。
 体験的には何が腹たつといって、貸し主や不動産屋の横柄にして無礼なることには、ほんとうに辟易する。

 この庶民的世界の現実を知ってますか?、定期借家権万能論を唱える人たちは、、。あるいは、公団の借家事業は終わったという人たちは、一度でも民間賃貸住宅に入ったことありますか?

4.とんでもない民間賃貸住宅の実態(2001/12/01)

 日本で賃貸住宅がうまく行かないのは、借地借家法がおかしいからとか、日本人は持ち家志向だとか、どうも本質的でない議論、あるいは現場を知らない議論が横行しているようだ。
 一度でも、個人の立場で民間住宅の借家をしてみると分かるが、その契約にあたって貸す側が示す書類内容の横暴さには、まったく腹立ちを通り越してあきれる。

 業界統一らしい表向きの契約書にはとても書けないことを、念書として別の書類で出させるのだ。そこには、明らかに公序良俗に違反すると思われるようなことを平気で書いている。すべては借主側に責任が帰するようになっている。それにはんこ押さないと貸してくれないのだ。

 これは、今の借地借家法では貸した方が弱いといわれる貸し主の自己防衛であろうと、弁解されよう。しかし、それはおかしい。そもそも良質な賃貸住宅が大量に供給されていれば、市場はそれなりに動くはずであって、一方的な片務契約でないと貸さないといっていたら、借り手がいなくなり、困るのは貸し手だ。

 今は、賃貸住宅の市場が貸し手側に有利だから、こんな屈辱的条件でも借りなければならない。法律がどうであろうと、今は貸すほうが絶対的に強いと、長年の借家経験がものを言わせる。これからだって弱くなるとは思えない。

 60年代の終わりごろだったか、名古屋で入居していた木造賃借アパートで、家賃値上げを大家から出されて、納得できずに文句を言ったら、調停裁判(というのかどうか忘れたが)に持ち込まれたことがある。家主のほうは裁判所に持ちこめば、借主のこちらは驚いて引っ込むと思ったらしいが、こちらは若くて好奇心いっぱい人間だし、その頃はヒマでもあったので、喜んで裁判所に通ったものだ。裁判所に何回か通ううちに、こちらが転勤でうやむやになってしまったが、面白い経験をした。調停裁判とは、どうもいいかげんなものだ、とも知った。

 分譲住宅政策のおかげで、借金を背負った国民がどーんと増えて、銀行が大もうけをして、いい気になったものだから、いまその報いを受けている(んだかどうかよくわからないなあ)。そして、分譲価格だけが問題となって、見かけを安くするために小さな宅地ばかり増えて、都市はますます外的にも内的にも、スプロールを続けている。

 ということで、賃貸住宅政策を捨てて持ち家政策にした背景と、そのもたらしたものを、わが体験的に書きました。

5.地上げ屋の喜ぶ定期借家(2001/12/01)

 バブルパンクの頃、定期借家権OKという法律(「良質な賃貸住宅等の供給の促進に関する特別措置法」という格好良く長たらしい名前)ができました。これによって、良質な民間賃貸住宅が供給されます、というのがうたい文句であるが、本当かしら?

 わたしの感じでは、これは要するに、貸し主が借り主を追い出しやすい仕組みができただけのことに思えるのですがねえ。なにしろ、早くからこの制度の必要性を声高くおっしゃったのが、バブル景気時代の地上げ屋さんと土建屋産さんたちだった記憶があるので、どうも気になります。

 これを推し進めている不動産業の方がたは、今より法律上も強くなって、あんな不真面目な念書なくして、まじめな賃貸借契約してくれるのでしょうか。
 もちろん、建て前としては、これで優良な集合型の賃貸住宅が、都心部に、中心市街地に、まちづくりとして大量に建設されるようになると期待しています。
 本音としては、東京中央区か港区の、安い賃貸集合住宅ができるなら、わたしが一番に入居したいと、思って、先般できた晴海トリトンスクエア(都市公団再開発事業で、公団賃貸住宅もある)を見てきました。

 いいですねえ、引っ越したい、と思ったけど、家賃がなんと月20万円以上もするのですね。国民の住宅政策のための公団が、こんな民間並み家賃を取るなんて、どこかおかしい。
そんなことするから、公団廃止といわれても、住宅政策がないとか、民間でできることをやってる、なんていわれるのでしょうよ。

 かつて、戦後日本の住宅政策をリードしてきて、いまだに住宅問題だけが解決しない日本の住宅政策を担う役割を忘れはいけません。人口減少して超高齢社会になろうとする日本は、今の居住環境では構造的に生きてゆけないので、人口の大移動時代を迎えるのです。
 それに対応する新たなしっかりした住宅政策が必要であるのは、もう焦眉の急です。

 高齢者の暮らしの場は、なんと言っても管理の行き届いた賃貸住宅ですよ、そんなことも分からない政治家たちですか?
 決して都市公団の賃貸住宅事業は終わったのではなく、これから正念場を迎えるはずなのに、ろくろく政策論議なくて廃止に至ろうとするは、残念至極です。
 ここには、わたしの積年の住宅問題への体験的恨みが込められています。

6.危うい分譲型都心共同住宅ブーム(2003/01/01)

 ここからは2003年1月1日の記述であり、わが身の住宅環境にもにも大きな変化があったことを、報告したい。その前に、この2年で何が変わっただろうかか。

 世の行方はあいかわらず不況が続いていて地価の下落が続いている。要するに元に戻りつつあるのだ。それで、都心立地のビル型集合住宅(通称マンションというが、私はそうはいわない)の一戸の値つけが、3000万円台で70平米程度になってきて、東京と横浜の都心部は分譲型共同住宅ブームである。

 都市公団は、独立行政法人となることに決められて、賃貸住宅にその役割りを絞りつつあるのは、半分はよいが半分はよくない。都心への回帰と言われるが、それは要するに、遠くに広がりすぎてた生活圏を収拾しなければ、これから高齢化してくると生きるのが大変だという郊外居住者の保身の策が、やっと社会的な潮流として見えてきたのである。

 これまでわたしが唱えてきている、高齢化と人口減少社会における就業居住圏形成の方向が、現実に目に見えてきた。
 ただ、どうも気に食わないのは、あいかわらずの分譲型集合住宅が流行していることだし、政策もその方向であることだ。

 密度高い都心市街地に分譲共同住宅が数多く建ってくると、土地はますます細分化が進む。土地の有効高度利用というが、建築も持ち主もいつか寿命が来る。細分化した権利関係はその建築物の維持管理を難しくするので、資産としての老朽化をとめることが難しい。
 典型的な事件は、阪神淡路大震災に見たように、倒壊した分譲型共同住宅の建て替えの難しさである。それは技術問題ではなく所有問題であった。

 その教訓をまったくいかすことなく、あいかわらぬ都心分譲共同住宅ブームである。危ういかな。管理の行き届かぬ分譲共同住宅が山のように出てくるからこそ、いわゆる「マンション建て替え法」が出てきたのである。
 なぜ、公団公社のようなしっかりした公的な住宅管理団体による賃貸住宅を、みんなは求めないのだろうか。またいつの日にか、不動産を持っておけばよかったという時代が来ることを夢見ているのだろうか。その頃には私は生きていない。

7.わが18番目は借家の生活拠点(2003/01/01)

 くどいが、ここではじめ(1 私の住宅体験)において述べた、わが住宅変遷記をもう一度、すこし付加して書く。

1持家(37~56戸建て2階建:生家、高梁市)
2間借(57~58大学寮木造2階建て長屋2階、川崎市)
3間借(58~60大学寮木造平屋長屋、目黒区)
4間借(60~61大学寮木造平屋長屋、目黒区)
5間借(61~62公団賃貸10階建て共同住宅4階、大阪市)
6間借(62~63民営木造2階建アパート2階、寝屋川市)
7間借(63~65民営木造2階建アパート2階、名古屋市)
8借家 (65~66公団5階建て共同住宅2階、名古屋市)
9借家(66~68民営ブロック造2階建テラスハウス、太田市)
10借家(68~79公団営5階建共同住宅2階、横浜市)
11借家(73~74公団営14階建共同住宅12階、堺市、単身赴任)
12借家(75~76民営10階建共同住宅3階、大阪市、単身赴任)
13持家(79~02自己所有木造2階戸建住宅、鎌倉市)
14借家(91~94民営3階建共同住宅2階、品川区、単身赴任)
15借家(94~96民営14階建集合住宅2階、大田区、単身赴任)
16借家(96~98民営14階建集合住宅7階、品川区、単身赴任)
17借家(98~99民営14階建集合住宅8階、目黒区、単身赴任)
18借家(02~ 県公社営14階建集合住宅7階、横浜市中区)

 ここで18番目が新たな借家である。これは家族を置いての単身赴任ではなく、家族ともどもこの借家に生活本拠を移したのである。家族ともどもといっても実は妻と二人だけであり、息子たちはすでに出て行っている。

 四半世紀ちかく暮らした鎌倉の静穏なる谷戸の米屋へ3里(ちょっとオーバー気味に)の住まいから、こんどは横浜の喧騒なる都心でコンビニへ3分の住まいである。ウグイスもホトトギスも鳴かぬに替えて、車騒音と陽射しはいっぱいだ。

 偶然にも引越しちょっと前から左肢の故障(大腿骨頭壊死なるすごい名前)にて、いつの日か役だつかなあと客観視していたバリアーフリー仕様を、入居の日からヨタヨタと実体験する日々で、わが先見の明に感心というか情けないというか。これはチタンの骨に入れ替えるまでの騒ぎであるが、、。
 (2005.1注:この病気は2004年4月頃に自然治癒した。不治の病は誤診だったらしい)

 子育てを終えて気がつけば、われら夫婦の身も老齢認定されて驚き、かねてからの持論「人口減少時代の少子高齢社会における就業居住圏形成論」を、自ら実践した次第である。 まだ体力あるうち、ボケぬうちに、、、。

 このスゴロクの上がりはまだ来ていないが、多分19番目に来るのだろう、高齢者養護施設として、それは、わたしの母が今いるところ、、。

8.父の家そして私の家(2003/01/01)

 父が神主をしていた広大な土地の中にある神社の家がスゴロクの出発点だったが、今思えば、あれは宗教法人の土地の上の資産だから借地で持家だったのである。
 その生家はもう取り壊されてしまった。その高梁盆地の神社を父と母が出て岡山市内に移ったのは1965年だったろうか、ということは、今の私より(65歳)もずっと若い55歳であったのか。いったい、なにがそうさせたのだろうか、。

 岡山市内に土地を買って、建築家の卵(孵ってみたら都市計画家)の私に設計をさせた小さな木造平屋の家は、私の処女作ともいういうべき建築である。その家は今も建っているが、主であった父母は、80歳を超えたときに大阪市内に、人生のもう一度引越しをした。
 そのとき以来ずっと無人のままで、庭には夏草がはびこり、冬はだれも採らない金柑の実がきらめいている。(注:現在は売却・http://datey.blogspot.jp/2014/11/1024.html

 そして今、横浜に移転したわたしにも、鎌倉にある家が父の家と同じ運命にあるのだ。金柑にかわるのは枇杷の実だが、野生化したタイワンリスが食している。
 考えてみれば、これは日本の住宅地形成の典型なのだろう。田舎住まいで高齢化した者たちは、動けるうちに便利な市街地に移るのは、わが論のとおりであり、わが身のとおりであるとすれば、全国各地にこのような空家が増えているにちがいない。

 一体どれほどそのような住宅あるのだろうか、そしてそれは静かに確実に増えつつある新たな不良資産なのだろう。これからもどんどん増えるに違いないこの空家群は、空き店舗問題と同じに社会問題となるに違いない。

 重松清の描く「定年ゴジラ」の世界では、まだ新開発が売れそうであるが、次の定年世代が来ようとしている今は、それは空家になるばかりであるだろう。定年ゴジラたちは空き店舗ならぬ空家対策につていの町内会の活躍が語られるかもしれない。

 それも人口減少時代には無理となるだろう。次の小説のテーマは高齢者の社会移動の喜悲劇になるに違いない。そうか、わたしがそれを小説に書くかあ、直木賞ねらいで、、ア、もうだれか書いてますか?。

9.住宅循環ネットワークNPOはできるか(2005/01/24)

 2002年9月から横浜に移っても、鎌倉の空家を売るか貸すか、特に決断もつかず、つける必要もなく、2年が過ぎようとしていた。空家の猫の額の庭でも、あっという間に背丈ほどにはびこる雑草の刈りとりと風入れに、年に3回は行っていた。

 以前から、鎌倉のまちづくり仲間が集まると、鎌倉の空家空地問題を話し合っていたものだった。あちこちの空家がそのままに朽ち果てるとか、空き家が壊されて空地のままであるとか、どちらももったいない。
 大きな屋敷地が細分化したり、周りと似合わぬ集合住宅になったりして、好ましくない環境になる。鎌倉山のような高級住宅地でも私の家のような低級住宅も、ことは同じである。

 こんな現象が大なり小なり全国各地で起きているに違いない。しかし、鎌倉には住みたい人はいるはずだからこそ、空地を細分化しても、集合住宅にしても、不動産屋と建設業者が儲かる仕組みである。

 しかし、空家となった住宅を再利用すれば、居住環境を維持し、よけいな廃棄物も出さないで住む筈である。その空家をリニューアルして住みたい、借りたい、買いたい人が居るはずだ。不動産屋はそれでは儲からないから、そんなことはしないのだ。

 これをなんとかならないものか。例えば、そのような空き家を借りたり買い取ったりして、リニューアルの上で借り手に貸すシステムを、NPOのような組織でやることができないものか。住宅循環ネットワークNPOである。
 こんな話を飲みながらしていて、つい、それでは私の家が今は空家だから、それを実験台にしようか、特にアーティストに貸してね、などと冗談半分に言っていた。

 これに相当する動きは、すでに京都に「京町家作事組」というNPOがやっていることを知った。また、世田谷では、ある大きな屋敷を、数人が別々に暮せるように改装して、共同住宅にしている例もあり、鎌倉にその実践者をよんで、実施の経緯や現状、諸課題などを訊く機会もあった。

 やはり予想通りに、街でも山村でも、今、日本には空家問題はひしひしとし寄せている。先般の奥能登徒歩旅行で、崩壊する山村を見て切実だと思った。中越地震の山古志村などで、それがある特定の形をもって一度に露呈したケースといえよう。

10.アーティスト イン レジデンス明石谷(2005/01/24

 鎌倉の空き家となっていたわが所有の家が、2004年10月から貸家となった。借り手が来たのである。これまでは、借家側ばかりだったが、今度は貸家側にたっての賃貸借都市論の実行である。

 鎌倉のまちづくり仲間のH氏から、Oさん夫妻がわが空き家を借りたいと言っているがどうだと、2004年8月に相談のメイルが来た。写真家である夫人が写真アトリエかつ作品展示もしたいのだという。
 渡りに船とはこのこと、しかも、なんとアーティストだから、冗談が本当になる。話はとんとんと進んで、諸般の事情で10月から入居したいという。

 いいでしょう、Oさん、ただし、私のほうで改修している時間がないから、あの家は私の最後の設計だから、あなたがどんなに手を入れて改造してもよろしい、基礎的な改修費用はこちらでもつから、貴方のほうで手配してほしい、という条件です。

 これに若いアーティスト夫妻は、友人、仕事仲間、親、建築家たちを動員して、自分たちで挑んだのだった。一部の間仕切りを取っ払うなど改造して、ペンキマッシロシロに塗ってしまった。さすがに水道設備の取替えは専門業者に頼んだ。

 私たちは二人の息子をここで育てたので、それなりに間仕切りなどもしたが、若いOさん二人は、1階から2階そして屋根裏部屋までまるでひとつの空間のようにしてしまった。1階の居間は、すっかり展示アトリエの雰囲気である。これはまさに住宅循環ネットワークNPOへのモデルとなるはずだ。嘘と冗談は何回も言っていると本当になっちまうもんだなあ、、。

こうして、「Artist in Residence 明石谷」が実現したのである。さて次はこれをどう一般化するか、宿題を背負ったのである。
 (追記20050424):鎌倉の家のその後の様子が、雑誌「湘南スタイル」21号に載ったので、こちらをごらんいただきたい。

11.姉歯事件で露呈した分譲型集合住宅の問題(2006/0905)

 姉歯なる1級建築士の資格を持つ構造設計屋が、設計の手抜きで構造計算を偽造して、たくさんの高層ビルが地震耐力不足ということが判明してから、もう1年近くになろうとしている。構造計算偽造ビルのうち、ホテルや賃貸ビルはそれなりに建て直しが進んでいるが、分譲区分所有型集合住宅(通称マンション)は、建て直しが決まったのはたったの1棟だけ、そのほかの数十棟はいまだに手付かずであるという。

 東京都心部ばかりか地方都市の都心部も、マンションミニブームと言われるらしく、高層の区分所有住宅がどんどん建ち、どんどん売れているようだ。
 姉歯事件はいわば大地震が来たのと同じなのである。倒れそうになったので建て直さなければならないが、区分所有でいろいろな利害の人がたくさんいるために、建て直しに持ち込むのが容易ではないらしい。その証拠には、賃貸住宅ビルは立て直した進んでいる。

 この事件でいろいろな対応が建築レベルで考えられ、建築法制度の改正もあるようだが、私が言っている様な、そもそも区分所有型集合住宅というシステムそのものに根本問題があることに対しては、まったくメスが入る気配はない。

 潜在しているビルの区分所有システム問題は、既に阪神淡路地震で顕在化したのにもかかわらず、その問題を無視あるいは意識的に忘れたかして今日までやってきて、こんどは天災の地震ではなくて人災で再び顕在化したのに、いっこうにこれに抜本的に対処しようとしていない。

 超高層住宅ビルがたくさん建ちつつあるが、これは厄介な問題を大きくしているだけである。超高層ビルとて、時機が来れば老朽化して立て直さなければならないし、予期しない大地震で壊れて立て直すことになるかもしれない。

 そのときに、高い容積率でたくさんの住宅持分者がいるのだから、建て直しの合意は容易ではないだろう。どうするのだろうか。今の人たちはその頃のことは分からないからとて、頬かむりしているのだろうが、30年前の区分所有ビルが今起きている建て替え問題だから、そんなに先のことではないのだ。

 姉歯物件にかぎらず、老朽化した区分所有型ビルは、いま問題を抱えたままに朽ちようとしているのだ。朽ちることでしか解決方法がないのが現実である。 それなのに、政策として今なにも手を打たないままに問題居住者を増やしているのは、これだけたくさんの問題住宅に住んでいる人たちが日本ではいるために、もう政策では手が付けられなくなったということだろうか。

 問題住宅居住者がこれだけ多くいればこそ、小手先ではなく住宅基本政策として手を打つべきなのだ。次の関東大震災が、三度この問題をあぶりだすだろうが、そのときは被害者はとんでもない数になるはずだ。

 今のような区分所有型共同住宅は今後は禁止、あるいはシステム保全の方法が政策として確立するまでいったん禁止するべきである。
 日本の政策が変わるのは、人の身御供と欧米外圧(アジア外圧は無視する習慣がある)があった時だけである、ああ、関東大震災待ちか、、、。
 住宅問題は戦後これだけたっても、いまだに解決していない。

 参考:姉歯大震災(2006/09/05)

12.アパートとマンション(2008/04/16)

 どことかの殺人容疑者の住んでいるのが「4階建てのアパート」と、新聞に書いてある。え、アパートってのは、せいぜい2階建てまでの賃貸借型集合住宅だろうと思っていたのに、4階となると違うなあ。
 記事を書いた記者の解釈はどうなんだろうか?早速、「貧者の百科事典」(インターネットWEBサイトこと)であちこち開いて調べて、分かった。というよりも、分からないってことが分かった。

 まず建築構造の違いで、木造と軽量鉄骨の2階建てまではアパート(わたしのこれまでの印象)、重量鉄骨や鉄筋コンクリートあるいは鉄骨鉄筋コンクリートで3階以上となるとマンションである(らしい)。
 次が、境目は分からないが、高級ならマンションで低級ならアパートである(らしい)。

 問題は賃貸借居住か自己所有居住かの違いであるが、どうもこれがわからない。わたしは漠然とながら、マンションというと区分所有型高層共同住宅を言うらしいと思っていたのだが、賃貸マンションという用語もある。となるとわたしは賃借マンション住まいとなるわけだ。

 ウィークリーマンションとかマンスリーマンションもあって、これは短期間賃貸型集合住宅であり、要するに長期滞在型ホテルである。
 また高層賃貸借型共同住宅でも、「アパートメント」といっているものもある。アパートよりも高級なものの様子が伺えるのだ。
 そういえばそうだった、かの同潤会の集合住宅はアパートメントと言ってかなり高級だったし、その後の野々宮アパート、代官山アパート、三田アパートなど、どれも高級だったよなあ。

 いつからアパートが低級集合住宅用語になったのだろうか。そうだ、そのうちに高層低級集合住宅のことをマンションという日が来るにちがいない、いや、もう来ているか。
 たしかに、米欧マンション(庭園のある豪邸)と比べて、日本マンションの低級なることよ。ようするに不動産屋が場当たりにテキトーに名づけているに過ぎないのだった。

 冒頭の話の4階建てアパートは、もしかしたら高級賃貸借型マンションのアパートメントなのか、それともその逆で低級なのでアパートと言ったのか、どっちなんだろう。

13.マンション不況で喜ばしい (2008/07/17)

 アメリカではマンションとは金持ちが住む広い庭園のある豪邸を言う。日本では庶民が住む狭い区分所有型立体長屋を言う。
 日本の首都圏でマンションが売れなくなっているという。㈱不動産経済研究所によれば、2008年度上半期首都圏のマンション市場動向調査によると、発売戸数は2007年の上半期と比べて23.8パーセント少ない21,547戸だったそうだ。しかもこれからも回復の見込みはなくて、下半期も16パーセントからの減少見込みとある。 

 人口の東京圏への集中は当分やみそうもないのに、これはどうしたのかと思えば、要するに高くなったからだそうだ。裏にはこのところのマンションミニバブルで悪徳業者が出てきて金融機関が融資渋りとか、外人投資家の資金引き上げとかがあるらしい。社会資本の住宅が投資屋にもてあそばれているのだ。 

 そんなことよりも、あの危ない危ない分譲型立体長屋が売れないことが喜ばしい。あんな危険なものを売るほうも問題だが、買うほうも問題なのである。
 もうすぐ必ずやって来る首都圏地震で、どんなに頑丈に作ってあるビルでもかなりの被害がかならずある。そのときに、一棟で100戸どころか500戸、1000戸もあるような分譲戸数だと、どうやってみんなが意志をそろえて建て直しとか大規模修繕とかやれるのか。  

 そろえないとできないんだよってことが、阪神淡路大震災でその難しさがよ~くわかったはずだし、その後の“姉歯震災”でも念押しされるように問題がわかったはずだ。なのにどうしてあんなもの売るのか買うのか? 

 首都圏地震では、マンションに戻れない大量長期住宅難民が発生するに違いない。いや、震災が来なくても、いずれ老朽化するビルは、分譲所有者のみんながその気にならないと、管理されないままに放置されて化け物屋敷マンションになっている例も沢山ある。 

 家賃払ってもなにも残らない、マンションを買うほうが得だ、という不動産コマーシャルは大嘘である。短期でも長期でもボロ財産が残るのが、マンション(区分所有型共同住宅ビル)である。
 それを知ってか知らすか早く売り逃げした奴が勝ちという現状は、社会資本である居住環境を金融投機対象としている。実にいびつな日本の都市社会である。 

 政府は所有型住宅優先の政策をやめて、都市における優良な一棟丸ごと賃貸共同住宅の供給政策を打ち出すべきである。これなら地震で被災しても早期に回復ができるのだ。所有が一体化しているから管理もやりやすい。共同住宅は利用と所有を分離するべきである。
 高くて買えないと思案している人は、ちょうどよい時期だから考え直してはどうか。

注:これ以後もマンション問題について書いているが、ブログ「伊達の眼鏡」でも「くたばれマンション」を連載しているのでこちらもどうぞ。

参照:「片想いの賃貸住宅政策」住宅供給公社よ、がんばってくれ

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