伊達美徳
(2012初出・2012年補綴)
日本の鉄道の上り列車の終点は、東京駅であることは誰でも知っているでしょう。日本に住むものならほとんどだれもが一度は通ったことがあるでしょう。今、その東京駅丸の内駅舎は、赤レンガ建築として観光名所になっています。
わたしは建築と都市についての専門家として、この駅舎建築を日本の近代史における歴史証言者と考えております。この駅舎は日本近代の様式建築として百年余の歴史を持っていますが、その間にはいくたびかそ姿の変転があり、それぞれ歴史的な背景があるのです。
この写真は現在の東京駅丸の内駅舎です。この超高層建築群の日陰にある低層建築の赤レンガ駅舎につき、その変転の運命をここ(東京駅復元反対論サイト)に書きます。なお、わたしは鉄道マニアではありません。
この東京駅の西側の丸の内赤レンガ駅舎は1914年に開設しましたが、この姿は最初に建った時からそのままの姿で今日まで、百年余を生きて来た建築ではないのです。
簡単に書くと、1914年に竣工してから31年間、1945年に太平洋戦争の空爆で炎上して骨だけになり2年間、1947年に修復してから65年間、そして2012年に再度の修復をして戦前の姿に再現して今日まで、最初から4つの姿の変遷を経ています。1914年にできた赤レンガ造の洋風建築でした。それは当時のヨーロッパの様式デザインを真似した華麗な姿でした。
この日本の中央駅は、20世紀初めになって近代化をようやく成し遂げた日本の象徴となる建築としてつくられました。日本列島を網の目のように巡る近代鉄道網の中心駅であることだけではなく、明治政府が近代化の政治体制の中心に据えた天皇の駅としてつくられたという、機能的かつ象徴的意味がありました。
その変転の姿を追いましょう。まずはその1914年に建った最初(初代東京駅と言いましょう)の姿をご覧ください。
1914年東京駅丸の内駅舎の創建時の写真(初代東京駅) いかがですか、冒頭の現在の東京駅丸の内駅舎と同じ姿に見えますか。そう、百年余前の姿そのままに見えるでしょうね、だって、その最初の姿をコピー再現したものですから、そっくりにみえて当然です。 |
丸の内赤レンガ駅舎の姿(第2代東京駅) |
では次に第3代東京駅の姿をご覧ください。焼け跡の壁と床を活用してすぐに修復が始まり,2年後に新しい姿の駅舎が登場しました。
東京駅丸の内駅舎1947~2007年の姿(第3代東京駅)1987年撮影 |
この第3代東京駅赤レンガ駅舎は、1945年に燃え残ったレンガ壁と床を再利用し、木造の屋根をかけて、内外のお化粧を2年間かけて行い。1947年に再登場したのです。
左右の丸井ドームの姿が変わっていますが、その巨大さは以前にも増して堂々たるものです。3階建てを2階建てにしましたが、赤レンガ壁面はや装飾も再現して、元の様式を復元しています。敗戦で占領下にあり混乱し、物資は欠乏しているこの頃に、よくぞここまで修理したものです。
応急修復で仮の姿だと言われていましたが、その修復デザインに当時の国鉄建築家たちの意気込みがおおいに感じられる、様式建築のモダンな復元のモデルとなるような実に立派な成果の建築でした。だからこそ60年も使用に耐えてきたのです。多くの人々は、これが最初からの東京駅の姿と思っていたことでしょう。
2012年に現れた東京駅丸の内駅舎 1914年創建時の姿に復元(第4代) |
この2度目の修復工事に至ったのは、ニ本が戦後時代を克服して高度成長時代を迎え、東京一極集中による東京都心部都市再開発がすすめられれ、丸の内もその中心的な波の中に入りました。
東京駅についても周辺を含めて再開発高度利用計画が各方面から提案され、丸の内赤レンガ駅舎の建て替えもその計画にありました。一方では、その建築的歴史性に鑑みて保存するべきとの計画も言われるようになりました。
建て替え再開発、保存修理再利用、当初携帯復元再開発などについて、長期にわたり各方面の多くの検討がなされたようです。
結論は1914年に登場した時の姿に復元するということでした。そして2007年から工事が始まり、2012年に再度の昔の第4代の現在の姿が登場したのです。
◆ ◆
わたしがこの件についてここに書く理由は、その再開発高度利用計画(国土庁、建設省、運輸省、郵政省の共同調査)に関して、都市計画と建築の専門家のコンサルタントとして、仕事で80年代後半の一時期を携わったことがあるからです。
その時にいろいろ調査したので、仕事上の視点と言うよりも建築史と都市計画に関する個人的な視点から、この歴史的建築保存の思想について書きたいのです。全体的にはわたしの「まちもり通信」サイトに「東京駅復元反対論集」として、その資料や論考を公表しております。
わたしの赤レンガ駅舎の歴史的建築保存の基本的考え方は、上にのべた第2代の姿で保全するべきと言うものです。つまり初代の姿への復元に反対するものでした。
しかし、2007年5月、それを昔の姿に復原する工事が始まり、2012年5月には新たな姿が現れました。外観を戦前の姿にコピーして再現(第4代)したのです。
1914年から1945年まで最初の姿(初代)が32年間続き、次に1945年に太平洋戦争で空爆を受けた悲惨な姿(第2代)が1947年まで3年間ありました。
それを修復再開した戦後の姿(第3代)が1947年から2007年まで61年間であり、東京駅の歴史上でこれが最も長い期間の姿でした。
その最も長かった戦後の3代目の姿は、特に3階から上の部分が戦後に変わりましたから、下半身は第1次世界大戦の戦勝記念碑であり、上半身は太平洋戦争大空襲の悲劇の記念碑であり、そして全体としては敗戦後の日本復興の証人として、貴重な歴史的建築でした。それが消えました。
西には戦争の悲劇の記念碑として広島原爆ドームがありますが、戦後の東京駅はそれにも匹敵する東の戦争記念碑 でした。もうほかには戦争記念の建造物は存在していませんでした。その故に、東京駅赤レンガ駅舎は復原せずに、戦後復興の姿で保全すべきでした。
それなのに、戦前の当初形態に復原して戦後の姿を消滅させたのは、とりもなおさず、戦争と戦後の歴史の証人を消し去ることになりました。戦後60余年は歴史でも文化でもないのか、重要文化財指定の意味はどこにあるか。
この東京駅こそは戦争という非文化と戦後の文化を体現しています。重要文化財指定の意味を、単に戦前様式建築のみに求めてはなりません。 戦争を超えた建築様式ととらえるべきです。建築保存とは、不動産の物的保存ではなく、文化の保存であり継承であるべきです。
しかも、私の見る目では、見慣れたせいもあるかもしれませんが、3代目東京駅の建築デザインのほうが、戦前の初代よりも美しいのです。
復原論者は建築家・辰野金吾ばかりを評価しているようですが、あの混沌とした戦争直後に、よくぞここま で修復をしたものだと、当時の鉄道省建築家の伊藤滋たちを、もっと評価するべきです。モダンとクラシックを融合した見事な歴史的建築の保全デザインというべきです。
古いほど良いものだという旧弊なる文化財観から、もう脱出してもよい成熟の時代であると思うのです。
わたしは復元反対を1980年代の終わりごろから唱え、90年代からネットに掲載し、諸大学・大学院でも講義に活用しましたが、意識して運動はしませんでした。
運動されてきた復原論者たちは、それなりに復原の意味をお考えだろうと思うのですが、それがわたしには見えてこないのが残念です。
思えば、わたしのような保全論を唱える人たちは、ほとんのわずかのみだったようです。残念でした。
今や、戦争記念碑だったことを忘れて、単なる観光資源に成り下がっています。
そして今、復原という新たな歴史が始ったことも、事実として認めなければなりません。今こそ東京駅復原の意味を、真剣に考えてほしいのです。
(2014/07/12、20211012補綴)
●写真にみる東京駅の景観的変遷
1929年右に郵船ビルと丸ビル、左に東京海上ルで新丸ビルは未だない(引用:土木学会デジタルアーカイブス,震災復興市街地工事関係写真八号線工事,警視庁裏,昭和4年5月24日)。
1987年
右に建替後の郵船ビルと建替前の丸ビル、左に建替後の東京海上ビルと新丸ビル(伊達撮影)。赤レンガ駅舎のスカイラインを八重洲の鉄道会館が乱している。
2004年
右に建替後の丸ビル(伊達撮影)。
2012年
2012年10月の復元工事完成後の写真(伊達撮影)。せっかく八重洲の鉄道会館(大丸百貨店)を撤去し て、赤レンガ駅舎3階とドームのスカイラインを復原したのに、今度も八重洲側再開発(グラントウキョウサウスビル)の大丸デパートが 出っ張ってきて再び景観の邪魔をしている。それは赤レンガ駅舎容積率一部身売りという身から出たサビのせいだが、もうちょっと設計を考えてもよさそうなものをと思う。どうせなら八重洲口側の開発は、横長高層建築を背景屏風の様に建てたら、赤レンガ駅舎が引き立ったはず、でももう手遅れ。
2030年推測
今後の京橋地区再開発を勝手に類推して作成してみたが、これでは赤レンガスカイラインはますます埋没してしまう。こうなると赤煉瓦背後に屏風状超高層建築にすれば、京橋の目隠しにもなってよかったかもなあ、。(2012.10.29)
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