2021/08/21

kamakura2010鎌倉若宮大路の初夏:2010年の景観記録

鎌倉若宮大路の初夏の景観記録
伊達美徳
2010年5月の記録

 今日は初夏の鎌倉にでかけ、久しぶりに若宮大路を観察する。ここは鎌倉の町としては背骨になる歴史的な道である。
 鎌倉は2002年まで住んでいた町だ。若宮大路を日常的に通りながら、その景観記録をしていた。変化する街の姿を画像の留めておきたいのだ。ここに2010年初夏の記録を載せておく。

 まずは空中から南から北へと俯瞰しよう。


 この画像の真ん中を縦に貫くのが若宮大路、左上から右下に斜めに横切るのがJR横須賀線、突き当りが鶴岡八幡宮。今日は、手前下の一の鳥居あたりから北(上)に向って歩く。
 若宮大路はもっと南のほうに同じくらいの距離が続いている。全部で1800メートルくらいの長さである。この間に大路をまたぐ物は、電線のほかに八幡宮の鳥居が2つ、歩道橋がひとつ、鉄道高架橋がひとつある。歩道橋と鉄道橋は、視覚的にはどうも邪魔である。
 この画像ではよく分からないが、市街地の3方は丘陵で囲まれていて、街の中にいてもその範囲が明確に目で見えるところが、盆地育ちのわたしは好きである。

 鎌倉の若宮大路は、歴史的都市軸としてあまりにも明快に中心市街地を貫く。北の端に八幡宮の核を据え、南に相模湾の水面を望む。八幡宮の裏には大臣山、市街地の東に滑川、西には街の南北を結ぶ道があるから、つまりこれらは四神相応となるのだ。

 北の鶴岡八幡宮から南の相模湾由比ガ浜までほぼ直線の並木道が伸びる。その中間ほどに参道としての「一の鳥居」がある。今日はそこから北への歩いて行き、わたしが気になる景観を記録しておく。
一の鳥居

 鎌倉幕府が制作した正史「吾妻鏡」に、寿永元年(1182年)5月15日の記事がある。この日は鎌倉の都市計画にとつて記念すべき日であつた。源頼朝はこの日、自ら指揮して若宮大路の築造をはじめたのであつた。北条時政らの諸将が土石を運ぶという大仕掛の儀式に加えて、妻政子が懐妊したのでその安産を祈願して段葛を八幡宮に寄進する、という名目をもつけたのであつた。

 すなわちこれが単に土木事業としての道づくりではなく、政権への道づくりなのであつた。諸将の直接参加は東国武士団の団結を、わが後継(2代将軍頼家)の安産は権力の永続性をそれぞれ表現していた。

 狭い鎌倉の地に、この広さ、この長きの超空間を築くことで、頼朝は中世に君臨しようとする意志を空間化してみせたのであつた。八幡宮社頭から段葛が浜辺の先までパースペクテイィブをもつて駆けて相模の海に消えたむこうに、頼朝の眼にうつっていたのは京のの朱雀大路であつたにちがいない。
 であればこそ、ハレの空間として日常を超えたスケールでなければならないのだつた。

 さて、そのような抽象論はさておいても、頼朝後の繁栄・過密の鎌倉で、この広大な空間は、都市のオープンスペースとしての役割をはたすことになる。
 そこが都市防災の機能をもつたことは、たびたびの火災がこの大路を境にして焼け止まつている記事を、「吾妻鏡」や「北条九代記」にみることができる。あるいは湿地であつたことからみて、洪水時にはま大路が遊水池の役割をはたしただろう。
 更には軍事拠点としての都市防衛線であったことも、たぴたび戦場となったことからうかがえる。そして当然のことながら、過密を緩和して憩の場にもなつたろうし、儀式や集り、芸能の場に使われたであろう。
 中世鎌倉の過密を救つたのは、頼朝の意志の空間として築かれた若宮大路であつた。

 一の鳥居のすぐ北に横断歩道栱がある。ますはその上から北に見通してみよう。

一の鳥居そばの歩道橋から北を見る

 この若宮大路見通しの焦点には鶴岡八幡宮がある。近世まではこの道の中央に盛り土の土手状の道の中の道「段葛」(だんかずら)があった。その道ここそが八幡宮参道だった。
 手前の交差点で左右の道は、中世では東海道であった。左の西方からやってきて、右の東方の江戸湾(東京湾)を渡って上総に入り、北の江戸方向に続いていた。

 京のミカドの都に倣ってつくった四神相応のサムライの都である鎌倉は、京の都の朱雀大路に相当する都市軸は若宮大路である。 京都の朱雀大路では、朱雀門も内裏も早いうちに廃れてしまったが、鎌倉の若宮大路は、鳥居も八幡宮もいまでも都市軸として健在である。狭い鎌倉の街の中で、その広幅員は異彩を放っている。
 大路を横切る白っぽい鉄道橋のすぐ上に赤い二の鳥居、その上に八幡宮の随神門が見える。

    若宮大路はいまでは市民や観光客の交流の場となっているが、これは頼朝の都市計画の延長上としてかなえてもよさそうである。  しかしその一方では、頼朝が予想しなかった近代技術による交通施設(自動車、鉄道、交通標識、歩道橋)やエネルギーや情報施設(電力線、電話線、電柱)が入り込んできて、なんとも騒々しいことになっている。
 それにしても、いろいろな目障りなものがある。そこでちょっといたずらをしてみた。これでもウルサイ景観だ。

 この交差点のバスが見えるあたりに、中世には鳥居が路をまたいで建ってた。地中からその跡が出てきたそうで、鳥居の足元を歩道に丸く印してある。
 若宮大路の松並木は、なんだかお庭みたいに剪定してあるが、これも戦前くらいのちょっと昔までは、松並木で大路が覆われていたほどだった。


 では若宮大路を行きましょう。「下馬四つ角」あたりから北への眺め、その名のごとく中世ではここから北には馬から降りて歩かねばならなかった。JR横須賀線が若宮大路の見通しを妨げている。


 鉄道ガード下までやってきた。


 こんなところに野菜などを売る市場がある。いかにも古くからの農業や漁業の街であった鎌倉らしい通称「農連市場」。

 
 入り口横に由緒書きがある。もう80年を越える歴史があるのだ。「古都と高級住宅地で知られる鎌倉に農業のイメージはあまり重なりませんが、、」と、遠慮がちに書いてあるが、いえいえ、農地はしっかりとあるし、海では魚は取れるし、農林水産に恵まれているのが鎌倉です。仮設の木造上屋のなかで、地べたの上に路地ものの生鮮野菜が並ぶ。出店する各農家の自慢の作らしい四季の彩が、見ているだけでも楽しい。

 二の鳥居までやってきた。鳥居がこのん画意味との景観を画するノードと言うかランドマークとなり、その向こうの緑は現存する「段葛」がはじまり、シーンが転換する。


 段葛にはいるまえにこのあたりの沿道建物を見よう。昔から神社仏閣参道には、色とりどりの商業建築あ立ち並ぶもので、鎌倉も例外ではない。
 まずは商業建築ではないが、鎌倉警察書である。古都らしくというのだろうか、蔵作り、むしこ窓風を模しているのがちょっと奇妙である。ここは正面から1階分の階段を登らないと入れないので、敷居が高い。いざというとき駆け込みしづらいかも、。


 峰犬猫病院は、いつごろ建ったのだろうか。戦前だろうが、典型的なモダンデザインである。設計はバウハウスに学んだモダニストとして有名な山脇巌、参道だからと言って古建築をまねすることはないのだ。

 そして鳥居脇のウナギ料理屋さん、このデザインを景観としてどう見るかは人によっていろいろだろうが、建築家はお嫌いらしい。わたしは神社の参道なんてものはどこでも猥雑なものだから、こういうのもありだと思っている。それにしても、どこからこういう発想が出るのだろうか、あれこれつぎはぎ取り合わせに感心するばかりである。


 では二の鳥居をくぐって段葛に入るけれど、ここはやはり桜の季節の景観を持ってくることにする。なお、この桜は20世紀以降の景観であり、近世までは盛り土のみで植栽は何もなかった。頼朝がその長子の安産を祈願して造ったといわれる。段葛は道路ではなくて、実はもうそこから八幡宮の土地、つまり神社境内だから、ここに鳥居という結界を結ぶ。


 段葛の外の沿道の特徴的な建物を見て行こう。
 まずは「カトリック雪ノ下教会」である。日本の神道の参道に異国の教会というのも、神仏混交好きな日本らしい。設計は竹中工務店で、比較的近年の建築だが、教会は戦前からあたようだ。


 大路の西側にある山中材木店。土産物屋ばかりの中では異彩を放っている。でも、どこか昔からの町らしさを感じる。大路沿いには下馬四つ角のそばにも材木屋がある。


 さてその北あたりには、こんな西洋風建築。三井住友銀行の看板が掛かっているが、数年前まではラルフローレンなる洋服屋であった。その洋服屋が5年くらい前だったろうか建てたのだが、撤退してそのあとに銀行が入った。なんとなくアチラ風のデザインで、もしかしたらラルフローレンのブランドを表すデザインなのだろうか。まあ、門前町には何でもありだ。

 やはり大路の西側にある三河屋。これは実に立派な典型的なる町屋建築である。堂々たる梁が店の入り口の上をど~んと長い梁間を飛んで掛かっている。若宮大路でもっとも歴史的な建築であると思う。若宮大路に近世の歴史的街並みは今は全くないが、20世紀はじめ頃の写真を見ると、このあたりは茅葺屋根の旅館や店が立ち並んでいたようである。


 湯浅物産館は看板建築に見えるが、実は中を見せてもらったときに、モダンデザインであったのに驚いた。木造のくせにお面だけをなく洋風につくる看板建築ではないのだった。若宮大路には看板建築が大路沿いにはたくさんあったが、だんだんと消えていく。


 なんとなく海辺の和風別荘風。こんな和風建築もたくさんあったが消えていく。

 段葛がきれて八幡宮入り口の「三の鳥居」までやってきた。空間的結界を作る。


 石の太鼓橋。以前は渡ることができたが、今は禁止。これも身体動作で結界を意識する装置であり、社殿へのパースペクティブを強調する空間装置。

 では八幡宮境内の舞殿と随神門が見えるところまで来た。この舞殿そのものは新しいが、すでに中世にもあったらしく、ここで義経の愛人の静御前が義経を慕う舞を、頼朝に見せるべく舞ったという。


 ところがこれは、昨年まではちょっと違う景観だった(下図)。舞殿と随神門の間には石段があるのだが、そのわきに巨大な銀杏の木があったのだ。随神門がその大木の緑で半分隠れている。

 その銀杏の木は鎌倉時代にもあったようで、その幹の陰に潜んただテロリストが将軍実朝暗殺事件を起こしたので有名である。その伝説の大銀杏が今年の春のこと、大風が吹いて根元からぼっきりとおれてたおれて、随神門がよく見えるようになった。
 その銀杏の木の再生を図り、その根からのひこばえを育てている。

 随神門を見上げると背後の緑の濃さが目に染みるのだが、昔は緑は貧弱だった。


 これは19世紀末頃の写真だが、背後の緑がスカスカの松林であるのが興味深い。かつては山林樹木類は燃料であり落ち葉は肥料であったので、常にこのような姿だった。燃料革命と化学肥料が登場した20世紀後半から、山々は緑が豊富になった。随神門の左に見える大木は、例の大銀杏である。

 では石段を登り、随神門から振り返ってみよう。舞殿の屋根の向こうに若宮大路を見通すことができる。

 鶴岡八幡宮の拝殿と本殿は、極彩色に彩られている。
 
 ちょっと仏教系の寺院を思い出し、京都清水寺の山門の写真をどうぞ。どちらも19世紀末までは神仏混交だったから、そのデザインに大差は無いだろう。

 ではまた石段上から若宮大路を眺めて戻ることにする。

 最初の俯瞰写真の反対に、北から南方向を眺める。手前の北に玄武の大臣山、右の西に白虎の小町通り、向こうの南に朱雀の相模湾、東に青竜の滑川を配して、今日の都を真似して四神相応の地相である。

 なお、これは2010年時点の景観であり、現実は変転極まりない都市景観であることに注意されたい。

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