「うだつ」の上がる街並みに出会ってきた。有名な徳島県の脇町ではなく、岐阜県美濃市の美濃町重要伝統的建造物群保存地区である。うだつの上がらないわが身にひきかえて、堂々たる瓦のきらめきに圧倒された。
美濃市は美濃紙の産地で、昔から福井県今立町の越前和紙とならぶ、和紙の名産地である。城下町に和紙の問屋商家がうだつをあげた街並みを作ったのである。
初めての訪問でほんの3時間ばかりの街歩きだから、まだ見たりないのだが、面白かったりいろいろと考えさせられたりしたので、管見を述べておきたい。
●案内地図に困った
初めての街訪問のときは、できるだけひとりで、事前資料は少なくして、できるだけ常識的な歩いていくコースをとる。だから長良川鉄道で行くことにする。
持っていた地図らしき資料は「うだつの上がる町並み」とある美濃市の観光課と観光協会発行の色刷りビラが1枚だけである。
散策マップとあるが、小学生向けお絵描き風地図で縮尺がないから、歩くとどこまでどれほど時間がかかるのかわからない。
松森駅・美濃市駅・梅川駅の3駅が書いてあるが、どの駅から歩けば重伝建地区に近いのか、バスがあるのかないのか、レンタサイクルがあるのかないのか、さっぱりわからない。車ならば分かりやすいかと言えばそうでもない。
電車の運転手に聞くと、まあ美濃駅がよろしいでしょう、というので降りれば、素朴な懐かしい駅の風情に見とれる。
さて、案内所はなし、ならば案内パンフをと、さがせどもない。駅前広場の大きな案内図も、手持ちのものと大差ない。あとで観光協会でも訪ねたが、方位・縮尺の正しい「真面目な」地図は存在しないのだった。
ついでに言うが、これは美濃だけではなく、全国的な困った風潮である。いったい観光協会はどこを向いて仕事をしているのだろうかとおもうほど、その地図を信用して歩くと遭難しそうになるデフォルメ地図を平気で配るのである。観光地図はその土地を知らない人のためのものであることを、すっかり忘れている。
駅前にタクシー2台が客待ち顔だが、バスはないようだ(帰りに、駅前広場の外にバス停留所があることに気がついたが、位置が悪い)。自転車置き場はあるが貸自転車はない。
日曜日の昼頃だが、観光客らしい降車客は3人くらいだったろうか、まあ、ここに観光サービスを設けてもあまり効果がないということであろう。
わたしのように歩いてくる客は珍しいのだろうか、街なかにはそれなりに観光客もいて観光バスもきていた。帰りに電車に乗ると、降りたときの女子大生らしい二人連れも帰りの客だった。
さて、地図は頼りにならないからおよその見当つけて、駅を背にして歩き出した。こちらは年季のはいった街歩きの達人だから、およその見当でも間違いなく目的地に達することはできる。
●コンクリ箱建築の和風衣装
駅前風景も、街への道も、見回しても「うだつの街」らしい雰囲気はぜんぜん見えない。今日は晩冬の暖かい日だから良いようなものの、日陰になる並木もないこの道を夏に歩いて街に行くのは大変だろうなあ。
その道の途中に、廃止された旧美濃駅舎と電車があるのでほっとする。この地が近代日本の産業社会に組み込まれていった歴史を見せてくれる。
これから行く近世的町並みへのイントロとして興味深いが、それらしい時代連携の演出がほしいと思いながら歩くと、すぐに橋を渡る。
その橋の欄干が、なんと瓦葺のうだつの形をしている。まさか昔からこうではなかったろうから、土木屋さんが「景観設計」をしたのだろう。その努力と善意は良いとしても、あまりに即物的な形態であるし、瓦の下のアルミ格子ととの取り合いは、どうもいただけない。風景のデザインとは、コピーを超えなければならない。
ありふれた町並みをしばらく行くと、右手に大きなそれっぽい和風建築があわられた。だが、なんとなく不自然である。
板壁や木格子などのディテールはそれらしいのだが、階の高さや軒の見つけなどのプロポーションがおかしいし、瓦屋根が見えない。
近づけばなるほど、これはコンクリート箱建築にお化粧をしているのだった。婦人商工会館とある。後で行った魚屋町の角にある観光協会も同じである。
昔からどこでも公共建築や金融機関は、コンクリ箱にするのが好きだったから、その間の事情が読み取れる。
だが、本来の和風建築とはプロポーションが違うので、たとえて言えば、胴長日本女性に似合う和服を、足長西洋女性に着せたごとくにならざるを得ないのである。
いちがいに悪いとは言わないが、これを後で見た本住町の十六銀行と比べると興味深い。
十六銀行も多分、箱建築だったのを伝建地区指定に対応して修景したのだろうが、西洋婦人和服型でなくそれなりに上手に修景しているといえる。
コンクリ箱建築が似合わないなら、取り壊して復元コピー建築にしてしまうのでなければ(それも問題があるが後で述べる)、むしろその持っているプロポーションをいかしながら、周辺と調和する修景方法がとられるほうが良いだろう。
さて、その婦人商工会館の名に惹かれて、ここは女性が商工業に強いリーダーシップを持っているのかと、中に入れば、いきなりホールいっぱいの花ざかり。花神輿なのであった。
聞けば、春には各町内からの花みこしが街並みを埋め尽くすとのこと、ウーム、これは美しいに違いない、神輿の出るハレの日のその賑わいと華やかさが目に浮かぶ。
美濃和紙でつくる花かざりといい、毎年各町内会ごとに子どもたちも参加する行事といい、これがこの地域を育てているのだろうと、心が温かくなった。
●整備途上だから考えさせられた
この城下町は、江戸時代初期に金森長近の経営によるそうだが、彼は越前大野、飛騨古川、飛騨高山のいずれも美しい街並みを今に誇る城下町をつくっっている。
その延長上に美濃の街並みがあり、長近はこの地で没しているのだった。わたしはそのいずれもの城下町を訪ねているが、その遺産価値は大きい。
古代からこの地域にあった和紙づくりは近世から近代へと栄えて、その中心として財力を持った和紙問屋の商家群が、今の美濃町重伝建地区である。
平入りの町屋が隣家の火事からの延焼を防ぐ知恵として、うだつを上げる建築を作る例は各地にあるが、ここのようにまとまっているのは、脇町くらいなものだろうか。もっとも、脇町とは形が違い、こちらのほうが豪華である。
この形はこの地方の特色かと、隣の関市の街並みも見たのだが、ないこともないが、ここのように軒並みにまとまって存在していないようだ。
目の地型の街路構成の中に中心商店街があり、そこにうだつの街並みがあるのだが、ここは1999年重伝建指定だから比較的新しいので、まだ整備途上にある。
整備の方向は、できるだけ昔の姿井に戻すことのようであり、建物の姿をうだつや格子など昔風にもどし、道から電柱や商店街照明などをはずし、コンクリ箱建築の観光協会は表だけ木造風にお化粧をしている。
整備途上だから、ご使用前とご使用後が見えて面白い。
まだ整備されていない商店街のすずらん灯の照明や看板やいろいろな姿の街並み、途中にうだつの商家でまだ手がつかないところや復元工事中の家を見ながら、完全復元が終った街並みに来ると映画のセットに入ったような気分になる。
その変化の落差に、ちょっと考えさせられる。ごちゃごちゃした街並みがちょっぴり懐かしくもなる。
これらはひと続きの街であり、決して映画のセットのように中に生活がないのではなく、暮らしがあり仕事があるのに、この違いはなんだろうか。街の姿が生活を変えるのだろうか。では、既存のごちゃごちゃした街並み、あれは仮の姿か、それともこちらが仮の姿か。
●街は歴史の積み重なり
整備された街並みは美しい。では整備する前の姿は、間違っていたのだろうか。それだって決して昨日今日でつくった姿ではなく、長い時代の変化の中で築き上げた、地域の生活の歴史の姿でもあるのだ。
たしかに美しくない要素も多いのだが、だからといって100年前にもどすことで、それからの歴史が築いた姿のすべてを捨ててよいものではない。そこに美しいものもあるはずである。美とは文化であり、人々が時代とともに築くものだからだ。
コンクリ箱建築に無理矢理に和装させなくとも、現代の美としての化粧の方法もあるはずだし、近代以降の歴史の保全でもあるだろう。
明治から大正にかけて美濃の製糸業は最盛期だったのだから、その時代の最先端の建物が、旧美濃駅の他にもどこかにあるはずだ。そう思って歩くと、ところどころに近代の特徴ある洋館風建築もある。そう、この街の歴史は、うだつ建築からコンク箱建築まで、生きてきた歴史の蓄積があるのだ。
美濃からそれるが、東京駅の丸の内赤レンガ駅舎が、1914年の建設当初の姿に復元されると最近報道があった。実はわたしはそれに反対である。
今の姿は、1945年の戦災から立ち直った姿であるが、それから半世紀以上を経てきた歴史の姿を消すべきではないと思っているからだ。
特に、戦争の傷跡を今に伝える建物は、広島の原爆ドームくらいのものであり、東京駅は戦災のままではないがそこから復興時の姿を保っており、しかも美しい。下半身は第1次大戦の、上半身は第2次大戦の貴重な記念碑であるのだ。積み重なる歴史の姿をなんとかしてこれからも伝えてほしいのだ。
美濃に話を戻すと、では街並みに重層された地域の歴史の姿を、美しく生き生きと保全していくには、どうすればよいか。復元第一主義か、復元風修景主義か、混合主義か。
それは地域住民が選ぶしかないだろうが、わたしとしては復元第一主義から脱却する道を模索したい。力量のある都市デザイナーと建築家が要るだろうが、混合主義の中に新たな美を創造する道はないものだろうか。
それにしても、うだつ街並みの山あて道は美しい。街並みと和紙工芸を結ぶ芸術村運動もなされているようで、楽しみな街である。次は祭りのときに来たい。
ほとんどカンだけで歩きまわったので、見そこなった美しい風景もあるだろうが、伝建地区の外にも美しい街並みがあるし、うだつがなくても立派な建物がたくさんあること、洋風近代建築も発見した。
和紙の里会館はあまりに遠くて、時間がなくて行けなかった。でも、どうして街からあんな遠いところにあるのだろう、和紙づくりの水の条件からだろうか。
(2003/03/03)
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