文と写真 伊達美徳
1.高梁川と道路と街
街の動脈や静脈としての道路網は、近世城下町が近代から現代の都市に移行して、その空間に自動車が入ってきて、空間的にも機能的にも大きく変化を要求している。
住民の日常生活のための生活道路と大規模物資流通のための幹線道路を、どのように歴史的市街地の中で構成するか、大きな課題にいまだに直面している。生産と生活のせめぎあい、そして歴史的空間と現代的空間のせめぎあいがある。
歴史的市街地の生活空間に、生活のための自動車を取り込むためには、部分的な道路拡幅でも対応できる。たとえば高梁盆地では、一部道路拡幅したりクランク上の交差点を改良してて整備してきている。
どこの歴史的市街地でも問題になるのは、その地域の生活に関係のない自動車交通も入り込み通過する幹線道路である。
高梁盆地でその典型は、高梁川沿いに南北に貫通する国道180号である。かつて高梁盆地の主要幹線道路は、川端町から広小路を経て街に入り、本町から下町、南町へと通り抜けるルートであった。
これは江戸時代からの歩行者のための幹線であり、今では歩道もつけられない8mほどの道である。この道が国道180号となった。自動車の時代となって多くの通過交通が街の中を走っていたが、さすがに生活環境として不都合をもたらすようになった。
そこで高梁川の堤防沿いの道路がその補完をしていたが狭くて機能的に不十分となり、1970年代になってこれを往復4車線に拡幅して国道180号としたのである。これにより通過車両は街の外の川沿いに移り、市街地の中に安全と静かさをある程度は取り戻した。
いっぽうでは、広い道路拡幅は高梁川の幅を狭めたので、それに対応して洪水の溢水を防ぐために高い堤防壁が道から上にたちあがった。その結果、高梁川と高梁盆地の住民とは、物理的にも視覚的にもかなり隔絶されたことになる。
20世紀初め頃までの高梁盆地の繁栄は、舟運流通動脈としての高梁川がもたらしたものであり、街と川とは密接につながっていた。
鉄道の伯備線の開通以後は流通幹線としての高梁川の役割は終えたが、生活のなかの水の利用があり、娯楽の場としての川があった。わたしもこの川で泳ぎを覚え、こどもには毎夏の生活のほとんどをすごしていたものだ。大人もこどももここで魚釣りをした経験があるだろう。河原では夏には花火があり、冬には稲荷祭りの屋台が並んだ。今の高梁盆地では、それらはどうなっているのだろうか。
1934年の大洪水までは、桜土手という花見の名所が川沿いにあった。今の国道180号を見ると、これは道路でございますとばかりにあまりにも無風流すぎる。歩道にも中央分離帯にも、もっと樹木を植えてはどうか。そして堤防へ気のないところでは、川の側の歩道と川原との一体的な整備をしてほしいものである。現代の桜土手の復活を望むものである。
高梁川は盆地に水害をもたらすが、その一方で人間が生きるための水を与えてくれる。盆地の気候をやわらげ、狭い盆の底に拾い安らぎの空間を与えてくれる。高梁川は単にそばにあるものではなくて、もっと市民が楽しむ場に戻ってほしいと、わたしは思う。
2.ネッカー川と道路と街
この川と街と道路の関係は、ハイデルベルクのそれが大いに参考になるのである。
高梁盆地の国道180号に相当するハイデルベルグのアルトシュタットの道路は、ネッカー川沿いの国道B37(ハイデルベルクでの名前はネッカーシュターデンNeckarstaden)である。
これは往復2車線であるから往復4車線の国道180号と比べると狭いが、これのバイパス道路が山側をとおっているので実際には往復4車線の機能を持っている。その山側道路については後に述べる。
高梁盆地の国道180号の地表の高さと市街地のそれとは差がないが、ハイデルベルグアルトシュタットでは国道B37よりも市街地が少なくとも3mは高く、道路と街との間は段差がある。
たとえば高梁では方谷橋に相当するアルテブリュッケ(歩行者専用橋)とB37とは立体的に交差していて、橋の下を国道がくぐっているので、街から橋を渡るのが安全である。その下流にある高梁大橋に相当するテオドールホイス橋においても、通過交通は橋の下をくぐっている。
では、ネッカー川は氾濫しないのかというとそうでもないらしく、道路が水に浸かっている写真もあるから水害もあるのだろう。それへの対応はどうしているのだろうか。
これについては推測だが、市街地のレベルが道路よりもかなり高いから、洪水になってもそこまで来ることは少ないのだろう。
また、日本の川と違ってヨーロッパの川は勾配がゆるいから、洪水となっても土石を伴うような急流となって増水することはない。増水して道路が浸かってもそのときは交通をとめ、山側のバイパス(Friedrich Ebert Anlage)を使えばよいということだろう。
そのような割り切りもあるのだろうが、川を積極的に街の人々のための空間として活用されている。B37と川との間には遊歩道があり、水際公園があり、船着場があって、日常的に楽しいレクリエーションの場となっている。ネッカー川ではクルーズができるほどに日常的に水量が豊かである。
この川と街との関係は、高梁と比べるとハイデルベルクがうらやましい。わたしは土木的なことは知らないが、日本の川とドイツの川とは治水方法が異なるから、これは仕方がないことなのだろうか。
ところで、ハイデルベルクアルトシュタットは世界遺産の登録申請をしたが、ユネスコから保留にされて暫定登録となっている。その保留にしたいくつかの理由のひとつに、ネッカー川沿いの道路をトンネルにして、昔のように川と街を密接な関係にすることについて検討せよという内容がある。世界遺産登録はなかなか厳しいものである。
ハイデルベルクの景観政策の重要な目標として、「City on the River」つまり「川を生かした町」があり、ネッカー川をハイデルベルクの風景の主要テーマとしている(「Heidelberg 2015 Deveropment Plan」)。
さて高梁における景観政策において、高梁川はどう位置づけられているのだろうか知りたいものだ。
3.国道180号のバイパス機能
実は、高梁盆地を南北に抜ける幹線道路は、国道180号のほかにもう1本ある。国道180号と方谷橋の交差点から市街地に入って、山際をまわりこんで南町の南端に抜ける幅12m~20mの都市計画道路(南町近似線)である。(冒頭の図を参照)
方谷橋のたもとから東にまがり、菊屋小路を抜けて美濃部坂の下で鉄道をくぐる。そこから南に曲がって頼久寺の前から山際を通り、南町の南端にいたる。途中で備中高梁駅の東口駅前広場への駅前通りにもつながるように計画線が引かれている。
これは南の半分くらいができているが、北半分がまだできていないから貫通していない。できあがると、盆地の山側外周を抜けて国道のバイパス的な役割と山際の地域へのサービス機能を持つ。
この路線のもつ問題は、方谷橋から伊賀町の辺りまでの市街地内の部分であろう。菊屋小路から頼久寺前あたりは、生活道路としては交差点改良はあるにしても、現状で特にサービス道路に不足はない。この昔からの密度の高い住宅市街地に通過交通が入りやすくなることは好ましくない。
わたしが見ると、ここを抜けなくても伊賀町から紺屋川に沿って柿の木町までで十分なような気がする。これでは伯備線との踏み切りの解消にはならないが、いずれにしても踏切は残るし、そもそも1時間に2~3本しか通らない鉄道なら踏切で十分である。
あるいは、この道路が国道180号のバイパス機能としてどうしても必要ならば、北半分が現在のような中途半端な線形ではなくて、伊賀町から街の北端まで延長してはどうか。
その場合は、秋葉山の下へトンネルを掘り、内山下のどこかで出て川端町で国道に結ぶのである。トンネル長さは700mくらいだろう。
これならばバイパスとしても適切な線形となるし、城下町の静穏な生活環境を通過交通の車で乱されることもない。
(2021年7月2日追記 この部分の都市計画決定を廃止したことが公示されている)
4.国道B37のバイパス機能と鉄道トンネル
そこでまたハイデルベルクではどうしてるか。
アルトシュタットには、川沿いの国道B37のバイパス的機能を持つ山沿いの道としてフリードリッヒ・エーベルト・アンラーゲがある。
高梁盆地で言えば川端町の北の端に相当するアルトシュタットの東の端から、ハイデルベルク上の丘陵の下にあるトンネルに入り、途中で一度出てまたトンネルにはいり、アルトシュタットの西の端の道路のゾフィエン・シュトラセに出るのである。
ゾフィエン通りから西は新市街地であり、北に行けば国道B37と交わり、さらにネッカー川のテオドールホイス橋を渡る。この橋は高梁盆地で言えば高梁大橋に相当する。
こうしてフリードリッヒ・エーベルト・アンラーゲは、国道B37のバイパス的な役割を持っていると同時に、中ほどで一時トンネルから出たところで、街の中に入る道と連絡することで、山側からの地域サービス道路の役割も果たしている。
つまりこの道路は、高梁盆地での都市計画道路南町近似線に相当する役割を持っていることがわかる。大きな違いは、アルトシュタット内では大部分をトンネルとしていることである。通過交通を市街地の中をできるだけ通さないという、交通政策の考え方がよくわかるつくりかたである。
先に高梁の都市計画道路南町近似線の北半分を伸ばしてトンネルにして、街の北端に出してはどうかと書いたのは、このフリードリッヒ・エーベルト・アンラーゲを参考にしての思いつきである。
ついでに鉄道トンネルのこともここに書いておこう。ハイデルベルグ駅も高梁盆地と同じように、アルトシュタットの西(高梁では南)の新市街に位置している。そしてハイデルベルクアルトシュタット駅は、アルトシュタットの東の端にある。
この二つの駅を結ぶ鉄道線路は、アルトシュタットの南側の丘陵の下にトンネルのなかにある。ハイデルベルク駅を出るとすぐにトンネルに入り、アルトシュタットの東端でトンネルを出て、すぐにアルトシュタット駅である。
これも通過交通を市街を通さない都市計画施策のひとつである。この間、アルトシュタットでは線路はまったく見えないのは、伯備線線路が高梁盆地の中を縦に切り裂くように市街地の中を抜けていくのと対照的である。この線路で高梁盆地の土地利用はかなり窮屈に制限を受けている。日本近代化のもうひとつの置き土産である。
いまさら伯備線をトンネルにはできないだろうが、その昔の鉄道開通までには街と鉄道のせめぎあいがあったのだろうか。
JR横須賀線の線路を鎌倉旧市街地をたすき掛けに通して、名刹の円覚寺の前庭の中を横切り、更に若宮大路の史跡の段葛(だんかずら)の南半分を消滅させたのも、日本近代化の置き土産である。
5.小路の街の魅力
全国路地の町連絡協議会(略称:路地協http://jsurp.net/roji/ )という会がある。設立の趣旨にこんなことが書いてある。
「路地(街なかの昔からの狭い道)のあるまちの多くは、安心して暮せるコミュニティが育っています。商店街では、狭い道に並ぶ店が賑わいある界隈を生み出し、住宅地おいては子供の安全な遊び場であり、住民たちの井戸端会議の場であり、暮しの場の延長です。そのまちで生活する人々の息づかいが聞こえてくるような路地は、日本の都市を成り立たせている原風景のひとつです。(以下略)」
そして、そのような親しみのある街の生活の場が、だんだんと消えつつあるのはよいことなのかと疑問を投げかけ、街づくりに積極的に生かす方法を考えようというのである。
会員資格はなし、随時入退会自由である。毎年秋ごろに日本のどこかの路地ある街に集まって、「路地サミット」なる大会をやる。去年は東京の墨田区でやった。例のスカイツリーが見える路地である。東京下町には路地がまだまだたくさんあって、敷地内は狭いので路地で園芸を競っている。その前は新潟市、その前は長野市であった。
全国各地から200人ほどが集まってきて、路地をうろうろと歩き、シンポジウムで話し合い、路地の中の店で宴会をするのである。その会で全国各地の路地を紹介しあって、「路地百選」と称するリストアップをしている。その中に高梁盆地の小路もある。わたしではなくて東京の知人がいつの間にか載せていた。
高梁盆地の城下町では、梯子格子状の道の縦の南北方向は通りであるが、これに直角方向の横丁のほとんどは狭い路地、高梁では路地といわず小路(しょうじ)である。
小路の向こうには必ず山が見える山あてになっているから、狭い視覚でもどの小路を通っているかがわかる。
菊屋小路は、わたしが生家から母の里まで行くときに幼時からよく通った。幅一間足らずの狭くて途中で屈曲する土蔵の間の道は、昔は醤油くさかった。菊醤という醤油製造工場の横の小路であったのだろう。
今もこの小路は健在だが、土蔵はなくなっているし、この上を幅12mの都市計画道路が通ることになっている。
牢屋小路という名の道もあった。江戸時代に牢獄があったのだろうが、今は歩道に植樹された広い道となり、名も「はなみずき通り」と改まった。
いにしへの牢屋小路の名が消えて花水木通りとなりて花盛り
藤本 孝子 (歌集「春楡のうた」より)
小路はいっぱいあるが、名前がついていたのはほかには知らない。だが今見ると、昔は広いと思っていた争点が居の新町も鍛治町も、小路のごとく細い道である。
ハイデルベルクでも同じように、東西方向の通りに対して小路が梯子の段のように抜けている。幅が太い道はシュトラセ、狭い小路はガッセという。高梁の小路のように向こうに緑の丘陵が見え、手前には塔が見えて、石畳が磨り減って光っている。ガッセはなかなか生活が見える味のある風景である。
高梁でもハイデルベルクでも、小路は太い道を横切るとき、その先の小路にまっすぐにつながるのではなく幾分かずれることが多い。そればかりか、梯子の縦になっている主要道路でも、小路との交差点で屈曲することもある。
いまでは道路拡幅でまっすぐになったが、柿ノ木町の元小学校の南角には典型的な屈曲があった。今も、中ノ町から柿ノ木町へ紺屋町を横切るところも屈曲したまま、新町から紺屋町を横切って鍛治町へも屈曲がある。
これらは城下町の防備のための仕掛けという説がある。街に進入した敵軍の行動を妨げるのだそうだが、自軍の行動も妨げになるはずだから本当だろうか。
その屈曲は自動車時代となって、交通安全のためにまっすぐに改良されてしまうのだが、一方では考えようによっては街の中で自動車にスピードを出させない仕掛けでもあるはずだ。道の幅は直線だが、車道をわざと曲げてつくる道路があるように、場所によっては道の屈曲を生かすほうがよいときもある。
ハイデルベルクでは、生活空間としてあるいは観光の街として、中心商店街のハウプト通りとこれにつながる小路には、できるだけ車を入れない様に交通規制をしている。それが街の魅力にもなっている。
高梁でも車の入ってこない小路をゆるゆると歩くと、心癒される気分となるのである。鎌倉のように、路地の中まで観光客が入り込んできても生活を乱されるが、暮らしの場としても路地・小路の意義は再発見してよいと思うのである。
母の里にひとりで行く幼年のわたしに、「本町に出る前に右左をよく見るんよ!」と、いつも母が注意したものだ。狭い菊屋小路を抜け出ると、広い本町通りには文明の香りを振りまいてバスが走っていた。今見ると本町通りのなんと狭いことよ。さて、高梁の歌人ならこれをどう詠むだろうか。(2012.01.11)
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