2021/07/01

takahasi1高梁:ふたつのアルテシュタット (その1)コンパクトタウン

高梁:ふたつのアルテシュタット
(その1)
コンパクトタウン

文と写真 伊達美徳

1.ハイデルベルクとの出会い

 高梁盆地の旧城下町が、ハイデルベルクのアルテシュタット(オールドタウン、旧城下町)にそっくりなことを発見したのは、1991年の5月のことだった。このことは別のところにも書いているが、あらためてここに書く。
 レンタカー1台に仲の良い仕事仲間5人が乗って、気ままにドイツロマンチック街道めぐりの旅にでて、その終わりあたりにハイデルベルクを訪ねた。駅近くに宿をとり、アルトシュタットに歩いていった。中世からの街並みが美しい。東西に長く伸びるの背骨を貫く中心商店街を歩いていくて、左右に抜ける狭い路地の向こうに塔があって、その背景にこんもりと山の緑が控えている。あるいは路地の向こうにネッカー川が見える。
 通りの正面の先にある小高い丘陵の中腹に城跡が緑の森と共に見える。それらの道と道と街並みと稜線の山あての具合が、実にバランスがよろしい。これは大好きな風景だなあ、いい街だなあ、懐かしい風景だなあと思いながら、ふと、はて、これはどこかで見たような気がすると思いついた。
 この街、道、山、川のとりあわせは、なんだかどうも懐かしい、これまで訪ねたことのある西欧のどこかの街に似ているのだろうが思い出せない、そもそも西欧都市でこんなにふうに山が見えるところはない。しかし、まさかこんな風景が日本にあるはずはないよなあ、だが気になる、気になるとますますどこか思い出したくなる、わからない。だんだんと頭の中に白い雲がかかったようになる。
 ネッカー川の橋を渡ってアルテシュタットの対岸に渡り、急な坂道を登る。「哲学者の道」と呼ばれる中腹を横切る道があり、歩いているとベンチなどがある広がった展望の場がある。そこからアルテシュタット全体を見下ろしていて、アッと声を上げて叫んだ。
 「ここは高梁だッ、ね、ね、聞いてよ、ここってわたしの故郷の岡山県の高梁盆地にそっくりなんだよ~」
 もちろん聞いた仲間はだれも高梁を知らないから、「え、そうなの」程度でほとんど興味を示さない。わたしひとりが高梁だ高梁だと興奮しているばかりであった。頭の中のもやもやは晴れわたった。
 それにしてもドイツまで来て、高梁盆地と同じ風景に出会うとは思わなかった。もちろんまったく同じではなくて、川の下流方向は開いているし、建物はほとんどが赤い屋根の3~4階のビルである。
 それでも、3方をかこむ山並みの連なりといい高さといい、市街地とネッカー川の広さや幅といい、城と街の関係といい、実に良く似ているのである。方谷林から見下ろす高梁盆地の風景である。
 街の中を歩いているだけでも、その寸法や配置を身に感じてデジャビュ感覚に襲われたのだろうが、そこではまだ高梁との類似はわからなかった。そして俯瞰してようやく認識できたのであった。
 実はその後、このことをハイデルベルクを訪ねたことがある弟や知人に聞いてみたが、そんな感覚には襲われなかったというのである。わたしが都市計画(まちづくり)を専門としていることが、そう感じさせたのであろうか。
 その次の年に、久しぶりに故郷の高梁を訪れて、さっそく生家の御前神社や、ハイデルベルクの哲学者の道に相当する蓮華寺や方谷林に登って街を見おろし、ハイデルベルクの俯瞰風景と同じであることを確認したのであった。


ハイデルベルク城からみるアルトシュタット風景1991


ハイデルベルクアルトシュタットの中心商店街
ハウプトシュトラセ向こうに城跡が見える1991


アルトシュタットの路地の向こうに緑の山が見える1991


アルトシュタットをネッカー川対岸の哲学者の道から俯瞰1991

高梁盆地を高梁川対岸の蓮華寺から俯瞰(1997年田中完治氏撮影)


ハイデルベルクの旧城下町アルトシュタットの衛星写真
(下が北、高度2.35km goole earth)


高梁盆地の旧城下町の衛星写真
(左が北、高度2.35km goole eaeth)


ハイデルベルク中心地域衛星写真(下が北、高度5km goole earth)


高梁中心地域衛星写真(左が北、高度5km google earth)


高梁市の人口と構造は、20歳あたりの突出に注意(wikipediaより)

2.ふたつの都市の相似と相違

 地形や街の姿が似ているといっても、行政体としての両市が似ているのではない。とりあえずいくつかの数字を比較すると、ハイデルベルク市の行政人口は約14万人(2010年)で、高梁の約4万人の4倍弱、その逆にハイデルベルク市の行政区域面積が114平方キロメートルに対して、高梁市が547平方キロメートルと5倍弱もある。
 高梁市の人口は減少傾向だが、ハイデルベルク市では増加傾向にある(ドイツの国としては減少傾向)。なお、ハイデルベルク市にはこのほかにアメリカ軍基地に約2万人の軍属と家族がいる。
 観光都市として有名で、年間に350万人の観光客が訪れるそうだ。古くからの学術都市として世界的にも有名な都市であり、近年は大学を核としてハイテク産業都市として、文化度や財政力は高梁市よりも力量がはるかに上である。
 学術都市としては高梁にも大学があるが、ハイデルベルクには6つの大学があり、学生数が3.4万人(2010年)もいるそうだから、かなり差があるだろう。ハイデルベルク大学とその病院だけでも1.5万人の雇用があり、先端産業と研究所も数多く立地している。
 人口の年齢構成を見ると、高梁市が高齢者が多いので上広がりの下すぼまり型であるのに対して、ハイデルベルク市はその逆に上すばまりの下広がりである。


ハイデルベルク市の人口構造
(2007年、「Heidelberg-structural Overview2007」より引用)

 ただし、高梁もハイデルベルクも大学生がいることで、比率的には20代前半の層が突出して多い点と、年少人口が極端に少ない点が似ている。
 わたしが二つの都市が似ている言うのは、ハイデルベルクのアルテシュタットと高梁盆地の旧城下町とが、地形的にも都市形態としてもあるいは歴史的にも似ているところが多いという、それだけのことである。
 わたしは都市計画が専門であり、高梁についての関連資料は少しあるが、ハイデルベルクについては、手元には1991年訪問のときの写真があるくらいなもので、インタネットによって若干の資料収集をしてみた。
 それらをもとにして、高梁とハイデルベルクの二つの盆地の都市形成について比べてみると、いろいろと高梁がハイデルベルクを参考とするべきことを発見できたのである。それを述べていこう。

3.時代の先端を行く高梁盆地

 高梁は典型的な盆地である。だが日本の盆地を調べてみると、有名な盆地はどこでもその名のとおりの盆のごとくに底が広く縁は低いのである。京都も奈良ももちろん、高山、遠野などどこも高梁盆地に比べると広い。
 高梁盆地は底が狭く縁が高いから、本当は鍋地とでも言うべきだろう。航空写真で見るとそのことがよくわかる。その高梁盆地の底には、街がぎゅっと詰まっている。まわりを緑の山が抱きかかえるように取り巻いている。緑のビロードにくるまれた宝石の勾玉である。高梁川は大小の盆地勾玉をつなぐネックレスで、緑のビロードの上におかれている。
 この盆地という小世界には、人々が暮らすには何でも必要なものが詰め込まれている。ここで生き、学び、遊び、暮して死んでいくという人生を完結することができる。
 日本の都市は20世紀の人口増加時代に郊外へ郊外へと拡散したために、現在の人口減少時代に入ってその都市構造の再編成が求められている。 そうなればいくら自動車があるといってもいまの広がりのままでは、希薄なコミュニティになってしまって、実に暮らしにくいことになる。100年かけて2倍に増えた人口が、これから100年で元に戻るので、時間がかかる街づくりは、今から対応しなければならない。
 100年前のようなまとまった生活圏に戻そうという都市計画が主流となりつつある。それをコンパクトシティという。その目で高梁盆地を見ると、ここは希薄に広がろうにもまわりの山々が抑えていて広がりようがなくて、盆地の中にコンパクトにまとまっているのである。ほぼ歩ける範囲に生活圏が完結する。まさに時代の先端を行くコンパクトタウンなのである。
 日常の買い物はほぼ往復30分くらいの徒歩圏の内にあった。本町の醤油屋に一升ビンを持って買いに行った小さいときお使いの記憶もある。本町通りはその名のごとく、城下町時代からもっとも繁華な商店街だったが、戦後は商店街の中心は次第に南に移っていった。
 今では、本町に限らずどこも商店街は連続性をうしなって賑わいから遠いが、それでも新たな量販店も専門店も盆地の中にあるから日常生活は徒歩圏で充足する。
 日本の地方都市の多くは、郊外にできたの量販店によって街の中の商店が衰えてしまい、買い物難民と言われる住民が多くなっている。また郊外に広がった新開地の住宅では、自動車がないと暮らせないが高齢になって運転が難しくなるし、人口減少で学校統合が起きて子供は通学にも困ることになっている。
 高梁は盆地という地形が幸いして市街地が拡散しないですんだのは、幸いなことであった。歩ける範囲に店舗も病院も学校も公共施設も何でもそろっている。
 いわゆる一周遅れのトップランナーである。いや、遅れないままに時代をたんたんと走り続けて、今、トップランナーになったのか。

4.あまり変化しない盆地の人口

 わたしが少年期までを過ごしたこの街で、最も遠い通学距離は盆地のほぼ北端から南端まで、およそ2キロ半を通った中学1年生のときである。徒歩が普通だったが自転車を使うことが多かった。高校のときは朝の始業の予報サイレンを聞いてから家を出かけたものだ。
 わたしの子供の頃、20世紀の半ば頃までの高梁盆地は、駅の辺りから北が市街地で、生活圏はその中で充足していた。その南半分はまだほとんどが田畑であった。今は盆地の底はほぼ市街化しているが、それは盆地に住む人口が増加したからだろうか。
 高梁盆地でも人口減少の傾向や流通機構の変化から、街の中に空き家や空き地が見られるようになってきている。これらにどう対応するかがこれからの都市政策の基本となる。
 だが注目すべきことに、広い高梁市の人口は減少しているが、狭い高梁盆地のなかの人口は1万人程度で、ほとんど減少していないのである。もっと注目すべきことは、歴史的に見れば近世から、増も減もしていないらしいのである。
 岡山県の策定した「都市計画区域マスタープラン」によると、高梁都市計画区域(高梁盆地と阿部地区)内の人口は、1990年から2000年まで約18300人のままで変化していない。その後10年間の変化はわからないが大差はないであろう。
 このうちから用途地域外の人口を差し引くと13200人で、阿部地区の人口はわからないが、高梁盆地ではおよそ1万人が住んでいるとしてよいであろう。
 「高梁市史」によれば、1694年に藩主が水谷氏から安藤氏に替わったときの城下町人口は、およそ7千人程度とある。このほかに百姓が約5600人いた。
 1889年に高梁町となったときの人口は5612人、1929年に盆地内の南を含む松山村と合併したときが約1万人、1954年に大合併して市制直前が12722人となっている。
 これらの数字が正確な盆地人口ではないにしても、およそ1万人強という値はこの250年ほどの間に大きな変化はないのかもしれない。盆地内の南部の田畑が市街化して居住地域が拡大していながら人口変化が少ないのはなぜだろうか。
 それは、かつての多人数の世帯人員から少人数の核家族へと世帯分離による戸数の増加、他地域からの転入者による家屋建設、現代生活が要求する公益施設や産業施設の増加等によるものであろう。
 高梁市行政区域では人口減少の傾向、高梁盆地では人口定常の傾向、これらの関係をどう解釈するか。人口減少は高齢化がひとつの大きな原因である。高齢化によって生活の場を変更する必要があってたのために他の町に転出するとか、命が尽きて死ぬという減少があり、そしてその高齢者の減少を補うだけの出生がないことである。これは日本のどこでも起きているし、高梁盆地も超高齢社会(高梁地域老齢化率28.5%、市全体33.2%)だからおきているだろう。だがそれでも減少しないのはなぜか。
 それは他地域から転入してくる人々がいるからであろう。周辺の過疎地にいて、高齢になって車の運転が難しくなって、買い物に便利な高梁盆地の街に転入してくるということもあるだろう。また、そうなって困る前に移ることもあるだろう。
 高梁盆地の街は、この減少と増加とがバランスしているのであろう。このあともこの傾向ならば盆地人口は減少しないだろうが、いつまで続くことであろうか。
 生活に不便なってきた人口の希薄な地域から、生活利便施設や福祉医療施設あるいは教育施設等が整った街へと人々が移動する傾向は、過去からいつもあったことだが、高齢社会になってからその傾向は早まっている。
 そのときに、高梁盆地よりももっと住むための環境がよい街が近くにあるならば、そちらに人々が集まるだろう。倉敷、岡山、高梁との間でどこを選択するかの競争になる。高梁の中でも成羽とか阿部とかそのほかの、地域中心的な街相互の競争になるだろう。
 といっても勝ち負けの競争ではないし、人口が増えればよいというものでもないが、一定以上の人口がないと地域社会を支える基盤を整えることができない。その人口が今の1万人で適切なのかどうかは、わたしにはわからないが、少なくともそれで今の高梁盆地はそれなりの生活圏を整えていることは確かである。当面はこの人口を維持する魅力を保つことが目標であるとしてよいであろう。
 もちろんそれは各種施設というハードウェアもあれば、社会的なサービスというソフトウェアの魅力も必要である。さらに加えて、この歴史的な街に暮らすことのステータスを保つこともある。そこに高梁盆地が持っている城下町という特色が生きてくるのである。
 かつてわたし以前のハイデルベルク高梁相似発見者の池田潔さんが1961年に提唱(*池田潔さんの提唱は、「異国で発見した“高梁” 」を参照)したように、ハイデルベルクにならって教育都市を目指す方向は大学の開設によって展開している。超高齢化都市高梁市であるにもかかわらず、20台の若者層が突出して大きな比重を占める特異な人口構成がそれを示している。
 この大学の魅力を今後も継続することが大きな課題となるだろう。それにはハイデルベルクに習うことがありそうだ。
 なお、ハイデルベルクのアルテシュタット人口を知る資料はみつからないが、中世以来の建築が密集してたちならび、高層の新しい建築は存在しないし、学生の町だから入れ替わりは多いだろうが、多分、ここも人口の変化は少ないだろう。

5.旧市街と新市街

 高梁の城下町もハイデルベルクのアルテシュタットも、盆地の川の上流部のふもとから次第に下流部へと広がってきた。どちらも14世紀ごろから都市形成が始まり、19世紀半ばまでは市街地は上流部に限ってたが、20世紀になってから下流部へと広がり、20世紀半ばから下流部にかなり広い新市街地が形成された。


高梁盆地地図:盆地内のおよそ北半分が近世に開かれた旧城下町
南(右)半分が20世紀以後の新市街地(国土地理院)

19世紀半ば頃の城下町時代の高梁盆地の土地利用状況
南半分は城外だった(「高梁市史」1979より引用)


1947年撮影の高梁盆地の航空写真では、駅あたりから南は田畑ばかり(国土地理院)


2007年撮影の高梁盆地の航空写真 駅から南が田畑の土地のままに市街化(google earth)

 ハイデルベルクは第2次大戦中にドイツの主要都市では珍しく空爆を受けずに敗戦となり、アルテシュタットの街並みが保たれた。これは高梁も同様である。その歴史的な街並みの保全に目が行くようになったのは、どちらも1970年代になってからである。
 高梁では石火矢町ふるさと村や伝統的建造物の保存修復が積極的に行われる。ハイデルベルクでは、戦後しばらくはアルテシュタットの古い建物から居住者が出て行き、歴史的な建物の建て替え起きてきた。1970年代から歴史的な街の価値を認める活動がはじまり、建物の外観を復原して内部は修復更新する手法で、歴史的な街並み形成を進めてきた。
 今ではその9割近くが保存建造物に指定されていて、外観の改変には厳しい規制がある。自動車の進入も制限して、駐車場は地下に設けることとしてる。
 このような歴史的な中心市街を保存する手法は、ドイツに限らずヨーロッパ各都市で一般的にとられている。有名なローテンブルクの歴史的街並みは、半分近くを戦火に焼かれたが戦後にすっかり復原したのである。
 日本の空爆を受けた都市でこのような復原をすることはまったくなかったのは、国情の違いであろう。また、日本では歴史的市街地の建物ひとつひとつに厳しい規制をかけることも、かなり難しい。緩やかな規制での歴史的街並み整備はある程度はできているが、自動車の通行や駐車場の位置の規制はなかなか難しいようである。ただし、日本でヨーロッパ流の規制を行うことが必要だとまでは、わたしは思ってはいない。日本流の住民参加の規制と誘導策がある。
 なお、ハイデルベルクではアルテシュタットの城と街をそっくり世界遺産に登録しようと2007年と09年に申請したが、いまのところはいろいろな条件がついて暫定登録となっている。これは日本の鎌倉の世界遺産登録が足踏みしているのと似ているかもしれない。
 高梁盆地の市街地の構成を見ると、近世につくった城下町は盆地の北半分で、現在で言えばおおむね駅前通りから北よりの地域にあたる。橋で言うと高梁大橋から北にあたる。
 もっと厳密に言うなら、紺屋川から上が武家を中心とする城内で、紺屋川は外堀といってもよいであろう。
 航空写真や地図を見て一目でわかるのは、駅前通りから北の城下町エリアは、道路が南北方向に整然としている梯子格子状であり、家屋もそれに対応して整然と並ぶ。その東よりの武家地は敷地が大きいが、西よりの商人町では総じて間口が狭くて奥行きが長い。
 それに対して駅前通りから南の近代以降にできた新市街は、道は自由奔放というか昔の田畑の畦道のままに曲がって走り、宅地もそれにそって大小さまざまいろいろな向きになっているから、建物も大小さまざまに勝手な方向に向いている。
 20世紀から始まった近代日本の都市計画は、このエリアにはほとんど適用されずに、近世城下町部分のほうがはるかに近代都市計画の世界に見えるのである。
 日本の地方都市は、たいていは近世に形成された町のはずれにある田畑ををつぶして、近代都市へと展開していくのである。
 そのとき多くは土地区画整理事業によって都市の骨格を作っていくのであるが、高梁盆地の場合は無計画に新市街地が形成されていったらしい。なしくずしに田んぼをつぶしては宅地にし、場あたりに建物を建てて行って、要するに近代都市計画がなかったのだ。
 もっとも、戦前型の都市計画で整然と碁盤目にできたなんの特徴もない街が必ずしも良いとは思わないが、盆地という限られた平地の土地利用としては、あまりにも非効率である。都市的土地利用ではなくとも、農地としても非効率である。特に幕末の藩政改革で殖産興業を掲げた山田方谷が、耕地整理をすれば収穫があがるのに、なぜ手をつけなかったのだろうかと、不思議の思うのである。

6.ハイデルベルクの新市街

 では、ハイデルベルクではどうであろうか。ハイデルベルクのアルテシュタットといわれる旧城下町エリアは、ソフィエン通りから東である。高梁大橋に相当するテオドールホイス橋から東のエリアである。
 かつてはソフィエン通りにはヨーロッパ中世都市のどこでもあるように城壁が立っていた。その城壁は丘陵の上を東へ進み、城と街を取り巻いていた。ネッカー川は北に位置する濠である。高梁には城壁はないが、紺屋川と高梁川が外堀、小高下側が内堀で、よく似ている。
 ソフィエン通りから西のエリアが新市街地である。一見してわかることは、旧市街地の道路は高梁城下町に似た東西に戦前とした梯子格子状であり、新市街地では碁盤目に整然と通っていることである。
 鉄道のハイデルベルク中央駅の位置が、今は新市街の西にあるが、1840年に開通した時は、かつては高梁と同じように旧市街のすぐ西に接していた。それを1955年にさらに西の今の位置に移して、跡地とその周辺を新市街地整備に活用し、駅周辺地域に業務施設を誘致したのである。現代的な建物が立ち並ぶ。


ハイデルベルク市の時代による市街地拡大の様子
「Heidelberg-structural Overview2007」より引用)

 アルトシュタットの西に接する新市街地は、鉄道駅を中心として業務系の施設も多く、また居住系の施設も多い。20世紀の前半までにできたネッカー川の南の駅周辺の新市街地は今では老朽化してきたので、ベルクハイムとバーンシュタットにおいて大規模に再整備を進めている。
 興味深いのは、アルテシュタットでは街並みの変更は厳しく規制さえているが、新市街地ではかなり現代的な建築が立ち並ぶことである。ハイデルベルク駅からして、総ガラス張りのモダン建築である。

ハイデルベルク中央駅のガラス張りのモダンな建物(google earth)

 このように旧市街地と新市街地を画然として異なる考えで開発することは、西欧の歴史都市ではよくあることだ。たとえば、イタリアの歴史都市のボローニャでは、旧市街のすぐ外に真っ白な高層建築群の新市街を造ったが、これは日本の建築家の丹下健三の設計である。
 日本でも京都市では、京都駅から南については高層建築を建てもよいとしている。鎌倉市では、源氏の幕府があった旧市街地には高さ15m以上の建物は禁止の厳しい制限をかけているが、その外の大船地区にはかなり高層建築もある開発をしつつある。
 さらにハイデルベルクでは、戦後に拡大したネッカー川の対岸地域(ノイエンハイム)の新市街地と、戦前の新市街地とあわせて総合的に計画して開発している。

ハイデルベルクの旧市街(アルテシュタット)と
新市街(高度5km google earth)

ノイエンハイム地区は、高梁で言うと高梁川の対岸の落合町阿部地区にあたるのだが、高梁盆地と阿部地区とは都市計画的連携ができていない。

高梁盆地の旧市街と新市街(高度5km goole earth)

 都市に新たな活力を注入するには新市街地の計画的な整備が必要であろうが、そのとき都市計画としては、歴史市街地の保全とセットにすることに留意する必要がある。たとえば、ハイデルベルク大学のキャンパスは、もともとアルテシュタットの中にあるのだが、ノイエンハイムの新市街地に広大な新キャンパスを作った。
 しかし、アルトシュタットから移転したのではなく、今もあちこちの歴史的な建物の中に教室があり、研究室があり、図書館もある。単に姿が歴史的なのではなく、学術都市としての機能が街の中で生きているから、若い学生たちが街の中にいて活力を保っている。

ハイデルベルクのアルトシュタットにある大学施設群 (UNIVERSITATSBAUAMT HEIDELBERG 06/2009)

 新市街地の開発が、歴史都市のイメージを阻害する景観をもたらさないような仕掛けが必要である。両方があいまって地域イメージを高揚させるのである。
 高梁盆地でも新市街地の形成に、盆地の南地区も阿部地区もハイデルベルクのように計画的に整備するべきであったし、旧城下町の保全的整備との連携も必要であるが、今のところではそれらの施策は見られないようだ。実態は知らないが、大学のキャンパスが秋葉山の裏の陰にあるだけでなく、街に中に展開することは現実にあるのだろうか。

高梁盆地内の都市計画のない新市街地(高度1km google earth)


高梁盆地に隣接する新市街地の阿部地区も計画性に欠ける
(高度1km google earth)


ハイデルベルクの19世紀半ばにできた新市街は現在再整備中
(高度1km google earth)


7.生活の場としての街

 ハイデルベルクアルテシュタットでは、旧市街地の中は通過交通は通さないのである。必要な地域サービス車のみいれる、観光客の駐車場は地下にする、しかも繁華街のハウプトシュトラセには時間制限の搬出入車のみとして歩行者専用道路とするなどの、自動車規制を厳しくしている。これは生活者や観光客の安全、排ガスや騒音対策という基本的なことはもちろんだが、そもそも街の中は歩くものだというドイツ人流の文化があるようだ。
 では生活者が日常の買い物に不便だろうと日本人は思うだろうが、ヨーロッパの街ではよくあるように、ここでもマルクトプラッツ(市場広場)が街の中心にある。そこの毎日開くの朝市では、たくさんの露店が立ち並んで、日用のものは何でも売っている。日本の地方都市のように中心部は空き店舗ばかりで、買い物は遠い郊外ショッピングセンターに行くしかないという都市づくりはしていない。


ハイデルベルクのアルテシュタットの真ん中にある
マルクト広場は朝市でにぎわう(某ブログより引用)


ハイデルベルクアルテシュタットの中心商店街 ハウプトシュトラセは買い物客でにぎわう(googje earth)
高梁の中心商店街の栄町通りはシャッター通りのきざしが見える

 しかしながらドイツも日本と同じように人口減少時代に入り、都市の政策も人口が減少することを前提とするようになってきているそうだ。たとえば、日本でもこのところ都市計画の主流となりつつあるコンパクトシティという、20世紀に拡散した市街地をコンパクトに再編しようという方向がある。
 ハイデルベルクでもそうであり、「City of Short Distance」つまり「距離が短い街」という目標を掲げて、小さなコミュニティエリアを大切に育てようとしている。これは「歩いて暮らせる街づくり」であり、アルテシュタットはその中心的な位置づけにある。そして注目すべきことは、地域での土地や建物の用途をいろいろな機能を混合して導入し、多様な生活に対応できる地区形成を目指していることである。「なんでもそろう街」である(Heidelberg City Development plan 2015)。


ハイデルベルクのアルテシュタットの街並みは建物がいっぱいで
中庭や広場あるが空き地はなくて緑もない(高度521m google earth)

高梁盆地の旧城下町の街並みは建物がいっぱいだが
街には緑が多い(高度521m google earth) 

 ハイデルベルクのアルテシュタットではおきていないが、ドイツに地方都市では人口減少が起きていて空き家がランダムに発生して治安が問題となることも起きている。そのようなことが起きる前に都市政策として、建物を取り壊して公園にしたり、空き地に樹木を植えたり、建物の一部を取り壊して(減築という)日当たりや通風のよい住宅に改良したり、空き家をコミュニティ施設にしたりして、人口が減少してもむしろ暮らしやすい環境にしようとしている。
 これは高梁でも参考となるだろう。人口減少や移動によって空き地空き家が発生するとき、それを放置するのではなく、新たな住まい手の斡旋、そのためには空き家の修復の支援等の再利用できる制度が必要である。あるいは公営の賃貸住宅を盆地内に積極的に設けることも、これからは重要な施策になる。建物を所有しなければならないという考えかたに固執する時代は終わろうとしている。適切な家賃で管理のよい賃貸住宅の供給を促進する政策がほしい。それは若い世代の定着を可能とする。空き地の発生は、考えようによっては近世の城下町以来の密度の高い建てこみ具合が緩和して、日照や通風の居住環境がよくなってもいる。
 ただし、ただ殺風景な駐車場にするのではなく、緑の繁る、花の咲く木を1本でもよいから植えると、街並みは美しいものとなるだろう。高梁ではもともと武家屋敷だった町には緑が多いのである。ハイデルベルクのアルテシュタットにはほとんど緑がないが、中世の街並みの連続で美しいなら、こちらは花と緑の樹木のある歴史的街並みの美しさで勝負してほしい。(2012.01.15)

●続きは「ふたつのアルトシュタット(その2)」へ


 


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