2021/06/25

otaru小樽ー裏町に街並み文化資産が

 小樽・裏町に街並み文化資産

まちなみ発見 小樽ー裏町に街並み文化資産が、、

伊達美徳   2002年


●わたしの小樽は運河と伊藤整

 とにかく、この街はすごい、かなり感激した、以前に函館でもそうだったが、ここも全部見るには4泊は必要だ。小樽運河というよりも臨港線道路のほとりのホテルに、6月29日一泊してきた。

 辰野金吾の日本銀行支店建築に頭を下げつつ、市立文学館・美術館にに入った。伊藤整と小林多喜二は同じ年代に小樽にいた意外な関係にわが不明を恥じ、国松登と中村善策の風景画に癒されて、ああ、これぞ小樽だと、なんとなく思った。

 それは多分、前日からの街歩きでハードウェアとしての小樽のすごさを見た後で、ソフトウェアにもすごい小樽を見たからだだろう。もっとも、ハードウェアとしての文学館・美術館は、ちょっとひどすぎるが、。

 小樽は3年ぶり2度目の訪問である。前回は仕事がらみで「マイカル小樽」の見学だったので、ついでに運河と堺町通りも駆け足で通り過ぎる程度だった。今回は泊りがけだからじっくり見られると思っていたのだが、小樽は1泊で見切れる街ではないぞ、まだまだ見るべきところがたくさんある、再訪しなければなるまい、と思って帰ってきたのだった。

 街並み発見の旅は、できるだけ事前に調べることなく、先入観なしに行くようにしたい。小樽は2度目だからそうはいかないが、わが小樽への意識は、20年前からの運河埋め立て反対運動がきっかけであり、「全国街並みゼミ」で峰山冨美さん(運河保存運動のリーダーだった方)の話は何度か聞いたことから、興味があるまちではあった。発行と同時に予約して買い求めた『小樽運河保存の運動』は、本棚に圧倒的な厚みでおいてある。

 運河埋め立てによる臨港線道路拡幅事業は、全国的に有名になった反対運動にもかかわらず、計画変更しながら結局は遂行されたのだが、その事業推進役の建設省の役人だった依田和夫さん(建設省の土木官僚から慶応大学教授となった方)から、小樽の道路建設と運河保存の両立に心血注いだ話をきいたことがある。その現場を見たかった。

 なお、小樽から帰ってきたその週のこと、昨年急逝された依田さんを偲ぶ会が催された会場に、彼の代表的な仕事として小樽運河と臨港線道路のスライド写真が紹介されていたのであった。

 わたしの小樽に関するそれ以上の知識は、小説家の伊藤整と小林多喜二の街だった、というくらいのものであった。

 今回、小樽をたずねて街歩きの現場で肌で感じたことと、鎌倉の家に帰ってきてから気になって書物やインタネットで得た知識を比較しながら書いてみたい。


●小樽の現地で感じたこと

 今回の街歩きは、主に北部の稲穂と中心部と色内の町をまわったところで時間が尽きてしまって、南や西のほうは見残してしまったが、そこで感じたことなどアトランダムに。

・こんなにも近代産業資産(建築、土木、都市)の宝庫の街であったか

・第1級街並みのほかにも、町家などに美しくも個性的な街並みがある

・国鉄手宮線跡は、小樽中心市街地まちづくり資産だが生きていない

・有名な運河は観光資源となっているが、どうも市民とは関係なさそうなこと

・やっぱり臨港線道路は、港と市民とを隔てたようだ

・3年前にこんなところにと不思議に思ったマイカルはやっぱりだめだったか

・小樽は観光でなくても生きられるはずだが、妙に観光ばかりが目に付く

・小樽市民の生活と小樽観光との間には、大きな乖離がありそうだ

・小樽観光の底は、まだまだ浅そうだ(本当は深いのに)

・せっかく中身が立派な小樽市立文学館と美術館が、生かされていないようだ

・小樽は歴史的建造物が町中にあるのにその資料はどこにあるのか

・ガラスとオルゴールと海産物という取り合わせは函館がまさしくそうだった

・小樽は寿司が名物の街だったとは知らなかった

・小樽もやっぱり、街も街歩き地図がなっていない


●3年前の小樽メモから

 ここで、3年前1999年4月に訪問したときの小樽に関する私のメモを、コンピュータの中からひっぱりだして見た。そのときの目的は、民間都市開発機構の仕事関連で「マイカル小樽」開発の見学であった。

「マイカル小樽   1999年4月

 臨港地区の再開発地区計画による巨大開発。230万人の札幌商圏を相手とする郊外型SCか、駅に直結しているので、車対応の客のみでもないところに強みもある。

 小樽中心市街地の衰退を招く恐れ十分にあり。小樽中心部の近代港湾都市として栄えた町並みが、今は観光街として特徴的なにぎわいを見せている。中心部の商業は観光にシフトせざるを得ない。

 マイカルもいつまでもつか。観光客が喜んで行くとも思えない。小樽まで来てマイカルでもあるまいし、吉本でもあるまい。と思うのは古いか。

 ただ、最寄り品の日常の買い物も小樽の人もここでするようになるだろうから、中心部の最寄り型、買いまわり型いずれも商業の衰退は免れない。

 あのサンディエゴのホートンプラザをやったジョン・ジャーディのデザインというが、あまりその能力は発揮されているようには見えない。マイカルの安物建築路線では、ジャーディもやりようがなかったか。

 ヨットハーバーが目の前にありながら、それとこれとは無関係になっているのも、どうやら臨港地区にかかる運輸省と建設省の縄張り争いの結果らしい様子が見える。」


 このように批判的に書いていたのだが、そのときは開店したばかりで、ものすごい有名ファッションブランドショップ群にたじろいだものだった。今回はもう倒産マイカルに行く気は起きなかったが、列車の窓から見ると「9月まで閉店セール」と垂れ幕があった。

 3年前書いた「いつまでもつか」が、もうやってきたのだ。後はどうなるのだろうか。中心市街地に商業の活力は戻ってくるのだろうか。札幌駅開発がもうすぐオープンのようだから、小樽の物販市場は狭まるばかりである。


●観光にシフトした小樽中心街

 有名な小樽運河埋め立て反対運動があってからもう30年ちかくだろうか、半分が臨港線道路になった運河とそのほとりの倉庫街は、一大観光名所となっている。そしてそこと堺町通りだけが、小樽の観光地であるらしい。

 運河埋め立てを契機に、運河保存運動が小樽のまちづくり運動となってきているのか気になった。果たして小樽はまちづくりに成功したのだろうか。たった1泊の旅では分かるはずもないが、気になる街である。

 帰ってから小樽関係のインターネットサイトを検索したが、あの運動を正面からとりあげたところに当たらなかった。まちづくりのいくつかの団体のサイトには当たったので、いろいろな動きはあるようだが、よくは分からない。

 久しぶりの小樽の堺町通りは、完全に観光の街と化していた。倉庫や民家を改装した街並みに、ガラス、オルゴール、カニ、すしの店が軒を接して、安物の土産品を並べている。この取り合わせは、どこかでであったことがあると考えたら、函館であった。出所進退がそれなりに明確で、何が鎌倉か分からない観光街と化した鎌倉の小町通よりは好感が持てる。

 あちこちの空き地駐車場にバスと自家用車がとまり、わーっとやってきてワーッと去ってしまう、そんな観光形態を観察していると、この街の深い文化はどこかに消え去っている。

 観光街となった「堺町通り」だけが一人勝ちで、中心商店街の「セントラルタウン都通り」も「サンモール一番街」も、活気が見られない。ついでながら、どちらのネーミングも、どうもさえない。

 観光客の常として、観光案内所にある表面的なところだけ見て、安物土産のガラス細工かオルゴールを買って帰る。食事は運河のほとりの倉庫を改修したレストランか寿司屋で済ます。 

 夕方7時過ぎ、セントラルタウン都通りを通れば、ほとんどの店は閉まっているありさまで、観光客と何の関係もない。昼間歩いても、よくある地方都市アーケード街で、面白くもない。市民はもしかしたらマイカルに買い物に行ったか。

 坂をのぼって商店街に観光客がやってくる様子もないし、地元側も特に誘い込もうとする様子もない。商店街の活性化と観光はここでは結びつく様子は見られない。

 というよりも、小樽の住民たちは、堺町以東の観光街に関心を持っていないのであろう。堺町通りにも市民の生活臭は、ほとんど見られないのだった。

 それを良いとか悪いとかいうことではないが、わたしの観光に関する考え方は、その地の市民生活自体が観光や保養と一体となっていてこそ観光地である、他人のための観光地は観光地ではない、と思っているので、小樽は観光の街としてはいまだしの感がある。

●手宮線跡の活用は

 歩いていて鉄道廃線後にぶつかった。地図を見ると手宮線跡とある。南小樽駅と手宮車庫を結ぶルートには、まだ線路が敷かれたままで、中途半端な遊歩道つくりがすすみつつあるようだ。

 おお、この線路はすばらしい、そのまま復活して路面電車にしてしまえば、街の活性化に最適であるぞ、そんな計画ないのかしらと思ったのだった。

 あの線路は小樽の街中を南北に結んでいるから、路面電車にすれば、買い物や通勤通学の日常生活にも、もちろん観光にも、すばらしい路線になると思う。とりあえずは、重要文化財「手宮鉄道施設」と日銀通りまでの間でよいから、レールバスでも動かすのはどうだろう。

 そのような計画がないことあるまいとインタネットサイトを調べたら、やっぱりあった。「手宮線・Open A Way・小樽」と称するプロジェクトを、「小樽まちづくり協議会」が1997年から進めているらしい。だが、99年11月でHP掲載が途絶えているから、それは今どうなっているのだろうか。

 街歩きには便利で乗り降りしやすい公共交通が必要である。乗り捨て自転車もほしい。

 「散策バス」という市内観光の循環バスがあるようだったが、どうも案内がよくない。あのようなものは、案内を見て簡単に分かって乗れるようにしてほしい。バス乗り場で、乗ったらどこに連れて行かれるか分からない、と思わせるような今の形ではだめだ。

 パンフレットも、一生懸命見ても実に分かりにくい代物である。とにかくルートマップをもっともっと分かりやすくして、バス停に掲示してほしい。

 おかしかったのは、ここにも人力車がでていることで、それも鎌倉にこの3年ほど前から突然増殖した「えびすや」というマークをつけていることだった。ところが、鎌倉と違うのは、人を乗せて街の中を走っていないことである。運河のほとりに泊まって、写真撮影の道具となっているらしい。小樽では走ることが禁止なのだろうか、それとも乗り手がいないのだろうか。

 ところで、この「観光都市小樽」も、観光地図が満足のいくものがない。あれこれと案内所で集めたが、スケール表示のないものが多いのはここでも同じだ。

 最近出されたらしい「小樽観光マップ」(小樽観光誘致促進協議会)は、他と比較するとまあまあの代物であるが不満は多い。珍しくスケールバーがあるが、メッシュの寸法がどういうわけか500m(あるいは250m)でないので、距離を一目で判断できないのが不便である。

 書き込みのレイアウトデザインがよくないので、読みにくいのも欠点である。歴史文化系の施設案内に冷淡なのも気にかかる。散策バスルートも乗っていない。ああ、言い出せばきりがないなあ。


●文学と美術の小樽は

 伊藤整という文学者の名は、最近聞くことが少ないが、わたしの高校から大学にかけてのころは、伊藤整といえば出す作品が次から次へとベストセラーとなる流行花形作家だった。「チャタレー夫人の恋人」の翻訳で、わいせつ罪に問われて有罪になったのでも有名だが、いまならあの程度は当然無罪である。子息の伊藤礼氏が、その新翻訳を出されたのは読んでいないが、多分、父親の有罪部分はちゃんと翻訳されているのだろう。

 実は、伊藤整氏はわが大学時代の英語教師であった。もっとも、私はめぐり合わせが悪くて、伊藤教授に習うことはなかったが、廊下ですれちがうくらいはしたかもしれない。

 だが、伊藤礼氏の兄上である伊藤滋氏は、私が所属している(NPO)日本都市計画家協会の会長である。日本の都市計画のリーダーであり、わたしには縁薄かったお父上に代わって、わが都市計画の日頃の教師である。

 さてその小樽の文学者伊藤整を訪ねて、市立文学館を訪れたのである。そうか、彼は小林多喜二と同じときに小樽高等商業にいたのか、小熊秀雄の顔も見えるぞ、石原慎太郎の悪筆原稿があるのはどういうわけだろうと思ったが、裕次郎とともに一時は小樽に暮らしていたのだったか。

 おお、多喜二の悲惨な最期は当時こんなにも世間に喧伝されたのか、極秘裏の始末かと思っていた。伊藤整のレプリカ書斎の紙袋詰め資料の山を見ると、かれが野口有紀夫よりはるか前の超整理法の元祖であったか、苦笑。

 この文学館は資料は一流のようだが、展示が三流で投げやりなのはいったいどうしたのだろうか。一角に古本の山(貴重な本もある)があったが、あれはなにだろうか。伊藤整の大きなポスター写真も、束になってバケツに無造作に放り込まれていたので一枚いただいてきた。

 同じ教育委員会管轄だろうからと思いついて、小樽市内の歴史的建造物の資料のありかを聞いたが、しばらく探してくれていたようだが、まったくラチがあかなかったのも残念。

 後で文学館のインタネットサイトを見ると、張り切り学芸員もいるらしいので、あの日はたまたま不調の日だったのか。

 文学館を一通り見て、同居している美術館にも足を運べば、中村善策と国松登親子の作品がところせましとばかりにならべてあるが、どちらも快いひと時を与えてくれた。

 だが、文学館も美術館も、もうちょっとなんとかならないものか。中身のよさに比べて、箱の使い方があまりにまずかろう。せっかくの高度なコンテンツを、古いPCで動かしているようなものだ。別に新しい箱を作る必要はないが、もっと展示に身を入れてもらいたいものである。地域の文化を誇りを持って見せることが、観光の本来の意味ですぞ。

 帰ってすぐにわが家の書棚から、30年ほど積ん読になっていた伊藤整と小林多喜二を取りだした。多喜二の「蟹工船」は読んでいてどうも記憶があると思ったら、昔々、映画を見たことを思いだした。映画は悲劇で終わるのだが、原本には労働者側が勝つような結末を、最後にメモとして書いてある。

 伊藤整の処女出版「雪あかりの路」の抜粋版は、文学館で買ってきた。そうか、このような叙情の人であったのか。

 「街と村」と「若い詩人の肖像」に叙述された小樽の街を、見てきたばかりの小樽の風景と重ねあわせながら、伊藤整の甘くもまた苦い小樽の青春を、これまた自分の青春と重ね合わせたのである。

 出てくる人名で、小林多喜二は知っていたが、大熊信行、高浜年尾、小熊秀雄も小樽関係者だったのか。かの地の文化は、奥が深い。


●裏町の文化資産

 伊藤整が文学として描いた小樽の街とともに、文学館には実際に彼の手で描かれた当時の小樽の街の地図があった。初版の「街と村」に載っていたというあの地図を、ぜひとも複製出版してほしい。

 伊藤整が歩き回った町の中心に、小樽の人たちが北のウォール街と呼ぶ一角には、日銀小樽支店などの近代建築が軒を並べる。そのなかに北海道拓殖銀行だった建物が端正なる姿を見せるが、小林多喜二はここのサラリーマンであったか。

 その悲劇の最期を遂げた左翼の人と資本主義の牙城の銀行とは、どうも取り合わせがしっくりこないと思うのは、後世の者の感傷かもしれない。そして多喜二を首きりしたその銀行も、70年後には哀れな末路となったが、建物だけは近代の歴史的資産としていまも生きているのが皮肉といえば皮肉。

 辰野金吾、長野宇平治、佐立七次郎など、当時の錚々たる建築家の設計になる様式建築、それに負けず劣らずの多くの近代建築が表通りに顔を見せており、それらは歴史的建築物として一定の評価を受けて、行政による保全に努力がなされている様子が見えて嬉しい。

 それらが表通りの晴れ姿であるとすれば、その一方では裏通りにも、地元の棟梁たちが腕を振るったらしい愛すべき建築が街並みを彩っている。それぞれに石造、土蔵、下見板張り、レンガ、タイルと材料と意匠を競い合い、函館でも見たように、どこか北海道の個性とも言うべき様相を持っている。

 なかなかに楽しく見て回ったのであった。見残した西や南の街にも、そのような街の個性建築がたくさんあることだろう。

 ところで、それらに保全の手立てはあるのだろうか。古くて使いにくい、改装よりも建て替えるほうが安いと、次第につまらない箱建築になりつつあるに違いないとおもうのだが、どうだろうか。

 表通りの第1級の建物があるだけに、それらばかりに目が向いていると、気がついたら裏町の文化資産が消えていたことになることを恐れる。多分、建築学会による調査は行き届いているに違いないとは思うのだが、。

 いつかまた、見残して残念の小樽の街を見に行きたい。(2002/07/21)


参考文献:

雪明りの路(抜粋版、伊藤整、小樽文学館)、

若い詩人の肖像(伊藤整、講談社文芸文庫)、

街と村(同)、

蟹工船(小林多喜二、

戦旗社 復刻版)、

小樽観光マップ(小樽観光誘致促進協議会)

0 件のコメント: