2021/06/30

entuji京都:怨念の景観帝国 -円通寺と後水尾上皇の視線-

京都:怨念の景観帝国
-円通寺と後水尾上皇の視線-

伊達 美徳
(2009年)

1.円通寺借景庭園

 江戸初期の後水尾天皇(在位1611~1629年)は、徳川幕府と対立して負けてしまって、以後は文化にしか生きられなかったからでもあろうが、才人だったようだ。
 その後水尾が上皇となって1639年に作った別荘の幡江茶園だった庭園を、京都岩倉を訪ねて見てきた。今は円通寺という寺院となっている。
 真冬だから庭園はそれほど美しくもないし、雨もよいで借景庭園の目玉の比叡山もかすんでいた。
 この寺は借景庭園として有名だが、庭の向うに高いビルが建って借景に入ってきたとか来るとか噂を聞いていて、以前から見ておきたいと思っていたのだ。
 実際には借景に高いビルはなかったが、垣根の外の岩倉の街の住宅群などがちらほらと見えていてちょっと気になるから、当然に昔ながらの借景ではなかろう。
 昔ながらの借景と書いたが、はて、後水尾上皇がここに幡江茶園を作った17世紀のはじめはどんな景色だったのだろうか。
 向うの遠景の比叡山の形は変わっていないだろうし、中景の岩倉の田畑は見えないように生垣で見切っていたとすれば、こちら近景の庭園がいまのようであったのだろうか。
 南北に長い書院の東にある庭を座敷から東に向いて眺めると、苔と石の庭の東の端には混ぜ垣が横一文字に1メートル半ほどの高さに水平に刈り込まれ、これで視線から岩倉の近景・中景(昔は田畑、いまは住宅街)を見切って(実は見切れていなくてちょっと見える)、遠景の比叡山を混ぜ垣のうえに生け捕って、杉木立の下に借景としている。
 いまは座敷のちょうど真ん中あたりから、下を縁と垣、両脇を柱と杉木立、上を軒と杉の葉によって2段構えの額縁を作って、その中に比叡山を生け捕りにしている。寺のパフレットの写真(下の一番上の写真)に見るとおりである。
 だが、わたしが訪れた時の庭園風景は、この一番下の写真のとおりであった。これでは天気が良くても、比叡山を生け捕りには出来まい。


参考:後水尾が観た庭の借景はこうだったかもしれぬと戯造した圓通寺庭園復元GIF

2.上皇が見た庭は?

 ところで、南北に長い座敷に南から入室するから、北が上座である。この家の主の後水尾上皇はこの座敷の真ん中ではなく、いつも北の間に座っていたのだろう。現にそこには御簾が巻き上げられている。
 だから後水尾の視線は、パンフレット写真よりも北にあったはずだ。庭の石組も北に寄っているのはその故だろう。
 後水尾がつくったときは、垣のすぐ外にある杉は、当然のことにまだ今のような大木に育っていないから、垣の上には何もなくて比叡山が山容をすっかり見せていただろう。額縁は2段構えではなかったはずである。
 そもそも額縁に入れて風景を眺めるのは、近代になって西欧絵画が入ってきてからのことではないか。近世初期の宮人たちは、もっとおおらかに風景を見ていたように思うのである。
 その頃は岩倉の里は牧歌的だったから、もしかして垣も低いか全く無くて、近景の庭から中景の岩倉の里、そして遠景の比叡山へとつながったいたとも想像するのである。それはおおらかな風景であったろう。幕府との確執に疲れた後水尾が癒される風景である。
 この幡江茶園の後でつくった修学院茶屋のおおらかなデザインを見れば、今の円通寺庭園におおらかさが欠けているのは、どうも後世の改変によるような気がする。
 自信のある論ではないが、どうであろうか。

3.内なる景観

 円通寺の借景が近くにビルが建ちそうで危ないという話は、いつの頃に知ったか忘れたが、このたび訪問してもう20年以上も前からの話と分かった。
 京の底冷えの中で開け放たれた縁に向かい、座敷に静かに正座していると、なにやらお尻が暖かいので見ると暖房電気カーペットがしいてあるのだ。畳の目が見えないと思ったら、座敷全部に薄いカーペットを敷いてある。
 書院の室内の南障子前に大きなパネルがぶら下がり、景観阻害に関連する新聞の切抜き類やビルが建ったらこう見えるというシミュレーション写真(1988年作成とある)やらがべたべたと貼ってある。
 住職らしき人の録音による解説音声が室内に流れる。その中にも、近くにビルが建つ許可が出ており借景が危ないというような言葉がある。だから今のうちに見ておきなさい、写真も庭側だけは許可します、などと、くどくどと耳に流れこむ。
 なるほど、上の座敷との境の鴨居から大きな紙(ポスターの裏を使っていた)がぶら下がり、「室内すべての撮影禁止、庭のみ許可」と墨黒々と大書してある。
 立ち上がって縁を左に回りこんで見学順路を行くと、あちこちと撮影禁止の張り紙である。庭の美しさに引き換えて、器械音声、張り紙、敷物などで、なにか身近な景観が汚らしいのが気にかかるのであった。遠景が中景によって壊される前に、近景のもうひとつこちらの内なる景観が 崩れつつある。

4.借景される側

 そこで、借景が中景によってこわされそうなのならば、その現場を見ようと寺から出て、ぐるっと北に回って集落の中の道を東側にくだり気味に歩いて、寺を見上げる東側の平地に出た。田園が広がっていのるかと思っていたら、そこはなんと田畑を埋めて宅地開発をしている最中であった。
 ただいま分譲中とて、ひらひらと軽薄なる幟が何本もひらめいていて、いかにも建売らしいデザインの小住宅群も立ち並ぶ。草ぼうぼうの畑もあれば工事中の道路もあって、まさに普請の最中である。
 ここから西を振り向けば、円通寺の木立と見え隠れの屋根が見える。そうか、ここに中高層ビルが建てば円通寺の庭から立派に見えることだろう。でも今のところは中高層らしき開発は見えていない。一戸建てばかりの低層住宅地である。
 寺の録音が切々くどくどと訴え、景観シミュレーションのビルはどこなのだろうか。ストップしたのだろうか。
 うろうろと見回ると、洛北第三土地区画整理事業なる事業中を示す看板があった。それなら都市計画事業だから、あらかじめ都市計画として円通寺からの見え方も含めて 街の景観計画もあるに違いないと思うのである。
 常識的には、土地区画整理事業の都市計画決定と同時か、あるいは後追いでも、高度地区、地区計画地区、景観計画地区などを定めて、円通寺の借景への対応をするはずである。
 円通寺もこの事業の権利者ならば、当然にその点を計画に反映させることができるはずなのに、これはどうなっているのだろうか。
 この区画整理事業について京都市のWEBサイトからみれば、どうも円通寺は計画区域ではあるが事業区域からはずれている。しかし、現地を見ると全部外れているのでもないらしいが、 そのあたり何か地元事情があるようだ。
 広い幅員の道路を工事中だから、沿道部はもしかして高度利用も可能な計画かもしれないが、それにしてもあたりに駅があるわけでもないし、典型的な郊外住宅地なので高度利用といってもたいしたことはなさそうである。
 円通寺の録音解説音声でくどくどと景観破壊を訴える言葉と、現地の事業の進め方の間には、なにか齟齬があるような感じがしたのであった。


5.後水尾怨念の視線

 このあたりの京都市の都市計画はどうなっているのか、京都市の景観関係のWEBサイトを調べた。さすがに京都市である。眺望景観創生条例なるものが2007年3月に出されていて、円通寺はこれによって「庭園からの眺め」を規制することになっている。
 用途地域、高度地区、風致地区、眺望景観保全地域などなど規制があるが、要するに庭からの眺めで借景となる範囲の地区では、建物等の高さを標高110.2メートル以下の建物にせよと決めているのである。
 円通寺の庭の標高は105メートルくらいらしいから、見上げとして5メートルまでは可能ということだろう。これならちょっと離れたら実態は見えることはなさそうだ。
 ちゃんと規制しているではないか。ということは、この20年前から訴えてきた成果が稔ったということなのだろうか。
 それでもなおかつ先ほどのようにくどくど訴えている寺の録音放送は何だろうか。条例施行前の既得権による開発が起きているのだろうか。
 それにしてもこの規制図の円通寺からの半扇型の規制の図形を見ると、これは後水尾上皇の視線に見えてくる。
 仙洞御所から鳳輦にのって鞍馬街道の峠を越えて幡江茶園にやってきた上皇は、あの御簾のうちに座って庭を通して比叡山を眺めながら、徳川家との確執でたまった心の中の澱を少しづつ浄化していたのだろう。
 怨念のこもる視線である。あれから3世紀半、今、その怨念の視線がよみがえる。

6.私的視線の公共化

 この円通寺からの視線確保のための制限のすごさは、一点からのそれもお金を払わないと入れてもらえない特定宗教の私的空間からの視線を保護するために、広大なる地域に制限を掛けることである。
 広大なる地域から一点への視線を保護するのなら、その広大なる地域にかかわる人々の暗黙でも合意があれば、ある種の公共性を持つから視線保護のための制限には一定の理由がある。
 例えば、ロンドンのセントポール大聖堂への視線確保のための、viewing colrridorのように宗教的コンセンサスに支えられている視線保護の制限である。
 しかし円通寺の場合は逆なのである。円通寺へのviewではないのである。円通寺からのviewing sectorである。
 京都市眺望景観創生条例においては38の「眺望景観保全地域」を定めているが、ある特定の施設からの眺望の定め方はその周囲500メートルの範囲に「近景デザイン保全区域」として高さ制限を掛け、その外は京都盆地のほとんどを含む広大な「遠景デザイン保全区域」である。
 ところが円通寺では、それらの二つの区域の中間に「眺望空間保全区域」として広大な扇形を設定しているのが、他と比べてきわめて特徴的なタイプである。
 そこで考えるのだが、円通寺の庭園の借景はそれほどに公共性のあるものなのか。そこは公園でもないし、国宝でもないし、極端に言えば寺の隣に建っても比叡山は見えるのである。今分譲中の住宅地で、円通寺をコピーして借景庭園を作ることもできるはずである。つまり再現性もあるのだ。

7.景観帝国主義

 私もお金があれば、比叡山借景庭園つき幡江別荘をつくりたい。後水尾上皇のご威光の眺望空間保全区域にただ乗りして、美しい風景を楽しめるのである。
 だから円通寺の庭に価値がないといっているではない。それはすばらしいのだが、これをこのように市民共通財産としたのは、何が公共性への合意があるのだろうか。
 それは個人所有である名画が、国宝として保護の対象になるようなものとすると、先例としては考えやすい。しかし、その国宝指定からの反射が ある地域の多数の個人の財産制限には及ばないから、違う次元のように思う。
 いわば円通寺は庭を担保にして、広大な地域の景色を借りたのであるが、その負債を保証するのが眺望景観保全条例である。条例とは市民の合意であるから、市民はそれほどの担保価値を円通寺借景庭園に評価したことになる。
 本願寺ほどの強大なる信仰集団の元締めならともかく、一寺院の庭にそれほどの価値を認める背景はどこにあるのか、この庭はそれほどに再現性のない価値の高いものか、よそ者には理解しがたいのだ。
 となるとこれは、やはり3世紀半にもにわたる後水尾上皇の怨念の視線と考えたくなる。上皇の眼を汚すような建物の出現を拒否することに、京の人々は肯んずるのであろう。
 妙な言い方をしてるが、要するに京都固有の歴史的背景が現代にも生きており、そのような背景を知らない人たちが借景の地域に侵入してきたので、現代制度化をせざるを得なかったということだろう。
 家康と秀忠の徳川幕府にいじめられつくした後水尾天皇への、京都の人々の追慕としてなら修学院離宮で十分と思うのだが、彼の習作ともいうべきこの小さな庭にも、その外に広大なる制限(既存不適格建築物も多いはず)をものともしないとは、さすがに京都というところはものすごいところである。怨念の景観帝国の都である。景観帝国主義はようやくここまで来たのである。

8.お江戸の現代借景事情

 東京には大名庭園がいくつもあるが、平地だから借景にする遠望がないので借景庭園はない。ところが、この20年くらいでそれらがみんな借景庭園になったのである。ようやく江戸も京の都なみになったのかといえば、変なことが起きているのである。
 借景というものは、もともとは自分のほうに庭があって、それをいわば担保に差し出して、外にある景気を借りてきて、ひとつの庭に見せる方法を言ったはずである。
 ところが自分のほうはコンクリのベランダだけで、よそ様の庭を覗き込んで借景というのである。担保を出さないでタダで借りるのである。しかも向う様のお庭から見れば、勝手に借景が登場しているのである。つまり押し貸しである。あまりにひどいではないか。
 借景のキイワードでWEB検索したら、小さな住宅が借景の家なんて登場してくるのがたくさんある。写真を見ても庭なんかないのだが、よく見ると室内やバルコニーから隣の公園や庭が見えるということらしいのである。ここも無担保無断借り入れをしている上に、無断押し貸しをして平気なのである。物事を知らない建築家には困ったものだ。
 そのような似非借景を売り物にする共同住宅(いわゆるマンション=わたしに言わせると“名ばかりマンション”)の広告が平気で出てくるのである。借景などといわなければまだかわいらしいが、どうどうというのだから憎らしいというよりも、どうも借景とはそういうものだとだと思っているフシもある。このことは前に書いた(**江戸の名園に押しかけ貸景2001、2003) 。
 浜離宮庭園は汐留開発でニューヨークのセントラルパークに負けないリッパな風景となったし、小石川後楽園は白雪をかぶる比叡山かと見まがう東京ドームが押しかけ てきて、ミゴトな借景庭園となっている。
 東京の庭園も京都のように、境界線から500mの範囲は15mくらいに高さ制限をしてはどうか。なんて、それはとても無理でしょうね。だって、天皇の怨念がこもっていないんだもの。こちらはなにしろ天皇をいじめた方ですからね。
 景観帝国はいまのところ京都にお任せであり、文字通りに膨張主義として景観帝国主義が来襲するのを待つしかないありさまである。
  ◆◆◆
 ここで後水尾天皇のことを書いたが、これはたまたま「火と花の帝」(隆慶一郎)という未完の奇譚小説を最近読んだので、景観論を文化論的に気取ってみたかっただけのことである。
 “景観帝国主義”という奇妙な造語を使ったが、これは以前に何かで読んだ社会学者・上野千鶴子が建築家・山本理顕というよりも建築家一般を“空間帝国主義者”と揶揄した言葉 があり、いつかどこかで真似して使いたいと思っていたのだ。“保存帝国主義”という造語も思いついた。
 わたしはレーニンも幸徳秋水も読んだことはない。気分で帝国主義と言っており、否定的な意味ばかりではなくて、文化論用語としては面白い。これから使いつつ深みをつけて行くことにする。(2009/03/01)


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