2021/10/16

swissalps2006 ヨーロッパアルプスは棚田だった

ヨーロッパアルプスは棚田だった
2006年
伊達 美徳 

 2006年の夏、グリンデルワルト、チェルマット(スイス)そしてシャモニー(フランス)の、ヨーロッパアルプスに行ってきた。「行ってきた」で「登ってきた」でないところが、ちょっとなさけない。

 実は大学時代には山岳部にいて、日本アルプスはさんざん登ったが、今のように外国旅行が簡単に出来る時代じゃなかったのだから、ヨーロッパアルプスの写真を眺めてため息つくばかりの、遠い遠い夢のあこがれのところだった。

  その夢を半世紀近くも後になってやっと果たしに行ったのだ。しかし、さすがに古希ともなると岩登りも山登りも無理で、山岳鉄道やらロープウェイで登って、2~3000m位の標高の中腹の草原をテクテクと4~5時間歩いて下るのであった。

 天気は良くて、あこがれだったアイガーだのドリュやらグレポンやらの岩峰が目の前にあって、それはそれでうれしかった。

●山行きでドレスアップとは

 平地歩き仲間の友人が誘ってくれたのだが、旅行会社が企画する一般募集にツアーにもこのような山行きがあるのだ。これまでのわたしの外国旅行は、仕事関係の視察や仲間との遊びの独自企画ばかりであって、既製パックの海外旅行に乗ったのは実は初めてなのであった。

 山行きだからちょっと大き目のリュックサックに、何もかも詰め込んでキャリーバッグに載せて持っていったのだが、成田の団体旅行集合の場に行ってまずおどろいたのは、30人足らずの一行の7割は女性なのである。それも中年以上ばかり、つまりオバサマ方なのである。

 山に行くのにこんなに女性ばかりのはずがない、と、集合場所を間違えたと思った。ところが、近頃の海外ツアーはいずれもこうなのだそうである。そしてまた、その荷物の大きなこと、重そうなこと、山に行くのにどうしてなのだろう?

 この疑問は、その2日後のホテルの夕食のときに始めてわかった。一流ホテルのディナーだから、ドレスアップして来いというのであった。男は折り目のあるズボンをはいて、襟のある上着を着て来い、というのである。

 こちらは登山旅行のつもりだから、よれよれズボンにティシャツの着たきりすずめである。そして女性たちは見事に、おしゃれ着でやってくるのであった。そうか、毎夕食ごとに着替えるとなると、あんなに重くでかい荷物になるのも仕方ない。

 しかし、山登りに来たつもりのわたしには、しゃくぜんとしないままに毎晩の食事が過ぎていったのであった。1960年前後の時代の、わが夢の中の山行きだから、仕方ない。

●スイスの美しい風景は牛糞の中に

 実は今回の目的はもうひとつあって、スイスの牧場の風景が美しい自然景観の典型みたいに、よく言われるのだが、どうも疑問に思っていた。 特に植生に関する文献などでいろいろと読んでいて、あれは本当に自然景観なのだろうか、あんなにきれいに単一植生になるはずがない、なるにはそのゆえんを知りたいと思っていたのだ。

 和辻哲朗の名著『風土』で言うところの西欧の「牧場」風土は、和辻が目で見てきて言うような本質的な自然では、どうもなさそうなのである。どうしても自分の目で、それを確かめたかったのである。 結論を言えば、スイスアルプスの草原は、人間の飼う牛と羊の糞尿まみれで、自然ではなかったのであった。

 お花畑とでも言うように草花が競って咲き乱れる季節であり、エーデルワイスとかアルペンローゼとか、女性たちは山よりもそちらに目を魅かれてガイドの説明を聞きたがっていたが、わたしは花には興味がない。花のまわりあちこちに落ちている牛糞に興味があるのだ。おかしなことに、花を見る女性の目には糞は 見えないらしい。

 弁当を食うために座るときにも、糞を避けるのが難しいこともあるほどだ。遠目には緑でなだらかな草原も、近寄ってみるとボコボコだし段々状になっている。それはガイドによると牛の踏み跡だそうだ。日本の山岳よりははるかに傾斜のきつい山岳草原で、さすがに牛も足場を作らないと草をのんびりと食むのが難しいようだ。現に傾斜が余りにきついと、牛も入らなくて林になっている。

 そうやって、牛羊が草を食い糞尿を落としてまわり、その糞尿を養分としてまた草が生え花が咲き、また牛羊が食って糞をするという、数百年もつづいた循環の中で、この草原の牧場景観ができあがってきたのである。樹木が生えないのではなく、牛や羊が樹木を生えさせないように、つまりその飼い主の人間の牧畜農業がこの景観を作っているのであった。これは完全なる人工的な文化景観なのであった。自然景観ではないのであった。予想通りのことを、わが目で見て確認したのであった。


●人間の営みとしての牧場と棚田の景観

 生態学者の沼田真が述べているが、和辻が「牧場」をヨーロッパの本質的な風土のキーワードとして与えたのは間違いであった。咲いている花や生えている草は、牧畜によって喰われることに対抗しつつ、その種を保存してきたのであろう。発芽から成長の間に食われることに対応するには、草は「成長点」を表層の土や石ころよりも低くして、伸びる前に食害から逃れるのである。そのような草のみが、ここでは生きることができるのだそうである。

 雨量は600ミリ/年くらいだから、普通ならこのあたりは森林になるはずである。それがモミやトウヒを主体とする針葉樹がまばらに群生していて、草原が優先する景観となっているのは、牧場とするために人間が森を伐り開き草原とし、毎年毎年と繰り返す牛や羊の草食の結果によって、この景観が保たれているのである。

 もしも、牧畜をやめたらどうなるだろうか。標高によって異なるが、針葉樹ばかりではなく、シラカバやブナなどの落葉広葉樹が生えて森林になるはずである。現存植生に針葉樹が優先しているのは、多分、広葉樹の幼樹は牛羊に喰われるが、針葉樹は食われないためであろう。現に牛の入れない急傾斜地にはそのような広葉樹も見ることができる。

 こうして、草原に針葉樹の林が混じる典型的なスイスの景観が保たれることになる。そう、これは西洋版棚田である。人工的に芝生にしている点ではゴルフ場とも同じなのであるが、生産の場だから棚田と同じと考える方が良いだろう。

 スイスではあれほどまでに山の上まで牧場という生産空間にしているのに、日本では田畑を高山地帯まで作らないのは地形的理由だが、牧場にさえしないのはなぜか。あちこち文献などをつまみ食いしてみると、どうもそれは農産物の生産効率の違いの問題らしいのである。

 牧場で牛1頭を養って育てるには、草原が1ヘクタールは要るのだそうである。しかも1年ではその牛を食料にするほどに育たない。ところが米つくりの田圃なると、1ヘクタールあれば10人が1年間食える収穫が1年間でできる。生産効率が米の方が断然優位なのである。日本で無理して山岳の傾斜地で牧場を経営することはないのである。無理するなら棚田で米を作る方が良いのだ。そうやって山地に住む人々は棚田をつくったに違いない。

 ではスイスでなぜ棚田にして米をつくらないのか。それは年間雨量が足りないので、水生植物である稲は育たないのである。日本の雨量は平均1680ミリで、スイスの3倍 近いのである。それがもともと熱帯性の植物である稲を育てるのである。ヨーロッパから見れば、日本は熱帯の地なのである。

 そしてまた、この大量の雨量の日本でスイスのように山を禿山にしてしまうと、洪水に襲われる確率が非常に高くなるという問題もある。もちろんスイスでもその可能性は日本よりは低くてもあり、人造ダムもあるし氷河のカール湖 の天然ダムが洪水調整の役割を果たしていることを、現地に見ることができる。

 こうしてスイスの牧場は、日本では棚田になるのである。

●スイスに見る環境問題

 マッターホルンのふもとにある小さな盆地のチェルマットの町(村か)は、ガソリン車を入れない。鉄道も道路も通じているのだが、ひとつ手前の駅前でガソリン車の観光団体バスから降ろされて、荷物を手押し車で電車に運び、鉄道に乗り換えて入らされた。そのチェルマット駅につくと、駅前には馬車と電気自動車が待っていて、荷物はこれでホテルに運ぶ。小さな盆地だから人々は歩けばよいのだ。

 そうやって環境を守っているのである。人口3千人のこの街に年間120万人もの観光客が訪れるそうだが、観光パンフレットにはここが空気が清浄であることうたっていて、環境を観光の売り物にしているのであった。

 街並み景観は、原則として木造による外装をする建築協定があるらしく見えたし、その建築意匠も伝統的な木造ログハウスのデザインコードを引用した取り決めもあるに違いないと見えたのであった。これが街並みを特徴付けており、グリデルワルトやシャモニーよりも明確にその街並みの風景を思いだすことができる。

 ところで、その盆地には周囲の山々から流れ込む河があり、砂まじりの雪解け水がごうごうと波打って流れていた。飲料水は当然この河の上流からとっているのだろうが、考えてみるとまわりはみな牧場である。果たして水質は大丈夫なのであろうか。
 日本の山岳と比べるとはるかに傾斜がきついし、表土が薄いから、地下水にしみこむ糞尿の流れ下る時間が短いだろう。牛や羊の糞尿の量は制御されているのだろうか。

 インタネットで調べていたら、放牧の頭数を1ヘクタール当たり肉牛なら4頭、乳なら牛2頭以下の制限があると書いているものが見つかった。孫引きするには元の文もこのくだりの出典が分からないので確実ではないが、そのようなことがあってしかるべきである。

 さて牛や羊は制限しても、人間はどうなのであろうか。120万人観光客のほとんどは周辺の山を歩くだろうから、その糞尿もすごいように思うのだが、どうなのだろう。実際にあの山岳地帯を歩いてみた感じでは、これくらい雄大だと人間の影響なんてたいしたことはないようにも思えたが、正直言って分からない。

 ちなみに、日本人観光客が非常に多かった印象がある。なにしろホテルで持たされた昼の弁当が、タクワンつきの握り飯だったが、その日本式専門弁当屋が成り立つほどなのである。アイガーを眺めつつ握り飯を喰うというのも、妙な気分だった。

 氷河の後退が著しいことは、1865年にマッターホルン初登頂したウィンパーの著書にも書いてあるくらいだが、今はもちろん更に著しいそうである。グリンデルワルトから登ったあたりの雪渓の表面が、ピンク色を帯びているのである。ガイドに聞くとアフリカ砂漠から飛来する砂のせいだという。日本では中国から来る黄砂が、こちらでは紅砂というわけだ。これが氷河後退を促進する原因のひとつにもなっているだろうと思った。

 氷河を見たのははじめてだったが、それにしても形態と言い、規模と言い、異形の風景と言わねばならない。人を拒否するかのごときこれが本物の自然なのであり、 あまりの異形にわたしたちの身のまわりには本当の自然はあってはならないのかもしれない、とさえ思えたのであった。(2006/09/03) 

参照⇒◆「中山間地論」(まちもり通信:伊達美徳)
   ◆「まちもり通信」(「伊達美徳)

2021/10/13

toukyost20074hukko3 東京駅復興(その3)東京駅赤レンガ駅舎の復原が意味するもの

東京駅復興(その3)
東京駅赤レンガ駅舎の復原が意味するもの
伊達 美徳
(2007年)


●東京駅赤レンガ駅舎はなぜ重要文化財指定になったのだろうか

 2003年4月、東京駅赤レンガ駅舎を文化庁は国の重要文化財に指定した。その指定に関する文化審議会答申の報道発表資料のうち、当該部分を紹介する(文化庁サイトより引用)。

重要文化財指定(建造物)文化審議会答申 平成15年4月 文化庁
・ 文化審議会(会長 高階秀爾(たかしなしゅうじ))は,4月18日(金)に開催される同審議会文化財分科会の審議・議決を経て,新たに,8件の建造物を重要文化財に指定するよう文部科学大臣に答申する予定である。
 この結果,近日中に行われる官報告示を経て,重要文化財(建造物)は 2,238件、3,806棟(国宝を含む)となる予定である。(中略)
・今回の指定の意義・特筆すべき事項
 今回新たに指定される建造物(予定)のうち,東京駅丸ノ内本屋(ほんや)は,首都東京の中心に位置し,「赤レンガの駅舎」として国民に広く親しまれてきた歴史的建造物である。煉瓦造による建築としては最大級の規模を有し,わが国の明治・大正期を代表する建造物のひとつである。
 今回の指定は,都市再生が進みつつある中心市街地における歴史的建造物の保存活用のあり方に,新たな方向を示す画期となるものといえる。(中略)
・名称:東京駅丸ノ内本屋 棟数:1棟 種別:近代/その他
・所有者:東京都千代田区 東日本旅客鉄道株式会社
・特筆すべき事項:煉瓦造で最大規模,首都東京を象徴する建築
 東京駅丸ノ内本屋は,皇居から東へ一直線に延びる通称行幸通りの正面に位置している。明治41年3月25日着工,大正3年12月14日に竣工した。設計は辰野金吾で,辰野葛西事務所によって実施案がまとめられた。南北折曲り延長約335mに及ぶ長大な建築で,中央棟の南北に両翼を長く延ばし,建設当初は,地上3階建であった。建築様式は,いわゆる辰野式フリー・クラシックの様式になる。東京駅丸ノ内本屋は,わが国鉄道網の起点となる停車場の中心施設であるとともに,明治の市区改正計画に基づき建設された首都東京を象徴する貴重な建築である。煉瓦を主体とする建造物のうち最大規模の建築で,当時,日本建築界を主導した辰野金吾の集大成となる作品として,価値が高い。
・指定基準=意匠的に優秀なもの,歴史的価値の高いもの。
(以下略)』

 この指定名称は鉄道事業者流の「東京駅丸ノ内本屋」としているが、ここでは通称の「東京駅赤レンガ駅舎」の言い方で通すことにする。
 このような建築物の重要文化財は、文化財保護法にもとづいて文化庁に設置している文化審議会が答申することで国が指定する。
 指定の基準は、建築物、土木建造物及びその他の工作物のうち、次の各号の一に該当し、かつ、各時代又は類型の典型となるもので、(1)意匠的に優秀なもの、(2)技術的に優秀なもの、(3)歴史的価値の高いもの、(4)学術的価値の高いもの、(5)流派的又は地方的特色において顕著なもの、となっている。
 東京駅赤レンガ駅舎は、このうちの(1)意匠的と(3)歴史的の基準を満たしており、かつその時代又は類型の典型となる建築物として、重要文化財指定にしたというのである。

 この東京駅赤レンガ駅舎の歴史的価値とは、どのような点なのか興味深いし、その他の(2)技術的や(4)学術的あるいは(5)流派的又は地方的特色に当てはまらないとしているところが、なぜそうなのかも興味深い。
 そこで文化審議会がこれを答申するときの文化財分科会でどのような審議されたのか、審議会議事録をみたいので、文化庁ウェブサイトの中を探したが、議事要旨として議題に毛の生えた程度のものしかない。

 仕方ないから文化庁担当官に直接に電話で聞いたところ、文化審議会は秘密会となっているので正式議事録は公開できないとのことで、情報公開請求にも応じられないとの回答であった。
 文化審議会とは、そういうものなのであるかと、なにか不思議である。そうなれば勝手に類推するしかない。

 指定答申に解説的に書いてる文を読むと、『「赤レンガの駅舎」として国民に広く親しまれてきた歴史的建造物』とまず歴史的な評価をしていることに注目する。
 広く親しんだ国民とは、主として今生きている国民のことだろうとおもうが、その親しんだ赤レンガ駅舎とは、もちろん現在の形態を言っているに違いないだろう。

 『今回の指定は、都市再生が進みつつある中心市街地における歴史的建造物の保存活用のあり方に,新たな方向を示す画期となるもの』とする一文にも、現代都市の中で保存活用の新たな方向を示すとしているのだから、これまでのような復原保存一点張りではないぞ、と、読んでも良いだろうか。

 しかし後段になると、市区改正、辰野金吾等と建設当初のことばかり書きつらねて歴史的価値を述べるのである。戦後の改造のことは、『建設当初は,地上3階建であった』とこれはまた実にあっさりしたもので、何の歴史的評価も与えていないのである。あれほどの大事件の成果に一顧だに与えないのも不思議といえば不思議である。
 実際の審議会ではこの戦後改修についてどう考えるのか意見がでたのであろうか。

 2003年の初め頃には、多分、復原方向がほぼ決まっていたと前後の諸事情から推定できるので、復原を前提にして重要文化財指定することにしたのだだろうと、これも推定するのである。
 このあたりがよく理解できないのだが、もしも復原前提での重要文化財指定もあるとすれば、復元する三菱一号館についても重要文化財指定をするのだろうか。
 とすれば京都三条の元勧業銀行ビル(もとの様式建築と外観をそっくり建て直した)もそうすることができるのだろうか。

 なるほど考えようによっては、昔あった建物のコピーでも、歴史的景観を保全しあるいは創造するので意匠的価値も同じだから重要文化財なのだろう、と、ムリヤリ思うのも何かがおかしい。
 栃木県に時代村という娯楽施設があるがあれも文化財の端くれになるか、東京ディズニーランドも大阪のUSJもそうなるかもしれない。それはそれで面白いが、さすがにこれは可笑しい。

 東京駅赤レンガ駅舎だって、3階から上はコピー建築になるのである。重要文化財としては現在の形態で指定したのであるから、3階を復元するには重要文化財の改変となる。
 それには文化審議会のOKが必要だが、いつそれを通したのだろうか。そのときの審議会の議事内容も知りたいが、知りようがない。

 1947年修復の東京駅赤レンガ駅舎よりも新しい建築が重要文化財になる時代だから、今の形態のままで重要文化財であることに何の不思議もないはずだが、そこのところは審議会委員はどうお考えだったのだろうか、聞いてみたい。(20071212記)

●復原にあたって戦災からよみがえった現赤レンガ駅舎をどう評価したのか

 東京・丸の内にある東京駅の、赤レンガ駅舎復原工事が始まろうとしている。正式には2007年5月30日に着工したそうだが、まだ現物の調査と地下工事をしているとかで、外には囲いもしてないから目には見えない。
 もうすぐすっかり覆われるのかもしれないから、2つの大戦記念碑としての貴重な現在の形は、そろそろ見納めになる。ああ、日本の悲劇の重大な記念碑が消える、もったいないことだ。この親しんできた姿を今のうちによく観て記憶しておきたい。

復元と決まった2007年夏の東京駅丸の内駅舎

 2007年7月10日に、『丸の内駅舎の復原と東京駅周辺整備計画』と題して田中正典さん(ジェイアール東日本コンサルタンツ㈱)の講演があり、聴きに行った。
 東京駅の歴史から順に説き起こして、復原工事にいたる過程を丁寧に、淡々と説明していただいた。興味ある話の中で特に印象として残ったことは2つあった。

 ひとつは、柱型のキャピタルやエンタシスの説明で、「3階のキャピタルを2階に付け替え、エンタシスを作り直すなど、仮建築とは思えないほどに実に丁寧に作り直しているのです」と評価されたことである。
 田中さんの本音か思わずであろうか、わたしが言っているように、これは仮設と口ではいいながら実は本格的な設計であったことを漏らされたのであった。

 もうひとつは、「現在の形態が戦後の永きにわたって親しまれてきたので、その形で保存せよという意見が出るかと思っていたが、それはほとんどなかった」ということだった。
 この「意見が出る」とは、一般市民からの意見(わたしの意見だが)も含むのか分からなかったが、少なくとも伊藤滋委員会は復原ありきだったことが分かった。
 へえ~、そういうものなのか、と、ある種の不思議な気分になっている。現況保全の意見を唱えるわたしは、よほどの変わり者なのだろうか?

 この講演会で、北大の越沢明さんが会場から、設計者の辰野金吾ばかり持ち上げているようだが、この東京駅の実際の事業者である当時の鉄道院総裁・後藤新平にはどう評価を与えているのか、と指摘があった。
 わたしとしては、戦災復興当時の実際の設計者である鉄道省建築課長・伊藤滋(同姓同名の都市計画家・伊藤滋氏と間違えないように)を、どう評価しているのだろうか、と言いたい。JR東日本や関係委員たちは、建築学会会長も勤めたこの国鉄の大先輩建築家に一顧だに与えないで、ただただ辰野金吾さまさまなのか。どうも解せない。
 現駅舎とその設計者を評価する気配がないようだから、わたしがこれから書いておくことにする。(20070712記)

 :この稿はつづきを更に書く予定の未定稿である。特に、保全か開発かで議論して、保全するという大きな方針を決めた1985年の八十島委員会の議事録までさかのぼって論考しようと思っているが、7年経ったいまだに手がつかない。そろそろ書かないと、ボケが進んで書けなくなりそうだ(2014年7月16日)

参照:東京駅復興(その1)空爆廃墟からよみがえった赤レンガ駅舎
   東京駅復興(その2)よみがえった赤レンガ駅舎の評価は(2007)
   【東京駅復元反対論集

2021/10/12

tokyost2007hukko2東京駅復興(その2)よみがえった赤レンガ駅舎はどう評価されてきたか

東京駅復興(その2)
よみがえった赤レンガ駅舎は
どう評価されてきたか
伊達 美徳
2007年

●赤レンガの東京駅舎はどう評価されてきたか

1.建築あるいは景観保全への視点が未だない時代

(1)修復直後の頃の評価
 1947年3月15日をもって、国鉄としては東京駅丸の内赤レンガ駅舎(以下「赤レンガ駅舎」という)の修復工事が一応の形を見せたとして一段落しているが、それで終わったのではなかった。
 というよりも、それ以後も間断なく修復工事が続いているのが実情であるといってよい。そして今、その大きな区切りの計画として、復原工事開始となっているのである。

 1947年から今の時点まで、赤レンガ駅舎は70年代半ばまでは存続が話題とならずむしろ改築が話題となったが、70年代後半から存続が世間的な話題となってきて、戦災から修復した赤レンガ駅舎の評価を問われてきた。それは戦後日本の経済、社会そして思想の動きを反映しており、まことに興味深いものがある。

 まずは、修復中と直後の頃のジャーナリズムの記事を見よう。
 1945年10月5日読売新聞東京版は、「東京駅戦災の姿」の出だしで、空襲で屋根がなくなった航空写真(ライフ誌提供が時代をあらわす)を掲載している。同紙は1946年7月11日に「東京駅回想へ頼もしい援軍」として、進駐軍がクレーンとブルどーザーで応援してくれたことを報じている。大林組が苦労して3階部分の撤去を手仕事でやっているがはかどらないので、アメリカ式の重機を持ってきてくれたのである。

 1946年2月8日朝日新聞東京版は、「二階建てになる〝暫定東京駅”三月頃から着工」と題して書いている。
『・・近代ルネッサンス式建築の昔なつかしの形に復旧せよとの要望もあったが、運輸省の方針は根本的な新建築に決定、それにとりかかるまでの暫定的な修理をすることになったもの。・・・なほ、本格的な新建築はまづ現在の操車場を順次尾久、品川に移しホームの新設工事等をすすめつつ今後五年位の内に現在の乗降両口を残して中央部を断ち切りその跡へ近代的本屋の新築工事を始める予定だ』
 この戦争直後の国鉄からの情報は、おそらく戦中から練られていていた計画だろうが、その後の各種の動きを見ると、この方針は少なくとも1980年代半ばまでは、国鉄において公式に維持されていたと思われる。

 これにそって1946年11月には八重洲口整備を行うことが報道されて、外堀に面していた操車場の移転が始まり、外堀を埋め立てて、1954年には八重洲の鉄道会館と駅前広場が完成、以後、丸の内側の計画が取り沙汰されるのである。

 1948年11月14日の朝日新聞東京版に「面目を一新の東京駅 九分通り完成」との見出しで、赤レンガ駅舎とともに八重洲にも便利になったことを報じているが、赤レンガ駅舎について特に論評はない。

 1949年10月22日朝日新聞東京版は、「完成はいつの日か 金づまり・東京駅〝新装〝」として、
『・・・都の表玄関東京駅は9分通り出来上がった、明るく高い丸屋根、見上げるばかりの六角柱(今のところコンクリートの生地のまま)・・いずれも昔以上の豪壮さだ。・・・』
と、内部を褒めている。

 専門家の論評は、建築家の薬師寺厚1948年に述べている。
『復興工事のでたついでに、東京駅についても一寸ふれる。未だ完成していないが内部はさっぱりしていって仲々よいと思ふが、外部は3階をこわしたため全体のプロポーションがくずれてやりにくかったと同情するし、木構造という点で制約もあったろうが、両側のドームは何だか恐ろしく不愛想な恰好をしてゐる。もっとうまいやり方があたろうにと思われる。辰野博士の大作だが日本銀行程傑作ではないから、それ程腹が立たない。』(公共建築の動向『新建築』1948年5月号)

 伊藤ていじ著「谷間の花が見えなかった時」(1982 彰国社)は、1914年竣工の東京駅の設計に、辰野金吾のもとでたずさわった松本與作の評伝である。このなかに赤レンガ駅舎に関する次のような記述がある。
『・・・松本與作が傍らで見ていて、辰野金吾が最もデザインに苦労したもののひとつはドームの部分であったという。実際のところドームは、中央停車場の最大の見どころであったことは、誰の目にも明らかであろう。しかし残念なことに今日の東京駅のこのドームはなくなり、見るも哀れな屋根になり果てている。しかし資材も払底し応急処置を施さなければならなかった敗戦直後にあって、これ以上よい名案があったとも思えない。ただこの仮屋根は木造で今その寿命は来ている。』

 ここまでは、建築史家の伊藤ていじの論である。そして次のように続く。
『そしてこの仮屋根で補修された直後のある日、国鉄ビル内の窓から松本與作と国鉄技師の伊藤滋とは東京駅舎を眺めわたしながら、こう語りあったものだ。「いやになっちゃうね。変な格好になってしまって。」・・・』
 この言葉の時期も不明だし、言ったのが松本か伊藤かわからないが、松本ならば修復デザインにそれなりに努力した伊藤には辛らいものがあったろうし、伊藤滋ならば原設計者の松本與作にはこういうしかなかっただろう。

(2)1958年東京駅改造計画
 
東京駅平面計画の変遷」(川栄一郎「東工 18巻-1号 1965?」)と題する論文ががある。それによると、1938年頃より軍事上の観点から東京下関間に、いわゆる弾丸列車計画が始められており、これが新幹線の元になり、東京駅改造計画の元になっている。戦前に一部は用地確保もしていた。
 この弾丸列車の東京のターミナル案は、東京駅、新宿駅等の数案が検討されていた様である。それは都市計画上の課題とともに、防空上、特に皇居との関係が議論されていたらしい。

 敗戦により計画は一時中断していたが、1956年ごろから検討が再開し、『丸の内本屋の改築も含めて東京駅の将来構想が議論されるようになり、数多くの案と多数の会議が重ねられた』(東京駅の計画の変遷)。16案ものなかに、丸の内本屋を24階にする案もあった。

 この案の詳細は、「東京駅の将来計画 主として問題点について」と題する論文で、国鉄東京工事局建築課長の井原道継の名で発表されている(雑誌「鉄道建築ニュース」1958年8月号)。ここには八重洲側も含めての壮大な改築計画案が提案され、なかで丸の内駅舎は24階建ての超高層ビルとなっている(下図)。

 これについて「鉄道建築ニュース」1977年7月号に関係者の座談会がある。十河信二国鉄総裁(新幹線の生みの親、在任1955~63年)の命で、新幹線ターミナルの検討に関係して東京駅改造計画づくりをしており、丸の内駅舎の建替えも描いたという。24階という階数は、八重洲鉄道会館が12階なので、その倍にせよと十河が言ったのだそうである。

 当時は超高層技術は日本には未だない時代だったから、この24階についての技術的裏づけのために、武藤清(東大)や小林啓美(東工大)などの建築構造専門家による研究をしたが、それが基礎となり日本の超高層建築第1号の霞ヶ関ビルとなり、今日の超高層建築へと来た画期的なことであった。赤レンガ駅舎は思いもかけず、日本の超高層建築を生み出したのだ。

 これに見るように、この時代は赤レンガ駅舎は建て直すことが当然のこととして考えられており、この建替え計画が一般ジャーナリズムに話題になることはなかったのである。超高層建築計画が話題になりそうなものだが、それは当時としては専門家だけの世界のことだったのだろう。世間では、新幹線計画(1964年開通)が話題であった。

 国鉄は1959年に東京駅を新幹線ターミナルに正式に決定し、これのよる東京駅改造計画案の検討の結果、丸の内駅舎は八重口と同じように高層ビルに建替えることにしたのであった。

(3)1966年丸の内美観論争
 
主として八重洲側の大きな改造が続き、1964年に新幹線が開業した。丸の内側では総武線と横須賀線の乗り入れの地下駅が1968年に始まるが、その上の赤レンガ駅舎はそのままにされた。
 これは赤レンガ駅舎の改築計画が明確でない中で、急がれた地下駅工事を優先させたためであった(十楽寺嘉彦の話「東京駅を語る」座談会「鉄道建築ニュース」1977年7月号)。

 1966年10月に丸の内の保健会社東京海上火災が、皇居前広場に面する東京海上ビルを30階建て127mの超高層に建て直す建築計画の確認申請を東京都に出した。
 これを契機にいわゆる「丸の内美観論争」が起きた。もちろん突然のことではなく、その前から話題にはなっており、東京都と東京海上の間で事前に超高層は困る、いや建てたいのやりとりが決裂した上のことであった。

 東京駅そのものは話題にはならなかったが、このときからようやく街並み景観が世の話題となり、建築保存もその中でとりあげられるようになったことを注目したい。
 東京海上ビルの超高層は紆余曲折を経て、100mの高さで1974年に実現した。以後しばらくは丸の内地区の建物の最高の高さは100mとするコードが、2003年の丸ビル改築で破られるまで存在した。

 この美観論争で、丸の内は超高層もあるべきとする都市改造推進派(主として建築界、進歩的文化人)と、それまでの31m軒高のそろった静的景観保持派(主として保守的文化人、保守系政治家、丸の内の大地主である三菱地所)、皇居を見下ろすなと時の首相まで乗り出してきて、派手な論争があった。特に建築系は「建築の自由」を唱えたのであった。

 この論争の中であぶりだされてきたのが、建築保存問題であった。ちょうど論争中に帝国ホテルと三菱1号館が、識者と建築学会の反対の声はあったが、さほどの世間的話題にならないままに取り壊されたこともあった。
 まだまだ、世の中は景観や建築保存が潮流とはならない時代であった。建築関係者の認識も未熟な時代であり、後の建築保存の論客となる村松貞次郎(東大)は、『美観は亡霊である』あるいは『わたしは新しい丸の内地区の景観を期待する』と、誤解を招く言葉を書いている(「雑誌「国際建築」1966年12月号)。

 また、当時の気鋭の建築評論家の浜口隆一は、丸の内には『文化財として保存しなければならないほどの建物は残っていないのである。これについては建築史家たちの意見もはっきり表明されてきた』とまで書いている有様である(「建築年報」日本建築学会1967年)。
 その故かどうか、その後、第1銀行、勧業銀行、野村ビル、三菱銀行等の近代の名建築が取り壊されたのだった。

 もうひとつあぶりだされたことは、「都市景観」である。ここで「美観」といわれる理由は、そのときの法律論争に「美観地区」がとり上げられたことによる。
 超高層建築の高さが論争の話題となった理由には3つのことがあった。
丸の内地区の軒高のそろったスタティックな街並みを維持するべき(一般論)
②皇居を見下ろすような高層建築は避けるべき(当時の佐藤栄作首相が言い出したようだ)
超高層建築によって不動産市場を乱すのは困る(これは公ではないが三菱地所の立場)

 これらのうち①は一般論としてごく普通に登場することである。ヨーロッパ近代都市をイメージしたまちづくりは、三菱地所によって営々と築かれてきた結果である。
 は、私の推測だけではないが、当然に三菱地所としては築いてきた丸の内ブランドの街並みの価値を超高層建築が乱すことを快しとしなかったろうし、今後このような巨大面積オフィスがいくつも登場すると不動産価値が下落すと予想したかもしれない。不動産業としては当然のことである。

 に関しては、保守派の中ではだれもがそう思っていたが、表向きは言い出せなかったらしい。東京海上側も気にして、宮内庁にお伺いに出かけて、差しつかえないという返事をもらったという。
 ところが10月に西村建設相が慎重論を述べ、これの裏には佐藤首相が皇居見下ろし反対を言ったらしいが、これでにわかに政治的様相を帯びてきた。
 建設省の官僚は、建築界の立場で超高層推進方向で指導していたが、高さ規制せよとの首相そして大臣のお言葉で、突然に方針転換を迫られ慌てふためいたのであった。

 そこで持ち出したのが古証文「美観地区」であった。実は戦前にこの美観地区指定をした理由が、当時の桜田門に新築中の警視庁の庁舎が皇居を見下ろす高さだとして、丸の内地区の高さ規制をかけたといういわく因縁によるのだから、歴史は繰り返したのである。ちなみに、戦前は警視庁が建築行政をしていた。

 その高さ規制は、戦後は条例によることに変っていたが、都には美観条例がないままにきていた。では、美観地区条例をつくろうとなってどたばたしたのが、美観論争といわれる元である。結局、条例はできなかった。
 しかし、美観の名で都市景観が、そして皇居との見る見られる関係で語られたことは、その後の都市景観づくりにもたらしたものがあったといえよう。
 各地の自治体で「景観条例」を定め、法律にも「景観法」ができ、東京駅さえも重要文化財となった今の時代から見ると、1970年代前半までは日本は若い時代であった。

2.1977年東京駅改築・保存論争

(1)赤レンガ駅舎保存論が一般ジャーナルに登場
 1977年3月16日、美濃部都知事が高木国鉄総裁が会談して、国鉄の提案する東京駅と丸ノ内一帯のオフィス街の再開発構想に賛意を示したことが報道された。この中に東京駅丸ノ内本屋(赤レンガ駅舎)の建替え計画もあって、保存と建替えに関して保存と改築の論争が、建築だけでなく一般ジャーナルにも登場した。

 これまではなかった一般のジャーナル紙にも保存論争が登場したのは、外国人記者の指摘に端を発しているようだ。1977年4月20日に美濃部都知事が外人記者クラブでのスピーチに赤レンガ駅舎改築に触れたところ、外国人記者から「東京駅の赤レンガ駅舎は震災などをくぐりぬけてきた東京の名所。取り壊してしまうのはいかがなものか」と知事の真意を尋ね、知事が一瞬、言葉に詰まりながらも「非常に惜しい建物なので、明治村に再生するなど、何らかの形で保存したい」と答えた。その記者は更に「明治村には明治がいっぱいあるが、東京にはひとつしかない」と追い討ちをかけて、都知事は苦笑するばかりで「むしろ皆さんの意見を聞きたい」と頭を下げた(1977年4月21日読売新聞東京版)。

 5月11日の読売新聞には、小金井市の市長が保存するから東京駅を引き取ろうと、提案したことが載っている。ただし、お金の裏づけはない。この記事の中に、東京駅建築の文化財的な評価について、文化庁建造物課の見解が書かれているのが興味深い。
『・・「今の駅舎は戦災などで当初の設計と違ってきている。原型は明治時代の洋風建築としてすばらしいものだったろうが、、。文化財として評価する場合、移転保存した時に復元できるのがポイント」と微妙な言い回し』
 この考え方は、今も変わらないようで、現在すすめている復原計画もこの線上にあるのだろう。つまり、戦後の60年を超える歴史は文化庁のいう文化にあたらないというわけである。

 建築系の雑誌に東京駅特集がいくつか組まれて、建築系(歴史、設計、評論、構造)、鉄道系、そのほか有識者たちが入り乱れて、改築派と保存派に分かれての論争は、はじめて華々しいものとなった。

 だが、この年の11月には、有楽町駅前の東京都庁舎の移転検討が始まり、さっそくに保存論争が起きたが、これは建築界の中の小さな嵐であったようだ。丹下健三設計の戦後の名建築は簡単に壊されてしまった。戦後建築は特に保存の対象とはみなされていない時代だった。

 1977年5月29日読売社会面に、「古典ビル解体「待った」 文化庁が保存調査会…」と出して、東京駅の問題をきっかけとして文化庁は「近代建築保存対策調査・研究会」を設けて、これまで文化財行政の枠外にあったものの保存対策をすすめることになり、登録文化財制度の新設も考えられていると報道している。

(2)1977年東京駅論争保存派の意見
 
この年に出ていたいろいろな意見を整理してみる。
・資料<A>:日経アーキテクチェア77年8月8日号特集
 「東京駅(丸の内本屋)赤レンガが物語る栄光と悲劇」一東京駅再生をこう考える
・資料<B>:雑誌「鉄道建築ニュース」77年7月号、11月号
・資料<C>:雑誌「新建築」77年9月号特集「東京駅を考えよう」

稲垣栄三(東京大学教授・建築史学)<A>
…建て替えは蔀市の個性失う;見出せ、建築の価態再生法・・・
・手狭ま、機能が果たせなくなったという理由で取り壊すのは納得できない。
・東京駅は現代建築の持たない古典的な壁面構成や装飾を伝え、東京の玄関として大き な役割を果たしてきた。建て替えは都市の個性を失わせる。
・将来的に要求される機能の付加は広大な敷地全体の中で解決し、同時に明治大正建築 の遺産を継承すべきだ。
・我が国の建築家も今まで欠けていた、古い建築のカチを再生する手法の定着に知恵をしぼるべきだ。

稲垣栄三「東京駅再生の論理」<77年4月21日朝日新聞文化欄>
○古くなったから建て替えるという主張は必ずしも納得できるものではない。
・本当に「機能が果せなくなった」のかどうか
・仮に機能上有効性を失ったとしても直ちに取壊して建て替えることに結びつくか。
○駅本屋の果たす役割は、大量の旅客を適切にさばく(内部の横能性)だけでなく、都市の玄関としての性格(外観上の特性)をもち、これらを切り離すことはできない。
・赤レンガの東京駅もそういう意図でたてられた。旅客をさばく機能は地下通路に委ねた。○東京駅は巨大なゲートでありつづけるものだ。
・駅本屋は3つの口を開いているだけで、実際的な役割は巨大なゲートである。
・この機能の単純さの故に生きのぴてきたといえる。
・東京釈に今後さらに複雑な役割が課せられるとしても、大量の旅客を飲み込みはきだ すゲートとしての役割は依然として主要な任務である。今の東京釈はそれに十分耐えられるだけでなく、これ以上堂々とした玄関を望むことはできない。
○欧米で過去の遺産を現代都市に生かす試みが盛んにおこなわれている。
・古い建築の機能牲が失われたとき、取壊すのでなく、生活から隔離して文化財として保存するのでもなく、今の都市機能の中での古い建物のもつ多面的な意義を見出だし、それを今後の都市機能の中に積極的に活かそうという考えに基づいている。そこには、機能的な建築が都市を無性格無表情にしたことの反省、建て替えの繰返しが都市の歴史の積層牲を失わせることへの危機感がこめられている.
・形骸だけの保存でなく、もつ意味を探り、現代生活のなかに位置づける努力を伴う点で、歴史的遺産の正しい継承であり、遺産に対する現代の対応のしかたとして、今後どの国でも採用される普遍性を持つ。
・現実の要求の前に直ちに古いものの取壊しを考えるのは、最も安易で拙劣な方法で、都市の歴史への配慮を欠いた軽率な行為といわなくてはならない.
○都市の論理で保全せよ.
・将来東京駅に要請される複雑で影大な機能は広大な敷地全体の中で解決されるべきだ。
・戦前の駅には、都市の特色を考慮した愛すべき建物がいくつかあった。
・いまは新幹線の画一的駅舎のように、そうした配慮は見られない。
・駅はその都市のなかにとけこむべき公共建築の一つなのだ。
・国鉄は自己の論理だけでなく、ある部分では都市の論理に従わなければならない。

黒川紀章(黒川紀章建築・都市設計事務所長)<A>
・硬直的な保存論には疑問も;財団作りなど具体策必要
・なるべく保存したほうがいい。
・東京駅はいろんな意味で人々の記憶の中に生きており、その記憶性が他と比べて非常に大きいことは、保存を考える上で無視できない。
・保存とはすぐれて創造的行為である。保存といっても、文化財のような完全保存から外壁保存などを経て最少限の記録保存に至るまで、色々な方法がある。
・あまり硬直して考えると、「保存」がかえって定着しない。
・本当に保存が必要なら保存財団でも作って、建物所有者に協力するなど具体策を講じないとかけ声倒れにおわる。
・市民レベルで保存を考えている米国の例にもっと学ぶべきだ。

④長谷川尭(武蔵野美術大学助教授 建築評論家)<「保存についてちかごろまた考えること」雑誌「新建築」77年10月号>
・赤レンガの駅の基本的性格は「皇居駅」であった。
・東京駅が、鉄道線持と皇居を凱旋道路で結ぶ軸線上に配置された都市デザイン的施設であり、皇居の空間と駅舎とは切り離すことのできない一対の都市意匠として構想され実現されたものであることを抜きに議論することはできない。
・視点が駅舎の側にひきつけられすぎた論が多いようだ。
・時代が変わり、社会的価値体系が変わったといって、かつての時代が真剣に取組んだ建築や都市的スケールの空間の定着を破壊してよいということはない。
・皇居と東京駅をむすぶワン・ペアの都市空間をどうすべきかについて、時間をかけて討議しなけれはならない。
・できるものなら東京駅は残したい。駅舎の老朽化については、徹底した改修補強を決意すれば、現代建築として新たに更生させることもそれはど難しい課題ではない。
・問題は、決断とそれを支える金の手配に尽きるだろう。

⑤磯村英一<77年4月13日読売3面「東京駅周辺を守れ」>
・都と国鉄の勝手な再開発許すな…
・東京駅は、他の一般の駅と建って、日本のシンボル的存在だ。都民だけでなく、多くの国民が東京駅を通ることで、日本=東京を意識してきたことが、被害を受けながらも維持されてきた支えとなっている。交通のためだけのものではない。
・“日本のひろば”である東京駅と周辺の空間が、国鉄と東京都の財政危機対策を背景として方向づけられるのは、日本のために不幸である。

⑥外国人新聞記者<77年4月21日読売社会面>
・明治のにおいなぜ消すの?:大改造プランの東京駅:
・外人記者団が猛追及:美濃部さんタジタジ…

⑦デービッド・ハウエルズ(建築家)「東京駅・丸の内を守ろう」<77年5月11日読売文化欄>
・威厳と緑の空間:再開発は八重洲の二の舞・・・
・近代悲劇の見本、八重洲側 ・由緒ある血筋の東京駅
・三菱の高層化が招くもの ・リバプールストリート駅も危機に
・建築家がなぜ反対しない?

⑧伊藤滋(東京大学都市工学科助教授)「都市計画と東京駅再建問題」<B>
・保存するなら外観は復原せよ。
・改築してより良い建築ができるなら丸の内全体を考えてコンペを行え。
・保存して低容積の犠牲分は、八重洲側等に容積移転して補償する方策を考えよ。

(2)改築派の意見
①国鉄の見解
ー国鉄の基本的考えと姿勢一岡部達郎・国鉄建設医局長に聞く<A>
○全面的建て替え構想を打出した理由、狙い
・手狭になり利用客に不便になっているので一新して良好なサービスが提供できる駅に。
・丸の内本屋は乗降客1万2千人を想定した設計で、もはや限界。
・東北新幹線のため3本のホームが必要で丸の内側の線増も必要。
・以上から、「全面的建て替えしかない」というのが基本的考え.
○丸の内本屋を保存すべきだという声にたいして
・原型をとどめないので国鉄としては保存する価値があるのどうか疑問。
・保存する価値があるかどうか、将来計画とどう調和させるか、各界の専門家、国民各層の意見を十分意見をきいていきたい。近くそのための委員会を発足させたい。

②角本良平(元国鉄、交通評論家))<A>
・駅とは何かの考察を深めよ.再生実現は100年先の問題…
・保存にしても建て替えにしても、そもそも駅とは何かという本質的な考察が必要だ。
・東京駅のような中央駅の場合、乗降客を適切にさばく機能だけを十分備えた駅であること。
・乗降客がどの程度増えるかによるが、防災安全牲の観点から決めるべき。
・大事業であり早くて10年先の問題として腰をすえてえて取組むべきだ。

③武藤清(東京大学名誉教授・建築構造学)<A>
・原形のまま残っていないので、そのまま保存するのはうなずけない。
・近代的デザインと技術を駆使した立派な駅を作ったほうが良いのでは…。
・まず建物の耐力、安全性を総合的に調査しその結果を踏まえて検討すべき。

④太田和夫(前・鉄道建築協会会長)「東京駅改築論議」<B>
・保存はemotionalな郷愁に過ぎない。
・現駅舎は不便だし、一時しのぎ修復で危険だし、維持管理が大変。

⑤幸 圀夫(国鉄本社施設局建築課)「東京駅は保存すべきか」<B>
・丸の内本屋をこれ以上固定してゆけば東京駅の将来計画は、輸送の問題も含めてきわめていびつな形ですすめていかざるを得ない。
・現在の建物は傷んでおり維持管理が大変であり、これを外部の人が保存せよというのは身勝手というものだ。
・東京駅の文化的価値はほとんどなくなっている。現実を踏まえて改築か保存を決めよ。

⑥丸山昭治(国鉄東一工・調査課)「東京駅、きのう、きょう、あす」<B>
・駅本来の機能が低下している(輸送、接客施設、南北通路、応急修理、防災)
・周りの構想亜kでシンボル性が低下
・耐力に限界があり保存できない
・空襲で焼けて修復後は形が変わり建築史的に価値は議論が分かれる

(3)その他
①一般からの投稿意見
<C>(新建築5月号で「東京駅を考えよう」と投稿を呼びかけたのに対して20点の応募あり)
・解体派(6点)、保存派(12点)、中間派(2点)

②国鉄内部からの多様な声「東京駅を考えよう」<B>
国鉄の建築関係者45名からの一言寄稿を載せているが、それらの意見を分類すると、改築賛成は19名、改築反対は17名(そのうち復原保全は3名、現形保全が14名)、いずれともつかないもの9名である。

③朝日新聞コラム<77年6月21日朝日1面(天声人語)>
・復元論にも、はやりの超近代化建築にも疑念がある。

・国鉄は、建築家や利用者と議論を重ねて、第三の道をさぐるべきだ。

④小金井市長<77年5月1日読売都民版>
・東京駅移しちゃおう:ソックリ小金井公国へ:
・大音楽堂や美術館に:金がかかりすぎるのが難点ですが…
・小金井市長が「壊すなら、是非都内での保存を」と、国鉄と都に働きかけ予定

(4)77論争のまとめ
 
国鉄関係者を中心とする建替え推進側の理由は、次の2点に絞られる。
・現状は仮設的な修復で機能、構造、設備ともに危険である。
・建物の文化的価値は戦災から修復で喪失している。

 国鉄は建て直し方針を内部決定しており、赤レンガ駅舎の存在をわざと貶めていた気配がある。「3、4年程度もてばよい仮設」だったから、駅の機能、建築構造、建築設備に限界が来ており、そしてついでに辰野金吾のデザインを改修したので意匠的にも駄目というのである。

 1958年に、国鉄が丸の内赤レンガ駅舎の建替えから八重洲側も含めて、東京駅の大改造構想を世に発表したあたりから、その後にもくり返し起きてくる改造建替論議のたびに、そのキャンペーンにこの赤レンガ駅舎4大ダメ論を振り回して、改築やむなしとしてきている。
 2007年の復原改修計画が進んでいる現時点から見ると、その論理は崩れたのだろうか、それとも建設技術の革新がそれを克服したというのだろうか。

 一方、国鉄の全面建て替え構想に、丸の内本屋の保存の観点から共通してなげかけられる疑問は、「古くなった、現状に合わなくなったといって、すぐ取壊しに結びつけていいのか」という点である。
 また、古い建築物を何らかの形で保存、あるいは再生利用する意義の中で、特に東京駅の場合特筆すべき点として、非常に多くの人々に長年親しまれてきたことによる、愛着性、シンボル牲、記憶性といったものの重要さが、共通して指摘されている。この点は、建て替えを擁護する意見のなかにも多く指摘されている。

 一方、建築学上の、あるいは芸術的な価値の評価については、現在の形、創建当時の形、あるいは創建のいきさつなどについて、様々に意見がわかれ、どのように保存するかは、時間をかけて十分検討する必要あり、という点でのみ一致する。

 注目すべきことは、国鉄のオフィシャル方針としては建て替えが決まっていたにもかかわらず、内部の建築関係者に復原あるいは原型保存の意見が、数多く出ていることである。
 しかも、この後に復原に決まるのであるが、この時点では現形保全派が多いことが興味深い。これは、それなりに修復された赤レンガ駅舎が、見慣れた形として評価されてきたことを意味すると見てよいだろう。

 建て替えの理由となっている機能面安全面については、やろうと思えば古い建物でも補強などの対処の方法はある、と指摘されている。これは技術革新によって可能になったことが現段階では証明された。

 また、東京大学の伊藤滋氏は敷地を超える容積移転方法での保全策を提案しているが、これも伊藤自身が音頭をとって「特例容積率制度」を創設して実現させたのであった。
 ない、これはまったくの余談だが、東京駅に関しては、同姓同名の二人の伊藤滋氏が登場するので、後世に混乱が起きないか心配である。

 当時は一般論として、保存再生への所有者の理解、費用負担などの問題があって実現しないことが多いこと、また、古いものを現代都市に生かす実践がすすんでいる欧米と違ってって、一般市民や行政の理解・関心も低く、「保存」ということの難しい実感ものべられている。これは現在でも未だ課題は多いが、当時と比べると格段に進んでいるといえるだろう。

 また、「保存」という行為について、文化財のような硬直的な概念でなく、大規模な改装、部分保存など、「古いものを現代に再生して活かす」というように広くとらえ、またそうとらえるべきだ、とするものが、ほとんどを占めている。これも、街並み保存や文化財登録制度の制度が進んできている。

 1977年10月、日本建築学会が東京駅丸の内本屋保存要望書を国鉄総裁に提出。
 1978年には、国鉄において東京駅丸の内本屋の保存・建替えに関する各種計画案を検討して提案(鉄道建築ニュース7月号)し、3月には東京駅丸の内本屋松杭の調査をしている。
 1981年1月1日、国鉄は東京駅再開発構想発表した。丸ノ内本屋は35階建て30万平米の超高層ビルに建替えて国際会議場・各国出先機関・事務所等を、八重洲側は北地区は30階30万平米の事務所・店舗・ホテル等を、南地区は30階6万平米の自治体出先機関・店舗等を導入し、延面積で霞ヶ関ビルの4棟分の計画である。
 しかし、大赤字を抱えた国鉄は分割民営化の波にもまれてこれは頓挫した。

 1987年、国鉄3分割民営化が行われたが、折からの土地ブーム、開発ブーム、バブル経済突入で、国鉄の土地は鉄道運行にかかわるほかは大赤字を補填するために売却するものとした。その中でも超1等地の東京駅の土地の行方は大きな注目となり、政府による開発整備計画の検討の中で、1988年に「赤レンガ駅舎の現地での形態保全」の方針を出して、今日の保存復原への道が開くのであるが、それは稿を改めて書くこととしよう。   (20071030)

参照:●東京駅復興(その3)よみがえった赤レンガ駅舎は現地形態保全
   ●東京駅復元反対論


tokyost2007hukko1東京駅復興(その1)空爆廃墟からよみがえった赤レンガ駅舎

東京駅復興(その1)
空爆廃墟からよみがえった赤レンガ駅舎
伊達 美徳
(2007年)


●東京駅炎上す

 1945年、熾烈を極めていた第2次世界大戦は終局に向かいつつあった。5月7日にドイツが降伏してヨーロッパ戦線は終わったが、日本では太平洋戦争末期の悲惨な状況となり、日本上空はアメリカ軍飛行機が事実上占領してしまい、地上に容赦なく攻撃を加えた。

「日米開戦以来当局は『東京の守りは万全で、敵一機たりとも侵入を許さない』と発言し続けてきた。にもかかわらずB29はゆうゆうとして侵入。・・・ 当夜は 警報発令後数分にして駅前広場に焼夷弾が落下、一面火の海と化した。とみるうちに降車口が焼夷弾を受け出火した。ホテルの部屋続きのため、延焼を防ぐため バケツを持って駆けつけたが、火を吹いてるのは天井でバケツを必死に操作しても火に届かない。駅側に手押しポンプ一台があったが、それも役に立たなかっ た。かくするうち、西端の食堂部分からも発火、続いて中央郵便局も火を吹き始め、それまで微風であったものが一五㍍ぐらいの強風が西側より吹き荒れ始め た。・・・」

 これは1945年5月25日の深夜、東京大空襲により炎上した東京駅丸の内駅舎にあるステーションホテル支配人だった井上三郎さんの手記の一部である(「東京大空襲・戦災誌」第2巻763ページ)。

 1914年に完成した東京駅丸の内駅舎は、レンガと鉄骨で造ってあり、関東大震災にもほとんど無傷であった頑丈な建物であった。しかし、米軍のB29爆撃機による焼夷弾は火災を起こす爆弾だから、丸の内北口屋根を直撃した弾がたちまちに炎を上げる。
 屋根の構造材は鉄骨で作ってあるが、鉄は火には弱いからグニャグニャになって崩れ落ちる。3階の天井が燃え、内装にうつり、横に広がり、次第に下の階へと火は回る。駅員たちは必死に消火に努めたが、ほぼ全焼した。

 井上さんはホテルの消火をあきらめて、皇居前広場に避難する。このときは皇居(その頃は宮城といった)にも飛び火して炎上し、消防車は総てそちらに動員 されていたので、東京駅も駅長以下駅員全員で自主消火作業にあたったという。この惨劇下であっても時代の空気を反映している。

屋根を失った東京駅丸の内駅舎1945年5月



●東京大空襲の惨劇

 太平洋戦争がはじまったのは1941年12月、終ったのが1945年8月である。緒戦の成功で日本では戦勝気分のある1942年4月18日、東京は米軍機による爆弾投下の空襲(近頃は空爆というようで、イランやイラクなどで米軍がやっているのと同じ)を受けた。

 前述の東京駅のホテル支配人の「日米開戦以来当局は『東京の守りは万全で、敵一機たりとも侵入を許さない』と発言し続けてきた」のだったから、誰もが びっくりし当局でさえもうろたえた。この初空襲では、下町方面が爆撃を受けて死傷者346名(死者39名)。焼失破損家屋251戸であった(東京大空襲・戦災誌第2巻22p)。

 そして未曾有の惨劇の1945年3月10日の大空襲、約300機のB29爆撃機のおとす焼夷弾は、雨あられのごとく下町地域に集中して墨田、江東、台東 の各区内は全滅状態となった。罹災者約100万人、焼失家屋は約27万戸、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。このときは東京 駅は罹災しなかった。

 あまりにも多くの死者で、その数は明確ではないが推定10万人とされる(「東京大空襲・戦災誌」第1巻26ページ)。たったの2時間半で10万人が死ぬ惨劇であった。なお、1923年の関東大震災が死者が10万人~14万人と、これもあまりに多すぎて正確な数字はわかっていない。

 東京空襲は日常的となるが、1945年5月24日にB29爆撃機525機、5月25日に同470機が来襲し、都区内全般にわたって26日にかけて火災がおき、死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸の被害となった。

 このとき丸の内も被爆して東京駅や運輸省、海軍省などの官庁、海上ビル新館、郵船ビル、帝国ホテル等に火が入った(警視庁警備総第183号昭和20年5月26日)。郵船ビルもリストにあるが、後述するように内田百閒夫妻が一度中に入っているから、一部が罹災したのであろう。

 東京駅が焼けた5月時点で東京都区内の半分が焼けて廃墟になったことになり、米軍側も東京を爆撃目標リストからはずしたのであった。東京は初空襲から終戦までに106回もの空襲を受けたのである。

 東京がもっとも被害が大きかったが、軍需工場への投弾はもとより日本各地の主要都市への無差別攻撃は8月15日まで各地で続いたが、原爆という惨劇によって日本は戦争のとどめさされたのであった。
 東京駅丸の内駅舎の炎上は、そのような戦争のもたらす未曾有の惨劇の中の、一コマであったのだ。この大空襲の惨劇を物語る建物は、今なにがあるのだろうか。

●内田百閒が見た東京駅炎上

 東京駅が炎上中の丸の内にちょうどやってきたのは、小説家の内田百閒氏である。四ッ谷駅近くの五番町の自宅を焼け出されて、夫人と一緒に火の中を逃げまどった末に、丸の内にある勤め先の日本郵船ビルに避難しようとしたのである。
 そこでこの名文家は、『東京焼盡』なるルポルタージュを残してくれている。

「牛ケ淵からお濠端を伝つて歩き、中央気象台の前の和気清麿の銅像の前で又休んだ。それから大手町に出て段段郵船に近づくと向うの方から新らしい火事のに ほひのする青い煙が流れて来た。辺りは昨夜焼けたと思はれる所もないのに不思議だと思つてゐたら、和田倉門の凱旋道路に出て見ると東京駅が広い間口の全面 に亙つて燃えてゐる。煉瓦の外郭はその儘あるけれど、窓からはみな煙を吐き、中には未だ赤い炎の見えるのもある。」

 気の毒にも、このとき郵船ビルでは水が出ないので避難できなくて、百閒夫妻は疲労困憊の体を引きずってまた五番町に戻り、バラック小屋暮らしのとなるの であった。こんな悲劇なのに百閒流の例のおかしさが漂うには、逃げまどう最中にも酒の一升瓶を抱えており、時々飲んでいたのというのである。
 百閒は更にその後の東京駅の様子も書いている。

「夕方近く会社から東京駅へ出て見ると、焼けて屋根もなくなり足許は灰と砂で凸凹になつた歩廊に人が一ばいつまり到底電車に乗れさうもないから諦めて歩い て帰る事にしようと思つたが、乗車ロから這入つて中央ロヘ出る迄その人ごみを掻きわけるのに汗をかいた。焼けた後の東京駅の惨状は筆舌の尽くす所にあら ず。廃墟は静まり落ちついてゐる筈だが、東京駅は未だ廃墟でもない。亡びつつある途中である。乗車口に巻き上がつてゐる埃は生ま生ましい。高い天井の跡か ら何か落ちて来さうで改札口を通るのもあぶない様である。やつと中央口から出たが、今頃の時間には中央口は這入る丈の改札で、出る事は出来なかつた筈であ るけれど、もうそんな事も構はなくなつた様である。外へ出て歩き出したのが五時二十分前であつた。」(5月31日)

 屋根が焼けてしまった東京駅は、7月になっても青天井のままだったようだ。

「午後団子腹にて颯爽と出社す。雨大いに降り出す。夕帰る。東京駅は屋根がない。乗車口のホールに上から雨が降り灑(そそ)いでゐるからみんな傘をさして改札を通る。」(7月17日)

 7月20日午後に出社すると、郵船ビルもあちこち壊れている。このときは当然、丸の内の駅舎も何かしら被害の上に被害があっただろう。

「朝のどしんと云ふ音は爆弾であつて東京駅の向う側の八重洲口の近くに落ちたのださうである。その為に郵船の窓硝子が方方こはれ古日の隣りの部屋の壁に懸 かつてゐた電気時計は落ち、扉の金具もちぎれた様になつてこはれてゐる。云はれて気がついて見れば足許の床に壁の剥がれたかけらが散らばつてゐる。皆爆風 の為である。郵船ビルは大分離れてゐるのにこの始末にて矢張りこはいものだと思ふ。」(7月20日)

 7月26日に東京駅前広場で、露天売りの野菜を買い求める。

「午後出社す。夕帰る。御飯を食べない所為か歩くと身体がだるくて困る。行きがけに東京駅の前の広場の芝生にて胡瓜とどぜういんげんを売つてゐたのを見て 買ふ気になり胡瓜二くくりと隠元一把と買つた。隠元は十八本にて一円、胡瓜は二本一くくりにて二円〆て五円の買物なり。そんな物を見た途端に何の躊躇もな く買ふ気になつたのは余程青い物の成分が身体に欠乏してゐるものと思はれる。」(7月26日)

●終戦と同時に東京駅修復へ

 1945年9月15日の朝日新聞はその第2面に、といっても新聞は当時は2ページしかなかったのだが、次のような記事を載せている。

東京駅の復興 昔に返るか、出直しか 三段構へで完成に五年 東京駅の復興が始まった。日頃不便な通勤の能率を上げるばかりでなく、日本の一表象としての顔を洗ふ必要もある。さてこれを昔どおりの姿に戻せといふ意 見もあり、将来の新日本にふさはしい、画期的なものとしようとの意見もあり、最終の設計は今協議中で、とりあへず三段構へをもって臨み、まづ第一段として 建設者大林組が労力を動員し、それに鉄道職員および復員の余剰労力を加へ、廃墟東京駅の整理、例えば防空土嚢の片付け、通路の整理、ホームに差当って必要 な上屋を作り、出改札所等屋舎の建設などの応急復旧に当る。第二段は応急復旧成って後、赤煉瓦本屋内の整理を行ひ、焼けた鉄骨を取外し、屋を架して東鉄、ホテル等あるひはそれに代るものを住ましめ、いよいよ第三段として鉄骨を配して堅牢な駅舎を作る一方、将来の輸送計画に即した例えば広軌幹線用線路のための敷地設定、地下街掘削、ホームの増設を八 重洲口方面に向かって設ける方針で、これが復旧なるまでおよそ三年、全部が完成するまでに五年を計算に入れている」

  この記事はもちろん鉄道省の発表を受けて書いたものだろうが、あの大混乱期でありながら、9月時点で既に新幹線も含めての現代の東京駅のあり方の概要を示しているのが、実にすごいと思う。
 もっとも、にわかに考えたのではなく、戦時中から弾丸列車構想があったから、当然に東京駅に関しても構想があっただろうから、焼けた東京駅を復興しなければならないこの時期に発表したのであろう。

 では鉄道省の東京駅現場側はどうだったか。
 駅舎やホーム屋根は燃えたが、線路は大丈夫だったので、早くも5月29日には運転を再開した。駅舎の応急措置はとりあえず青天井となった南北のドーム内の通路からホームにかけてトタン屋根をかけることだけだった。

 8月15日に終戦となるとすぐに復興計画にとりかかる。8月下旬には、東京駅戦災復興工事担当の現場責任者が決まった。この責任者となったのが鉄道省の建築技師であった松本延太郎(1910-2002年)であった。
 松本は、「東京駅戦災復興工事の想い出」(1991年6月20日)という詳細な記録を自費出版している(以下「想い出」という)。

 なにしろ1947年の東京駅の一応の復興まで、東京工事区長として天野駅長と並ぶ地位で、東京駅戦災復興工事現場で指揮を執った第一線の人だから、その証言は貴重である。そして松本氏自身だけでなく、当時の仕事仲間の手記もあって、実証性に長けた資料となっている。
 なお、東京駅に関連する鉄道経営は、今は株式会社となっているが、この頃は鉄道省の直営の鉄道であり、その後1949年に独立採算制の特殊法人である公共企業体・日本国有鉄道となる。

●3階を切る

 9月になって廃墟同然の東京駅構内に現場事務所を設けて、松本以下数名が乗り込んだ。

「設備は貧弱、食糧は乏しいに拘らず区員の突貫工事にかける熱意は盛り上り、徹夜勤務する者は机上の書類を片付けてそこえ寝具を敷いて仮眠するなど野戦を思わせる・・・戦災復旧工事は現場に即応した設計を速かに立案しなければならなかったので工事区は現場機関であると同時に本部の設計係の役割も兼ねて工事の殆んどの立案を行って大多忙を極め・・・」(「想い出」10ページ)。

「旅客の通路や直接営業に支障のない場所は、崩れた煉瓦礫の取り片付けも満足にできておらず、焼け落ちて飴のように垂れ下がった鉄骨もそのままの姿で、一階の片隅には生き倒れの屍休も見受けられました。三階の屋根は全部焼け落ち、南北のドームからは青空が仰げるという状態です」(「戦災復旧工事の回想」松本延太郎 一九八八年四月「建築文化」)。

 工事は創建時から担当している建設会社の大林組が乗り込んできた。まずは爆風除けの土塁の除去や、焼けた内外装財や鉄骨の等の除去殻始めたが、今と違っ て重機があるわけもなし、戦争で人手も不足していて、実に大変な作業であった。進駐軍が重機を持ってきて応援したという新聞記事がある。

 ドームが焼け落ちたので南北ホールは青天井であるし、3階は壁だけ建っていて床はあるが屋根が焼けてなくなっている。ホールはもちろんだが、そのほかも3階の床に降る雨は防水がないから1階までもつたわってどんどん落ちてくる。

「屋根をかけることが最大の急務であったが、焼け残った三階の壁を修復して屋根をかけるか、大正十二年の震災によって多少なりとも被害を受けている上今回 の焼夷弾の被災によって大損傷を受けた三階を切り取って二階建として屋根をかけるかが問題点となってこれがなかなか決まらない。」(「想い出」68ページ)

 戦災前の東京駅丸の内駅舎は3階建てであったが、戦災からの修理改修によって、今の、ように2階建てになっ。いくつかの変化の中でもこれがもっとも大きな変化である。2階建てから3階建てに改修した事情は興味のあることだ。

 そこで鉄道省の建築課の構造専門家である高橋豊太郎氏が、後に東京オリンピックの代々木体育館を設計した建築構造学の大家を連れてくる。

「東大同期の親友武藤清教授をお連れして焼跡現場の視察をし、教授の御意見を参考にされるなどして関係者幹部の結論を纏めて判定が下されたと推測されたのであるが、三階を切る取ることになった」(「想い出」68ページ)。

 しかし、参画した構造スタッフの一部には、3階を切ることに反対意見もあったようだ。事実、取り壊しにかかってみると、非常に堅牢で工事は難航したという。

「煉瓦壁を伐りだしてから判ったことだが、火のかかりの少なかった壁の芯の煉瓦はとても良質で、今時の粗悪なコンクリートと比較にならない位の堅固さで伐り口は貝殻状に割れ、芯材に挿入されていた鉄骨も塗料の光明丹がそのままの状態で現れた」(「想い出」68ページ)。

 こうしてみると、実は3階を取り壊さなくても使えたのかもしれない。3階はもっとも火災の度合いが大きかったので、レンガの壁体とその中の補強の鉄帯は火による損傷で耐力を失っていると診断した結果、鉄道省の構造専門家が3階を切ると判断したのであった。
 ドームの部分の3階壁を切っていないのは、屋根だけ燃えて内装は燃えるものがなかったので、壁内に火がまわっていないと判断した結果だろうか。

●屋根をかける

 3階壁を切ったなら、3階スラブはあるとしても防水の屋根を乗せなければならない、ドームのあったところも屋根をかけなければならない。これらが意匠的にはもっとも重要なところである。
 そしてその結論は、戦災前は南北両ドームは八角形の台状の上に丸いドームが乗っていた形を、底辺八角形トップで正方形となる台形に、中央は寄棟型ドームであったもの復原し、今に見る形となった。

 復興中の東京駅丸の内駅舎 1946年10月 中央ドーム屋根下地板張りの様子


 これは、誰のデザインであったのだろうか。建築家の設計という行為は、建築の各部分ごとにばらばらに行うではなく、全体のバランスを見ながら行うものだから、3階を2階建てにしたことと台形ドームにしたことは一連の設計作業として不可分のはずである。
 だから台形ドームにした設計者は誰かという問いナンセンスで、これを決めた人は総てのデザインの責任者であったはずである。
 松本のもとには大勢の建築技術者がいたが、その中の一人の田崎茂がこの本に手記を寄せている。

「昭和二十年の何月だったか、ある朝伊藤課長の部屋に呼ばれ「君、八角形のプランに正方形の屋根をのせたらどんな形になるかね?」とのご質問、突さのこと故ご返事も出来ませんでしたが、時間をいただいて案を提出することでで引さがりました。その時は多分、伊藤課長はいろいろお考えがあったに違いなく、敗戦直後の日本にドームをもと通り復元する予算も能力もなく、さりとて日本の代表的名建築であ る東京駅をそのままいつ迄も雨ざらしにしておくわけにもいかないということで、国鉄の責任者として苦脳されたことと思います。それからああでもない、こうでもないと何枚もの画をかき多分中川さんにも書いてもらったと思います。又皆さんでいろいろと議論をかわし数案を課長に提 出、そして採決され高山さんが木造トラスとしての設計にかかられたのはご承知の通りです。従って私はじめ中川さんや同僚たちの努力の結果であり、やはりア イディアを出された伊藤課長の設計と結論づけたいと考えます」(「想い出」73ページ)

 ここに出てくる伊藤課長とは、後に日本建築学会会長を勤めた伊藤滋(1898年~1971年)のことである。当時は鉄道省の建築課長であり、建築家としての作品はJR中央線御茶ノ水駅舎のモダンデザインが有名である。
 なるほどその腕前にしてあのドームと2階建ての今の東京駅デザインであるかと、その巧みさに納得させられるのである。

 なお、屋根には小窓(ドーマーウインド)がついているが、鉄道省の原設計図にはなかったが、松本氏が多少なりとも昔の面影をもとめて追加設計したという。
 屋根の構造は木造の小屋組みとしたが、鉄道省の構造専門家である高山馨の設計である。

「構造は戦争中盛んに使われたゴヒラの木材を組合せジベルと釘で接合した工法で、高山さんも伊藤さんから四~五年もてばよいと言われて設計されたものと思う。たとえ良く保守されて釆たとはいえ四十数年の長寿を保っているとは高山さんも驚かれていると思う」(「想い出」75ページ)。

 高山は戦時中は陸軍で航空機の格納庫を木造で設計していたから、東京駅の大屋根はお手のものだったのだろう。
 屋根葺き材料はトタン板だったが、この物資のない時代、輸送も不便な時代に、これだけの大量の材料を集めるのはさすがに鉄道省で、軍から出た鉄板が神戸 においてあることを見つけて鉄道で運んできたという。これは1950年に、焼ける前と同じの天然スレートに葺き替えて、現在の状態となっている。

戦災からの復興のために描かれた完成予想図


1914年の創建時の完成予想図


●むしろよくなったプロポーション

 こうして鉄道省の伊藤滋建築課長によるデザインで、今の東京駅の形態が決まったのである。推測するに、まず構造的な問題で2階建てになるということが前提となり、その上でスカイラインをどのように復原するか伊藤は考えたに違いない。
 3つの大屋根ドーム部分はもとのように3階建ての上にドーム乗るが、そのほかは2階建てにして3階スラブの上に屋根を乗せる、そして11ヶ所の尖塔部分は2階建てにして尖塔は乗せない、これが修復デザインの基本である。

 もちろん、ここまで来るには伊藤はいくつもの案を考えたに違いない。戦争で使い果たして建設資材がほとんどない時代であることも、大きな制約となる。
 元の天然スレート葺き大屋根ドームにするには、鉄骨もスレートもない。木造トラスならば航空機格納庫建築で大スパンの経験を積んでいるし、木材や鉄板な ら資材も何とかなる。そのような事情の中での今のような台形ドームの選択となったのであろう。一方では2階建てになっても全体のバランスを失しないように 慎重にデザインを考え抜いたようだ。

 しかしそれだけとは言えない。あれほど巨大な大屋根ドームをつくる必要は、機能的にはまったくない。4~5年持てばよい、その後に建て直すからと伊藤が言っていたと松本は述べているが、それならば最も簡単な切妻型でも寄棟型の木造トラス屋根でも一向に構わないはずだ。

 それなのにあの大屋根ドームを木造で載せたのは、横幅長さ330メートルに及ぶただただ長すぎるこの建築において、このドームが巨大であることのデザイ ンとしての必要性を建築家の伊藤は当然に思い描いたはずだ。あの大きさでなければならなかったのである。現設計者の辰野金吾もそう思ったごとく。


 更に葱坊主を思わせる丸ドームは様式建築の模倣であり、モダニスト伊藤としては丸いドームよりも台形ドームにしたかったに違いない。そして2階建てに なって以前の3階建てよりもスレンダーになった駅舎に角型のドームは、意外にバランスよくとりあってモダンスタイル建築になったのである。これで伊藤のデ ザインは決まった。

 3階建ての上に丸ドームが乗った辰野のデザインは、伊藤のそれと比べるとちょっと鈍重な感がある。あの大風呂敷といわれた後藤新平が初代鉄道院総裁だっ たころ(1908-11年)に、とにかく大きいものをつくれと設計に注文つけたという話をどこかで読んだことがあるが、辰野は無理して太らせたのかもしれ ない。

 辰野が描いた彩色の立面図がある。そのプロポーションを見ると、3つのドームが相撲取りの猪首のように建物の肩に埋もれている感がある。
 もっとも、地上から見ると一般の屋根は見えないからこれでよいのだとも言えるが、遠くからは立面図のように見えるだろう。ドームはもう半階分くらい高いところから立ち上がる方が全体が美しくなるはずだ。

 それに比べると伊藤のデザインは、素直である。現設計の持つ骨格を維持しつつ、2階建てになったことを逆手にとって、近代建築としてのプロポーションやモダニズムの持つ直線デザインをドームにうまく表現しているといえる。修復デザインとして実に秀逸である。

●外観を整える

 さて、これから後は現場の松本たちの力量と努力である。いまの東京駅に近づいてよく見ると、レンガ壁に白い柱型(ピラスター)が何本もあるが、この柱頭にギリシャ建築のような飾りがついている。
 3階を切ったのならば柱は途中で切断されたから、今の柱の頭には何もないはずだ。それがついているのは松本たちが現場の設計で、柱頭は3階から切り取ってもってきて、2階柱にエンタシスのふくらみもつけて、プロポーションよく造ったのであった。
 これに関連して、松本の本に部下であった河村秀男が手記を寄せている。

「現場は正面側の焼けた窓廻りのかざりを修復するのと、柱型を新しく造るのが主で、裏面はモルタル塗にペンガラを吹付けて仕上げた。柱型は大林組の事務所 の脇にある原寸場で原寸を書き、それに基づいて型板を造った。その時一番気になったのは柱型のエンタシスであった。ああしよう、こうしようと種々思いなや んだ未、最も簡単な全長の高さの三分の二附近を約五糎程度ふくらますこととし、今村さんに見てもらったように思う。工事の施工に当っては、北川さんから 「柱型の下地を十分湿らせて、なじみを良くしないと後ではがれ落ちるから」と注意され、業者に注意したがそれが面倒なのか仲々実行されなかったので、その 日に塗る箇所を私自身で湿して歩いたのをおぼえている。そのせいかどうかは判らないが、東京駅の外装で柱型が全くはがれ落ちていないのを、私は秘かに誇りにしている」(「想い出」258ページ)

 戦災前の写真や設計図(下の図)と比べると、今の形は巧みに辰野の様式を活かしつつバリエーションを作っているようにも見える。


 このほかパラペットやドーマーウィンドウのデザインなど、単に3階を切ったのではなく、2階建ての建築として様式デザインを継承しつつも、新たな形態とプロポーションの現在の外観を作り上げていったのである。(1947年の東京駅の写真参照)


●南北ホールのインテリアデザイン

 東京駅丸の内駅舎の見せ場とも云うべきところは、ドーム高さまで一気に吹き抜けるの南北のホールである。

 戦災の前はどうであったかというと、1,2階は8角形、3階で周囲から壁がはりだしてきて、3階に8角形の装飾的なペディメントを持つ壁面が立ち、その 上が折り上げになり8角形のフラットな格天井となって中心は円形である。その天井の8つのコーナーには羽を広げた鷲のレリーフがついている。


 3階のはりだしを支える柱8本は、2階床の高さ部分でそれぞれ飛び梁でつながれていた。当時の写真を見ると、インテリアデザインが全体にもうひとつこな れていない印象を受けるのは、レリーフといい飛梁といい、あれこれとデザイン要素が多すぎるからだろう。もっともそれは現代人からの目であるが、。

 現在の姿はかなり異なる。3階までは昔と同じように八角形だが、その上は半球形のドーム天井となっていて、ローマのパンテオンを思わせるいる。外は台形のドームだが、天井は半球形なのである。ここの天井はアルミニウムの合金であるジュラルミン板の組み合わせである。

 あの物資のない時代にどうしてこような物があったのかと不審に思ったが、じつ は終戦で飛行機の製造が止まり、その材料のジュラルミンが余っていたそうだ。そういえば、アルミ弁当箱が戦後にはやったのも、これと同じ理由だったのだろ うか。

「大屋根は本省建築課で設計されたが、屋内の天井の設計は東京工事区に任された」(「想い出」24ページ)

「南北のホールの天井をいかに修復したらよいかもまた、復旧工事の重大な課題の一つでした。われわれ東京工事区の十二人の建築のメンバーを動員して、急遽 デザインのコンクールをしました。結果は、建築助役の今村三郎君(東京美術学校・現芸大卒)のデザインが採用され実施されたのが現在の円天井です。施工材 料に使ったのはジュラルミン板で、天井材として軽量であること、雨漏れや剥落の危険が少ないことなどの利点があり、終戦で航空機の製造がストップされたた めジュラルミンの入手が容易になったことなどの点から、最適材と考えられたからです。巷間伝えられている、海軍の技師が終戦後国鉄えトレードの際、お土産 に持って来たジュラルミンで、彼らの技術によっ作成されたというまことしやかな話は、真相を知らぬ者の妄言であって、設計者の今村君や日夜心血を注いで工 事に取り組んだわれわれ国鉄建築陣には甚だ、迷惑なことです」(「戦災復旧工事の回想」松本延太郎 1988年4月「建築文化」)

 ここに書かれている「妄言」を述べた人は建築史家の藤森照信のようである。
 もうひとつの大きな修復による改造は、3階の張り出しを支える8本の柱の飛梁を除去したことである。フランジ部分を唐草模様に装飾的にしているが、泥臭いデザインである。
 このうるさい梁がなくなって、独立柱として実にすっきりとした空間となった。この功労者は、先に述べた3階除去を決めた鉄道省の建築家で構造専門家の高橋豊太郎であった。

「復旧工事が進展して来た或る時期、高橋さんがこの梁を除去しようと云い出された。構造の 大家の高橋さんが言われることなので間違いはないのであろうと思ったが、計算書の裏付けもなく根接も示されなかったので、多少の不安は残ったが言われた通 り切断した。柱はすぐに根元から鉄筋コンクリートの丸柱として被覆した。現状で見るテラゾーを貼って仕上げたのはややしばらくしてからである。高橋さんの この繋ぎ梁り除去の発想が南北ホールに近代的な明快さを与えて今日に及んでいる。高橋さんの第一番の効績と言えるかも知れない」(「想い出」80ページ)。

 高橋は鉄骨構造に関しては自信を持っていたのだろう。しかし、レンガ構造についてはかなりの慎重派であり、それが3階を切らせたし、そのあとも改造でレンガ壁に出入り口を開ける時は頑丈すぎるほどの鉄骨補強をいれたという。
 東京駅丸の内駅舎の現在のデザインを決めた一番の功労者は、この高橋豊太郎であったといってもよいだろう。

●戦災復興担当者の想い

 1947年3月に一応の外観は整ったが、予算難で中断したりしながらまだまだ修復工事は続く。

「外壁の損傷部分は修理し、特にホーム上家焼失の際火災によって甚しく損傷を受けた背面の外壁はモルタル塗りとし、煉瓦色の顔料を吹付けることで糊塗し た。正面の付柱は、キャピタルを二階に下し、エンタシスも修正して形を整え、スチールサッシュを窓に朕め込んで、昭和二二年三月十五日には一応の外装は整 うことが出来た」(「想い出」142ページ)

 1948年6月から、開業時から評判の悪かった北口は乗車、南口は降車という区別をなくし、南北ホールともに出入りができるようにした。1951年にようやくホテルの修復が終わって営業を始めた。

 そのような苦労をして復興させた東京駅丸の内駅舎だが、利用者の動線処理、改造しにくいレンガ造等の問題があるため、鉄道省ではいずれ近代的ビルに建て替える方針を戦争直後から持っていた。あるいは戦中からかもしれない。もちろん丸の内側だけでなく、八重洲側も含めて、そして新幹線計画の考慮しつつ全体 改造計画案を各種検討していた。

 1958年に公表された案(下図)をみると(「東京駅の将来計画」井原道継 「建築ニュース」1958年No.4・8)によれば、東京駅丸の内駅舎は赤煉瓦駅舎はなく、高さ84m、地上24階地下4階の超高層ビルが描かれている。


 松本は1948年に東京駅の工事事務所を離れた。1977年、高木国鉄総裁と美濃部東京都知事が会談して、丸の内駅舎の建替えを発表し、世間の話題となった。このころから建替え賛成論と、歴史的建築として保存せよという両論がでるようになる。
 国鉄内部でも具体的検討に入り、この頃のことを松本が書いている。

「五十二年六月十五日建築工事局長の青木実さんから「本省の岡部建設局長から丸の内本屋の建替について松本の意見を聞いてほしい」由連絡のあったことを電 話で伝えられた。話しの様子を綜合すると、その頃国鉄の上層部で丸の内本屋を高層建築に建替たい意向が強くあって私にも「建て替た方が良い」との意見具申 を求めているようであった。(中略)鉄道建築ニュース一九七七年三月号えは、岡田信次元建設局長と椋本修造元東京地方施設部長のお二人の文と一緒に掲載さ れた」(〔想い出」62~63ページ)。

 その松本の回答は次のようであった。かなり歯がゆい言い方になっている。

「現在の東京駅在廃論に対して、私個人としては嘗て自分が情熱をそそいで今の姿に復興したので、情に於ては永久に残したい。評論家の言うように宮城方から 望むファサードは決して悪くはない、然し、本文で述べたように構造上の不安が残る。ノスタルジアにひたっている訳にゆかないのではなかろうか。いずれの時 か建て替えの運命にあるのではなかろうか、その時には八重洲側の商業ビルとは違った日本の表玄関にふさわしい風格の備った建築であってほしい」(「東京駅回想」松本延太郎 一九七七年九月鉄道建築ニュース)

 そして松本は他の二人も紹介して、心残りらしい口ぶりで納めている。

「岡田さんの記事の末尾は、『東京駅が出来てから六十五年になるので近年是の改築について種々論議されています。有利有効な建築物にすべく研究されていま すが、あの広大な地績を有効に使用する様研究を重ねるのは、現在の国鉄の実情として当然ですが、数少い文化財的存在として、充分な研鑽を望んでやみませ ん」と結んで居り、又椋本様は「東京駅の現状保存は論議されているようですが、立体的にはすっかり変って居り、明治時代の建物として保存する記念物とは考 えられぬと思う。現代的技術の粋を集めて効率のよい建物として、首都の玄関を飾るにふさわしい東京駅を希望する。』 そして私は文中に『現在の東京駅存廃論に対して、私個人としては嘗て自分が情熱をそそいで今の姿に復旧したので情に於ては永久に残したい。評論家の言う ように宮城方から望むファサードは決して悪くない。然し構造上の不安は残る。いづれかの時に建て替の運命にあるのではなかろうか。(後略)』

いづれも当時の本省の意向にさからわない意見を述べていたようである」(〔想い出」62~63ページ)。
 役人として本省の意向に逆らえないのは当然であるが、あれほど苦労して、しかもそれなりにきちんとつくりあげたものへの愛着は、他が推し量れないほどあったに違いない。

 松本氏は1958年に運輸省を退職後は、関連会社を経てから自分の建築設計事務所を経営しており、東京駅に関しての発言は多かったようだが、わたしはあまり知らない。彼が心血を注いで修復した現在の形態の保全ではなく、その前の辰野の形態に復原することについては、いったいどのように思っていたのであろ うか。

 松本の本には、もうひとつの東京駅丸の内駅舎の重要なインテリアデザインとして、R.T.O.(占領軍用の駅施設)の設置について書いている。これは駅 務室内になっているようで、わたしは見たことがないのでここでは論評しないが、松本の師である中村順平や、彫刻家の本郷新などを起用して、デザインにかけ た執念はすごいものがある。
 伊藤滋、松本延太郎たちの行った赤レンガ駅舎の修復は、もしかしたら、愛していた赤レンガ駅舎を空襲で破壊した米軍への復讐戦であったのかもしれない、と思うのである。

 巷間よく引用される「4~5年持てばよい、その後に建て直すからと伊藤が言っていたと松本が述べた」に しても、例えば、あのような台形大屋根も、ホールのアルミドーム天井も、外部柱型のオーダーや窓周りの飾りも、いずれもわざわざつくる必要がまったくないのに、精一杯の修復はあきらかに仮設の粋を超えている。あるいは、占領軍のためのRTO整備への偏執的といってよいほどの力の入れようも、戦勝者への迎合 を超えている。

 占領軍の支援がまったくなくて恨めしかった、というほどの事情下で、鉄道省の国鉄だからこそできる能力を最大限に発揮して建設材料を調していることは、松本延太郎たちの手記に見ることができる。木造の小屋組みにしても、飛行場格納庫の大スパンのジベル式木造トラスは自信のあるものであったろう。
 表向きは鉄道省の建替え方針に従ってそうであったかもしれないが、現場の実情は、けっしてあり合わせ材料による応急策とはみることはできない。

 以上、ここまでは、松本延太郎氏の側から、戦災から修復した赤レンガ駅舎について見たものである。つづいては、この修復された赤レンガ駅舎は、どう評価されてきたかを見よう。(20070708記)

参照:●東京駅復興(その2)よみがえった赤レンガ駅舎はどう評価されてきたか 
   ●東京駅復元反対論集


2021/10/02

tokyost2006東京駅丸の内駅舎復原問題長屋談義

東京駅復原問題長屋談義
2006
伊達美徳


●あっしはてっきり昔からのまんまと思ってました

八五郎「ご隠居、元気ですかい」

隠居「おや、八ッぁんかい、よくおいでだね。元気だよ、口だけは」

八「そう来なくっちゃね。先日ね、東京駅のあたりをぶらぶらしましてね、いやもう、たまげたね、あそこはニューヨークなんですかね」


隠「そうだねえ、この10年くらいでニョキニョキと超高層ビルが建ってきたね」

八「あの赤煉瓦の東京駅も近いうちに、その超高層とやらになるんでしょうね」

隠「いや、あれは低いままで、もう一階だけ付け足して乗っけて戦災前の3階建てに戻すのだそうだよ」

八「あれっ、てことは、あれは昔は3階だったんですか」

隠「ああ、あれができたのは1914年だけど、1945年5月の東京大空襲で焼けたんだね。それを修復して今の形になって使ってきたんだよ」

八「へ~、焼けたんですか、でもレンガだから焼けないように思いますがねえ」

隠「壁はレンガ、床はコンクリでも、内装は木や布だし屋根は鉄の骨組だったから、焼夷弾を受けて壁や床のレンガやコンクリートだけ残してまるきり燃えてしまったんだね。それを壊してしまわないで、3階の壁や焼けた鉄骨の屋根を取り除いて、木組みの骨で屋根を作って2階建てに修繕したんだね、それもねえ、敗戦で日本国中に何にも物資がない時代なのに、戦争からの復興の心意気を見せたいと一生懸命に国鉄の建築家たちが頑張って、昔の形を損なわないように今の形にしたんだね」

八「ほお、だから今の形も立派なんですね。昔風の洋館建てに見えるもんで、あっしはてっきり昔からのまんまと思ってました。でも、ご隠居、JR東日本ってのはえらいね。周りはどんどん高いやつに建て直してるのに、金のかからないようにってんで3階建て程度にしようてんでしょ。それともなんですかね、あのJRってのは、超高層ビルにして儲けようって才覚がないんですかね」

隠「おいおい、勘違いしちゃ困るよ、3階建ての昔の姿に戻すのだって、500億円かかるとか言ってるよ」

八「え~っ、ご、ゴヒャクオクエン? 何でまたそんな金だすんですかね、そんな金があるのなら運賃を下げろ~っ」

隠「まあまあ興奮しなさんな。実はな、その金のからくりがあるんだよ。周りにあちこちと超高層ビルが建ってるだろ、あの内のいくつかに、赤煉瓦建物の空中権を売って金を稼いでいるんだよ」

八「なんです、そのクーチューケンってのは、野球拳みたなもんで、、」

隠「あのな、東京駅のあたりの土地で建物を建てるなら、土地の面積の13倍の延べ床面積まで建てることができるって都市計画で決めてるんだね。だけど赤煉瓦東京駅は地下を入れて5階分しか建てない、だから残りの8階分の床面積を使う権利みたいなもんが残ってる勘定になるな。そこでその残っている権利を近くの超高層建築に持っていって建てることが、都市計画でできるようにしたんだよ。でもってだな、JRはその持っていった先の超高層建物に床を確保して家賃を稼ぐとか、もって行った先にその床を売っちまって代金を稼ぐんだな。その利益が500億円かどうか知らないけど、まあ、それを元手にして昔の形に戻す工事費を算段するらしいよ」

八「じゃ、なんですかい、あの東京駅ってのは頭の上の空気を売って500億円稼いでるってことになるんですかい?」

隠「まあ、そういうことだな」

●空気が金に化けるのを寄席の引越しっていうんですかい

八「ナンだねえご隠居、えれえご時世になってきたね、狸だって金に換えるのは木の葉って品物を使うよ。それをキョウビは只の空気を金に化けさせるんですかい、へえ~。じゃあね、ご隠居のもってるこのボロ長屋、この上の空気を売りやしょうよ。そうすりゃ、家賃なんてタダでもいいでしょ」

隠「ボロはよけいだよ、でもね、そうはいかないのだね。特例容積率適用地区ってのが東京駅のあたりにはあるからできるのだよ」


八「なんです、その徳利の寄席ってのは」

隠「そうじゃないよ、どこでもその空気を金に換えることができるわけじゃなくて、都市計画でね、特例容積率適用地区ってのを広い範囲に決めると、そのなかではあっちの土地へこっちの土地から容積の移転ができるんだよ」

八「へえ、寄席の引越し、と」

隠「わからないひとだね、前に言った空中権を売り買いすることができるんだよ」

八「なるほど、空気が金に化けるのを寄席の引越しっていうんですね」

隠「ま、まあな、だから、赤煉瓦東京駅は改装する金ができて、周りの建物は土地の13倍以上の大きな床面積になって、両方の持ち主は儲かるって仕組みだね」

八「両方とも空気を元手にうまい汁を吸えるってことなんですね、頭いいやつがいますねえ。このあたりも寄席の引っ越しやりましょうよ。あ、こんなボロ長屋の空気買うヤツがいないか、」

隠「ボロだってナンだって空気はおなじだけど、空中権の値段はずいぶん違うな。このあたりの下町じゃあ、買っても超高層が建たないよ」

八「そうでしたね。そんな日陰つくる高いビルなんて建てられてたまるかってんだ。ああそうだ、その徳利の寄席ってのを東京駅あたりからど~んと広げて決めちまって、いっそのこと東京全部そうしちまったらどうです。それならボロ長屋の空気を丸の内に売れますよ」

隠「う~ん、すごいこというね、そんなことしたら都市計画はめちゃめちゃだけど、もしかしたらとめどもない規制緩和の先にはそういうことも起こるのかもなあ、う~ん、う、、」

八「ねえ、ご隠居、寝ちまったんですかい」

隠「いや、考えこんでしまったんだよ」

八「しかし考えてみりゃ、赤煉瓦東京駅ってのは妙なもんですね。身を売るってのは貧しい家計を助けるためって昔から筋書きがきまってるんだけど、東京駅は自分のお化粧代が要るからってんで切り売り身売りしてるんでしょ。挙句の果てが、身売り先の周囲は超高層だらけで、これがほんとの日陰者ってね、ハハ」

隠「うまいっ、座布団一枚。その切り売り財産は元をただせがば、国鉄の財産つまり国民共有財産だったんだねえ、今じゃそれをどんどん民間業者に売り渡してるんだな。国鉄民営分割のときに、八重洲側も含めて東京駅の駅舎や線路の土地の行方について、国鉄清算事業団、JR東日本、JR西日本のあいだで熾烈な駆け引きがあったな。その過程で赤煉瓦東京駅を、現地で今の形で保全することが決まったのだよ。その結果が今になって切り売り身売りの日陰者なんだな」

八「いっそのこと日本中の鉄道用地の空気をどんどん周りに売り飛ばして、それで運賃をタダにしちまうってのはどうです」

隠「おい、おい」

●おいらガキの頃から見てきた今の形がなくなるのもねえ、困った 

八「ところで、昔の東京駅ってのは外国の宮殿みたいに豪華で格好いいのでしょうねえ、早く見たいねえ」

隠「おや、おまえ、さっきは今の格好が良いので昔からこの形と思ってたと言ったじゃないかい」

八「まあね、今もいいけど、昔の格好も見てみたい」

隠「じゃあ、今の姿は半分消えるけどいいのかい、おまえ」

八「う~ん、おいらガキの頃から見てきた今の形がなくなるのもねえ、困った」

隠「そうだよ、たとえば広島の原爆ドームを昔の形に戻すってことになったらどうする?」

八「そりゃ世間が黙ってませんよ、あっしも大反対です。でもあれとこれとは違うような、、」

隠「いや同じ問題なんだよ、今の形は悲惨だった太平洋戦争の記念碑なんだよ。空襲で燃えて焦げてしまった壁になっていたのを、戦争直後で周りはまだ煙の立っているときで資材の調達もママならないのに、3階を削っただけで壁や柱の形を戻して大屋根を乗せ、丸天井もつけて、当時の国鉄の建築家が頑張って結構美しい形にしてるんだよ。だからこそ当初とは異なる形だけど戦後60年も経って重要文化財にもなったんだね。設計時は日露戦争の記念碑、竣工時は第1次大戦の記念碑、そして今の形は第2次大戦の戦災記念碑であり、そこから復興の記念碑なんだよ。だから広島の原爆ドーム並みに価値があるのだね」


八「なるほど、そういや第2次大戦の記憶の残る建物って、ましてや戦後復興の記念碑的な建物はそんじょそこらにありませんね。なんでも昔の形に戻せばいいってもんじゃないんですね。でも、なんで戻すんでしょうね」

隠「そういう市民運動が成功したんだよ。東京駅の保存運動では、今の形のもつ重要さをいうよりも、昔の形がいいっていう方が、なんとなく郷愁をそそって大衆受けがいいんだね」

八「へえ、あっしも大衆なんで、すみませんね、」

隠「なかには明治の栄光の姿を再び見たいって、右よりみたいなことを言う人もいてね。建築家や建築史の先生方は、どういうわけか昔の姿に復原せよとばかり言うね、まるで戦後のわたしたちが生きてきた歴史はないみたいだね。今の形は占領軍の命令で直した戦災直後の仮の姿だから戻せ、とけなす人がいるんだよ」

八「なんだか新憲法みたいないわれかたですね。500億円もかけて元に戻すよりも、今のままでちょっと直せば金だってかからないでしょうにねえ。あの空気を売った金で運賃を下げてもらいたいね、それが大衆運動にならないのですかね」

隠「おお、お前もときには気の利いたことをいうね」

●あっしたちにゃわからねえうちに誰かに利用されてるかも

八「えへへ。時に、あの駅の真ん中の入り口を使うのは、皇族だけなんですってね」

隠「あの駅を作った趣旨には、皇居大門の役割があったんだね。ほら、お寺でも京都御所なんかでも、一般出入り口は横にあり、真中には禁門とか勅使門とか言って偉い人の出入り口があるだろ、あれだよ。現にはじめは京橋側には出入り口がなかったくらいだからね」

八「なーるほど、皇居を神社にしてみると東京駅はその鳥居みてえなもんですね」

隠「おまえ、冴えてるね、そのとおりだよ。伊勢だって明治神宮だって、ご神体は深い森の中にいて外からは見えないけど、入り口の鳥居は立派にするよね。フランスの偉い哲学者が言ったんだけどね、東京の真ん中は空洞だってね。外国人から見たら君主の館は堂々たる大建築を民衆に見せつけるのに、それが見えないのが不思議だったらしいね」

八「そのフランスのえれえ鉄の人でも、日本人の感覚が分からなかったんですかね」

隠「そうだよ、かえって見えなくすることで日本人は尊ぶんだよな」

八「で、この東京駅を一番最初に通って皇居に行った人は誰です?」

隠「それは軍人だったね。この駅が開業した1914年は、第1次世界大戦が始まった年で、日本も参戦してドイツと戦ったんだよ」

八「ご隠居、そりゃちがうでしょ、ドイツと日本は同盟したでしょ」

隠「あのね、それは第2次大戦だよ。第1次大戦では日本は日英同盟結んだ連合国側だったんだよ。中国に青島(チンタオ)ってところがあり、ここがドイツの租借地だったんで日本軍は攻めたんだね。でも日本の本当の目的はこのドサクサで中国の権益の獲得だったんだよ。参戦した緒戦で青島を占領したので、司令官の神尾中将は堂々の凱旋将軍になり、その戦果を天皇に報告に行く凱旋の儀式を、ちょうど開業式のイベントにあてたんだね。大騒ぎのイベントだった」

八「そうか、でだしからして皇居の門として使ったんですね」

隠「外国の大使たちの親任儀式のときも、この駅から馬車か自動車で皇居に参内するそうだよ。駅前の道路は関東大震災の後でできたのだけど、幅が40間という当時としては東京一いや日本一の広さだったね。交通量が多いからじゃなくて、天皇制を具現化する景観をつくる意味があったんだね、その名も行幸道路と言ってるしね。今じゃ行幸なんて言葉が生きているのはここだけだよ」

八「昔も今も皇居の門ですね。わかった、東京駅は天皇制と深い底でつながっているんですね」

隠「だから昔の形に戻すのだろうね、明治の栄光の姿にってね、。復原保存運動の人たちはそうは深く思っていないのだろうが、実はそのような右よりの時代の空気に知らず知らずに加担しているかもしれないね」

八「あっしたちにゃわからねえうちに、誰かに利用されてるかもしれませんねえ、なにしろ屋根の上の空気が金に化けるご時世ですからねえ」

●駅じゃなくて西洋の王様の宮殿みたいで妙にエバリくさった格好ですね

隠「東京駅の復原や駅前のいわゆる行幸道路の修復修景デザインの絵が東京都などから発表されているが、どこか専制君主的とかナチス的なシンボル性を帯びて見えるのは、考えすぎかねえ」

八「この絵は、、並木も無いから暑そうだし、駅じゃなくて西洋の王様の宮殿みたいで、妙にエバリくさった格好ですねえ」

隠「そうだね。近代国家になった日本は、見せないで尊ぶ日本流の御所のありかたの代替として、東京駅を西洋流の見せる宮殿としてつくる意図もあったのだろうなあ」

八「ありゃ、ヘンですよこの絵、だってまわりの超高層ビルが全然描いてないですよ」

隠「おやそうだねえ、ハハハ、この威張りくさった景観も、実はもっと威張りくさった超高層ビル群に押しつぶされるんだよな、皮肉だねえ。思い出したけど、アレは1987年だったか、建築家の丹下健三さんが東京駅改造計画を発表したことがあるんだ」

八「丹下さんてのは、今の都庁舎を設計した人でしょ」

隠「そうだね、で、もうふた昔も前のこと、その丹下さんに東京駅について直接にインタビューしたことがあるんだよ、畳2枚分ほどもある改造計画案の模型を見せてもらいながらね。で、その案の形は、赤煉瓦の東京駅をそのまんま100mの高さまで引き伸ばしてるんだな、もちろん一番上には昔の丸いドームやら尖塔を乗せてね」

八「ってことは、まわりの超高層にうずもれた日陰者じゃないってことですかね」

隠「そうなんだよ、明治に設計した建築家の辰野金吾の考えは、街並みを作ることだった、それが超高層の中に3階で復原しても埋もれてしまって街並みになならない、辰野先生のお考えを現代に生かすのはこの案しかない、と、丹下さんはとつとつと話してくださったよ」

八「えらいねえ、大建築家ってのは、ちゃんと今の時代を見通していたんですね、決めたっ、それにしやしょう!」

隠「おまえはなんでもすぐに感心してしまうね、それじゃあ、戦争の記念碑の役割を忘れたのかい」

八「いやその、、」

隠「もう一枚絵を見せようか、どうだいこの絵は」 

八「おや、前のと比べて味のある絵ですね、これも東京都が描いたんで、」

隠「いや、これはね、設計者の辰野金吾が、完成の予想図として描いたのだそうだよ」 

八「っていうと、明治の終わり頃に描いたんでしょうかね、じゃあ、超高層が無いのはあたりめえだ」

隠「この絵は大勢の出入りする人が描いてあるな。ちょっと虫眼鏡で拡大してみようか」

八「おうおう、クラシック自動車、馬車、人力車、パラソル持った洋風の女など、へえ~面白いや、これならいかにも駅らしいや」

●最初の形に戻したら戦後60年の重要文化財部分が消えちまう

隠「まあ、いずれにしても、東京駅は国指定の重要文化財になったから、今の状態を変えるような建て直しや大改造はできないんだよ」

八「え、おかしいじゃないですかい? さっきご隠居は、東京駅は3階建てに戻すって言ったでしょ」

隠「うっ、ああ、えっ、、」

八「ご隠居、シッカリ、何かのどにつっかえたんですかい」

隠「そうなんだよ、どうもつっかえてることがあるんだよ。重要文化財に指定したのが2003年、とたんに3階建てにするって発表があってね、わたしもヘンに思ってるんだよ」

八「重要文化財ってのは、法隆寺みてえな、ごく古いもんだけかとおもってましたけど、」

隠「そうじゃないよ、ほら、広島の原爆ドームのこっちの公園にある広島平和記念館、あれは1955年に建ったけど、重要文化財になってるんだよ」

八「ってことは、赤煉瓦の東京駅は、戦前のところもあれば戦後のところも合わせて一本で重要文化財ってことなんですね。だって戦後のところだって広島のそれよりもっと古いや」

隠「ああ、おおざっぱに言って、下半身は大正初期、上半身は戦後初期ってことになるな」

八「じゃあ、なおさらわからねえなあ、最初の形に戻したら戦後の重要文化財部分が消えちまうでしょ、いいんですかい、ねえ、ご隠居ッ、エッ」

隠「そう迫られても困るな、大改造するには文化庁長官が許可しなけりゃならんのだけど、今、文化庁は自分のところを建て直し中で、丸の内に一時的に引っ越しているから目の前に東京駅があるね、多分、長官はウンと言わないんじゃないかしら、どうだい八ッあん、エッ」

八「あっしゃ、長官じゃありませんよ、せまらないでくださいよ」

隠「ごめんごめん、文化庁がこれをなぜ指定したかの指定基準によれば、「意匠的に優秀なもの,歴史的価値の高いもの」だからだそうだよ。でも復原改修したら、わたしは歴史的価値が半減するのと思うのだがねえ、文化庁長官もそう思ってくれることを期待しているよ。でもヘンなのだよ、このところ復原改修が決まったみたいに報道されているから、もう長官は許可したのかもしれないねえ、そんな報道記事を読んだことないけど、いつの間にやらかねえ」

八「誰も復原にストップをかけないんですかねえ」

隠「交通信号もレンガも、赤ならストップ、のはずだがねえ」

(おあとがよろしいようで 061130、070117補綴)

toukyost1987【資料】東京駅周辺整備調査1988の内、丸の内赤レンガ駅舎をめぐる調査研究1987

【資料】東京駅周辺整備調査1988の内
丸の内赤レンガ駅舎をめぐる調査研究
(1987)

伊達美徳

この調査報告書について作成者の資料解説

 本論考は1987年当時、国土・運輸・建設の3省庁が設置した「東京駅周辺地区再開発調査委員会」のための作業班としての伊達の調査研究レポート(研究協力者は越野圭子氏)の一部である。
 その当時、歴史的な景観や建築物の保全についてどのように考えようとしていたかについて資料の一部である。
 これをここに公開した2006年2月現在、東京駅は当初形態に復原する方向で2011年ごろ完成にむけて修改築事業が進められている模様である。
 わたしは1988年調査報告書を出して以後はタッチしていないので、当時の調査結果は「現地で形態保全する」とした赤煉瓦の保全方針について、その後にどのような検討と調査を経て「当初形態復元」を採用したのか知らない。(伊達美徳)

東京駅調査研究報告1988(資料その1)
東京駅と丸の内の建築と景観-時代の流れを追って-
伊達美徳(1987年10月)

1.三菱ガ原から一丁ロンドンへ

 東京駅を中心に丸ノ内の経緯を追うならば、その近代の出発点は1877年(明治10)に明治天皇が京都から江戸城に移り、皇居となった時点となろう。この時から丸ノ内地区は江戸と決別して日本の近代化都市へと歩み始めた。

 1888年(明治21)に東京市区改正条例が発布されて、丸ノ内地区は商業術区として位置づけられ、中央停車場の位置も決まり、2年後の明治23年に三菱社に一帯の土地が払下げされた。三菱はこのとき既に、ロンドンのロンバードストリートのような街づくりをするというマスタープランをいだいており、今日の都心形成の基本はこの時に定まったといえよう。

 1894年(明治7)に、三菱ガ原の南に接する位置に東京府庁舎ができ、1899年(明治12)には記念すべき三菱一号館が完成した。草ぼうぽうの野原は南から北に向かって順に開発が進められ、1911年(明治44)に、いわゆる一丁ロンドンが出現した。

2.中央停車場・東京駅の誕生

 一方、東京駅は1890年(明治23)に計画は決定していたが、日清・日露両戦争で財政事情が許さず伸び伸びになって、辰野金音がその設計に着手したのは1906年(明治39))であった。この年に辰野の代表作である日本銀行本店が竣工している。

 1911年(大正3)12月にようやくにして東京駅は開業となり、わが国の中央駅として出発をしたのであった。その中央釈としての役割を負うために、この駅舎は駅としての交通機能が果せればよいとする建築であるわけにはいかなかった。
 当時の鉄道員裁の後藤新平からも、できるだけ大きくという指示がでたり、その意匠も日本近代化のシンボルたらんとする意気込みをもって、いわゆる辰野式ルネサンス様式となったのである。

 しかし駅舎であることは基本であるので、プランは単純きわまるものであり、4か所の通り抜けできる巨大なゲートである。この単純さと巨大さの故に、その後70年以上を存続し得て来たのであろう。

3.近代日本の都市景観形成

 東京駅はその華麗さをもって世間一般からは歓迎されて登場をした。オープニングは第1次世界大戦の好景気のなかで一大イベントであった。
 しかし、専門家の間では必ずしも評価が高いとは言えない論調漁網が、当時の出版物に見られる。機能的な点では、停車場そのものの位置への都市計画的な疑問、出口と入口が南北に分断されているプラン、当時の繁華街である京橋・日本橋の側(今の八重洲側)に出入りロがないという2重の不便さを指摘されている。
 また意匠的には、辰野も悩んだとみられるが、その余りにも長大さをバランスよく納めることに果たして成功しているかについて異論があった。
 だが、これをもって東京駅が価値を滅ずるとするものではない。いつの世でも話題作を素直にほめる専門家は少ないものであることは、最近の新宿都庁舎の例に見るごとくである。

 当時の丸ノ内は、南の一丁ロンドンの他はまだ野原であり、そこに立つというより横たわる東京駅は確かに異様な光景であったに違いない。だが、あえて江戸の旧市街に背を向けても皇居に向かい合う姿勢をとることに、近代化のシンボルとしての意義があったのである。

 駅前から皇居に至る行幸道路と呼ばれたプールバールは、東京市区改正道路の一等一類20間幅の2倍、40間の幅員を持つ特別な広さである。この道路の堀端に海上ビル(大正6)、郵舶ビル(大正12)がゲートをつくれは、その道の両エンドに位置する国家的象徴たる機能を持つ空間と合せて、ここに明治日本の近代化の都市景観ができあがっていった。

4.関東大震災と丸ノ内の発展

 1923年(大正12)の関東大震災が丸ノ内の本格的発展に力を貸したことになる。東京駅も丸ノ内のオフィスビルの多くも無事であった。アメリカ技術をとりいれた竣工直後の丸ビルは大被害を受けて2年後にやっと復旧完成、そして四十間通路も内掘をこえての開通して、丸ノ内は近代日本から現代日本に足をふみいれた。

 それまでの東京の都心であった日本橋や銀座から移転してくる企業も数多くなり、1928年(昭和3)には、中央郵便局が完成して情報中心牲を高める。日本橋から銀座へ、そして日比谷から丸ノ内へと右まわりに都心は動いて、日本のビジネスセンターとして名も実も形もそなわって、三菱の意図したロンバード街を超える近代的街づくりは成功した。

 丸ビルとならんで駅前の景観を整える新丸ビルも着工するのだが、時代は暗く展開して、戦争により基礎工事でストップさせられ、そのまま防火用水になって戦後に至るのであった。

5.姿の変わった東京駅

 太平洋戦争は1945年(昭和20)に丸ノ内にも空襲こよる大被害をもたらした。東京駅は屋根が焼けて抜けて落ち、無残な鉄骨をさらしたのであった。
 だが、場所が場所だけに、戦後の復旧は大急ぎになされなければならない。東京駅の丸の内駅舎の修復は1947年にでき上がったが、南北にあった丸いドームは中央と同様の寄棟形になり、ドームとドームを結ぶ3階建の部分は上部一層を削って2階建になった。

 屋根の鉄骨は木造に、銅板ふきはスレートに替わった。焼けたインテリア装飾は復元すべくもないが、その巨大なスペースだけは残った。しかしながら、3階を2階にしても屋根が変っても、その後の今日まで40年間もなんとかしのいで来ることができた程に、後藤新平の巨大スペースは先見の明あるものであった。
 逆鋭的にいえば、東京駅の建築としての戦後の不幸は、この応急的復旧に耐えた姿のままに生き長らえてきたことにあるのかもしれない。

6.丸ノ内美観論争

 戦後の丸ノ内は、またもや日本のビジネスセンターとしての活気をとりもどして発展していくが、技術革新が新しいオフィス時代の到来を告げる。
 1966年に東京海上ビルの超高層建築への建て替え計画がもちあがり、これを機に建築行政側と建築業界側との間に一大問題が発生した。一般に「丸ノ内美観論争」といわれるものである。

 旧市街地建築物法と旧建築基準法による31メートル軒高のスカイラインと、明治日本の近代化の象徴である様式建築とが、丸ノ内地区の特色ある都市景観を形成していた。
 その景観は、この建て替えによって大きく崩れることを意味するものであり、政治、行政、業界、建築家、文化人を含めて一大論争となった。

 行政と政治の側は、丸ノ内の景観を現在の形による方向に求めて、美観地区条例で対処しようとした。この美観派の声は、今いうところの保存という次元ではなく、皇居という特別な環境を中心とする周辺の都市景観形成として、ボリューム論、高さ論であった。そこには政治的な意図が働く面もあって、いかにも保守派の論という様相を呈した。

 これに対して建築界は、高度成長にのる超高層建築への開発指向もあって、都市形成のダイナミズムこそ時代の要請であるとして、美の表現と建築デザインの自由を唱えて抵抗したのであった。一種の文化論であるが、保守派への反発と超高層建築に単純にあこがれる建築家の本能が働いていたとも見られる。

 この頃、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルの保存問題が大きな話題であったが、丸ノ内では建築の保存を正面切って言う声は出なかった。当時の建築学会の機関紙には「丸ノ内には保存すべき建築は無い」とまで言切っている建築評論家のレポートもある。

7.超高層建築時代へ

 こうした論争と行政の動きの結果は、現在に見る様に軒高100メートルの東京海上ビルが建ち、その後、日本郵船、三菱銀行、第一銀行等の建築が建て替えられ、建築界の主張が通ったかにも見える。だが、妥協の産物となった、というところが実状であろう.

 こうした結果のもたらしたものが、現在の丸ノ内の景観である。その評価が定まるには未だ時間が必要であろうが、この事件が引金になって近代日本を代表する名建築のいくつかが消えたことは、少なくとも確実なことである。

8.東京駅再生への動き

 1977年に国鉄は、東京駅の丸ノ内側と八重洲側一帯の所有地を再開発することを発表し、明確な案が示されてはいなかったが、美濃部東京都知事がこれを応援する。更に1981年には国鉄の案として、超高層ビル構想がだされた。国鉄財政再建のための策のひとつである。

 だが、時代は低成長になり、改めて身の回りや地域の歴史を見直す一般的風潮が主流を占めるようになり、赤煉瓦の駅舎を残せという保存再生鎗が新聞を脹わせる。たとえば、歴史学者の稲垣栄三氏は、東京駅の行方に保存か改築かの二者択一でなく、第三の道をさぐることを提唱する。

 東京駅への識者・一般ともその意見は実に多様である。その姿にみるように既に東京駅の使命は終わったので完全に改築して有効な土地利用を図るべきとするもの、建築当初の姿・形に復元することこそ文化の時代の今こそあるべき対応であるとするもの、外観は当初の姿にして内部は機能的に改築するというもの、近代日本の歴史を身をもって体験して来た東京駅の今の姿こそ残すべきとする見方等、百家争鳴である。

 今、改めて都市景観が総合的に問われる時代になって、東京駅の駅としての機能牲、東京都心の拠点としての立地牲、国民的な中央停車場としての象徴牲、丸ノ内の都心景観の方向牲等を見極める必要があろう。


東京駅調査研究報告1988(資料その2)
「66丸の内美観論争」の経緯

 1966年に東京海上ビルを超高層で建て替える計画が発表され、これを契機に政界、財界、文化人、建築家、建設業界、そして行政など入り乱れて、どちらが超高層反対派でどちらが賛成派か分からない美観論争となった。結果は100mまでなら超高層でも良いという暗黙の了解が水面下でなされて、法的な裏づけはないけれど丸の内は以後その状況が続く。(2006年補:2005年の丸ビル建替えでこの暗黙協定が破られたようだ)

●66美観論争前夜
1963.7.16 建築基準法改正で、高さ制限を撤廃して容積地制を導入
1964.     東京海上火災が三菱地所に新社屋を高層ビルとして設計を依頼するが、地所は高層化に協力せず。
1965.1. 東京海上が前川国男建築設計事務所に新社屋設計を依頼
1965.8. 東京海上が東京都に設計の骨子を説明
 同      10.東京都が建設省へ高度制限の条例制定を打珍
 同      10.中旬 建設省住宅局長と都市局長が諸方面の意向を打診したが持論出ず
 同     12.14 建設大臣の招請で「丸の内景観対策懇談会」設置、16名出席、大勢は高度制限の条例に反対、このころまでに東京海上は「高層ビルからの皇居見下し問題」について、宮内庁から問題なしとの回答をえている。

●66美観論争前期
 東京海上の超高層ビル計画発表(一般的に知られるようになって)から確認申請却下 (の前)まで「ビルの高さ論」から「美観論」へ、対立構図は「超高層建設促進:東京海上」対「超高層反対:三菱地所+東京都」から、一般市民を巻き込む展開となる。
1966.9. 前川事務所が都に近日中に確認申請をする意思表示
9.12「美観地区」条例構想が突然報道、建設省も知らず
9.16 建設省建築審議会に都市景観小委員会を改正.
9.17 東京都が建設省に条例案を通告、建設省前田次官は都副知事に提出延期を要請すれども都は断る
9.19 東京都は20日に予定した条例案の都議会上程を急拠撤回
9.20 東京海上が確認申請提出の意向を表明
10.5  東京海上が千代田区に確認申請を提出するが、都より区へ「受付けないよう」指示があり、持ち帰り
10.6  東京海上確認申請を受付拒否は不穏当と区独自の判断により千代田区が受付
10.8   千代田区が申請書を東京都建築指導部へ回送
10.13 建築センター構造審査会に設計図書が提出される
10.14 東京都が都市計画事議会の部会である土地利用計画調査特別委員会を急拠招集.
10.31 東京都が土地利用委に、確認申請前に知事の認可が必要とする条例修正案を提出
10.31 日本建築家協会が要望書を発表
11.5 建築学会が要望書と意見書を提出。このころから建築関係者の間で、強硬な規制強化に対する懸念を言う活発な動きが起こる。建築・都市計画関係のジャーナリズムで、本来都市づくりとしてこの問題をどう考えるべきかの議論も起こる。「丸の内の美観論」として一般ジャーナリズムにも載りはじめる。東京都は条例案の議会提出を12月も2月も見送った。その後、都知事選挙が近づき、論争はなりをひそめた格好となる。
1967.3.27 日本建築家会が「丸の内地区マスタープラン」を発表(超高層林立の模型)

●66美観論争中期ー申請却下処分から処分取消し裁定まで
「高さ論」、「美観論」、「建築敷地の法解釈論争」、「東京都官僚」対「革新都知事」
1967.4.15 東京都が敷地設定を理由に東京海上の申請を却下。美観条例の決着つかぬまま突然の処分。この日、革新の美濃部都知事が誕生。
6.5  東京海上が都建築審査会に処分取消しの審査請求提出
6.8(16)建築5(4)団体が声明書。
6.20 都建築審査会が東京海上の審査請求を受理
6.21 建設省建築審議会都市景観委員会で美観地区を一律にビルの高さだけで規制するべきでないとの意見をまとめる
7.15 東京都が建築審査会の2委員が不適任であるとして「回避」を申し入れ
7.26 都建築審査会は都の上申書を取上げず。当初1ヶ月程度で決着見込みは大きくずれこみそう。磯村英一ら「都政研究懇談会」有志が意見書。広く国民都民の声を聞き、都心のありかたについての方針にもとづいて裁定を.
8.22 都建築審査会が都の解釈には無理があるとの結論をまとめる。この間、委員の欠席・辞表提出等により審議ができず、裁決がのびのびになり、委負の任期ぎれがせまる.
8.26 都知事から現委員による決着をとの要請があり、この日の審議会で都の確認申請却下処分の取消しを求める裁決が行われた.再審査請求ををだすか裁定を受入れるか都の内部は割れて調整がつかず
10.12 東京海上が建築確認事務手続きを進めるよう都知事に陳情。東京都は再審査請求をせず、裁決に従う方針を決める.この後、(審査会で、都は、敷地の問題のほかは申請内容疑義はないないと説明しているので)事務手続きを進め、建没大臣の認可を得て確認が下りると見られたが、、

●66美観論争後期ー再び建築確認事務が始まり確認が下りるまで
都から国へ舞台が移動、「政府主導の美観規制」論争へ
「皇居見おろし反対」政治家の登場で、東京都の規制に反対の立場であった国が「皇居関連美観論争」推進派に転換。
1967.10.21 東京都が東京海上の構造認定申請書を建設省へ送付.
10.25 西村建設大臣が東京海上の構造認定は慎重に検討したいと談話を発表
11.6   佐藤栄作首相が都知事と会見の際に「超高層ビルは困る」と語る
11.8   佐藤首相が建設計画中止の措置を検討するよう指示
11.9 佐藤首相が「お掘ばたに建てることは控えてほしい」と訪問した東京海上会長と社長に述べる。社長はOKせず。
11.10 西村建設大臣が記者会見で「皇居前のような国民的視野で考えなければならない場所は、政府が最終判断をくだすべき。特別美観地区として立法措置を考えたい」
11.13 政府自民党が通常国会で「特別美観地区」立法措置を講ずる意向を表明
13 建設審議会が「建築基準法改正のための答申」とあわせて「都市景観についての基本的な考え方に関する建議」をまとめた。
11.20 建築3会が「政治介入」排除で申合わせ
11.25 内閣改造で建設大臣は保利茂氏に
12.1 「政治権力の介入の排除」について建築3会意見書。建築界有志意見書文化人有志声明書。
12.13 建築審議会が「都市景観こついての基本的な考え方に関する建議」を建設省に提出(特別立法に反対の意見)
12.19 衆議院予算委員会で委員(社)の質問に、佐藤首相が「美観地区の超高層ビルは好ましくない」、保利建設大臣は「建築審議会の答申を検討して改正を国会に提出したい」と答える
12.26 天皇が東京都知事から都政の報告を受けた際に超高層ビルについて「迷惑でない」と語る
1968. 2.13 建設省が建築基準法改正案要綱を発表
1968.3頃? 東京海上ビルは当初計画の32階高さ127mを25階100mに変更して決着(水面下の政治決着か)。このあと「美観条例」も制定されず、「美観論争」も立消え。都心環境や都市景観がどうあるべきか、どうするべきかという本質的な議論に展開しないまま、ビルの建替えラッシュが始まった。
1974.3 東京海上ビルが完成

●主な参考資料
・国際建築1966.12 「都条例問題の究明」村松貞次郎
・建築年報1968「丸の内地区建築親制問題と都市景観」川上秀光、奥平耕造
・1967年内、朝日新聞、関連記事
・建築知識1984.1「美観地区指定1号となった東京・丸の内」飯塚正三


東京駅調査研究報告1988(資料その3)
リファレンス 『1977東京駅保存論争』‐なぜ今、77論争か‐
伊達美徳(1987年10月)


1.77年論争の発端

 1977年3月16日、国鉄高木総裁が美濃部都知事に、東京駅の全面建て替えの意思表示と、高層ビル建設に伴う許認可への協力要請を行い、丸の内の体系的な再開発を図っていくことで、両者の意見が一致した。
 この報道の直後から、建て替えの是非、特に「赤レンガ」の取り壊しか保存かをめぐる論争が起り、一般新聞紙上でそれらが度々報道された。また、秋頃までに建築関係の各雑誌で特集等でとりあげられた.
 当時、国鉄側の建て替えやむなしの理由のいろいろは、機能上手狭になった、駅舎の老朽化、東北新幹線の増設、八重洲・丸の内の連絡通路の強化、「赤レンガ」は現状では保存するだけの芸術的歴史的価値がない、等であった。

2.論争その後

 建て替え理由の事実上の最緊急課題と言われていた「東北新幹線」の後退もあってか、建て替え構想も対外的には消えていった.3月から11月ごろまで続きた新聞雑誌の報道もなくなっていった。
 その後10年、「赤レンガ」は取壊されないまま、東京駅では大規模な改良が続けられてきている。そして、ちょうど10後の1987年春の建設省の発表を契機として、再び大きな論議がおきはじめた.

3.なぜ今「77論争」か

 丸の内、東京駅をめぐっては、景観上の問題など何かと話題になることがたぴたぴあった。そのなかで東京釈(及びその周辺)の将来のあり方と「赤レンガ」の取扱いを中心に大きな論議を呼んだという点で、今の状況とよくにている.
 従って、既に10年前に今と同じような議論がなされていたことを認識し、それらを復習し整理することは、今後の議論を有効に進めるための端緒として重要である。さらに、今提起されている問題を再び一時的なものに終わらせないためにも、既になされた議論を10年たった今、適切に再評価しておく必要があると考える。

4.ジャーナルに登場した「77東京駅開発・保存論争」一各界の意見

・資料<日経アーキテクチェア77年8月8日号特集「東京駅(丸の内本屋)赤レンガが物語る栄光と悲劇」一東京駅再生をこう考える
・資料<新建築77年10月号長谷川尭「保存についてちかごろまた考えること」
・資料<新建築77年9月号特集「東京駅を考えよう」

4-1.稲垣栄三(東京大学教授・建築史学)<A
…建て替えは蔀市の個性失う;見出せ、建築の価態再生法・・・
・手狭ま、機能が果たせなくなったという理由で取り壊すのは納得できない。
・東京駅は現代建築の持たない古典的な壁面構成や装飾を伝え、東京の玄関として大き な役割を果たしてきた。建て替えは都市の個性を失わせる。
・将来的に要求される機能の付加は広大な敷地全体の中で解決し、同時に明治大正建築 の遺産を継承すべきだ。
・我が国の建築家も今まで欠けていた、古い建築のカチを再生する手法の定着に知恵をしぽるべきだ.

4-2.角本良平(元国鉄、交通評論家)
…駅とは何かの考察を深めよ.再生実現は100年先の問題…
・保存にしても建て替えにしても、そもそも駅とは何かという本質的な考察が必要だ。東京駅のような中央駅の場合、乗降客を適切にさばく横能だけを十分備えた駅であることを考えるべきだ.
・いずれの方法をとるかは乗降客がどの程度増えるかにかかるが、防災安全牲の観点か ら決めるべきだ
・いずれにしても大事業であり、早くて10年先の問題として腰をすえてえて取組むべきだ。

4-3.武藤清(東京大学名誉教授・建築構造学)<A
…耐力、安全牲調査などを椅まえた建て替え議論を…
・原形のまま残っていないので、そのまま保存するのはうなずけない。近代的デザインと技術を駆使した立派な駅を作ったほうが良いのでは…。ありきたりのステーションビルでは困るが。
・建て替えを議論するには、まず建物の耐力、安全性を総合的に調査し、その結果を踏まえて検討すべきだ.

4-4.黒川紀章(黒川紀章建築・都市設計事務所長)<A
…硬直的な保存論には疑問も;財団作りなど具体策必要
・なるべく保存したほうがいい。東京駅はいろんな意味で人々の記憶の中に生きておりその記憶性が他と比べて非常に大きいことは、保存を考える上で無視できない。
・保存とはすぐれて創造的行為である。保存といっても、文化財のような完全保存から外壁保存などを経て最少限の記録保存に至るまで、色々な方法がある。あまり硬直して考えると、「保存」がかえって定着しない。
・本当に保存が必要なら保存財団でも作って、建物所有者に協力するなど具体策を講じないとかけ声倒れにおわる。市民レベルで保存を考えている米国の例にもっと学ぶべきだ。

4-5.長谷川尭(武蔵野美術大学助教授 建築評論家)<B
・赤レンガの駅の基本的性格は「皇居駅」であった。
・東京駅が、鉄道線持と皇居を凱旋道路で結ぶ軸線上に配置された都市デザイン的施設であり、皇居の空間と駅舎とは切り離すことのできない一対の都市意匠として構想され実現されたものであることを抜きに議論することはできない。
・視点が駅舎の側にひきつけられすぎた論が多いようだ。
・時代が変わり、社会的価値体系が変わったといって、かつての時代が真剣に取組んだ建築や都市的スケールの空間の定着を破壊してよいということはない。(もしそうならソビエト政府はクレムリン宮を破壊すべきだし、‥)
・私達も、皇居と東京駅をむすぶワン・ペアの都市空間をどうすべきかについて、時間をかけて討議しなけれはならない。
・できるものなら東京駅は残したい。駅舎の老朽化については、徹底した改修補強を決意すれば、現代建築として新たに更生させることもそれはど難しい課題ではない。
・問題は、決断とそれを支える金の手配に尽きるだろう。

4-6.一般からの投稿意見C>(新建築5月号で「東京駅を考えよう」と登校を呼びかけたのに対して20点の応募あり)
・解体派(6点)、保存派(12点)、中間派(2点)

4-7.国鉄の見解ー国鉄の基本的考えと姿勢一岡部達郎・国鉄建設医局長に聞く<A
4-7-1.全面的建て替え構想を打出した理由、狙い
・手狭になり、利用客に不便になっているので(ラッシュ時の混雑、長距離前売り切符売場がない、出口を間建った場合の不便さなど)、一新して良好なサービスが提供できる駅にしたい。
・丸の内本屋は乗降客1万2千人を想定した設計で、もはや限界。
・東北新幹線のため3本のホームが必要で、丸の内側の線増も必要。
・以上から、「全面的建て替えしかない」というのが、基本的考えだ.
4-7-2.丸の内本屋を保存すべきだという声にたいして
・原型をとどめていないので、国鉄としてはそのまま保存する価値があるのどうか疑問に思っている。
・建築の専門家や一般の人々にも異論はあるだろうから、保存する価値があるかどうか、仮にそうだとすれば将来計画とどう調和させるか、各界の専門家、国民各層の意見を十分意見をきいていきたい。近くそのための委員会を発足させたい。

4-8.磯村英一<77年4月13日読売3面「東京駅周辺を守れ」>
・都と国鉄の勝手な再開発許すな…
・東京駅は、他の一般の駅と建って、日本のシンボル的存在だ。都民だけでなく、多くの国民が東京駅を通ることで、日本=東京を意識してきたことが、被害ながらも維持されてきた支えとなっている。交通のためだけのものではない。
・“日本のひろば”である東京駅と周辺の空間が、国鉄と東京都の財政危機対策を背景として方向づけられるのは、日本のために不幸である。

4-9.外国人新聞記者<77年4月21日読売社会面>
・明治のにおいなぜ消すの?:大改造プランの東京駅:
・外人記者団が猛追及:美濃部さんタジタジ…

4-10.小金井市長<77年5月1日読売都民版>
・東京駅移しちゃおう:ソックリ小金井公国へ:
・大音楽堂や美術館に:金がかかりすぎるのが難点ですが…
・小金井市長が「壊すなら、是非都内での保存を」と、国鉄と都に働きかけ予定

4-11.デービッド・ハウエルズ<77年5月11日読売文化欄>
・東京駅・丸の内を守ろう
・威厳と緑の空間:再開発は八重洲の二の舞・・・
・近代悲劇の見本、八重洲側 ・由緒ある血筋の東京駅
・三菱の高層化が招くもの ・リバプールストリート駅も危機に
・建築家がなぜ反対しない?

4-12.文化庁<77年5月29日読売社会面>
・古典ビル解体「待った」:文化庁が保存調査会…
・東京駅の問題をきっかけとして文化庁は「近代建築保存対策調査・研究会」を設け、これまで文化財行政の枠外にあったものの保存対策をすすめることになった。登録文化財制度の新設も考えられている。

4-13.朝日新聞コラム<77年6月21日朝日1面(天声人語)>
・復元論にも、はやりの超近代化建築にも疑念がある。
・国鉄は、建築家や利用者と議論を重ねて、第三の道をさぐるべきだ。

4-14。稲垣栄三「東京駅再生の論理」<77年4月21日朝日新聞文化欄>
古くなったから建て替えるという主張は必ずしも納得できるものではない。
・本当に「機能が果せなくなった」のかどうか
・仮に機能上有効性を失ったとしても直ちに取壊して建て替えることに結びつくか。
駅本屋の果たす役割は、大量の旅客を適切にさばく(内部の横能性)だけでなく、都市の玄関としての性格(外観上の特性)をもち、これらを切り離すことはできない。
・赤レンガの東京駅もそういう意図でたてられた。旅客をさばく機能は地下通路に委ねた。
東京駅は巨大なゲートでありつづけるものだ。
・駅本屋は3つの口を開いているだけで、実際的な役割は巨大なゲートである。
・この機能の単純さの故に生きのぴてきたといえる。
・東京釈に今後さらに複雑な役割が課せられるとしても、大量の旅客を飲み込み吐きだすゲートとしての役割は依然として主要な任務である。今の東京釈はそれに十分耐えられるだけでなく、これ以上堂々とした玄関を望むことはできない。
欧米で過去の遺産を現代都市に生かす試みが盛んにおこなわれている。
・古い建築の機能牲が失われたとき、取壊すのでなく、生活から隔離して文化財として保存するのでもなく、今の都市機能の中での古い建物のもつ多面的な意義を見出だし、それを今後の都市機能の中に積極的に活かそうという考えに基づいている。そこには、機能的な建築が都市を無性格無表情にしたことの反省、建て替えの繰返しが都市の歴史の積層牲を失わせることへの危機感がこめられている.
・形骸だけの保存でなく、もつ意味を探り、現代生活のなかに位置づける努力を伴う点で、歴史的遺産の正しい継承であり、遺産に対する現代の対応のしかたとして、今後どの国でも採用される普遍性を持つ。
・現実の要求の前に直ちに古いものの取壊しを考えるのは、最も安易で拙劣な方法で、都市の歴史への配慮を欠いた軽率な行為といわなくてはならない.
都市の論理で保全せよ.
・将来東京駅に要請される複雑で影大な機能は広大な敷地全体の中で解決されるべきだ。
・戦前の駅には、都市の特色を考慮した愛すべき建物がいくつかあった。
・いまは新幹線の画一的駅舎のように、そうした配慮は見られない。
・駅はその都市のなかにとけこむべき公共建築の一つなのだ。
・国鉄は自己の論理だけでなく、ある部分では都市の論理に従わなければならない。

5.77論争のまとめ

5-1.建替えを擁護する意見
 建て替えの理由は、「現状では機能面、安全面で無理が生じており、駅として第一義に考えるべき十分な槻能牲と安全性を将来にわたって確保していくには、建て替え不可欠である」という点につきる。
 そのほか、これに付加する理由として、現在の形にしろ、創建時に復元するにしろ、様々な無理をしてまで保存する価値があるのかという疑問を呈するものがある。また、それならば、新しい東京の個性となるような超近代的建物に一新したはうがよいとの意見もある。
 一方、構想自体について、拙速をさけ、丸の内本屋の取扱いを含めて、時間をかけての慎重な検討を要する問題である、という点で一致している。

5-2.保存を擁護する意見
 国鉄の全面建て替え構想に、丸の内本屋の保存の観点から共通してなげかけられる疑問は、「古くなった、現状に合わなくなったといって、すぐ取壊しに結びつけていいのか」という点である。
 また、古い建築物を何らかの形で保存、あるいは再生利用する意義の中で、特に東京駅の場合特筆すべき点として、非常に多くの人々に長年親しまれてきたことによる、愛着性、シンボル牲、記憶性といったものの重要さが、共通して指摘されている。この点は、建て替えを擁護する意見のなかにも多く指摘されている。
 一方、建築学上の、あるいは芸術的な価値の評価については、現在の形、創建当時の形、あるいは創建のいきさつなどについて、様々に意見がわかれ、どのように保存するかは、時間をかけて十分検討する必要あり、という点でのみ一致する.
 また、建て替えの理由となっている機能面安全面については、やろうと思えば古い建物でも補強などの対処の方法はある、と指摘されている。また、広い駅全体で対処の方法を考えるべきだ(今までもそうしてきた)、との意見もある。
 ただし、一般論として、保存再生への所有者の理解、費用負担などの問題があって実現しないことが多いこと、また、古いものを現代都市に生かす実践がすすんでいる欧米と違ってって、一般市民や行政の理解・関心も低く、「保存」ということの難しい実感ものべられている。
 また、「保存」という行為について、文化財のような硬直的な概念でなく、大規模な改装、部分保存など、「古いものを現代に再生して活かす」というように広くとらえ、またそうとらえるべきだ、とするものが、ほとんどを占めている。

6.そして87年の今、10年後のコメント

6-1.機能と安全牲を理由にする「建て替え」だからといって、壊してよいことにはならないという「保存」、諸説わかれる赤レンガの評価など、今も10年前も同じ。落ちのない無駄のない議論、検討をするために、復習は有効だ。

6-2.建て替え派保存派を問わず、多くが「これから時間をかけて各方面の専門家や一般市民の声を良く聞き、供重な十分な検討をすべき」と指摘し、また報道によれば、東京都も国鉄も文化庁もそのような委員会を発足させる予定とあったが、その後検討がすすんだ形跡はなく、今、議論のレベルとしては10年前と同じところにたっている。この点は、これからの検討において、大いに教訓とすべきである

6-3.全面建て替えが必要な機能上不都合な点があげられていたのに対し、結果として、少なくともこの10年は建て替えないで対処可能であった。しかも、かなり大掛りな改良工事が続けられている。
 国鉄としてかなり苦労をして安全牲、利便牲を保ってきたのであろうが、管理保守側に苦労が多いことが、利用者の快適牲の低下につながるとは思えない。他の比較的新しいターミナル駅と校べて、ラッシュ時の混雑やわかりにくさ等、ましな方だ。
 また、現代の機能に合うように建て替えたとして、管理保守の苦労がなくなるはずはない。それがどれほど減り、それに対する利用者の快適度がどれほど向上するのか、そしてそれが何年後まで続くのか、改めてこの10年間を振返ってみて、将来をみきわめることの難しさを実感する.
 かつての創建時の様な帝国主義勃興の中で、世の批判をものともせずに巨大な無駄を押通せる時代ではない今、めまぐるしく情勢が変化する価値観の多様な時代に、いつの将来まで耐えうるものがつくれるか、今あるものをどれだけ捨て去るに値するか、判断は非常に難しい。
 10年前の(国鉄の)状況認識こ照らして、その後の(東京駅の)状況の変化を分析しておくことも、将来像をとらえるうえで役にたつ。

6-4.文化遺産を現代に活かすことの重要性や、欧米での試みの実態、日本の現状などが、当時東京駅問題にからめて既に多く指摘されていたが、10年たって全般的には状況ははとんど変わっていないことを、改めて認識した。

6-5.ただし、つぎのような点で多少変化が見られるように思う。即ち、一般市民のなかでは認識が高まってきていて、記念的建築物の保存に関しても市民運動の一分野を担うようになってきている。
 その一方で、特に東京では国際化等のの社会状況をとらえて経済効率性がより追及されるようになり、保存に値すると思われる建築物等の建て替えを急ごうとして、その扱いに行政や企業のあいだでは神経をいらだたせる様子も見られる。
 「国際化」だからといって新しくつくりなおすことだけが良いのではなく、東京の丸ノ内が国際的役割を担へばこそ、わが街を過去から将来にわたって誇るべき歴史的な重みのある環境をもっていることを人々に示すことが、その価値を高めることになるのではないか。
 ウォール街やシティーが、その歴史のある空間を保ちながらも決して世界の金融センターを脱落しないことに見るように、これは丸ノ内と東京駅を考える上での重要な視点である。


東京駅調査研究報告1988(資料その4)
東京駅丸ノ内本屋(赤煉瓦駅舎)再生論理構築のために
(1987.12.22東京駅再開発計画第4回委員会のためのメモ)伊達美徳

1.これまでの論点

 次の委旦会の大きなテーマとしては、丸ノ内本屋の再生の問題がある。これに関してこれまでの経緯では、既に中間報告において「その取扱いについて十分に検討を行う」としているが、委員会あるいは懇談会における討議を踏まえて考えると、基本的な態度は概論的に次のようになろう。これらを受けて今後の展開をする段階にきている。

1-1.歴史的建築として

 意匠的、株能的あるいは構造的に現在の建築のままであるわけにはいかないにしても、“赤煉瓦の建築”をなんらかの形で歴史的建築として再生する。

1-2.鉄道駅舎として

 例えば、南北の動線をとれないプラン等の駅舎としての問題を解決して、現代の鉄道駅として概能的な施設に再生する必要がある。

2.今後の展開へ向けて

 この様な状況を受けて今後の展開すべき課題は、第1は歴史的建築の再生とは、保存あるいは保全するという命題としてとらえ、駅舎機能の改善及び向上という第2の命題と合せて、駅再開発という基本的命題の中で調和的な解決を図ることである。
 第2の駅機能に関する命題による課題の解決へのアプローチは、ハードウェア的な側面が比較的強いが、第1の歴史的建築再生のそれにはソフトウェア的な問題性が高い。
 ここで、第2の命題による課題解決への調和点を見出だすために、まず第1の命題の歴史的建築の再生の論理を構築する必要があると考える。

3.歴史的建築の再生の論理を構築するために 

 丸ノ内本屋を歴史的建築として再生するには、その建築の持つ意義を多面的に評価を行う必要がある。この評価方法はマニュアルとなっているものがあるわけではないので、その評価軸、評価基準、評価方法等の設定についての作業を行う必要がある。その評価が再生の方向と方策とを示唆するものとなるはずであり、これ等の総合として再生の論理が構築される.

3-1.評価軸の設定について
3-1-1.物理的な施役としての評価一耐震、防災、機能等
3-1-2.歴史的な建築としての評価一建築史、文化史、都市史等
3-1-3.社会的な資産としての評価一都市史、都市景観、社会経済史等

3-2.評価基準の設定と評価の方法について
3-2-1.物理的診断一耐震診断、機能的診断等
3-2-2.内外の事例一歴史的建築の保全・再生の政策、類似事例、論理等
3-2-3.各界の意見一事門家(建築、文化、社会経済、都市、保存、景観等)、業界人(ジャ-ナル、建設業、建築家等)、有識者、保存運動等

4.論理構築にあたって想定されるいくつかの論点

4-1.保全と保存について
 丸ノ内本屋が歴史的建築であるとして、これを広い意味での文化財としてとして“保存する”という概念を大前提にして再生する場合と、今後も駅舎としての機能を果たすべき建築として“保全する”という概念で再生する場合とで、自ずから再生の方向に違いが出ると思われる。
4-2.復元の概念について
 歴史的遺産の復元(復原)に関しては、どの時点に復元(復原)するかについて一般に論のあるところで、本件の場合は械能的修復は当然としても、創建時形態(1914~1945年)復元論とともに現在時形態(1947~)維持論もあると思われる。
4-3.地域景観としての再生の論理について
 丸ノ内地域あるいは皇居周辺地域としての景観形成の歴史的過程を踏まえて、現在の景観の構造の中で丸ノ内本屋のもつ意味をとらえることが要求されると思われる。しかし、あまり間口を広げすぎるのも委員会としては難があろう。
4-4.技術的問題について
 保全・再生の行方には、全面的改築復元から部分詳細部復元までいろいろな段階がありうる中で、建築物の構造的な耐力珍斬によって大きな差が出ると思われる。

<別記>保全・再生手法の比較検討について
 歴史的建築の保全・再生のこれまでの事例からみて、いくつかの手法がある。論理によっていずれかの組合わせによる方法を選ぶことになろう。

1.残存の程度による分類

A.全面解体
耐力的あるいは施工上の問題から、現在の建築の再利用が難しい場合は、全面的に解体することになろうが、この時に保全計画との関係で再建築する駅舎に何を再生し何を再利用できるかの判定が必要である。
B.一都残存
 構造耐力的あるいは施工上の問題をクリアーして、現在の建築の一都又は全部が再利用が可能ならば、これをどこまで残存させて再生利用するかについて、新しい駅舎機能との関係で判定が必要である。

2.再生形態による分類

A.外観再生案 外観全体保全+内観一部再生+新規内部機能
B.ファサード保全案(その1)西側正面外観保全+内観一部再生+低層新建物
C.ファサード保全案(その2)西側正面外観保全+内観一部再生+高層新建物
D.イメージ的再生案
  現意匠イメージを継承する新デザインの建物あるいはディテール保全

3.再生位置による分類

 原則として現在の位置において保全再生することとするが、場合によっては移動もあるかもしれないので、その可能性を検討する必要がある。
A.現在位置案
B.平面的移動案
 駅前広場等周辺施設の再検討の方向によっては、平面的に駅舎の位置を移動する可能性もあるが、このときは改めて再建再生等することになる。
C.立体的移動案 駅前広場等周辺施政の再検討によっては、立体的に駅舎の位置を移動する可能性もあるが、このときは例えは人工地盤の上において改めて復元再生等することになる。

以上



tokyost-nempyo東京駅・丸の内関連総合歴史年表

 東京駅・丸の内関連総合歴史年表

東京駅・丸ノ内 関連年表     作成:伊達美徳       2012/03/08修正

1611年(慶長8)頃

丸ノ内一帯が諸大名や旗本の屋敷地となる

1614年(慶長11)

オランダ人ヤン・ヨーステンが家康より和田倉門外の掘稚に居住地を与えられる(このため内堀のこの一帯を元禄ころから「やよすかし」八代洲河岸と呼んだ。つまり八重洲の地は元来は今の東京駅の西側にあった)

1629年(寛永 6)

鍛冶橋、呉服橋が外堀に架かる

1636年(寛永13)

(7月23日)江戸城外郭が完成。この頃以後に城郭の曲廓の内を示す「丸ノ内」が成立(ただし、町名は1929年の町名変更からで、それまでは北から永楽町、八代洲町、有楽町)。

1872年(明治 5)1月、丸の内の後の開発事業者となる三菱社前身の「三川商会」(1873年三菱商会と改称)を土佐の岩崎弥太郎が設立(1874年東京に本店を移す)。2月26日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火、京橋から銀座界隈34カ町に大火、1万数千戸を焼失。丸ノ内の焼跡を錬兵場や兵営街に。ウォートルス設計による銀座煉瓦街建設に着手。9月12日横浜新橋間に鉄道開通。

1877年(明治10)

(10月)明治天皇が江戸城に入る。丸ノ内地区の屋敷を皇居護衛の兵営等に転用。司法省、裁判所等設置。イギリス建築家ジョサイア・コンドル来日。三菱は西南の役の軍事輸送で多大な利益。

1883年(明治16)

日比谷に鹿鳴館落成(コンドル設計)。

1888年(明治21)

8月16日、東京市区改正条例(勅令62号)公布。12月、政府は軍事費の増大に対応するために丸の内の陸軍用地売却を決め、以後三菱と三井グループの水面下の駆け引き競争始まる。

1889年(明治22)

(2月11日)大日本帝国憲法法発布。(5月20日)東京市区改正委員会の計画公布し、丸ノ内の基本方針は商業地としての土地利用とす。10月、丸ノ内一帯の払下げ競争入札不調(政府案は道路共で13.5万坪を約151万円)。市区改正設計で 中央停車場の位置決定 

1890年(明治23)

(3月6日)三菱社に丸ノ内の陸軍用地を道路等の公共用地を除き売却。107026坪、128万円で神田三崎町2万坪含む。この後2年間、建物を撤去して広大な草原の空き地は三菱が原とも賭博ケ原とも呼ばれた。中央停車場の計画決定(10月)内大臣西郷従道から鉄道庁長に訓令。

1891年(明治24)

三菱社 丸ノ内の開発計画書を東京府に提出、荘田平五郎(三菱杜支配人)は総合的な都心開発を意図。

1892年(明治25)

三菱1号館(コンドル没計)建役着手(1月)

1894年(明治27)

7月、東京府庁舎竣工(妻木頼黄設計、後に関東大震災で焼失)。7月、日清戦争勃発。6月30日、三菱1号館完成(コンドル設計、棟割長屋式貸事務所、383坪、地下1地上3階、1968年取り壊し)

1896年(明治29)

4月、中央停車場及び高架線の「新橋永楽町間建築事務所」を新橋駅構内に開設 し、高架工事に着手(当初は中央停車場の開設予定は1903年頃であったが日清、日露戦争で延期)

1902年(明治35)

三菱1号館内に郵便局開設

1903年(明治36)

(3月31日)市区改正新設計公示。路面電車が半蔵門一日比谷一神田橋間開通し大量交通機関と連絡。6月1日、日比谷公園開設。 12月、辰野金吾が逓信省鉄道作業局より中央停車場設計を委嘱され、各種案の検討に入る。

1904年(明治37)

2月、日露戦争開始(~05年)、このため3月以降は鉄道工事一時中止。

1906年(明治39)

鉄道国有法発布。日本銀行開館(辰野金吾設計、一部現存)。東京市臨時市区改正局設置。ポンド事業公債を募集。12月、 中央停車場実施案の設計に着手 (設計者:辰野金吾、葛西萬司)

1907年(明治40)

3月15日、 中央停車場基礎工事着手

1909年(明治43)

6月、院線有楽町駅開業、9月15日、院線呉服橋仮停車場開業。東京駅開業時に廃止)。 10月、辰野金吾が中央停車場設計を完了。

1911年(明治44)

2月、帝国劇場竣工(横河民輔設計)、三菱13号館完成。一丁ロンドン成立(これでレンガ造建築は終了)。4月、三菱14号館完成(これより21号館まで壁体RC造、屋根木造の時代)

1913年(大正 2)

三菱本社設計競技結果発表(4月、1等木子幸三郎(実施せず)。

1914年(大正03)

市区改正新設計による道路が完成。 2月、中央停車場工事竣工(長さ184間331m、幅11~12間、建坪2341坪1合、延べ床面積7242坪、最高部高さ152尺、建築費282万2千円、ホーム等も入れて工事費407万1千円) 
6月、三菱21号館完成(RC4階503坪、エレベーター付き、最初の共同利用型近代的賃貸オフィスビル。これまでの事務所建築は棟割長屋式か一棟特定企業利用方式の個別型)。
7月、ヨーロッパでに第1次世界大戦勃発、日本は好景気時代が到来。11月、日本は中国権益拡大の好機ととらえて第1次世界大戦に参戦、ドイツ領青島を占領。
12月18日、中央停車場開業式(東京駅と命名、盛大な開業式を青島攻略軍指令官神尾中将の凱旋皇居参台式と合せて開催。同時に東京横浜間に開通した電車線故障で以後5か月運休)。

1915年(大正 4)

(11月28日)東京駅に精養軒の経営で東京ステーションホテル開業

1916年(大正 5)8月、銀行倶楽部竣工(横河工務所設計)
1917年(大正 6)4月、東京駅前に中央郵便局舎が完成(1922年火災焼失)

1918年(大正 7)

3月、丸の内全体の通り名、街区名、ビル名を改称。9月、東京海上ビル竣工(曽根中条事務所設計、構造・内田詳三)。11月、第1次世界大戦終結。

1919年(大正08)

3月、中央線電車開通。3月25日、辰野金吾没(65歳)。4月、都市計画法と市街地建築物法公布(建物高さ最高限度100尺)。

1920年(大正09)

3月、第1次大戦(1918年終結)後の反動不況はじまる。7月、丸ビル着工。日本工業倶楽部会館竣工(一部現存、横川工務所設計)。

1921年(大正10)11月4日、原敬首相が東京駅改札通路で国鉄職員の中岡良一に暗殺される

1922年(大正11)

3月、三菱銀行(三菱合資会社地所部技師・藤原朗設計、構造・佐野利器)竣工

1923年(大正12)

2月、丸ビル(三菱合資会社地所部技師長・桜井小太郎設計、東洋フラー社施工、鉄骨CW造、地下1地上8階、延18千余坪)竣工。8月、帝国ホテル新館開業(F.L.ライト設計)。
9月1日11時58分、 関東大地震で東京・埼玉・神奈川・山梨・千葉・静岡で大被害、 東京駅は被害微少 (警視庁・帝国劇場、東京府庁舎等は炎上、建築中の内外ビルは倒壊、丸ビル・郵船ビルは被害あり、被害の少なかった赤レンガ街に官庁や会社が臨時移転、新丸ビル用地に仮設店舗)。
9月27日、丸ビル内に帝都復興院設置し帝都復興事業を開始(後藤新平総裁、佐野利器建築局長)。12月24日、東京・横浜に特別都市計画法を公布。

1924年(大正13)

10月、丸ノ内ホテル竣工。

1925年(大正14)

11月、上野方面に電車運転開通。大手町に東京中央電信局舎(山田守設計)

1926年(大正15)

7月、丸ビル復旧工事完了(鉄骨RC造に改修)。8月、 東京駅前四十間道路と皇居前広場を結ぶべく内堀を埋め立てて行幸道路完成

1927年(昭和 2)

3月、衆院委員会での片岡蔵相失言により金融恐慌始まる。10月、日本赤十字社東京支部竣工(岡田信一郎設計)

1928年(昭和 3)

3月、八重洲ビルジング竣工(三菱合資会社地所部藤村朗設計、後に丸の内八重洲ビルと改称、2007年取壊し)

1929年(昭和 4)

4月、帝都復興計画により丸の内一帯の町名地番変更、東京駅所在地名を永楽町から丸の内に変更。6月、丸ノ内ガラージ竣工(日本最初の駐車場ビル、250台、6階建)。 12月16日、東京釈八重洲乗降口開設 (電車のみ取扱)。

1930年(昭和 5)3月、横須賀線電車運転開始。3月24日、帝都復興事業完成を祝う帝都復興祭を二重橋前広場で挙行。11月14日、浜口雄幸首相が右翼青年の佐郷屋留雄にプラットホームで狙撃されて重傷を負う。

1931年(昭和 6)

12月、東京中央郵便局竣工(現存、吉田鉄郎設計、開局は1933年11月)

1932年(昭和 7)

10月、丸の内野村ビル竣工(佐藤功一設計)

1933年(昭和 8)

皇居周辺地区294haを「美観地区」に指定 、宮城を見下ろさないように段階的高さ制限を規定。

1934年(昭和 9)

明治生命館竣工(3月、現存、岡田信一郎設計)

1936年(昭和11)11月、帝国劇場会館

1937年(昭和12)

12月27日、 東京駅乗車口と丸ビル間に地下道開通

1938年(昭和13)

1月30日、 東京駅降車口と鉄道省間に地下道開通

1945年(昭和20)

1月30日、戦火を逃れるために東京駅貴賓室御料品の一部を浅川に疎開。3月10日、東京大空襲、10万人の死者。5月25日、深夜の東京大空襲により丸の内一帯と山手が罹災。 東京駅降車口付近に焼夷弾が命中して駅舎炎上、レンガ壁は残るが屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた 。6月25日、東京駅八重洲口出札所前に爆弾投下、爆風による被害。8月15日、終戦。9月から復興体制を準備。

1947年(昭和22)

3月15日、 東京駅駅舎改修工事の外観がほぼ完成 (3階建を2階建に、南北のドームは丸屋根を角屋根に改造)。5月7日、乗降客数調査280,656人。11月20日、東京駅八重洲側の外堀埋立工事完成。12月13日、東京駅八重洲出札所完成使用開始。

1948年(昭和23)

11月16日、 東京駅八重洲口新駅舎(木造)完成 し使用開始。現在の八重洲口側の外堀を埋め立て。

1949年(昭和24)

4月29日、 東京駅八重洲口新駅舎が失火 で焼失 。6月1日、日本国有鉄道(公共企業体)となる。11月29日、乗降客数307,878人、乗換客数140,971人。

1950年(昭和25)

鉄鋼ビル完成。3月1日、湘南電車運行開始。12月28日、 東京駅ステーションホテル復旧工事着手。

1951年(昭和26)

7月、第一鉄鋼ビル竣工。11月15日、 東京駅ステーションホテル復旧落成 営業開始。

1952年(昭和27)

10月6日、 東京駅新八重洲口広場使用開始 。10月14日八重洲駅ビル着工。11月28日、新丸ビル完成。

1953年(昭和28)

7月1日、八重洲名店街開店、 丸の内八重洲間自由通路開設 。9月1日、 東京駅八重洲中央口及び南口開設。

1954年(昭和29)

丸の内駅舎の貴賓室完成して戦災復興工事完了。 東京駅中央通路が八重洲中央口まで貫通して使用開始。2月、国際観光会館竣工(設計:土浦亀城)。3月、第二鉄鋼ビル竣工。10月14日、東京駅八重洲口新駅舎・鉄道会館使用開始。10月21日、大丸百貨店開店。

1955年(昭和30)

3月26日、東京駅八重洲北口開設。

1956年(昭和31)7月20日、営団地下鉄東京駅が開業。

1957年(昭和32)

この頃より国鉄十河総裁の発案で丸の内駅舎の改築を含めて東京駅の将来構想検討がすすめられ、丸の内駅舎24階建案をが発表(構造について東大に研究委託)。

1958年(昭和33)

7月15日、東京都施行の都市計画土地区画整理事業を八重洲橋一帯で施行決定。

1959年(昭和34)

11月1日、 丸ノ内乗車ロと降車ロをいずれも乗降できるように変更 

1960年(昭和35)

11月12日、東海道新幹線関係東京駅第1期工事着手。

1962年(昭和37)

3月、東京駅高層化25階の可能性の結論。

1963年(昭和38)

建築基準法改正、高さ制限撤廃

1964年(昭和39)

10月1日、東海道新幹線開業

1966~67年 

東京海上ビル超高層建替計画(高さ127m)を契機に丸ノ内美観論争が展開。東京都は美観条例を制定して超高層ビル規制を意図。建築界は超高層建築建替賛成方向で保存や景観誘導に反対論展開。三菱地所、文化人、造園家たちは規制に賛成。佐藤栄作首相の「皇居を見下ろす超高層ビルは困る」発言で政治的様相。結局は高さ100m高さで妥協、美観条例制定も取りやめ。

1966年(昭和41)

9月、東京都が美観地区条例を都議会の上程(後に取り下げ)。10月6日、東京海上ビル(前川国男設計)建築確認申請提出。11月5日、日本建築学会が美観地区条例制定に慎重研究を要望。11月21日、建築関係5団体は丸ノ内美観地区建築規制反対意見書を都市計画審議会土地利用計画特別委員会に提出。

1967年(昭和42)

3月27日、日本建築家協会が丸ノ内地区マスタープランを発表(超高層の林立する計画)。3月、帝国ホテル(F.L.ライト設計)の建替え計画発表。4月15日新東京海上ビル確認申靖が敷地の取り方に問題ありとして却下。5月26日、建築学界が帝国ホテル保存要望書を犬丸社長に提出。6月5日、東京海上火災が東京都建築審査会に審査請求書を提出。6月7日、建築5団体(家協会、士会連合会、学会、業協会、建設業協会)が東京都の態度に反対表明。7月18日、「帝国ホテルを守る会」(藤島亥治郎会長)が発足。9月26日、東京都建築審査会が東京海上ビル建築確認4月15日処分を取消の裁決。
国鉄が24階建て東京駅将来計画を提案(鉄道建築ニュース10月号)。

1968年(昭和43)

1月10日、東京地下駅工事着手。6月30日、東京駅八重洲本館6階建を12階建に増築竣工。三菱地所が重要文化財級の三菱1号館(コンドル設計)を取り壊し。

1969年(昭和44)

2月10日、八重洲大地下商店街営業開始。4月10日、東京駅八重洲呉服橋口完成。

1972年(昭和47)

7月15日、東京地下駅開業・総武線乗入れ

1974年(昭和49)

新東京海上ビル(前川国男設計)竣工、以後軒高31mの丸の内景観の大変化始まる。

1977年(昭和52)

3月16日、美濃部都知事と高木国鉄総裁が会談、東京駅と丸ノ内一帯のオフィス街の再開発構想を発表、東京駅丸ノ内本屋の保存と建替えに関して論争おこる。10月、日本建築学会が東京駅丸の内本屋保存要望書を国鉄総裁に提出。

1978年(昭和53)国鉄において東京駅丸の内本屋のの保存・建替えに関する各種計画案を検討して提案(鉄道建築ニュース7月号)。3月、東京駅丸の内本屋松杭の調査。
2月、日本郵船ビル建替え竣工。

1981年(昭和56)

1月1日、 国鉄が東京駅再開発構想発表 (丸ノ内本屋は35階建て30万平米の超高層ビル に建替えて国際会議場・各国出先機関・事務所等を、八重洲側は北地区は30階30万平米の事務所・店舗・ホテル等を、南地区は30階6万平米の自治体出先機関・店舗等を導入し、延面積で霞ヶ関ビルの4棟分の計画)。

1986年(昭和61)

4月8日、自民党の民間活力導入特別調査会が東京駅周辺地区・汐留・13号埋立地の3大開発事業推進に関する緊急提言。12月、(財)都市計画協会が東京駅周辺地区を国際業務センターとする提案。

1987年(昭和62)

4月1日、国鉄民営化により、JR東日本、JR東海、国鉄清算事業団が発足、 東京駅の土地建物の 分割所有協議が始まる。
4月22日、
 「東京駅周辺再開発に関する連絡会議」発足 (構成:国土庁・運輸省・建設省・東京都・国鉄清算事業団・東日本及び東海旅客鉄道会社〉。7月15日 「東京駅周辺地区再開発調査委員会」 第1回委員会 (八十島委員長、芦原、石原、井上、内田、日笠、村松委員)東京駅土地建物の再開発等の検討が始まる。9月1日、第2回東京駅周辺地区再開発調査委員会開催。9月22日東京駅周辺地区再開発調査委員会第1回懇談会開催。10月8日、第2回東京駅周辺地区再開発調査委員会開催。12月2日、東京駅周辺地区再開発調査委員会第2回懇談会開催。 
12月11日、日本建築学界がJR東日本に赤煉瓦駅舎保存の要望書を提出。 
12月12日、 「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」発足 (筆頭代表者:三浦朱門・高峰三枝子、赤煉瓦駅舎保存復原運動を開始)。

1988年(昭和63)

1月19日、 三菱地所が「丸の内マンハッタン計画」を発表 (容積率2000%)。
3月2日第4回東京駅周辺地区再開発調査委員会開催、「赤煉瓦駅舎の現地における形態保全」の方針を決める。3月17日東京駅周辺地区再開発調査委員会第4回懇談会開催。3月29日第5回東京駅周辺地区再開発調査委員会開催。
3月、 国会で文部・運輸大臣の赤煉瓦駅舎保存方向の答弁 。4月27日、 「東京駅周辺地区総合整備基礎調査」(国土庁、運輸省、建設省)を発表 、 赤煉瓦東京駅は「現在地において形態保全」方針決定 。 12月12日東京駅周辺地区再開発調査委員会第3回懇談会開催。
6月29日、愛する会主催の東京駅復元保存シンポジウム(日本工業倶楽部)。7月20日、「大手町・丸の内・有楽町地区再開発推進協議会」発足(会長は三菱地所社長)。

1989年(昭和64)3月 、JRにおいて東京駅再開発基礎調査等実施。

1991年(平成 3)

東京都庁が新宿に移転。旧都庁舎、銀行集会所取り壊し。 2月、 JRにおいて東京駅丸の内ビル開発計画調査。

1993年(平成 5)

銀行協会ビル竣工(外壁保存)。

1995年(平成 7)

DNタワー竣工(第1生命一部保存、イメージ保存混用)。
2月、JRにおいて東京駅丸の内本屋活性化構想

1996年(平成 8)

10月1日、 石原慎太郎都知事が東京駅の復原と周辺整備構想を発表 
10月5日、 JR東日本松田社長が東京駅の復原を発表 。「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり懇談会」発足。東京フォーラム完成(設計ラファエル・ヴィ二オリ)。

1997年(平成 9)

2月、JRにおいて東京駅丸の内駅舎復元保存に関する調査。
丸の内ビルディング取り壊し。
「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり懇談会」が「ゆるやかなガイドライン」を発表。東京都が都市景観条例を公布。千代田区が景観まちづくり条令を公布。国鉄本社跡地などを三菱地所と森ビル等が落札購入

1998年(平成10)10月、石原都知事と松田JR東日本社長が会談し、丸の内駅舎の復元に関して意見一致。 鉄道省庁舎(国鉄本社)ビル取り壊し。丸ビル関連特定街区指定。
1999年(平成11)東京駅・丸の内地区検討調査(日端座長)が容積率移転による赤レンガ駅舎の保全制度を提案。

2000年(平成12)

まちづくり懇談会が「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン」

2001年(平成13)

12月26日、東京都が委託し日本都市計画学会が設置した、学識経験者、行政、地権者などを委員とする 「東京駅周辺整備に関する研究委員会」 (委員長 伊藤滋早稲田大学教授)において、 「東京駅周辺の再生整備に関する研究」 報告書を発表(皇居、行幸通りと連担してプロトコール(外交儀礼)機能を意識した 丸の内駅舎の保存・復元 )。5月、「特例容積率適用区域」制度施行

2002年(平成14)

2月15日、石原都知事とJR東日本大塚社長が会談し、「東京駅及び周辺の整備計画について」発表、東京駅丸の内駅舎を 創建時の姿に復原すると決定。 建て替えた丸の内ビルディング竣工。
6月、大手町・丸の内・有楽町地区一体に「特例容積率適用区域」を指定(容積率移転による赤煉瓦駅舎保全復元策の登場)。千代田区「大手町・丸の内・有楽町地区計画」制定(特例容積率適用による容積移転の基本原則を定める) 
。9月、丸ビル建替え竣工。

2003年(平成15)2月、(旧)日本工業倶楽部会館を一部保全・一部復元した「日本工業倶楽部会館」とその容積率を活用した「三菱信託銀行本店ビル」が竣工。4月、 東京駅丸の内駅舎が国指定重要文化財 に(指定理由: 煉瓦を主体とする建造物のうち最大規模の建築で,当時,日本建築界を主導した辰野金吾の集大成となる作品として,価値が高い)。
2004年(平成16)8月、重要文化財の明治生命館の容積移転による明治安田生命ビル竣工(特定街区)。9月、丸の内オアゾ竣工( 国鉄本社跡地再開発)。
2005年(平成17)3月、ペニンシュラ東京竣工。10月、東京ビル建替え竣工(赤レンガ東京駅の容積移転、特例容積率+特定街区) 
2006年(平成18)3月、三菱商事ビル竣工

2007年(平成19)

2月、三菱商事ビル・古河ビル・丸ノ内八重洲ビルを取壊し。4月、新丸ビル建替え竣工(東京駅赤レンガ駅舎の容積移転先。、特例容積率+特定街区)。5月、 東京駅丸の内駅舎の復原工事着手 (2011年完成予定)。11月、2棟の超高層ビル竣功(グラントウキョウノースタワー、グラントウキョウサウスタワー、 八重洲側の東京駅敷地と観光会館敷地に2棟の 赤レンガ駅舎の容積移転先。特例容積率+特定街区)。

2008年(平成20)

6月、東京中央郵便局舎の建て替え計画を日本郵政が発表。11月、八重洲側に丸の内トラストタワー竣工

2009年(平成21)

3月、東京中央郵便局舎の一部保存建替計画の都市計画決定、都市再生特区+特例容積率制度による東京駅から容積移転で基準1300%を1630%に容積率緩和。4月、丸の内パークビルと三菱一号館美術館竣工(東京駅赤レンガ駅舎の容積移転先。特例容積率+特定街区)。

2010年(平成22)

3月、行幸道路再整備完成

2012年(平成24)6月、 東京駅丸の内駅舎復原工事竣工 。5月、JPタワー竣工
 2013年(平成25)
 
 2014年(平成26) 
 2015年(平成27) 10月、第一及び第二鉄鋼ビル再開発竣工

2017/01/08修正追加
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