2021/10/12

tokyost2007hukko1東京駅復興(その1)空爆廃墟からよみがえった赤レンガ駅舎

東京駅復興(その1)
空爆廃墟からよみがえった赤レンガ駅舎
伊達 美徳
(2007年)


●東京駅炎上す

 1945年、熾烈を極めていた第2次世界大戦は終局に向かいつつあった。5月7日にドイツが降伏してヨーロッパ戦線は終わったが、日本では太平洋戦争末期の悲惨な状況となり、日本上空はアメリカ軍飛行機が事実上占領してしまい、地上に容赦なく攻撃を加えた。

「日米開戦以来当局は『東京の守りは万全で、敵一機たりとも侵入を許さない』と発言し続けてきた。にもかかわらずB29はゆうゆうとして侵入。・・・ 当夜は 警報発令後数分にして駅前広場に焼夷弾が落下、一面火の海と化した。とみるうちに降車口が焼夷弾を受け出火した。ホテルの部屋続きのため、延焼を防ぐため バケツを持って駆けつけたが、火を吹いてるのは天井でバケツを必死に操作しても火に届かない。駅側に手押しポンプ一台があったが、それも役に立たなかっ た。かくするうち、西端の食堂部分からも発火、続いて中央郵便局も火を吹き始め、それまで微風であったものが一五㍍ぐらいの強風が西側より吹き荒れ始め た。・・・」

 これは1945年5月25日の深夜、東京大空襲により炎上した東京駅丸の内駅舎にあるステーションホテル支配人だった井上三郎さんの手記の一部である(「東京大空襲・戦災誌」第2巻763ページ)。

 1914年に完成した東京駅丸の内駅舎は、レンガと鉄骨で造ってあり、関東大震災にもほとんど無傷であった頑丈な建物であった。しかし、米軍のB29爆撃機による焼夷弾は火災を起こす爆弾だから、丸の内北口屋根を直撃した弾がたちまちに炎を上げる。
 屋根の構造材は鉄骨で作ってあるが、鉄は火には弱いからグニャグニャになって崩れ落ちる。3階の天井が燃え、内装にうつり、横に広がり、次第に下の階へと火は回る。駅員たちは必死に消火に努めたが、ほぼ全焼した。

 井上さんはホテルの消火をあきらめて、皇居前広場に避難する。このときは皇居(その頃は宮城といった)にも飛び火して炎上し、消防車は総てそちらに動員 されていたので、東京駅も駅長以下駅員全員で自主消火作業にあたったという。この惨劇下であっても時代の空気を反映している。

屋根を失った東京駅丸の内駅舎1945年5月



●東京大空襲の惨劇

 太平洋戦争がはじまったのは1941年12月、終ったのが1945年8月である。緒戦の成功で日本では戦勝気分のある1942年4月18日、東京は米軍機による爆弾投下の空襲(近頃は空爆というようで、イランやイラクなどで米軍がやっているのと同じ)を受けた。

 前述の東京駅のホテル支配人の「日米開戦以来当局は『東京の守りは万全で、敵一機たりとも侵入を許さない』と発言し続けてきた」のだったから、誰もが びっくりし当局でさえもうろたえた。この初空襲では、下町方面が爆撃を受けて死傷者346名(死者39名)。焼失破損家屋251戸であった(東京大空襲・戦災誌第2巻22p)。

 そして未曾有の惨劇の1945年3月10日の大空襲、約300機のB29爆撃機のおとす焼夷弾は、雨あられのごとく下町地域に集中して墨田、江東、台東 の各区内は全滅状態となった。罹災者約100万人、焼失家屋は約27万戸、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。このときは東京 駅は罹災しなかった。

 あまりにも多くの死者で、その数は明確ではないが推定10万人とされる(「東京大空襲・戦災誌」第1巻26ページ)。たったの2時間半で10万人が死ぬ惨劇であった。なお、1923年の関東大震災が死者が10万人~14万人と、これもあまりに多すぎて正確な数字はわかっていない。

 東京空襲は日常的となるが、1945年5月24日にB29爆撃機525機、5月25日に同470機が来襲し、都区内全般にわたって26日にかけて火災がおき、死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸の被害となった。

 このとき丸の内も被爆して東京駅や運輸省、海軍省などの官庁、海上ビル新館、郵船ビル、帝国ホテル等に火が入った(警視庁警備総第183号昭和20年5月26日)。郵船ビルもリストにあるが、後述するように内田百閒夫妻が一度中に入っているから、一部が罹災したのであろう。

 東京駅が焼けた5月時点で東京都区内の半分が焼けて廃墟になったことになり、米軍側も東京を爆撃目標リストからはずしたのであった。東京は初空襲から終戦までに106回もの空襲を受けたのである。

 東京がもっとも被害が大きかったが、軍需工場への投弾はもとより日本各地の主要都市への無差別攻撃は8月15日まで各地で続いたが、原爆という惨劇によって日本は戦争のとどめさされたのであった。
 東京駅丸の内駅舎の炎上は、そのような戦争のもたらす未曾有の惨劇の中の、一コマであったのだ。この大空襲の惨劇を物語る建物は、今なにがあるのだろうか。

●内田百閒が見た東京駅炎上

 東京駅が炎上中の丸の内にちょうどやってきたのは、小説家の内田百閒氏である。四ッ谷駅近くの五番町の自宅を焼け出されて、夫人と一緒に火の中を逃げまどった末に、丸の内にある勤め先の日本郵船ビルに避難しようとしたのである。
 そこでこの名文家は、『東京焼盡』なるルポルタージュを残してくれている。

「牛ケ淵からお濠端を伝つて歩き、中央気象台の前の和気清麿の銅像の前で又休んだ。それから大手町に出て段段郵船に近づくと向うの方から新らしい火事のに ほひのする青い煙が流れて来た。辺りは昨夜焼けたと思はれる所もないのに不思議だと思つてゐたら、和田倉門の凱旋道路に出て見ると東京駅が広い間口の全面 に亙つて燃えてゐる。煉瓦の外郭はその儘あるけれど、窓からはみな煙を吐き、中には未だ赤い炎の見えるのもある。」

 気の毒にも、このとき郵船ビルでは水が出ないので避難できなくて、百閒夫妻は疲労困憊の体を引きずってまた五番町に戻り、バラック小屋暮らしのとなるの であった。こんな悲劇なのに百閒流の例のおかしさが漂うには、逃げまどう最中にも酒の一升瓶を抱えており、時々飲んでいたのというのである。
 百閒は更にその後の東京駅の様子も書いている。

「夕方近く会社から東京駅へ出て見ると、焼けて屋根もなくなり足許は灰と砂で凸凹になつた歩廊に人が一ばいつまり到底電車に乗れさうもないから諦めて歩い て帰る事にしようと思つたが、乗車ロから這入つて中央ロヘ出る迄その人ごみを掻きわけるのに汗をかいた。焼けた後の東京駅の惨状は筆舌の尽くす所にあら ず。廃墟は静まり落ちついてゐる筈だが、東京駅は未だ廃墟でもない。亡びつつある途中である。乗車口に巻き上がつてゐる埃は生ま生ましい。高い天井の跡か ら何か落ちて来さうで改札口を通るのもあぶない様である。やつと中央口から出たが、今頃の時間には中央口は這入る丈の改札で、出る事は出来なかつた筈であ るけれど、もうそんな事も構はなくなつた様である。外へ出て歩き出したのが五時二十分前であつた。」(5月31日)

 屋根が焼けてしまった東京駅は、7月になっても青天井のままだったようだ。

「午後団子腹にて颯爽と出社す。雨大いに降り出す。夕帰る。東京駅は屋根がない。乗車口のホールに上から雨が降り灑(そそ)いでゐるからみんな傘をさして改札を通る。」(7月17日)

 7月20日午後に出社すると、郵船ビルもあちこち壊れている。このときは当然、丸の内の駅舎も何かしら被害の上に被害があっただろう。

「朝のどしんと云ふ音は爆弾であつて東京駅の向う側の八重洲口の近くに落ちたのださうである。その為に郵船の窓硝子が方方こはれ古日の隣りの部屋の壁に懸 かつてゐた電気時計は落ち、扉の金具もちぎれた様になつてこはれてゐる。云はれて気がついて見れば足許の床に壁の剥がれたかけらが散らばつてゐる。皆爆風 の為である。郵船ビルは大分離れてゐるのにこの始末にて矢張りこはいものだと思ふ。」(7月20日)

 7月26日に東京駅前広場で、露天売りの野菜を買い求める。

「午後出社す。夕帰る。御飯を食べない所為か歩くと身体がだるくて困る。行きがけに東京駅の前の広場の芝生にて胡瓜とどぜういんげんを売つてゐたのを見て 買ふ気になり胡瓜二くくりと隠元一把と買つた。隠元は十八本にて一円、胡瓜は二本一くくりにて二円〆て五円の買物なり。そんな物を見た途端に何の躊躇もな く買ふ気になつたのは余程青い物の成分が身体に欠乏してゐるものと思はれる。」(7月26日)

●終戦と同時に東京駅修復へ

 1945年9月15日の朝日新聞はその第2面に、といっても新聞は当時は2ページしかなかったのだが、次のような記事を載せている。

東京駅の復興 昔に返るか、出直しか 三段構へで完成に五年 東京駅の復興が始まった。日頃不便な通勤の能率を上げるばかりでなく、日本の一表象としての顔を洗ふ必要もある。さてこれを昔どおりの姿に戻せといふ意 見もあり、将来の新日本にふさはしい、画期的なものとしようとの意見もあり、最終の設計は今協議中で、とりあへず三段構へをもって臨み、まづ第一段として 建設者大林組が労力を動員し、それに鉄道職員および復員の余剰労力を加へ、廃墟東京駅の整理、例えば防空土嚢の片付け、通路の整理、ホームに差当って必要 な上屋を作り、出改札所等屋舎の建設などの応急復旧に当る。第二段は応急復旧成って後、赤煉瓦本屋内の整理を行ひ、焼けた鉄骨を取外し、屋を架して東鉄、ホテル等あるひはそれに代るものを住ましめ、いよいよ第三段として鉄骨を配して堅牢な駅舎を作る一方、将来の輸送計画に即した例えば広軌幹線用線路のための敷地設定、地下街掘削、ホームの増設を八 重洲口方面に向かって設ける方針で、これが復旧なるまでおよそ三年、全部が完成するまでに五年を計算に入れている」

  この記事はもちろん鉄道省の発表を受けて書いたものだろうが、あの大混乱期でありながら、9月時点で既に新幹線も含めての現代の東京駅のあり方の概要を示しているのが、実にすごいと思う。
 もっとも、にわかに考えたのではなく、戦時中から弾丸列車構想があったから、当然に東京駅に関しても構想があっただろうから、焼けた東京駅を復興しなければならないこの時期に発表したのであろう。

 では鉄道省の東京駅現場側はどうだったか。
 駅舎やホーム屋根は燃えたが、線路は大丈夫だったので、早くも5月29日には運転を再開した。駅舎の応急措置はとりあえず青天井となった南北のドーム内の通路からホームにかけてトタン屋根をかけることだけだった。

 8月15日に終戦となるとすぐに復興計画にとりかかる。8月下旬には、東京駅戦災復興工事担当の現場責任者が決まった。この責任者となったのが鉄道省の建築技師であった松本延太郎(1910-2002年)であった。
 松本は、「東京駅戦災復興工事の想い出」(1991年6月20日)という詳細な記録を自費出版している(以下「想い出」という)。

 なにしろ1947年の東京駅の一応の復興まで、東京工事区長として天野駅長と並ぶ地位で、東京駅戦災復興工事現場で指揮を執った第一線の人だから、その証言は貴重である。そして松本氏自身だけでなく、当時の仕事仲間の手記もあって、実証性に長けた資料となっている。
 なお、東京駅に関連する鉄道経営は、今は株式会社となっているが、この頃は鉄道省の直営の鉄道であり、その後1949年に独立採算制の特殊法人である公共企業体・日本国有鉄道となる。

●3階を切る

 9月になって廃墟同然の東京駅構内に現場事務所を設けて、松本以下数名が乗り込んだ。

「設備は貧弱、食糧は乏しいに拘らず区員の突貫工事にかける熱意は盛り上り、徹夜勤務する者は机上の書類を片付けてそこえ寝具を敷いて仮眠するなど野戦を思わせる・・・戦災復旧工事は現場に即応した設計を速かに立案しなければならなかったので工事区は現場機関であると同時に本部の設計係の役割も兼ねて工事の殆んどの立案を行って大多忙を極め・・・」(「想い出」10ページ)。

「旅客の通路や直接営業に支障のない場所は、崩れた煉瓦礫の取り片付けも満足にできておらず、焼け落ちて飴のように垂れ下がった鉄骨もそのままの姿で、一階の片隅には生き倒れの屍休も見受けられました。三階の屋根は全部焼け落ち、南北のドームからは青空が仰げるという状態です」(「戦災復旧工事の回想」松本延太郎 一九八八年四月「建築文化」)。

 工事は創建時から担当している建設会社の大林組が乗り込んできた。まずは爆風除けの土塁の除去や、焼けた内外装財や鉄骨の等の除去殻始めたが、今と違っ て重機があるわけもなし、戦争で人手も不足していて、実に大変な作業であった。進駐軍が重機を持ってきて応援したという新聞記事がある。

 ドームが焼け落ちたので南北ホールは青天井であるし、3階は壁だけ建っていて床はあるが屋根が焼けてなくなっている。ホールはもちろんだが、そのほかも3階の床に降る雨は防水がないから1階までもつたわってどんどん落ちてくる。

「屋根をかけることが最大の急務であったが、焼け残った三階の壁を修復して屋根をかけるか、大正十二年の震災によって多少なりとも被害を受けている上今回 の焼夷弾の被災によって大損傷を受けた三階を切り取って二階建として屋根をかけるかが問題点となってこれがなかなか決まらない。」(「想い出」68ページ)

 戦災前の東京駅丸の内駅舎は3階建てであったが、戦災からの修理改修によって、今の、ように2階建てになっ。いくつかの変化の中でもこれがもっとも大きな変化である。2階建てから3階建てに改修した事情は興味のあることだ。

 そこで鉄道省の建築課の構造専門家である高橋豊太郎氏が、後に東京オリンピックの代々木体育館を設計した建築構造学の大家を連れてくる。

「東大同期の親友武藤清教授をお連れして焼跡現場の視察をし、教授の御意見を参考にされるなどして関係者幹部の結論を纏めて判定が下されたと推測されたのであるが、三階を切る取ることになった」(「想い出」68ページ)。

 しかし、参画した構造スタッフの一部には、3階を切ることに反対意見もあったようだ。事実、取り壊しにかかってみると、非常に堅牢で工事は難航したという。

「煉瓦壁を伐りだしてから判ったことだが、火のかかりの少なかった壁の芯の煉瓦はとても良質で、今時の粗悪なコンクリートと比較にならない位の堅固さで伐り口は貝殻状に割れ、芯材に挿入されていた鉄骨も塗料の光明丹がそのままの状態で現れた」(「想い出」68ページ)。

 こうしてみると、実は3階を取り壊さなくても使えたのかもしれない。3階はもっとも火災の度合いが大きかったので、レンガの壁体とその中の補強の鉄帯は火による損傷で耐力を失っていると診断した結果、鉄道省の構造専門家が3階を切ると判断したのであった。
 ドームの部分の3階壁を切っていないのは、屋根だけ燃えて内装は燃えるものがなかったので、壁内に火がまわっていないと判断した結果だろうか。

●屋根をかける

 3階壁を切ったなら、3階スラブはあるとしても防水の屋根を乗せなければならない、ドームのあったところも屋根をかけなければならない。これらが意匠的にはもっとも重要なところである。
 そしてその結論は、戦災前は南北両ドームは八角形の台状の上に丸いドームが乗っていた形を、底辺八角形トップで正方形となる台形に、中央は寄棟型ドームであったもの復原し、今に見る形となった。

 復興中の東京駅丸の内駅舎 1946年10月 中央ドーム屋根下地板張りの様子


 これは、誰のデザインであったのだろうか。建築家の設計という行為は、建築の各部分ごとにばらばらに行うではなく、全体のバランスを見ながら行うものだから、3階を2階建てにしたことと台形ドームにしたことは一連の設計作業として不可分のはずである。
 だから台形ドームにした設計者は誰かという問いナンセンスで、これを決めた人は総てのデザインの責任者であったはずである。
 松本のもとには大勢の建築技術者がいたが、その中の一人の田崎茂がこの本に手記を寄せている。

「昭和二十年の何月だったか、ある朝伊藤課長の部屋に呼ばれ「君、八角形のプランに正方形の屋根をのせたらどんな形になるかね?」とのご質問、突さのこと故ご返事も出来ませんでしたが、時間をいただいて案を提出することでで引さがりました。その時は多分、伊藤課長はいろいろお考えがあったに違いなく、敗戦直後の日本にドームをもと通り復元する予算も能力もなく、さりとて日本の代表的名建築であ る東京駅をそのままいつ迄も雨ざらしにしておくわけにもいかないということで、国鉄の責任者として苦脳されたことと思います。それからああでもない、こうでもないと何枚もの画をかき多分中川さんにも書いてもらったと思います。又皆さんでいろいろと議論をかわし数案を課長に提 出、そして採決され高山さんが木造トラスとしての設計にかかられたのはご承知の通りです。従って私はじめ中川さんや同僚たちの努力の結果であり、やはりア イディアを出された伊藤課長の設計と結論づけたいと考えます」(「想い出」73ページ)

 ここに出てくる伊藤課長とは、後に日本建築学会会長を勤めた伊藤滋(1898年~1971年)のことである。当時は鉄道省の建築課長であり、建築家としての作品はJR中央線御茶ノ水駅舎のモダンデザインが有名である。
 なるほどその腕前にしてあのドームと2階建ての今の東京駅デザインであるかと、その巧みさに納得させられるのである。

 なお、屋根には小窓(ドーマーウインド)がついているが、鉄道省の原設計図にはなかったが、松本氏が多少なりとも昔の面影をもとめて追加設計したという。
 屋根の構造は木造の小屋組みとしたが、鉄道省の構造専門家である高山馨の設計である。

「構造は戦争中盛んに使われたゴヒラの木材を組合せジベルと釘で接合した工法で、高山さんも伊藤さんから四~五年もてばよいと言われて設計されたものと思う。たとえ良く保守されて釆たとはいえ四十数年の長寿を保っているとは高山さんも驚かれていると思う」(「想い出」75ページ)。

 高山は戦時中は陸軍で航空機の格納庫を木造で設計していたから、東京駅の大屋根はお手のものだったのだろう。
 屋根葺き材料はトタン板だったが、この物資のない時代、輸送も不便な時代に、これだけの大量の材料を集めるのはさすがに鉄道省で、軍から出た鉄板が神戸 においてあることを見つけて鉄道で運んできたという。これは1950年に、焼ける前と同じの天然スレートに葺き替えて、現在の状態となっている。

戦災からの復興のために描かれた完成予想図


1914年の創建時の完成予想図


●むしろよくなったプロポーション

 こうして鉄道省の伊藤滋建築課長によるデザインで、今の東京駅の形態が決まったのである。推測するに、まず構造的な問題で2階建てになるということが前提となり、その上でスカイラインをどのように復原するか伊藤は考えたに違いない。
 3つの大屋根ドーム部分はもとのように3階建ての上にドーム乗るが、そのほかは2階建てにして3階スラブの上に屋根を乗せる、そして11ヶ所の尖塔部分は2階建てにして尖塔は乗せない、これが修復デザインの基本である。

 もちろん、ここまで来るには伊藤はいくつもの案を考えたに違いない。戦争で使い果たして建設資材がほとんどない時代であることも、大きな制約となる。
 元の天然スレート葺き大屋根ドームにするには、鉄骨もスレートもない。木造トラスならば航空機格納庫建築で大スパンの経験を積んでいるし、木材や鉄板な ら資材も何とかなる。そのような事情の中での今のような台形ドームの選択となったのであろう。一方では2階建てになっても全体のバランスを失しないように 慎重にデザインを考え抜いたようだ。

 しかしそれだけとは言えない。あれほど巨大な大屋根ドームをつくる必要は、機能的にはまったくない。4~5年持てばよい、その後に建て直すからと伊藤が言っていたと松本は述べているが、それならば最も簡単な切妻型でも寄棟型の木造トラス屋根でも一向に構わないはずだ。

 それなのにあの大屋根ドームを木造で載せたのは、横幅長さ330メートルに及ぶただただ長すぎるこの建築において、このドームが巨大であることのデザイ ンとしての必要性を建築家の伊藤は当然に思い描いたはずだ。あの大きさでなければならなかったのである。現設計者の辰野金吾もそう思ったごとく。


 更に葱坊主を思わせる丸ドームは様式建築の模倣であり、モダニスト伊藤としては丸いドームよりも台形ドームにしたかったに違いない。そして2階建てに なって以前の3階建てよりもスレンダーになった駅舎に角型のドームは、意外にバランスよくとりあってモダンスタイル建築になったのである。これで伊藤のデ ザインは決まった。

 3階建ての上に丸ドームが乗った辰野のデザインは、伊藤のそれと比べるとちょっと鈍重な感がある。あの大風呂敷といわれた後藤新平が初代鉄道院総裁だっ たころ(1908-11年)に、とにかく大きいものをつくれと設計に注文つけたという話をどこかで読んだことがあるが、辰野は無理して太らせたのかもしれ ない。

 辰野が描いた彩色の立面図がある。そのプロポーションを見ると、3つのドームが相撲取りの猪首のように建物の肩に埋もれている感がある。
 もっとも、地上から見ると一般の屋根は見えないからこれでよいのだとも言えるが、遠くからは立面図のように見えるだろう。ドームはもう半階分くらい高いところから立ち上がる方が全体が美しくなるはずだ。

 それに比べると伊藤のデザインは、素直である。現設計の持つ骨格を維持しつつ、2階建てになったことを逆手にとって、近代建築としてのプロポーションやモダニズムの持つ直線デザインをドームにうまく表現しているといえる。修復デザインとして実に秀逸である。

●外観を整える

 さて、これから後は現場の松本たちの力量と努力である。いまの東京駅に近づいてよく見ると、レンガ壁に白い柱型(ピラスター)が何本もあるが、この柱頭にギリシャ建築のような飾りがついている。
 3階を切ったのならば柱は途中で切断されたから、今の柱の頭には何もないはずだ。それがついているのは松本たちが現場の設計で、柱頭は3階から切り取ってもってきて、2階柱にエンタシスのふくらみもつけて、プロポーションよく造ったのであった。
 これに関連して、松本の本に部下であった河村秀男が手記を寄せている。

「現場は正面側の焼けた窓廻りのかざりを修復するのと、柱型を新しく造るのが主で、裏面はモルタル塗にペンガラを吹付けて仕上げた。柱型は大林組の事務所 の脇にある原寸場で原寸を書き、それに基づいて型板を造った。その時一番気になったのは柱型のエンタシスであった。ああしよう、こうしようと種々思いなや んだ未、最も簡単な全長の高さの三分の二附近を約五糎程度ふくらますこととし、今村さんに見てもらったように思う。工事の施工に当っては、北川さんから 「柱型の下地を十分湿らせて、なじみを良くしないと後ではがれ落ちるから」と注意され、業者に注意したがそれが面倒なのか仲々実行されなかったので、その 日に塗る箇所を私自身で湿して歩いたのをおぼえている。そのせいかどうかは判らないが、東京駅の外装で柱型が全くはがれ落ちていないのを、私は秘かに誇りにしている」(「想い出」258ページ)

 戦災前の写真や設計図(下の図)と比べると、今の形は巧みに辰野の様式を活かしつつバリエーションを作っているようにも見える。


 このほかパラペットやドーマーウィンドウのデザインなど、単に3階を切ったのではなく、2階建ての建築として様式デザインを継承しつつも、新たな形態とプロポーションの現在の外観を作り上げていったのである。(1947年の東京駅の写真参照)


●南北ホールのインテリアデザイン

 東京駅丸の内駅舎の見せ場とも云うべきところは、ドーム高さまで一気に吹き抜けるの南北のホールである。

 戦災の前はどうであったかというと、1,2階は8角形、3階で周囲から壁がはりだしてきて、3階に8角形の装飾的なペディメントを持つ壁面が立ち、その 上が折り上げになり8角形のフラットな格天井となって中心は円形である。その天井の8つのコーナーには羽を広げた鷲のレリーフがついている。


 3階のはりだしを支える柱8本は、2階床の高さ部分でそれぞれ飛び梁でつながれていた。当時の写真を見ると、インテリアデザインが全体にもうひとつこな れていない印象を受けるのは、レリーフといい飛梁といい、あれこれとデザイン要素が多すぎるからだろう。もっともそれは現代人からの目であるが、。

 現在の姿はかなり異なる。3階までは昔と同じように八角形だが、その上は半球形のドーム天井となっていて、ローマのパンテオンを思わせるいる。外は台形のドームだが、天井は半球形なのである。ここの天井はアルミニウムの合金であるジュラルミン板の組み合わせである。

 あの物資のない時代にどうしてこような物があったのかと不審に思ったが、じつ は終戦で飛行機の製造が止まり、その材料のジュラルミンが余っていたそうだ。そういえば、アルミ弁当箱が戦後にはやったのも、これと同じ理由だったのだろ うか。

「大屋根は本省建築課で設計されたが、屋内の天井の設計は東京工事区に任された」(「想い出」24ページ)

「南北のホールの天井をいかに修復したらよいかもまた、復旧工事の重大な課題の一つでした。われわれ東京工事区の十二人の建築のメンバーを動員して、急遽 デザインのコンクールをしました。結果は、建築助役の今村三郎君(東京美術学校・現芸大卒)のデザインが採用され実施されたのが現在の円天井です。施工材 料に使ったのはジュラルミン板で、天井材として軽量であること、雨漏れや剥落の危険が少ないことなどの利点があり、終戦で航空機の製造がストップされたた めジュラルミンの入手が容易になったことなどの点から、最適材と考えられたからです。巷間伝えられている、海軍の技師が終戦後国鉄えトレードの際、お土産 に持って来たジュラルミンで、彼らの技術によっ作成されたというまことしやかな話は、真相を知らぬ者の妄言であって、設計者の今村君や日夜心血を注いで工 事に取り組んだわれわれ国鉄建築陣には甚だ、迷惑なことです」(「戦災復旧工事の回想」松本延太郎 1988年4月「建築文化」)

 ここに書かれている「妄言」を述べた人は建築史家の藤森照信のようである。
 もうひとつの大きな修復による改造は、3階の張り出しを支える8本の柱の飛梁を除去したことである。フランジ部分を唐草模様に装飾的にしているが、泥臭いデザインである。
 このうるさい梁がなくなって、独立柱として実にすっきりとした空間となった。この功労者は、先に述べた3階除去を決めた鉄道省の建築家で構造専門家の高橋豊太郎であった。

「復旧工事が進展して来た或る時期、高橋さんがこの梁を除去しようと云い出された。構造の 大家の高橋さんが言われることなので間違いはないのであろうと思ったが、計算書の裏付けもなく根接も示されなかったので、多少の不安は残ったが言われた通 り切断した。柱はすぐに根元から鉄筋コンクリートの丸柱として被覆した。現状で見るテラゾーを貼って仕上げたのはややしばらくしてからである。高橋さんの この繋ぎ梁り除去の発想が南北ホールに近代的な明快さを与えて今日に及んでいる。高橋さんの第一番の効績と言えるかも知れない」(「想い出」80ページ)。

 高橋は鉄骨構造に関しては自信を持っていたのだろう。しかし、レンガ構造についてはかなりの慎重派であり、それが3階を切らせたし、そのあとも改造でレンガ壁に出入り口を開ける時は頑丈すぎるほどの鉄骨補強をいれたという。
 東京駅丸の内駅舎の現在のデザインを決めた一番の功労者は、この高橋豊太郎であったといってもよいだろう。

●戦災復興担当者の想い

 1947年3月に一応の外観は整ったが、予算難で中断したりしながらまだまだ修復工事は続く。

「外壁の損傷部分は修理し、特にホーム上家焼失の際火災によって甚しく損傷を受けた背面の外壁はモルタル塗りとし、煉瓦色の顔料を吹付けることで糊塗し た。正面の付柱は、キャピタルを二階に下し、エンタシスも修正して形を整え、スチールサッシュを窓に朕め込んで、昭和二二年三月十五日には一応の外装は整 うことが出来た」(「想い出」142ページ)

 1948年6月から、開業時から評判の悪かった北口は乗車、南口は降車という区別をなくし、南北ホールともに出入りができるようにした。1951年にようやくホテルの修復が終わって営業を始めた。

 そのような苦労をして復興させた東京駅丸の内駅舎だが、利用者の動線処理、改造しにくいレンガ造等の問題があるため、鉄道省ではいずれ近代的ビルに建て替える方針を戦争直後から持っていた。あるいは戦中からかもしれない。もちろん丸の内側だけでなく、八重洲側も含めて、そして新幹線計画の考慮しつつ全体 改造計画案を各種検討していた。

 1958年に公表された案(下図)をみると(「東京駅の将来計画」井原道継 「建築ニュース」1958年No.4・8)によれば、東京駅丸の内駅舎は赤煉瓦駅舎はなく、高さ84m、地上24階地下4階の超高層ビルが描かれている。


 松本は1948年に東京駅の工事事務所を離れた。1977年、高木国鉄総裁と美濃部東京都知事が会談して、丸の内駅舎の建替えを発表し、世間の話題となった。このころから建替え賛成論と、歴史的建築として保存せよという両論がでるようになる。
 国鉄内部でも具体的検討に入り、この頃のことを松本が書いている。

「五十二年六月十五日建築工事局長の青木実さんから「本省の岡部建設局長から丸の内本屋の建替について松本の意見を聞いてほしい」由連絡のあったことを電 話で伝えられた。話しの様子を綜合すると、その頃国鉄の上層部で丸の内本屋を高層建築に建替たい意向が強くあって私にも「建て替た方が良い」との意見具申 を求めているようであった。(中略)鉄道建築ニュース一九七七年三月号えは、岡田信次元建設局長と椋本修造元東京地方施設部長のお二人の文と一緒に掲載さ れた」(〔想い出」62~63ページ)。

 その松本の回答は次のようであった。かなり歯がゆい言い方になっている。

「現在の東京駅在廃論に対して、私個人としては嘗て自分が情熱をそそいで今の姿に復興したので、情に於ては永久に残したい。評論家の言うように宮城方から 望むファサードは決して悪くはない、然し、本文で述べたように構造上の不安が残る。ノスタルジアにひたっている訳にゆかないのではなかろうか。いずれの時 か建て替えの運命にあるのではなかろうか、その時には八重洲側の商業ビルとは違った日本の表玄関にふさわしい風格の備った建築であってほしい」(「東京駅回想」松本延太郎 一九七七年九月鉄道建築ニュース)

 そして松本は他の二人も紹介して、心残りらしい口ぶりで納めている。

「岡田さんの記事の末尾は、『東京駅が出来てから六十五年になるので近年是の改築について種々論議されています。有利有効な建築物にすべく研究されていま すが、あの広大な地績を有効に使用する様研究を重ねるのは、現在の国鉄の実情として当然ですが、数少い文化財的存在として、充分な研鑽を望んでやみませ ん」と結んで居り、又椋本様は「東京駅の現状保存は論議されているようですが、立体的にはすっかり変って居り、明治時代の建物として保存する記念物とは考 えられぬと思う。現代的技術の粋を集めて効率のよい建物として、首都の玄関を飾るにふさわしい東京駅を希望する。』 そして私は文中に『現在の東京駅存廃論に対して、私個人としては嘗て自分が情熱をそそいで今の姿に復旧したので情に於ては永久に残したい。評論家の言う ように宮城方から望むファサードは決して悪くない。然し構造上の不安は残る。いづれかの時に建て替の運命にあるのではなかろうか。(後略)』

いづれも当時の本省の意向にさからわない意見を述べていたようである」(〔想い出」62~63ページ)。
 役人として本省の意向に逆らえないのは当然であるが、あれほど苦労して、しかもそれなりにきちんとつくりあげたものへの愛着は、他が推し量れないほどあったに違いない。

 松本氏は1958年に運輸省を退職後は、関連会社を経てから自分の建築設計事務所を経営しており、東京駅に関しての発言は多かったようだが、わたしはあまり知らない。彼が心血を注いで修復した現在の形態の保全ではなく、その前の辰野の形態に復原することについては、いったいどのように思っていたのであろ うか。

 松本の本には、もうひとつの東京駅丸の内駅舎の重要なインテリアデザインとして、R.T.O.(占領軍用の駅施設)の設置について書いている。これは駅 務室内になっているようで、わたしは見たことがないのでここでは論評しないが、松本の師である中村順平や、彫刻家の本郷新などを起用して、デザインにかけ た執念はすごいものがある。
 伊藤滋、松本延太郎たちの行った赤レンガ駅舎の修復は、もしかしたら、愛していた赤レンガ駅舎を空襲で破壊した米軍への復讐戦であったのかもしれない、と思うのである。

 巷間よく引用される「4~5年持てばよい、その後に建て直すからと伊藤が言っていたと松本が述べた」に しても、例えば、あのような台形大屋根も、ホールのアルミドーム天井も、外部柱型のオーダーや窓周りの飾りも、いずれもわざわざつくる必要がまったくないのに、精一杯の修復はあきらかに仮設の粋を超えている。あるいは、占領軍のためのRTO整備への偏執的といってよいほどの力の入れようも、戦勝者への迎合 を超えている。

 占領軍の支援がまったくなくて恨めしかった、というほどの事情下で、鉄道省の国鉄だからこそできる能力を最大限に発揮して建設材料を調していることは、松本延太郎たちの手記に見ることができる。木造の小屋組みにしても、飛行場格納庫の大スパンのジベル式木造トラスは自信のあるものであったろう。
 表向きは鉄道省の建替え方針に従ってそうであったかもしれないが、現場の実情は、けっしてあり合わせ材料による応急策とはみることはできない。

 以上、ここまでは、松本延太郎氏の側から、戦災から修復した赤レンガ駅舎について見たものである。つづいては、この修復された赤レンガ駅舎は、どう評価されてきたかを見よう。(20070708記)

参照:●東京駅復興(その2)よみがえった赤レンガ駅舎はどう評価されてきたか 
   ●東京駅復元反対論集


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