2021/10/02

tokyost-nempyo東京駅・丸の内関連総合歴史年表

 東京駅・丸の内関連総合歴史年表

東京駅・丸ノ内 関連年表     作成:伊達美徳       2012/03/08修正

1611年(慶長8)頃

丸ノ内一帯が諸大名や旗本の屋敷地となる

1614年(慶長11)

オランダ人ヤン・ヨーステンが家康より和田倉門外の掘稚に居住地を与えられる(このため内堀のこの一帯を元禄ころから「やよすかし」八代洲河岸と呼んだ。つまり八重洲の地は元来は今の東京駅の西側にあった)

1629年(寛永 6)

鍛冶橋、呉服橋が外堀に架かる

1636年(寛永13)

(7月23日)江戸城外郭が完成。この頃以後に城郭の曲廓の内を示す「丸ノ内」が成立(ただし、町名は1929年の町名変更からで、それまでは北から永楽町、八代洲町、有楽町)。

1872年(明治 5)1月、丸の内の後の開発事業者となる三菱社前身の「三川商会」(1873年三菱商会と改称)を土佐の岩崎弥太郎が設立(1874年東京に本店を移す)。2月26日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火、京橋から銀座界隈34カ町に大火、1万数千戸を焼失。丸ノ内の焼跡を錬兵場や兵営街に。ウォートルス設計による銀座煉瓦街建設に着手。9月12日横浜新橋間に鉄道開通。

1877年(明治10)

(10月)明治天皇が江戸城に入る。丸ノ内地区の屋敷を皇居護衛の兵営等に転用。司法省、裁判所等設置。イギリス建築家ジョサイア・コンドル来日。三菱は西南の役の軍事輸送で多大な利益。

1883年(明治16)

日比谷に鹿鳴館落成(コンドル設計)。

1888年(明治21)

8月16日、東京市区改正条例(勅令62号)公布。12月、政府は軍事費の増大に対応するために丸の内の陸軍用地売却を決め、以後三菱と三井グループの水面下の駆け引き競争始まる。

1889年(明治22)

(2月11日)大日本帝国憲法法発布。(5月20日)東京市区改正委員会の計画公布し、丸ノ内の基本方針は商業地としての土地利用とす。10月、丸ノ内一帯の払下げ競争入札不調(政府案は道路共で13.5万坪を約151万円)。市区改正設計で 中央停車場の位置決定 

1890年(明治23)

(3月6日)三菱社に丸ノ内の陸軍用地を道路等の公共用地を除き売却。107026坪、128万円で神田三崎町2万坪含む。この後2年間、建物を撤去して広大な草原の空き地は三菱が原とも賭博ケ原とも呼ばれた。中央停車場の計画決定(10月)内大臣西郷従道から鉄道庁長に訓令。

1891年(明治24)

三菱社 丸ノ内の開発計画書を東京府に提出、荘田平五郎(三菱杜支配人)は総合的な都心開発を意図。

1892年(明治25)

三菱1号館(コンドル没計)建役着手(1月)

1894年(明治27)

7月、東京府庁舎竣工(妻木頼黄設計、後に関東大震災で焼失)。7月、日清戦争勃発。6月30日、三菱1号館完成(コンドル設計、棟割長屋式貸事務所、383坪、地下1地上3階、1968年取り壊し)

1896年(明治29)

4月、中央停車場及び高架線の「新橋永楽町間建築事務所」を新橋駅構内に開設 し、高架工事に着手(当初は中央停車場の開設予定は1903年頃であったが日清、日露戦争で延期)

1902年(明治35)

三菱1号館内に郵便局開設

1903年(明治36)

(3月31日)市区改正新設計公示。路面電車が半蔵門一日比谷一神田橋間開通し大量交通機関と連絡。6月1日、日比谷公園開設。 12月、辰野金吾が逓信省鉄道作業局より中央停車場設計を委嘱され、各種案の検討に入る。

1904年(明治37)

2月、日露戦争開始(~05年)、このため3月以降は鉄道工事一時中止。

1906年(明治39)

鉄道国有法発布。日本銀行開館(辰野金吾設計、一部現存)。東京市臨時市区改正局設置。ポンド事業公債を募集。12月、 中央停車場実施案の設計に着手 (設計者:辰野金吾、葛西萬司)

1907年(明治40)

3月15日、 中央停車場基礎工事着手

1909年(明治43)

6月、院線有楽町駅開業、9月15日、院線呉服橋仮停車場開業。東京駅開業時に廃止)。 10月、辰野金吾が中央停車場設計を完了。

1911年(明治44)

2月、帝国劇場竣工(横河民輔設計)、三菱13号館完成。一丁ロンドン成立(これでレンガ造建築は終了)。4月、三菱14号館完成(これより21号館まで壁体RC造、屋根木造の時代)

1913年(大正 2)

三菱本社設計競技結果発表(4月、1等木子幸三郎(実施せず)。

1914年(大正03)

市区改正新設計による道路が完成。 2月、中央停車場工事竣工(長さ184間331m、幅11~12間、建坪2341坪1合、延べ床面積7242坪、最高部高さ152尺、建築費282万2千円、ホーム等も入れて工事費407万1千円) 
6月、三菱21号館完成(RC4階503坪、エレベーター付き、最初の共同利用型近代的賃貸オフィスビル。これまでの事務所建築は棟割長屋式か一棟特定企業利用方式の個別型)。
7月、ヨーロッパでに第1次世界大戦勃発、日本は好景気時代が到来。11月、日本は中国権益拡大の好機ととらえて第1次世界大戦に参戦、ドイツ領青島を占領。
12月18日、中央停車場開業式(東京駅と命名、盛大な開業式を青島攻略軍指令官神尾中将の凱旋皇居参台式と合せて開催。同時に東京横浜間に開通した電車線故障で以後5か月運休)。

1915年(大正 4)

(11月28日)東京駅に精養軒の経営で東京ステーションホテル開業

1916年(大正 5)8月、銀行倶楽部竣工(横河工務所設計)
1917年(大正 6)4月、東京駅前に中央郵便局舎が完成(1922年火災焼失)

1918年(大正 7)

3月、丸の内全体の通り名、街区名、ビル名を改称。9月、東京海上ビル竣工(曽根中条事務所設計、構造・内田詳三)。11月、第1次世界大戦終結。

1919年(大正08)

3月、中央線電車開通。3月25日、辰野金吾没(65歳)。4月、都市計画法と市街地建築物法公布(建物高さ最高限度100尺)。

1920年(大正09)

3月、第1次大戦(1918年終結)後の反動不況はじまる。7月、丸ビル着工。日本工業倶楽部会館竣工(一部現存、横川工務所設計)。

1921年(大正10)11月4日、原敬首相が東京駅改札通路で国鉄職員の中岡良一に暗殺される

1922年(大正11)

3月、三菱銀行(三菱合資会社地所部技師・藤原朗設計、構造・佐野利器)竣工

1923年(大正12)

2月、丸ビル(三菱合資会社地所部技師長・桜井小太郎設計、東洋フラー社施工、鉄骨CW造、地下1地上8階、延18千余坪)竣工。8月、帝国ホテル新館開業(F.L.ライト設計)。
9月1日11時58分、 関東大地震で東京・埼玉・神奈川・山梨・千葉・静岡で大被害、 東京駅は被害微少 (警視庁・帝国劇場、東京府庁舎等は炎上、建築中の内外ビルは倒壊、丸ビル・郵船ビルは被害あり、被害の少なかった赤レンガ街に官庁や会社が臨時移転、新丸ビル用地に仮設店舗)。
9月27日、丸ビル内に帝都復興院設置し帝都復興事業を開始(後藤新平総裁、佐野利器建築局長)。12月24日、東京・横浜に特別都市計画法を公布。

1924年(大正13)

10月、丸ノ内ホテル竣工。

1925年(大正14)

11月、上野方面に電車運転開通。大手町に東京中央電信局舎(山田守設計)

1926年(大正15)

7月、丸ビル復旧工事完了(鉄骨RC造に改修)。8月、 東京駅前四十間道路と皇居前広場を結ぶべく内堀を埋め立てて行幸道路完成

1927年(昭和 2)

3月、衆院委員会での片岡蔵相失言により金融恐慌始まる。10月、日本赤十字社東京支部竣工(岡田信一郎設計)

1928年(昭和 3)

3月、八重洲ビルジング竣工(三菱合資会社地所部藤村朗設計、後に丸の内八重洲ビルと改称、2007年取壊し)

1929年(昭和 4)

4月、帝都復興計画により丸の内一帯の町名地番変更、東京駅所在地名を永楽町から丸の内に変更。6月、丸ノ内ガラージ竣工(日本最初の駐車場ビル、250台、6階建)。 12月16日、東京釈八重洲乗降口開設 (電車のみ取扱)。

1930年(昭和 5)3月、横須賀線電車運転開始。3月24日、帝都復興事業完成を祝う帝都復興祭を二重橋前広場で挙行。11月14日、浜口雄幸首相が右翼青年の佐郷屋留雄にプラットホームで狙撃されて重傷を負う。

1931年(昭和 6)

12月、東京中央郵便局竣工(現存、吉田鉄郎設計、開局は1933年11月)

1932年(昭和 7)

10月、丸の内野村ビル竣工(佐藤功一設計)

1933年(昭和 8)

皇居周辺地区294haを「美観地区」に指定 、宮城を見下ろさないように段階的高さ制限を規定。

1934年(昭和 9)

明治生命館竣工(3月、現存、岡田信一郎設計)

1936年(昭和11)11月、帝国劇場会館

1937年(昭和12)

12月27日、 東京駅乗車口と丸ビル間に地下道開通

1938年(昭和13)

1月30日、 東京駅降車口と鉄道省間に地下道開通

1945年(昭和20)

1月30日、戦火を逃れるために東京駅貴賓室御料品の一部を浅川に疎開。3月10日、東京大空襲、10万人の死者。5月25日、深夜の東京大空襲により丸の内一帯と山手が罹災。 東京駅降車口付近に焼夷弾が命中して駅舎炎上、レンガ壁は残るが屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた 。6月25日、東京駅八重洲口出札所前に爆弾投下、爆風による被害。8月15日、終戦。9月から復興体制を準備。

1947年(昭和22)

3月15日、 東京駅駅舎改修工事の外観がほぼ完成 (3階建を2階建に、南北のドームは丸屋根を角屋根に改造)。5月7日、乗降客数調査280,656人。11月20日、東京駅八重洲側の外堀埋立工事完成。12月13日、東京駅八重洲出札所完成使用開始。

1948年(昭和23)

11月16日、 東京駅八重洲口新駅舎(木造)完成 し使用開始。現在の八重洲口側の外堀を埋め立て。

1949年(昭和24)

4月29日、 東京駅八重洲口新駅舎が失火 で焼失 。6月1日、日本国有鉄道(公共企業体)となる。11月29日、乗降客数307,878人、乗換客数140,971人。

1950年(昭和25)

鉄鋼ビル完成。3月1日、湘南電車運行開始。12月28日、 東京駅ステーションホテル復旧工事着手。

1951年(昭和26)

7月、第一鉄鋼ビル竣工。11月15日、 東京駅ステーションホテル復旧落成 営業開始。

1952年(昭和27)

10月6日、 東京駅新八重洲口広場使用開始 。10月14日八重洲駅ビル着工。11月28日、新丸ビル完成。

1953年(昭和28)

7月1日、八重洲名店街開店、 丸の内八重洲間自由通路開設 。9月1日、 東京駅八重洲中央口及び南口開設。

1954年(昭和29)

丸の内駅舎の貴賓室完成して戦災復興工事完了。 東京駅中央通路が八重洲中央口まで貫通して使用開始。2月、国際観光会館竣工(設計:土浦亀城)。3月、第二鉄鋼ビル竣工。10月14日、東京駅八重洲口新駅舎・鉄道会館使用開始。10月21日、大丸百貨店開店。

1955年(昭和30)

3月26日、東京駅八重洲北口開設。

1956年(昭和31)7月20日、営団地下鉄東京駅が開業。

1957年(昭和32)

この頃より国鉄十河総裁の発案で丸の内駅舎の改築を含めて東京駅の将来構想検討がすすめられ、丸の内駅舎24階建案をが発表(構造について東大に研究委託)。

1958年(昭和33)

7月15日、東京都施行の都市計画土地区画整理事業を八重洲橋一帯で施行決定。

1959年(昭和34)

11月1日、 丸ノ内乗車ロと降車ロをいずれも乗降できるように変更 

1960年(昭和35)

11月12日、東海道新幹線関係東京駅第1期工事着手。

1962年(昭和37)

3月、東京駅高層化25階の可能性の結論。

1963年(昭和38)

建築基準法改正、高さ制限撤廃

1964年(昭和39)

10月1日、東海道新幹線開業

1966~67年 

東京海上ビル超高層建替計画(高さ127m)を契機に丸ノ内美観論争が展開。東京都は美観条例を制定して超高層ビル規制を意図。建築界は超高層建築建替賛成方向で保存や景観誘導に反対論展開。三菱地所、文化人、造園家たちは規制に賛成。佐藤栄作首相の「皇居を見下ろす超高層ビルは困る」発言で政治的様相。結局は高さ100m高さで妥協、美観条例制定も取りやめ。

1966年(昭和41)

9月、東京都が美観地区条例を都議会の上程(後に取り下げ)。10月6日、東京海上ビル(前川国男設計)建築確認申請提出。11月5日、日本建築学会が美観地区条例制定に慎重研究を要望。11月21日、建築関係5団体は丸ノ内美観地区建築規制反対意見書を都市計画審議会土地利用計画特別委員会に提出。

1967年(昭和42)

3月27日、日本建築家協会が丸ノ内地区マスタープランを発表(超高層の林立する計画)。3月、帝国ホテル(F.L.ライト設計)の建替え計画発表。4月15日新東京海上ビル確認申靖が敷地の取り方に問題ありとして却下。5月26日、建築学界が帝国ホテル保存要望書を犬丸社長に提出。6月5日、東京海上火災が東京都建築審査会に審査請求書を提出。6月7日、建築5団体(家協会、士会連合会、学会、業協会、建設業協会)が東京都の態度に反対表明。7月18日、「帝国ホテルを守る会」(藤島亥治郎会長)が発足。9月26日、東京都建築審査会が東京海上ビル建築確認4月15日処分を取消の裁決。
国鉄が24階建て東京駅将来計画を提案(鉄道建築ニュース10月号)。

1968年(昭和43)

1月10日、東京地下駅工事着手。6月30日、東京駅八重洲本館6階建を12階建に増築竣工。三菱地所が重要文化財級の三菱1号館(コンドル設計)を取り壊し。

1969年(昭和44)

2月10日、八重洲大地下商店街営業開始。4月10日、東京駅八重洲呉服橋口完成。

1972年(昭和47)

7月15日、東京地下駅開業・総武線乗入れ

1974年(昭和49)

新東京海上ビル(前川国男設計)竣工、以後軒高31mの丸の内景観の大変化始まる。

1977年(昭和52)

3月16日、美濃部都知事と高木国鉄総裁が会談、東京駅と丸ノ内一帯のオフィス街の再開発構想を発表、東京駅丸ノ内本屋の保存と建替えに関して論争おこる。10月、日本建築学会が東京駅丸の内本屋保存要望書を国鉄総裁に提出。

1978年(昭和53)国鉄において東京駅丸の内本屋のの保存・建替えに関する各種計画案を検討して提案(鉄道建築ニュース7月号)。3月、東京駅丸の内本屋松杭の調査。
2月、日本郵船ビル建替え竣工。

1981年(昭和56)

1月1日、 国鉄が東京駅再開発構想発表 (丸ノ内本屋は35階建て30万平米の超高層ビル に建替えて国際会議場・各国出先機関・事務所等を、八重洲側は北地区は30階30万平米の事務所・店舗・ホテル等を、南地区は30階6万平米の自治体出先機関・店舗等を導入し、延面積で霞ヶ関ビルの4棟分の計画)。

1986年(昭和61)

4月8日、自民党の民間活力導入特別調査会が東京駅周辺地区・汐留・13号埋立地の3大開発事業推進に関する緊急提言。12月、(財)都市計画協会が東京駅周辺地区を国際業務センターとする提案。

1987年(昭和62)

4月1日、国鉄民営化により、JR東日本、JR東海、国鉄清算事業団が発足、 東京駅の土地建物の 分割所有協議が始まる。
4月22日、
 「東京駅周辺再開発に関する連絡会議」発足 (構成:国土庁・運輸省・建設省・東京都・国鉄清算事業団・東日本及び東海旅客鉄道会社〉。7月15日 「東京駅周辺地区再開発調査委員会」 第1回委員会 (八十島委員長、芦原、石原、井上、内田、日笠、村松委員)東京駅土地建物の再開発等の検討が始まる。9月1日、第2回東京駅周辺地区再開発調査委員会開催。9月22日東京駅周辺地区再開発調査委員会第1回懇談会開催。10月8日、第2回東京駅周辺地区再開発調査委員会開催。12月2日、東京駅周辺地区再開発調査委員会第2回懇談会開催。 
12月11日、日本建築学界がJR東日本に赤煉瓦駅舎保存の要望書を提出。 
12月12日、 「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」発足 (筆頭代表者:三浦朱門・高峰三枝子、赤煉瓦駅舎保存復原運動を開始)。

1988年(昭和63)

1月19日、 三菱地所が「丸の内マンハッタン計画」を発表 (容積率2000%)。
3月2日第4回東京駅周辺地区再開発調査委員会開催、「赤煉瓦駅舎の現地における形態保全」の方針を決める。3月17日東京駅周辺地区再開発調査委員会第4回懇談会開催。3月29日第5回東京駅周辺地区再開発調査委員会開催。
3月、 国会で文部・運輸大臣の赤煉瓦駅舎保存方向の答弁 。4月27日、 「東京駅周辺地区総合整備基礎調査」(国土庁、運輸省、建設省)を発表 、 赤煉瓦東京駅は「現在地において形態保全」方針決定 。 12月12日東京駅周辺地区再開発調査委員会第3回懇談会開催。
6月29日、愛する会主催の東京駅復元保存シンポジウム(日本工業倶楽部)。7月20日、「大手町・丸の内・有楽町地区再開発推進協議会」発足(会長は三菱地所社長)。

1989年(昭和64)3月 、JRにおいて東京駅再開発基礎調査等実施。

1991年(平成 3)

東京都庁が新宿に移転。旧都庁舎、銀行集会所取り壊し。 2月、 JRにおいて東京駅丸の内ビル開発計画調査。

1993年(平成 5)

銀行協会ビル竣工(外壁保存)。

1995年(平成 7)

DNタワー竣工(第1生命一部保存、イメージ保存混用)。
2月、JRにおいて東京駅丸の内本屋活性化構想

1996年(平成 8)

10月1日、 石原慎太郎都知事が東京駅の復原と周辺整備構想を発表 
10月5日、 JR東日本松田社長が東京駅の復原を発表 。「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり懇談会」発足。東京フォーラム完成(設計ラファエル・ヴィ二オリ)。

1997年(平成 9)

2月、JRにおいて東京駅丸の内駅舎復元保存に関する調査。
丸の内ビルディング取り壊し。
「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり懇談会」が「ゆるやかなガイドライン」を発表。東京都が都市景観条例を公布。千代田区が景観まちづくり条令を公布。国鉄本社跡地などを三菱地所と森ビル等が落札購入

1998年(平成10)10月、石原都知事と松田JR東日本社長が会談し、丸の内駅舎の復元に関して意見一致。 鉄道省庁舎(国鉄本社)ビル取り壊し。丸ビル関連特定街区指定。
1999年(平成11)東京駅・丸の内地区検討調査(日端座長)が容積率移転による赤レンガ駅舎の保全制度を提案。

2000年(平成12)

まちづくり懇談会が「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン」

2001年(平成13)

12月26日、東京都が委託し日本都市計画学会が設置した、学識経験者、行政、地権者などを委員とする 「東京駅周辺整備に関する研究委員会」 (委員長 伊藤滋早稲田大学教授)において、 「東京駅周辺の再生整備に関する研究」 報告書を発表(皇居、行幸通りと連担してプロトコール(外交儀礼)機能を意識した 丸の内駅舎の保存・復元 )。5月、「特例容積率適用区域」制度施行

2002年(平成14)

2月15日、石原都知事とJR東日本大塚社長が会談し、「東京駅及び周辺の整備計画について」発表、東京駅丸の内駅舎を 創建時の姿に復原すると決定。 建て替えた丸の内ビルディング竣工。
6月、大手町・丸の内・有楽町地区一体に「特例容積率適用区域」を指定(容積率移転による赤煉瓦駅舎保全復元策の登場)。千代田区「大手町・丸の内・有楽町地区計画」制定(特例容積率適用による容積移転の基本原則を定める) 
。9月、丸ビル建替え竣工。

2003年(平成15)2月、(旧)日本工業倶楽部会館を一部保全・一部復元した「日本工業倶楽部会館」とその容積率を活用した「三菱信託銀行本店ビル」が竣工。4月、 東京駅丸の内駅舎が国指定重要文化財 に(指定理由: 煉瓦を主体とする建造物のうち最大規模の建築で,当時,日本建築界を主導した辰野金吾の集大成となる作品として,価値が高い)。
2004年(平成16)8月、重要文化財の明治生命館の容積移転による明治安田生命ビル竣工(特定街区)。9月、丸の内オアゾ竣工( 国鉄本社跡地再開発)。
2005年(平成17)3月、ペニンシュラ東京竣工。10月、東京ビル建替え竣工(赤レンガ東京駅の容積移転、特例容積率+特定街区) 
2006年(平成18)3月、三菱商事ビル竣工

2007年(平成19)

2月、三菱商事ビル・古河ビル・丸ノ内八重洲ビルを取壊し。4月、新丸ビル建替え竣工(東京駅赤レンガ駅舎の容積移転先。、特例容積率+特定街区)。5月、 東京駅丸の内駅舎の復原工事着手 (2011年完成予定)。11月、2棟の超高層ビル竣功(グラントウキョウノースタワー、グラントウキョウサウスタワー、 八重洲側の東京駅敷地と観光会館敷地に2棟の 赤レンガ駅舎の容積移転先。特例容積率+特定街区)。

2008年(平成20)

6月、東京中央郵便局舎の建て替え計画を日本郵政が発表。11月、八重洲側に丸の内トラストタワー竣工

2009年(平成21)

3月、東京中央郵便局舎の一部保存建替計画の都市計画決定、都市再生特区+特例容積率制度による東京駅から容積移転で基準1300%を1630%に容積率緩和。4月、丸の内パークビルと三菱一号館美術館竣工(東京駅赤レンガ駅舎の容積移転先。特例容積率+特定街区)。

2010年(平成22)

3月、行幸道路再整備完成

2012年(平成24)6月、 東京駅丸の内駅舎復原工事竣工 。5月、JPタワー竣工
 2013年(平成25)
 
 2014年(平成26) 
 2015年(平成27) 10月、第一及び第二鉄鋼ビル再開発竣工

2017/01/08修正追加
Copyright(C) 2002-DATE,Yosinori=伊達美徳 All rights reserved.

0 件のコメント: