2021/08/03

kawada2009「うるしの里」にふるさとの森が生まれる

「うるしの里」にふるさとの森が生まれる 
2009
伊達 美徳

1.緑の林が育ってきた

 鯖江市河和田に「うるしの里会館」ができてから4年、実は期待しつつ不安だったことがうまく行ったと、現地から知らせが来た。それは「ふるさとの森」がすくすく育っていることである。
 わたしは、この会館建設事業の構想段階から建設までのプロジェクトマネージャーをやったのだ。

 広い敷地のなかは、半分以上が駐車場や広場のオープンスペースである。そのままでは殺風景なので、ここに樹木をたくさん植えたいとわたしはおもって、地元の人たちとの会議で提案しても、受け付けてもらえないのであった。

 盆地だから周りは丘陵の豊かな緑で囲まれているのに、なにをいまさら街なかに木を植える必要があるのだ、と反論されて困ったものである。
 それはそうだが、だからこそ町に中も緑にして、周りの山とつなげましょうよと言うのであるが、相手にされないことが続いていた。

 計画設計チームの建築家ががんばってくれて、駐車場の中には4本、広場には10本程度が許され、敷地の周りにも植えることになった。
 そこでその建築家の尾野さんに宮脇昭さんの本を贈って、敷地周りは「ふるさとの森」方式でやろうよと口説いたのであった。

 この「ふるさとの森」とは、植生学の権威者・宮脇昭さんが提唱し実践している潜在自然植生種による「境界環境保全林」である。
 敷地周りの幅2m程度でもよいから低いマウンドを築き、地域の風土の合致した樹木の苗木を密植するのである。そうすれば1年に1mのわりあいで早期に林ができるのである。


 わたしは宮脇さんとは40年近い知り合いであり、横浜国大教授でいらした頃は研究室にちょくちょく出入りしていて、その理論と実践に感銘していた。
 自分が関連するプロジェクトに、その植樹方式をを使おうと何回か設計にとり入れたこともあったが、いつも現場段階で普通の造園木にオーナー側が変更してしまって、実現しないのであった。
 建物が完成してもすぐに森にも林にも見えない貧相な苗木ばかりは忌避されて、やはり成木を植えたがるのであった。

 尾野さんは現場でがんばってくれて、これが実現することになった。2005年3月、その年に地元の中学卒業生たちが集まって、おりから季節外れの吹雪になったが、シイ、タブ、シラカシなどの常緑樹の苗木を数百本植えたのである。わたしも植えた。

 それが順調に林になってくれるか気になりながら、仕事から引退して遠ざかって忘れていたが、4年目の最近、尾野さんから3メートル余の高さの林になりましたと、写真が来たのであった。嬉しい、ようやく実現した。

 横浜国大での宮脇さんが最初に実践した境界環境保全林は、いまは2~30メートルの高さで連なっている。河和田でも今にそうなるであろう。
 どうか、葉が落ちるからとか、駐車場の自動車が見えないとかで、伐るなんてことをしないで、育つ森を見守ってほしいものだ。 手入れは何もしなくてよい。できれば足元の外周りにサツキでも植えると、花の季節が美しいし、落ち葉がまわりにはみ出しにくいから管理しやすい。

 じつはどこの駐車場も丸裸で、殺風景きわまるのが、わたしは大嫌いなのである。ほんの1m幅でもよいから、そこに苗木を4列くらいに密に植えると、ふるさとの森の「境界環境保全林」ができるのだ。そうすればずいぶんと街に潤いが出るはずである。
 「うるしの里会館」がその事例となってくれることを期待している。

2.わが人生最後の建築プロジェクト

 福井県鯖江市の東方にある河和田地区を、集中豪雨が襲ったのは2004年7月であった。この年は10月には中越地震が起きたし、ほかにも災害の多い年だった。
 河和田地域は、越前漆器の産地の中心であり、「うるしの里かわだ」と称している。この小さな地域から全国に出している業務用漆器は、全国で8割のシェアーを占めるという。もちろん、伝統的な工芸の漆器も 、多くの伝統工芸師がいて制作している。わが家の漆器はみなここの産である。

 その地域振興の核となる「越前漆器伝統産業会館」が以前からあるのだが、もうひとつ活動も内容もぱっとしなかった。
 そこで2000年ごろから、これを大々的に建て直して新たな地域産業とコミュニティー振興の拠点にしようというプロジェクトが立ち上がって、地域の人々の参加で念を入れて検討会を持ち、終わりの頃は毎週のようにかなりの回数の集まりだった。

 そのプロジェクトのマネージャーを、民間コンサルタントとしてわたしが勤めたのであった。コンペによって選ばれたのだ。わたしは東京から毎週2~3日を通勤した。
 このとき行政側に特別職として在籍していたのが、マーケティングの専門家・藤原肇さんであった。事実上は、彼が提唱してきた産業とまちづくりを融合する「ファッションタウン構想」実現のプロジェクトであったといってよい。

  漆器業界や住民などの地元関係者、行政、専門家の会議での検討の結果、ハードウェアとしての建物は、もとあった建物を全部壊すのではなくて、コンクリート造部分は残して大改修すると共に、新たに地域の木材である河和田杉を使って建て増すことにした。一部には地元の伝統的な民家を移築した。

 ソフトウェア、つまり中味のコンセプトと運営方法が一番の課題であったが、中味のコンセプトは、漆器ミュージアムとして、漆器に関する歴史、制作、実演、研修、販売、研究などのセンターとすることになった。

 問題は運営方法で、これがなかなかに決まらない。行政の直営よりも、地域の漆器関係者やコミュニティー関係者が、運営組織をつくるのが一番よいのだが、誰がどのように運営するかきまらないままに、国庫補助金の予算執行の都合だけで工事を進めざるを得ない。これがマネージャーとしては一番困ったことだった。

 その上、建物の形が見えてきたところにこの地方では稀な大集中豪雨がやってきて、漆器産業界も地域住民も大きく被災した。 会館の建設現場は軽微な被害だった。そのような状況下では、この運営に地元が積極的に携わることはとてもできそうもない。
 そんなときに、行政側の専門家の藤原さんは病に倒れるし、プロジェクトを推進してきた市長が市町村合併がこじれてリコールされるしと、踏んだりけったりの状況になった。
 やむを得ず、行政の直営とすることにして、仮定の条件をたてながら建物と中味は完成してのであった。

 これは実質的にわたしが関わった建築プロジェクトの最後の仕事となった。実務の計画や設計は地元のサンワコンのプランナー・林博さんと建築家・尾野和之さん、やはり地元のデザインスタジオ・ビネンのデザイナー・坂田守正さんたちががんばってくれたおかげで、中味も建築も出色のデザインとなった。

 いろいろなことがあったが、「うるしの里会館」として2005年4月にオープンした。初代館長となった市の職員の辻本さんは、このプロジェクトの当初からかかわっていた人なので、運営は順調にきているようである。

 そして2009年から、地元の越前漆器組合が指定管理者として運営に携わることになったとそうである。ふるさとの森がすくすく育ってきたように、あの2004年豪雨災害から地域は見事に回復したということであろう。(090525)

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