2021/08/02

doro-ryokka1983道路緑化の文化史的考察

道路緑化の文化史的考察
若宮大路・日光杉並木・アウトバーン

1983
伊達美徳

目 次

1.源頼朝の若宮大路・中世の意志の道
2.徳川家康の日光杉並木・近世の象徴の道
3.高速道路・成熟へ向かう現代の意志の道


1.源頼朝の若宮大路・中世の意志の道

 歴史の街である鎌倉(神奈川県)市街の要(かなめ)に位置する鶴ケ岡八幡宮は、悲劇の将軍源実朝の暗殺者がひそみ待ちうけたという大銀杏の古木で有名だが、もうひとりのこれも暗殺された将軍頼家は実朝の兄にあたる。この頼家をその母北条政子が懐妊したことに若宮大路の歴史ははじまる。

 鎌倉市街の実に明解な都市軸を構成している道路がある。南の由比ケ浜の海岸から、北の山すそにある鶴ケ岡八幡宮にむけて一直線の大通りが若宮大路とよばれ、幅員20メートル余り、長さ約1.8キロメートルで、古都の道路はいずれも曲り、狭いなかで、異彩をはなっている。

 この道は、1182年の春、源頼朝が妻政子の安産を祈願して崇敬する鶴ケ岡八幡宮の参詣道として築いて寄進したと「吾妻鏡」に記されている。頼朝自身で指揮し、東国武士団の諸将が石などを運んだという。現在も残る段葛(だんかつら)とよばれる道路中央部の盛土とその土止めの石による堤がそれをしのばせるものである。

 頼朝はこのとき急に思いたった事業というわけではなく、すでにその3年前に鎌倉に入ってより東国経営の拠点としての都市づくりをはじめていた。曲がりくねった田舎道を直線状にするなど現代と同様の道づくりもさせているが、そのうちでも若宮大路は京の朱雀大路をイメージの基礎として、この地に覇者として東の都を築くことの意志の空間であった。であればこそ、わが後継の出生祈願と諸将の直接参加による街づくりとが結びついていたのであった。

 このようにして、この道は頼朝の支配への意志をこめてあればこそ、その形態はこの街にはアウトスケールでなければならなかった。交通という直接目的を超えて意志的空間の機能を負って出発したのであった。

 その象徴性を演出する手法は、まずその道路の起終点のもつ象徴性の高さであるが、ここでは北に鶴ケ岡の社という宗教性の高い閉鎖空間を、南に由比ケ浜という相模湾の開放性の最も高い空間を結ぶという見事さである。
 この広さで、この長さを直進することで、意思の力を与えている。それほど広くもない鎌倉の地形の中でこの直線は異形といってもよい。

 しかもこれに加えて、段葛(だんかづら)あるいは置石(おきいし)とよぶ二列の土堤を道の中につくった。堤の間隔は約6間、高さ約2尺で、海から社頭まで全長にわたってつづいていた。
 つまり道は三車線の形に分離され、石積みの分離帯が2筋つづいていたことになり、道の直進性の演出効果を高めていたにちがいない。

 現在段葛は神社寄りの500メートルほどが、若干形をかえているが残されており、堤の上の桜とつつじが道ゆく人を楽しませている。
 しかしこの植栽は明治・大正になってからである。それ以前は段葛(置石)の上には植栽を一切しなかったのに対し、大路の両側を密な松(クロマツ)並木がおおいかぶさるように植えられていた。

 それは並木あるいは街路樹というような道路の修景的なイメージを超えて、大路はクロマツの林の中を切りさいてまっしぐらに海からかけ登っていたというべきであろう。それほどに豊かな緑の中の大路でありながら、逆に大路の中には現在のような緑は一切無いのであった。

 いまではもうその松並木はないのだが、もしあったとしたら、その松籟に現代人は昔の人の自然と道路づくりの調和を聞くかもしれない。
 しかし私は思うのだが、頼朝の築こうとした若宮大路は松風に鳴る緑濃い自然と調和した道路ではなく、むしろ反自然とでもいうべき思想に裏うちされている。

 頼朝は道路づくりに熱心であったことは記録に多いのだが、他の道にはないこの若宮大路の異形さを読みとらねばならない。
 鎌倉郷の田畑を切り裂いていた頼朝の意志の空間は、支配の確立につれてその都のシンボル空間として若宮大路は新たな空間機能を付与される。

 段葛により強調する直進性に加えて、密植した松林に囲われることで、周辺とは別種の象徴性の高い空間に昇華していった。
 海岸植生として見なれており、管理もしやすいクロマツ林を両側に育て、その自然の中を、全くの反自然の形態で人工的空間を貫いたのだった。もちろん現実の時間の順序はこの逆なのだけれども、そのようにみるとこの大路の自然と反自然の対応が理解しやすいだろう。

 ところで現代の若宮大路はどうであろうか。松並木はすでに無く、鉄道高架と歩道橋が見通しをさえぎり、はげしい自動車交通と喧騒が加わり、シンボル性は失われた。
 都市の日常空間に埋没してしまった。段葛の桜並木に矮小化されたかっての若宮大路をしのぶのみである。

2.徳川家康の日光杉並木・近世の象徴の道

 日光(栃木県)の杉並木とよばれる一連の街道並木は近世の日本が現代に伝える歴史景観である。
 日光東照宮下の太郎杉とよばれる巨木を起点として、真東にむけて今市まで8.5キロメートル、ここから三方にわかれているが、その延長は37キロメートルに及んでおり、近年の保存の難しさにもかかわらず、密閉した参詣道としての形態を保って、亭々とした杉木立の垂直な列柱の中に延々とつづく日光廟へ収斂する空間をつくりあげている。
 ここにも若宮大路と同様な象徴空間の生成をみることができる。

 徳川家康の廟という江戸時代の権力機構の源泉を昇華した宗教的空間と、江戸城という実体としての権力機構に至る御成道と日光街道、そしてもうひとつの権力機構の京の朝廷からの使者の通る例弊使街道というように、杉並木は時代の支配の頂点を結ぶ道であった。
 日光廟を二荒山の自然の中にきらびやかな人工的空間を切りさいてはめこみ、更にこの空間を江戸や京へと接続させて、支配の意志の空間を象徴化させようとする。

 1626年(寛永33年)に日光廟の造営がはじまった頃から、20余年をかけての杉並木の植栽事業は、苗木からはじまる長年を見とおしており、地元に後年につづく管理をさせることで今日の姿をみせている。
 それは並木という言葉よりも、街道にそった帯状の平地林をつくったという方が正しい。単に道の両側に2列の街路樹としての杉が並んでいるのではない。この平地林は日光杉林業の振興を促し地場産業を生むほどのものであった。

 街道の空からの景観はこのような林の帯であり、田園風景をひきたてるものであるのに対し、街道の中の景観は直立する列柱がどこまでもつづく閉鎖された空間である。
 道の両側を、苗木の根腐れ防止と林床保護の役をしているマウンドと、その上に果しなくつづく木立にかこまれた空間は、その外にひろがる山村の田園風景とはあまりにも異形である。それは林の中を一直線に切りこんだ人工の空間である。

 いまでこそ杉の根元まで開発の波が押しよせて明るい道であるところが多いが、かっては昼なお暗きの観があったであろうと考えると、その空間は正に人工的な反自然の思想に裏うちされていた。
 現実の並木は関東平野にとどく前に消えるのだが、その木立の中の密閉された空間は、江戸城と朝廷へつづく仮想の抜け穴であり、外とは遮断される必要があった。

 山野・田畑の風景のなかに強烈な象徴性をもつ空間をもちこむ手法としての杉木立は、東照宮のあのきらびやかな、これこそ反自然の形を日光山ろくの自然に強引に押しこめる役目をしていることも周知のとおりである。
 自然の中に切りこんだ人工の空間を構成する形として直立する樹幹の列は、バリケードのごとく内に向かって対峙し、一方では緑の樹冠は自然の構成要素として外に向けて連続的な対応をしている。

 京都伏見稲荷社に、すきまなく立ちならぶ朱塗りの鳥居がつくるトンネル状の参道がある。鳥居ひとつひとつの寄進者の情念がつくりあげる象徴的空間である。
 それは若宮大路や日光杉並木の緑を拒否した内部空間と本質的に同じものであり、それらも鳥居のトンネルであってもよいのである。

 しかしそれらが鳥居でなく、密な松並木であり杉並木であることに昔の人の英知をみるのである。内なる聖なる空間と、外なる俗なる空間をマツあるいはスギで見事に具現化してみせたのである。それは現代の概念としての街路樹とは全く別種のものであり、広い意味での道路緑化に近いであろう。

 なにしろ自然はありあまる時代の道づくりであったのだから、道路に象徴性を求めれば求めるほど反自然となり、一種の都市化現象として自然をはぎとる必要がある。
 それを常緑針葉樹林帯をつくり、その中を自然界には無い形で貫くことで自然と反自然をひとつの手法で実現させたのは、現代人からみて逆説ともみえる英知である。

 さてこのように、中世と近世の代表的支配者に由縁する道をとりあげてくると、次は近代におけるそれは、明治神宮の森と表参道について論じたいのだが、紙数の都合で割愛し、現代から将来の道に移ることとする。

3.高速道路・成熟へ向かう現代の意志の道

 日光杉並木や鎌倉若宮大路のような、支配者の意志的空間としての道路にかわるものを現代に求めれば、それは都市間高速道路であると私は思う。
 都市という現代の神々の座にむかって、まっしぐらにつきすすむこの抜け穴は、インターチェンジという鳥居から鳥居へと、外の世界と無縁に貫通する現代の参道である。けれどもこの道はその歴史は浅く、未だ参道のもつ象徴的空間に昇華しきれないで、意志の力のみが先行しているようだ。

 山を裂き、谷を飛び、地にもぐるその形は、何者にもおかされない意思的空間を内外に誇示してやまない。日光杉並木があの象徴的空間を獲得するには50年以上の時間を要したように、高速道路も同様な時間を経て成熟してゆくだろう。
 高速道路の歴史として世界でもっとも伝統をもつ、ドイツのアウトバーンは、生まれてからすでに50余年となり、そこには成熟された空間を多くみることができる。

 アウトバーンは、ドイツ第三帝国の意志の空間から、第2次大戦後の奇跡の復興の象徴としての空間、そして今はモータリゼーション時代の大衆の日常空間として、成熟期の景観に移行しているようだ。
 成熟期の景観とは、その道の自然との対応、都市との対応に異和感がなく、特別の景観でなく日常の形としておさまっていることをいっているつもりなのだが、たとえてみれば、日本の在来線の鉄道のいまの景観をこれにあてはめてみればわかりやすい。

 明治の近代化へ向って驀進する意志の空間として誕生した鉄道が、在来線という言葉そのままにありふれた姿になるという歴史に重ねあわせると、その景観的成熟の過程をみることができる。ついでに言えば、新幹線は高度成長へ驀進する意志の空間としてその異形を現している。

 具体的な例をあげる。私が詳細にみることのできたドルトムント郊外のアウトバーンの緑化は、それが人工の森であると教えられなければ、その地形といい、植生といい自然そのものとなっていた。
 アウトバーンは森の中のひとすじの谷であり、野の中の林の土堤をもつ川であった。ヨーロッパ種のミズナラ、ブナ、シラカンバなどのドイツにとってはありふれた森や林の景観を大きな法面やマウンドに復元し、創出しているのだから、知らなければ「自然の地形と既存の森林を上手に利用し、残している」と視察報告書に書いても不思議でない景観であった。

 アウトバーンの歴史は他のどの国にも先がけた高速自動車道であるだけに、その道路緑化にも時代のもつ情念が反映する空間創出にかかわっていることは当然である。
 例えばポプラ並木の列植のもつ美しさがつくる道路空間は、象徴的空間としての景観を生みうるように、そろった形、めずらしい姿の樹木を求める手法は、道路の空間に意思をこめ、シンボライズするために必要であった。
 だが道が日常空間となるとき、ありふれた風景へと戻ることとなる。たとえてみれば、いろいろと化粧した末に素顔にたどりつくようなものだろう。

 さて、ドルトムント郊外のアウトバーンに自然形の成熟景観をつくりあげるには親子二代の研究と実践がその陰にある。父ラインハルト・チュクセン氏は植物社会学の世界的権威者であり、潜在自然植生理論をうちたて、その二人の息子と共に自然保護や緑化の実践を行ってきており、アウトバーンの森もそのひとつであった。
 親子二代にわたる緑化といえば、日光杉並木も松平正綱・正信の二代にわたって寄進したものであり、苗木から育てたという手法も似ている。

 1974年に、当時健在だった父チュクセンは息子と共に私達「緑のヨーロッパ調査団」(団長・宮脇昭横浜国大教授)を案内してくれた。苗木を植えたばかりのところ、植栽後7年、17年とそれぞれの森の状況を、その理論の実践として見ることができた。そこには郷土景観が成熟をみせていた。
 この潜在自然植生理論の実践は、苗木による郷土種を密植して、年月をかけて森をつくるという手法で、根気のよいじっくり型のドイツ人らしいやり方だ。

 このような理論や実践が生まれてくる背景には、遠く中世からのゲルマン民族と森にかかわる歴史がある。中世までゲルマンはブナやミズナラの森にかこまれて、樹海に糧をもとめつつも、一方で迫りくる樹海におそれおののいてもいた。
 それが鉄製刃物の発達で森はまたたくまに征服され、行きすぎてステップ化の危機を招き、ビスマルク時代には緑の保全・回復を政策として行うほどになった。

 ドイツ人の森好きはワンダーフォーゲル運動のように有名である。その森の民ドイツ人は植生の復元の研究をプロシア時代から行っているという実績にささえられている。こうしてアウトバーンも森の中にとりこまれている。
 ただし誤解のないように付言するが、単に森林を復元するだけでなく、土壌条件・樹種・群落構成などの自然的条件をセットすることで、車の高速走行への配慮を自然に制御させるという工学の自然化とでも言うべき域に達しているといえよう。

 ところで、日本でもこの潜在自然植生理論にもとづいた緑化は、一部の工場や大学キャンパス等の環境保全林形成に応用されてはいた。しかし高度成長時代には、その空間生成にかかる生物的時間と人工的時間には速度差が大きすぎて、わが国ではまだ早すぎたようだった。いま成熟社会への時代に入り、この2系統の時間は歩みよりをはじめたようだ。

 最近、関西の国道において、この潜在自然植生種の苗木による緑化が、R.チュクセンの弟子の宮脇昭横浜国大教授の指導で行われた。ドイツ型のじっくりとかまえて物をつくる時代が道路という高度成の申し子にもやってきたようだ。
 この道でシラカシやアラカシが毎年1メートルの速度で成長して森になるころ、わが国に本当の成熟社会が、成熟景観をしたがえて成立するだろうと期待したい。

注:小論は、「道路と自然」1983年春号(1983.3 社団法人道路緑化保全協会)に掲載した。

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